Submarine Dog

カテゴリ: いつか来た道

いつか来た道


<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選


    < 6 >                (敬称略)


安倍なつみはこの日、室蘭から3時間、父親の運転するクルマに揺られ札幌にやってきていた。

安倍はこの時高校1年生。コンビニでバイトを始めたり、友人とバンド活動の真似事をしてみたり、清新な活力真っ盛りな頃。身長が低いのが悩みで、背を伸ばしたくて毎日牛乳を飲んでいた。

そんな時にASAYANのロックボーカリストオーディション・札幌予選の開催を知った。ASAYANのオーディションは札幌で地方予選をやらないこともあったので、親と「オーディションを受けるのは高校になってから」という約束をしていた安倍にとってこのオーディションはタイミングよく巡ってきたチャンスだった。

札幌への道中、車内では父親がかつて芸能界を目指したこと、途中で挫折して室蘭に帰ってきたこと、そのことを今でも後悔しているから今度のオーディションは悔いなく頑張ってほしいことなど、今まで聞かされなかったことを安倍は父親から聞かされた。安倍にとってこの札幌行きの車内での会話はオーディション当時の大切な思い出となっていく…

札幌に着き安倍が書類審査の受付を済ますと、その整理番号は1111番。何か運命を感じたという。
安倍がオーディションの曲として選んだのはglobeの『FACE』。
この曲は東京スタジオ審査に進んだ時にも歌っている。





札幌の審査では曲の1番を歌って終わるはずなのに安倍のときは2番までオケが流され、不思議に思いながら歌詞に詰まりつつも安倍は2番も歌った。

これはおそらく安倍がオーディションを勝ち進んでいくことを想定した上でのスタッフ側の意図的なミスなのだろう。1111番という特徴的な整理番号を安倍に割り振ったことも含めて、安倍には制作サイドからかなりの期待がかかっていたことが窺がえた。もちろん安倍自身はそんなことは微塵も知る由はなく、緊張の連続でオーディションを進んでいくのだが。

ちなみに安倍の1111番だけに限らず、中澤も1661番と覚えやすい番号。
福田は1298番、平家は3098番と(当時福田は12歳)これまた何かしらの意図を感じるオーディションの整理番号だった。このオーディションに限らず後のASAYANオーディションでも意図的なオーディション番号は多々見受けられた。


安倍が歌った「globe『FACE』」という選択は当時の流行やASAYANオーディションを考えれば無難な選択だったのかもしれない。しかし実は安倍は本当は違う曲を歌うつもりでいたという。

安倍はUAの『雲がちぎれる時』という曲を本当は歌いたかった。
「流行りの曲じゃなくて個性を出したかったから」と。
しかしこの曲のオケのCDを用意することが出来ず審査で歌うことは断念した。

後にこのエピソードは2002年9月19日のラジオ『エアモニ』で明かされ(この回のラジオは福田脱退時のライブの「風船シャワー」のエピソードなど思い出話がとても多かった回))、そしてさらに時を経た2008年になって安倍が自身のライブでこの歌を披露している。安倍の音楽に対する根底にある世界観がこの曲の選択には表れていた。

そしてオーディションが終わった帰り際に安倍は和田マネに呼び止められ、すっぴんで来たのかどうか訊ねられ「今度もすっぴんで来なさい」と言われ驚いたという。


札幌から東京のスタジオ審査に進んだのはこの安倍、そして石黒・飯田を含めた8名。

安倍と飯田は初めての東京行きに大はしゃぎしながら飛行機に乗っていた。特に安倍はこの時のASAYANから送られてきた東京行きの航空チケット、機内から持ち帰ったイヤホンや「翼の王国」まで、それを今でも大事に取ってあるという・・・

いつか来た道


<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選


    < 5 >                (敬称略)


1997年6月21日。
札幌予選。
ロックボーカリストオーディションではこれが最後の地方予選となる。

ASAYANのオンエアではすでに福岡予選の最終選考進出者が決まっており、東京予選でもスタジオ審査が終わり福田明日香や兜森雅代といった個性派に次の審査への発注がかかっている段階でのオーディションとなった。

後日談では最もレベルの高かった札幌予選と言われているが、それはここまでの途中経過をASAYANで見ても怖気づかなかった人、自信のある人、そして強い意志を持った人が集まっていたからかもしれない。

札幌の中島児童会館に集まった参加者は約1000人。
その中に石黒彩・飯田圭織・安倍なつみの後のモーニング娘。となる3人の姿があった。

石黒は前年の小室オーディションに次いで2回目のASAYANオーディション参加。4月から服飾の短大に進学し、また短大に近くなるということもあり家族ぐるみで引っ越したばかりだった。

高校時代にビジュアル系が好きでハードなバンドでならした石黒にとって「ロックボーカリストオーディション」に参加することはごく自然な成り行きだった。

バンド時代はLUNA SEAやL'Arc〜en〜Cielのカバーをよくやっていた石黒。
歌審査では当時ASAYANオーディション参加者がよく歌っていたRie ScrAmble『文句があるなら来なさい!』を選んだ。アイドル的なアプローチはまったくせず、細い眉毛で眉間にしわを寄せ黒づくめのスタイル、鼻ピアスも付け完全なロック姉ちゃんだった。

この時に審査を担当していたスタッフは前年スタジオ審査にまで進んだ石黒のことを覚えており、7キロも減量した石黒を見て驚いている。ロックなテイストとビジュアル、そしてステージ慣れ、石黒は文句なしの東京スタジオ審査進出を決めた。





ちなみにRie ScrAmbleこと藤原理恵はバブル期に一世を風靡した元C.C.ガールズのメンバーで『ASAYAN』のゲストアーティストとしても時々呼ばれていたが、その後番組の演出家・タカハタ秀太と結婚する。


この日のオーディションに友達と参加していたのが飯田圭織。
飯田は前日からその友人の家に泊まりこんでこの会場にやってくる。しかしその友人宅で喋り明かしてしまいほとんど眠ることなくオーディション当日を迎えてしまっていた。

みっちり練習を積んで夜はぐっすり寝てオーディションに参加した福田とは対照的だが、当時は多くの女子中高生が飯田のように芸能界に憧れ、友達と一緒になってオーディションに参加していた。普段その辺にいる普通の女の子が夢を見ることのできる、ASAYANとはそんなオーディション番組だった。

目が腫れぼったいままの飯田だったが、83人しか進めなかった歌審査には見事残った。オーディション会場に来ていた和田マネからは「整形したのか?」と失礼な質問をされるが、飯田はSPEEDの『STEADY』を披露しASAYAN3度目の挑戦にして初めて東京スタジオ審査に進むこととなる。





そして飯田はこの時の歌審査の会場だったアートプラザホテルで順番を待っているときに隣に座っている子と運命的な出会いをする。

隣にいる純朴そうな小さな女の子。「きっとこの子は勝ち進むんだろうなあ…」「今友達になっておけば芸能人と友達になれるかもしれない」そんな些細な気持ちがきっかけで話しかけた。

それは
「どっから来たの?」
「室蘭」
「私の婆ちゃん家が室蘭だよ」
と他愛もない会話から始まった関係。

そう、隣にいたのは安倍なつみ。
時には大喧嘩をし、時には泣き合い抱き合って、6年半にも渡って苦楽を共にしていく、その二人の出会いだった。

後に二人は知ることになるのだが、まさかこの時は室蘭の同じ病院で生まれていたとは思いもよらなかっただろう。

仲が良い悪いだけでは語り切れない二人の数奇な運命。
生まれた時に会って以来、約16年ぶりの再会を二人は果たしたのだった。

(飯田は1981年8月8日生まれ、安倍は1981年8月10日生まれ。同じ病院で生まれたので、すでにこの時二人は出会っていたと言われている。)

<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選


    < 4 >                (敬称略)


中澤裕子がロックボーカリストオーディションの大阪予選に参加したのは1997年5月24日のこと。

テレビで福岡予選の映像を見ている時に流れた大阪予選の告知に心を鷲掴みにされてオーディションへの参加を決意する。京都の福知山から上阪して6年、同じことの繰り返しのOL生活に息苦しさを覚え、ちょっと前に始めた北新地での夜のバイトに精神的な開放を感じていた頃の出来事だった。

しかし23歳という年齢でオーディションを受けることに戸惑いを覚え、本当に受けていいものかどうか迷い、彼女はオーディション当日に一つの賭けをする。

それは方向音痴である彼女が時間に余裕を持たずに出発し、オーディションの集合時間までに着けたら参加しようというものだった。住んでいる京橋のマンションからオーディション会場の大阪ビジネスパークまでは歩いて20分の距離。もし迷わずに時間通りに着けたなら「神様がオーディションを受けなさいと言っているのだ」と思うことにしたという。

そして中澤は時間通りに着く、いや自らの思いに反して着いてしまったのかもしれない。
会場には3000人の参加者が集っていた。

中学生や高校生に混じって並ぶこと数時間。
気持ち悪くなるほどの緊張感の中、1次審査はたったの数秒で終了。
99パーセント受かる自信はなかったという。
しかし…中澤は1パーセントの可能性をものにする。大阪予選ではその日のうちに会場で予選通過者が発表されたのだが、中澤はその中に残っていた。

翌日に行われた2次の歌審査。
一番良い恰好でとスタッフに言われ、後につんくから「サイズが合ってない」と揶揄された大きめの黒いスーツ姿で審査に臨む。
この時と東京スタジオ審査に進んでから歌ったのが大黒摩季の『ら・ら・ら』である。東京の審査にはスーツの失敗を反省し慎重に衣装を選んで行った。





その後『ら・ら・ら』は中澤にとってとても大事な曲となり、節目というときには必ずといっていいほど自分のライブなどで歌っている。2010年には大黒摩季と対面、感激のあまり泣いてしまったという(→中澤ブログ2010年10月16日)。

時にはメンバーが中澤のために歌ったこともあった。


スタジオ審査が終わった後には「東京に来た記念に」とスタッフがお台場のフジテレビに連れて行ってくれた。1997年、フジテレビ本社屋はこの年にお台場に移転してきたばかり。お台場はドラマ『踊る大捜査線』(1997.1〜1997.3放送)でも分かるようにまだまだ空地の目立つ時代だった。しかしフジテレビ社屋に代表されるように近未来感が漂い若者が集う流行りのスポットでもあった。翌年にはお台場を舞台として『モーニングコーヒー』のプロモーションビデオも撮影される。

中澤が大阪に戻って数日、「説得力のあるバラードで」と番組から要望が出され、さらに中澤のオーディションは続いた。大阪予選に参加した3000人はすでにこのとき3人になっていた。

会社の有給を使い上京する中澤。こっそり誰にも言わずに受けたオーディションだったが、日に日に周囲からはそういう目で見られるようになり、中澤にはそれもプレッシャーになっていった。

この日のオーディションの後、大阪から来た3人は用意されたホテルに泊まった。
ホテルに入った3人は夜遅くまで語り合ったという。

それは中澤裕子と平家充代の初めての語らい。このときは二人ともこれで会うのが最後だと思っていた。しかしこの二人の関係は後々まで続いた。

一緒にバラエティ番組のMCをしたり、ハロープロジェクトの年長者としてみんなを共に引っ張っる立場になっていく。2002年には中澤がラジオでハロープロジェクトからの平家の卒業の話をしていて落涙してしまうこともあった。

このホテルでの語らいはその二人の関わり合いの原点となるものだった。

中澤はその後大阪に戻り、友人や会社の人たちに応援されながら、最終予選を待つことになる。

オーディションが進むものの自分に自信を持てずにいた中澤は、地元・大阪の友人たちと飲むたびに涙を流していたという…

<第1回>http://blog.livedoor.jp/m-16_67297/archives/52656671.html
<第2回>http://blog.livedoor.jp/m-16_67297/archives/52657082.html

    < 3 >                (敬称略)


『ASAYAN』にてシャ乱Q女性ロックボーカリストオーディションが告知されたのは1997年4月初めのこと。

最初はシャ乱Qがプロデュースすることは伏せられていた。小室哲哉、MAX松浦に次ぐ第3弾のボーカリストオーディションとしてのみ告知されたのである。募集画面には「ロック魂。」と大きく映し出されていた。

告知を行ったのは後にモーニング娘。の名物マネージャーとして有名になる当時はシャ乱Qのチーフマネージャーを務めていた和田薫であった(以下「和田マネ」)。

当時のシャ乱Qは94年から96年にかけてのブレイクが一段落し次の展開を模索している最中で、97年には派生ユニット・スーパー!?テンションズを結成したり主演映画『シャ乱Qの演歌の花道』が公開されたりと、今までと違った形で仕事をしている。

これは96年に2500万円するとされる衣装が盗難にあったことも影響しているかもしれない。当時のシャ乱Qはシャネルに衣装を発注することで知られており、2500万円もの被害の影響は少なからずあったのではないかと思う(盗難保険がどうなっていたかは知る由もないが)。

また和田マネは97年にはシャ乱Q→スーパー!?テンションズ→モーニング娘。と徐々にマネージャ業務の中心をシフトしており、98年にはシャ乱Qの所属事務所であるアップフロントグループ内に自分の事務所であるハーモニープロモーションを設立した(実際には会長命令により立ち上げさせられたと言った方がいいかもしれない)。

ハーモニープロモーションはその後99年にプッチモニのマネジメントをした後、新堂敦士・EE JUMP・より子。・THETAと音楽系中心のマネジメントをしていたが、その後は徐々にグラビアやアナウンサーなどの少し大人の女性をメインとしたマネジメントにシフト。安めぐみや優木まおみ、橋本マナミや朝比奈彩といった面々をブレイクに導いている。

そのシャ乱Qの和田マネが夏頃にデビューする女性ロックボーカリストを求めているとASAYANで告知したのだ。当然和田マネが何者なのか当時は分からなかったので「誰がプロデューサーなのか」と、番組として期待を煽った面もあった。





4月27日、スタジオにシャ乱Qが登場した時に、はたけが責任者、しゅうが衣装担当ということが判明。シャ乱Qのメンバーは番組とオーディションのことをよく分かっていない感じで、和田マネが取ってきた仕事の内の一つという感じだったように思う。

4月13日には福岡オーディションが始まっているので、シャ乱Qプロデュースということは分からないままオーディションに参加していた人も多数いた。5月3日には東京オーディションに福田明日香が参加している。

この春に中学に進学した福田、部活はブラスバンド部に入りドラムを叩いて新たな学生生活が軌道に乗り始めた頃だった。このオーディションの申し込みで書いた履歴書、これに載せる写真のためにした化粧が福田が自分で初めてしたメイクだった。ロックの雰囲気で仕上げたという。鏡の中の自分を見て「あぁ、これで矢は放たれた」と福田は思ったそうだ。

シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディションには事前の書類審査がなく、東京オーディションの会場には5000人の女性が詰めかけていた。福田によるとテレビ東京に向かう電車の中はそれらしい人でいっぱいだったらしい。会場では和田マネが来場者を食い入るように物色していた。

当時のオーディションは高校生から20歳前後の女の子が中心で、これを書いている2017年ほど低年齢化が進んでいなかった。その中で中学1年生だった福田のまわりは(彼女からすれば)大人ばかりで少々圧倒された面もあったようだ。

福田のところにはその日の夜のうちにASAYANのスタッフから電話がかかってきて、一次審査の合格と初めての歌審査が5月5日に行われるということが伝えられた。福田は家のカラオケで練習を積み、父親に英語の発音をアドバイスされたりしながら、その日を迎えることになった。





ここからが福田明日香伝説の始まりで、2次審査の相川七瀬『BREAK OUT』、スタジオ審査で歌った安室奈美恵『Body Feels EXIT』、工藤静香『激情』で鮮烈な印象を残していく。

また、本人は「緊張していただけ」と言うかもしれないが、ちょっとぶっきらぼうな話し方で愛想のない姿勢は彼女をとても大人に見せていた。『BREAK OUT』を歌った2次審査の時も「ホントに12歳なの?」とスタッフから何度も聞かれている。

このオーディション当時の福田の心境は語り下ろしの書籍『もうひとりの明日香』に載っているが、この時のオーディションに対する捉え方、取り組み方にものすごく彼女独特の感性が出ていて面白い。後に安倍なつみが『ALBUM1998-2003』で触れているスカートコンプレックスのことや、自分をアイドルとして見ることへの疑問が率直な気持ちで書かれている。

…そして東京予選で福田は「つんく一推し」の評価を得て、河村理沙・兜森雅代と共に最終予選へとコマを進めることになる。

ちなみに東京予選の2次審査に後にチェキッ娘として活動する藤岡麻美(ディーン・フジオカの妹)がいたという話もあるが、それはまだ確認できていない。

    < 2 >                (敬称略)


1997年4月初頭に『ASAYAN』で告知された「シャ乱Qロックボーカリストオーディション」は、その後のアイドル界にとって重要な歴史の転機である。

90年代前半のアイドル冬の時代、その後の小室全盛期、沖縄アクターズスクールの躍進の流れはこのオーディションをきっかけに変わったと言っても過言ではない。

芸能プロダクションや芸能スクールでレッスンを積んで、レコード会社に宣伝してもらってソロに近い形でデビューするというそれまでのメインストリームはここから変わっていったように思う。

もちろんこれ以前にもおニャン子クラブや乙女塾といった素人的な部分を売りにしたアイドルグループはあったがそれは一過性に過ぎず、また沖縄アクターズスクール勢にしても全面的にアイドルとして活動しているわけではなかった。

その後「アイドル戦国時代」と言われるグループアイドルの隆盛はこの「シャ乱Qロックボーカリストオーディション」に端を発していると言ってもいいのではないだろうか。

そう、言わずもがなだが、このオーディションからモーニング娘。の歴史が始まるのである。ただし、あくまでもこのオーディションは一人のロックボーカリストを求めて始まったのだということは改めて記しておく。

後にモーニング娘。になるメンバーたちは決してアイドルになることを目標にオーディションを受けたわけではなかった。


さて、「シャ乱Qロックボーカリストオーディション」を振り返る前に1996年のことをもう少し振り返っておこう。

このオーディションを受けた主要メンバーたちは1996年には何をしていたのか。
なぜ彼女たちはオーディションを受けることになったのか、その背景を探っていこうと思う。

1996年4月の時点でのモーニング娘。のオリジナルメンバー5人の年齢は以下の通り(シャ乱Qロックボーカリストオーディションは97年)。

中澤裕子(22) OL
石黒彩(17)  高校3年生
飯田圭織(14) 中学3年生
安倍なつみ(14)中学3年生
福田明日香(11)小学6年生

中澤裕子は大阪でOLとして働き始めて5回目の春。
上阪後の寮生活を経て一人暮らしにも慣れ、徐々に敷かれたレールが見えてきてしまい違う世界への冒険を夢見る日々。

石黒彩は高校1年の時にベースを買ってもらって以来バンド活動まっしぐら。しかもビジュアル系。札幌市内のライブハウスで歌っていたこともある。
5月にASAYANの札幌オーディションに参加して予選を突破、東京のスタジオ審査にまで進んだものの落選。落選後、自分が写るASAYANの放送を見てダイエットを決意する。(おそらくこのオーディションはAISの佐々木祐子が勝ち進んだときのもの)

飯田圭織は7月のASAYAN札幌予選に参加。『Body Feels EXIT』を歌う。
「小室さんの彼女にしてください」の迷言を残すも東京での本戦出場はならず。95年にはSONYのアルカリ乾電池のパッケージのモデルを務めたりもしたので、芸能界への志向は元々かなり強かったのではないかと思われる。

安倍なつみは中1の頃にイジメられた経験があったという。
その時ラジオから流れてきたJUDY AND MARYの『小さな頃』を聴いて救われてからは歌手を夢見る少女となる。オーディションに参加するのは高校生になってからと親から言われ、そのときを待ち望む日々。
96年のASAYANに参加しなかったのは結果論からすればすごく幸運だったと言えるかもしれない。私見ながら、96年に参加していたらそれなりに上位に勝ち進んでAISやSay a Little Prayerとしての活動が待っていたかもしれなかった。

福田明日香は家のカラオケで歌いこむ毎日と、モダンバレエを習ったりする日々。この年に劇団に所属する可能性はあったが、未所属のまま翌年のASAYANオーディションを迎えている。家出経験があったり友達の家で裏○○○を見たり、なかなかやんちゃな一面もあったようだ。当時の流行もあり、デビューしたばかりのKinki Kidsが好きだったこともあったとか。

平家充代は高校2年生。中華料理店でアルバイトをしていた。
ロックボーカリストオーディションの前にもASAYANのオーディションを数回受けていたというから、おそらくは96年のいずれかの大阪か名古屋の予選に参加している。

またモーニング娘。の2期メンバーである市井紗耶香も中学1年生だった96年からASAYANオーディションを受けていたが書類選考の段階であえなく落選。

矢口真里は中学2年生。
96年4月期のドラマ『みにくいアヒルの子』のオーディション(ASAYANとは関係ない)に小学生役で受けるも落選。このドラマの岸谷五朗演じる主人公が自らのことを「おいら」と呼んでいたことから、後に矢口も自分のことを「おいら」と呼ぶようになる。

高校1年生だった保田圭はおそらくこの頃はコンビニで週5日のバイトをこなしていた。
メッシュ、カラコン、ルーズソックスのコギャルファッション。
その後モーニング娘。加入までにヨーカドー→CASA→マクドナルドとバイトを渡り歩いたらしく、けっこういまどきな感じのする高校生だった。

その他、モーニング娘。以外のメンバーでは、カントリー娘。の戸田鈴音は広島の高校で、ソニンは神戸の中学でそれぞれ寮生活しており、親元を離れた厳しい環境で学生生活を送っている。

公に芸能活動していたのは稲葉貴子が大阪パフォーマンスドールとして活動していたくらいで、この時点では大部分がレッスンも受けていない素人ばかりだった。


シャ乱Qロックボーカリストオーディションが始まる前の、つまりハロープロジェクトの歴史が始まる前の1996年とはこんな時代だった。

当然今に繋がるモーニング娘。やハロプロが出来るなどと思うはずもなく、つんくがプロデューサーとして名前を轟かすとも誰も思っていなかった時代。

振り返ってみると、ASAYANそのものが求心力を持って時代と共に歩んでいたんだなと思う。「夢のオーディションバラエティ」とは言い得て妙で、そこに人が集まるべくして集まってきたとでもいうか・・・

Submarine Dog的モーニング娘。20周年企画『いつか来た道』
〜世紀末のオーディション番組とモーニング娘。を振り返る〜


2008年に書いたシリーズものを加筆修正して再構築。
2017年のモーニング娘。20周年にあたって当時の事を振り返っていこうと思います。

ゆっくり更新。一応『愛の種』完売のところまでを目標としていますが、なにぶん遅筆&面倒くさがりなので叱咤激励してください(笑)

とりあえず活動の始まった1997年4月に合わせて1本目。
ASAYANを中心に振り返る予定なのでまずは97年4月にたどり着くまでの前史です。
ここがないとあのオーディションの本質が見えてこないと思うので・・・

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    < 1 >                (敬称略)


1999年に地球が滅びるというノストラダムスの大予言。

そんな都市伝説が巷で話題になっていた90年代中ごろ、日本はバブル崩壊でお先真っ暗の超就職氷河期の真っ只中。
「地球が滅びるなんて・・・」と思いつつも、どこか終末思想的な考えを少なからず持っていたあの頃。

そんな時代に芸能界という華やかな世界を目指すための一つの番組があった。

世の中の不況はどこ吹く風、音楽業界は毎年のようにCD売り上げを伸ばしミリオンヒット連発、まさに沸騰している状況であった。その活況を呈している音楽業界、引いては芸能界を目指すオーディション番組があったのである。

1995年10月に始まったテレビ東京の『ASAYAN』。

20年が経った現在でもこの番組に携わった人たちが今なお多く活躍している伝説のオーディション番組である。



『ASAYAN』は1992年にスタートした『浅草橋ヤング洋品店』を前身としており、1995年に始まった段階では番組前半部が従来の『浅草橋ヤング洋品店』を受け継いだバラエティー色の強いコーナー、後半部が『コムロギャルソン』という小室哲哉がプロデュースするオーディションコーナーとなっていた。

その『コムロギャルソン』のコーナーを拡大し、1996年4月に「夢のオーディションバラエティー」として1時間番組としてリニューアルしたものが我々のよく知る『ASAYAN』という番組である。

司会にはナインティナインと永作博美を起用。
世田谷区の砧にある東京メディアシティ(TMC)で行われる公開収録には女性を多く観覧に入れ、制服姿の女子高生もかなり見受けられた。

始まった当初は観覧席の中にナレーションブースを設け、当時『ニュースステーション』内のサッカーニュースで人気を博していた川平慈英が「いいんですか?いいんです!」と実況していた。

ナインティナインにしても1996年にフジ『めちゃ2イケてるッ!』が始まったばかり。
永作博美もアイドルグループ終了後の女優活動が軌道にのってきた時期であり、まさに時流に乗った勢いのある布陣だった。

オーディションプロデュースを行う小室哲哉もミリオンヒットを連発していた全盛期で、彼の音楽を耳にしない日はないというほど彼の音楽が流れていた頃である。



最初に行ったオーディションはdosを輩出したオーディションで、このオーディションから他には松澤由美が後に活躍する。

dosはtaeco(元アイドル西野妙子)・asami(ダンスグループL.S.Dより抜擢、後に小室哲哉とユニットTRUE KiSS DESTiNATiONを結成、小室と結婚後離婚)・kaba(振付師、小室哲哉により抜擢、後にカミングアウトしKABA.ちゃんとして活動)の3人で結成されたダンスボーカルユニットでデビュー曲『Baby baby baby』はオリコン初登場4位を記録した。

dos『Baby Baby Baby』



また当時は小室哲哉が多忙で、小室のサウンドチームの一員である久保こーじがオーディションを担当することもあった。

同時並行的にJリーガーオーディションやCM出場権をかけたオーディションも行われており、まさに『ASAYAN』は華やかな世界への「夢のオーディションバラエティ」となりつつあった。

三井のリハウスのCM出場権をかけたオーディションでは池脇千鶴がその座を射止め、その後瞬く間に女優としての階段も駆け登っている。同オーディションにはまだ無名の頃の加藤あいも参加している。




1996年8月にL☆ISという15人グループをデビューさせたことはオーディションの一つの転機となった。

惜しいところまで勝ち抜いてデビューを掴めなかった人たち、ダンスの実力はあるものの・・・という人たちを一つの大所帯のグループとしてデビューさせることにしたのだ。

L☆IS『Running On』



プロデューサーは久保こーじが務め、デビュー曲は小室のヒット曲をメドレーにしたものでオリコン初登場13位を獲得(当時は今と違って10位以下でも5万枚超えが珍しくない時代)、グループとしても個々としてもそれなりの人気を得ていたものの、デビュー後わずか2カ月で解散。

久保氏によれば元々1曲と決まっていたという話だったが、グループとしての統一性のなさ、悪く言えば勝手が過ぎ見放されたという噂もあった。

現にメンバーの二人は某男性グループアイドル二人との写真を報じられており、全員がそうというわけではないのだろうが、グループ内でロリータチーム、アダルトチーム、ダンスチームとはっきりと分けてしまっていたことも方向性の不一致に拍車をかけていたかもしれない。

しかしこのソロデビューの座を掴めなかった人たちに一つの可能性を感じさせたことは後のこの番組にとって重要なファクターとなっていく。


L☆ISの後には「レコード会社争奪オーディション」で12社からの指名を受けた亜波根綾乃がデビューした。彼女は沖縄タレントアカデミー出身で、同時期に所属していた仲間由紀恵以上の逸材と呼ぶ声もあったほどだった。

亜波根綾乃『ひこうき雲の空の下』CM


この「レコード会社争奪オーディション」ではデビュー予備軍・AISが結成される。
AISはそれまでのオーディションでの有力者を小室プロデュースでは無理なので他のレコード会社に選んでもらってデビューしてもらおうというものだった。

そして華原朋美の再来と言われた佐々木祐子や、後にshelaとしてスマッシュヒットを飛ばす大泉めぐみ、太陽とシスコムーンのオーディションにも参加しハロー!プロジェクトの番組にも出演していた小林優美などがソロデビューの栄冠をつかみ取っている。

佐々木ゆう子『恋はセシボン』


このAISに所属していたもののレコード会社からのデビューに至らなかった田口理恵、AISに所属していたものの学校の都合でオーディションを受けなかった片桐華子・そしてオーディションをスタジオ観覧に来ていた女子高生・大櫛江里加の3名で結成したのがSay a Little Prayerである。

彼女たちはインディーズCDを1店舗10日間で1万枚売ったらレコード会社と契約できるという企画に挑み、見事わずか2日間で1万枚の手売りを果たしメジャーデビューに至った。

LUNA SEAの河村隆一のプロデュースを受け、良曲にも恵まれたが1999年に解散している。

ちなみにAISの一部メンバーたちの交流は後々まで続き、時に食事したり、結婚を祝ったりする姿がブログ等で確認できる。

また1996年当時の小室オーディションには後にモーニング娘。のメンバーとなる石黒彩・飯田圭織・市井紗耶香らも参加していたが、デビューに至らず落選している。


これに並行して1996年秋から6カ月に亘ってavexのMAX松浦がプロデュースする「乱発オーディション」も開催。YURIMARIらを輩出し、後にmoveを結成するyuriや瀬戸カトリーヌらも参加していたが、こちらは大きなムーブメントとはならなかった。

これらの経過から『ASAYAN』の作りはオーディションの結果そのものよりも、オーディションを勝ち抜いていく過程を面白く見せる方向にシフトしていったように思う。

多人数を見せておき、グランプリや落選者と共に視聴者が一喜一憂する。
放送初期と比べ参加者への視聴者の思い入れが強くなったのは間違いない。
オーディションとしての番組が始まって約1年半、作りとしてもちょうど円熟期を迎えていたように思う。

そしてSay a Little PrayerがCD手売り企画に挑み始めた最中の1997年4月、『ASAYAN』を伝説の番組へと変えるオーディションが始まるのである。


Say a Little Prayer『a day』1998

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