Submarine Dog

カテゴリ: いつか来た道

<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話
第7回>寺合宿開始とASAYAN制作裏話
第8回>最終審査と平家みちよのこれまで
第9回>優勝者決定と落選者たち
第10回>落選者たちのその後と5人のメンバーの再招集
第11回>5人の顔合わせと夢への切符とその考察
第12回>モーニング娘。命名とその謎、活動開始と生活激変
第13回>『愛の種』のレコーディングとPV撮影
第14回>全国キャンペーンと手売り直前の奮闘
第15回>『愛の種』大阪で手売り開始
第16回>『愛の種』手売り福岡編
第17回>『愛の種』手売り札幌編




    < 18 >                (敬称略)


モーニング娘。の5人が名古屋に入ったのは11月29日のこと。
2週間前の予定が延期されての名古屋入りだった。

この日は残念ながら雨模様。
街頭に立ってPR活動をしたが反応はあまり良くなく、名古屋での完売に自信を失っていく。時おりぱらつく小雨にメンバーたちの不安は増した。





街中での反応の薄さに彼女たちはその日の夜、ホテルの部屋に集まってお祈りをした。
札幌の手売りのときに乗ったタクシーの運転手から聞いたおまじない。11時11分に1分間願うとその願いは叶うという。「1」並びの数字は安倍にとっても縁起の良いものだった(オーディション時の番号が1111番)。

「明日お客さんが来てくれますように」、そのためには「晴れてくれますように」と真剣に願った。彼女たちも晴れやかな青空の元、素晴らしい日を迎えたかったのだろう。




そして翌日。
1997年11月30日。
彼女たちの願いは叶う。





彼女たちの目の前には澄み渡る青空が広がっていた。
前日のどんよりとした曇り空からは嘘のような高い空だった

会場はHMV名古屋生活倉庫店から変更になったナゴヤ球場(前年まで中日ドラゴンズの本拠地球場)。スタジアムの開放的な空間にはたくさんのお客さんが彼女たちの最高の瞬間を見ようと詰め掛けていた。

最後の手売りに臨むメンバーたち。
手と手を取り合って気持ちを確認した。













東京からは福田の家族も応援に駆けつけた。東京での開催はなくなることが確実視されていたので東京方面からも多くの人が来ていたのだ。青空のもとで売り上げは順調に伸びていく。

そしてその時が刻一刻と近づく。
球場にはカウントダウンの声が流れ・・・















そしてついにその瞬間。








5万枚完売達成!


メンバーたちは集まり抱き合い泣いて喜んだ。


オーディションが始まってから半年、さまざまな試練や挫折があり、寝る時間も満足に取れなくなっていった。学校や仕事、そして家族までも、生活の激変を経て、いろんなものを捨ていろんなものを吸収し、ついに彼女たちは夢をつかんだのだった。




















たくさんの人に支えられ、その気持ちに応えた彼女たち。









夏先生や和田マネとは共に闘ったという気持ちだった。

ASAYANのスタッフや家族、そして各地方の手売りを手伝ってくれた多くの人たち、そして共にオーディションを戦い敗れていった人たちの気持ち、さらにはそれを見て一喜一憂していた視聴者の応援。
いろんなもののプレッシャーや不安からも解放された瞬間だった


50,000枚完売を成し遂げ、その達成感と安堵感に最高の表情を見せるメンバーたち。

石黒彩。



安倍なつみ。



中澤裕子。



飯田圭織。



福田明日香。




彼女たちは自分たちの空をめざし、そしてついにその夢をつかんだのだ。

そして、この小さな第一歩が、その後たくさんの人たちの大きな大きな夢へとつながっていく。

彼女たち自身が多くの人の夢や希望となり、やがて日本中を巻き込んでいくことになるのだった。



それは彼女たちの勇気を振り絞った決心から始まった物語。



あの時『ASAYAN』を見ていなければ、あの時オーディションを受けなければ、そして未知の世界に飛び込んでいなければ、何も始まらなかった。

ソロのロックボーカリストを目指して集まった彼女たち。その後の活躍は記すまでもないが、国民的と呼ばれるアイドルグループになり、誰もが知っているアイドルになった。


でも彼女たちはことあるごとに言っていた。

「私たちはアイドルじゃなくてアーティスト」
だと。


それは傍から見れば「はいはい」と冷めた目で見られるような発言だったかもしれない。しかし彼女たちは自分たちが最初どういう形でどういう気持ちで始まったのかは忘れなかった。彼女たちは何年経っても歌にこだわり続けていた。


あれから20年という歳月が経つ。
彼女たちが皆グループを去ってからも10年以上の月日が流れた。
全員が母親になり、石黒の子供にいたってはすでに高校生で当時の安倍や飯田の年齢と変わらない。

この20年という月日は彼女たちをどう変えただろうか。
大人になりたくさんの経験を積んで、それぞれの人生を歩んできた。
あの頃のように毎日顔を合わすわけでもなく、今は集まって一つのものを作るということもない。

でも一つだけ分かっていることがある。

彼女たちは休んでもまたいつか絶対にどんな形であれ歌い始めるということを。
そしてそれはお互いに分かっているのことなのではないかと。


あの時の好きな空を見続けている彼女たちに、20年前、10年前と変わらずに

「ありがとう」

と伝えたい。






彼女たちの青い空はどこまでも続いている…







<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話
第7回>寺合宿開始とASAYAN制作裏話
第8回>最終審査と平家みちよのこれまで
第9回>優勝者決定と落選者たち
第10回>落選者たちのその後と5人のメンバーの再招集
第11回>5人の顔合わせと夢への切符とその考察
第12回>モーニング娘。命名とその謎、活動開始と生活激変
第13回>『愛の種』のレコーディングとPV撮影
第14回>全国キャンペーンと手売り直前の奮闘
第15回>『愛の種』大阪で手売り開始
第16回>『愛の種』手売り福岡編




    < 17 >                (敬称略)


いよいよ札幌。

いよいよと書いたのは他でもない3人のメンバーが地元とする北海道での手売りである。

地元に帰った3人は必死のPR活動をしていた。

飛び込み営業でポスターを張らせてもらったり



団地の扉を叩いて戸別訪問でPRしたり、



友達が手伝ってくれてビラ配りをしたメンバーもいた。




安倍にいたっては11月13日、なんと室蘭の市長にまで会いに行き、協力の約束まで取り付けてしまった。



父親と高校の担任教師と一緒に市長室を訪れCDをプレゼントしたのだ。市長も「出来る限りの協力を」と激励した。

また、途中からは中澤と福田も加わり街頭キャンペーンを行った。
気温3度の中、最後のPRのため街中を声を上げて練り歩いた。





札幌の手売りは11月24日。

実は先の大阪での騒動により11月16日に予定されていた名古屋での手売りは延期になり、2週間を空けての開催となっていた。会場も玉光堂PALS21店(2004年に閉店)から札幌キリンビール園に変更。街中の店舗での騒動を避けることになった。奇しくもオーディション時に縁ある中島公園はすぐそばだった。

彼女たちの心配は手売り当日に雪が降ること。「雪の休日は外に出ない」ととにかくそれを不安がっていた。

しかし当日の朝。
大阪や福岡と変わらない長い長い行列が出来ていた。しかも雪は降っていた。
雪がちらつく中で多くの人が寒空のもと、彼女たちを待っていたのだ



その喜びを飯田は「北海道バンザイ!」と表現して喜びを爆発させた。



しかし、あまりに泣いて目をこすりすぎてしまい、コンタクトで角膜を傷つけ一時的に片目が見えなくなってしまった。



今となっては永遠に語り継がれる飯田圭織の笑いと涙の思い出話。

札幌キリンビール園では14,853枚を販売。中には安倍の父親が1,000枚を購入する姿もあった。これで予定していた5会場ではなく、4つ目の会場での完売が見えてきた。

おそらく最後の会場となるのは名古屋。
彼女たちは何が何でもこの会場で売り切ろうと考え、さらに自分たちを追い込んでいくのである。

<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
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第14回>全国キャンペーンと手売り直前の奮闘
第15回>『愛の種』大阪で手売り開始




    < 16 >                (敬称略)


オーディション落選者で結成された「モーニング娘。」。

優勝者だった平家みちよ(デビューにあたって「みちよ」表記に変更)はどうしていただろうか。

彼女は優勝後、シャ乱Qや後のモーニング娘。と同じアップフロント系列のクーリープロモーションに所属。デビューの準備をしていたわけだが、そのデビューまでの準備期間は「封印」とされた。メディア露出を控えるということだった。

その「封印」とされていた期間にあっという間にモーニング娘。に話題を持っていかれてしまったのは、今となっては失敗だったのか、それとも意図されてのものだったのかは知る由もない。

モーニング娘。が大阪の手売りで話題を振りまいた直後の11月5日、平家みちよはシングル『GET』でデビューする。この曲はモーニング娘。のメンバーたちも8月の寺合宿で歌ったものだった。

翌6日にはシャ乱Qの武道館公演にゲスト出演。華々しいデビューを飾り、各歌番組にも出演したが、『ASAYAN』での扱いは徐々に小さくなっていった。

平家みちよ『GET』


先に書いたdosやL☆IS、乱発オーディションの優勝者、そしてまたこの平家みちよの扱い、これらを見てきたからモーニング娘。のオリジナルメンバーたちには常に「解散」への危機感があった。

「自分たちは企画もの」「なにかあれば企画はすぐに終わる」そうした意識は1999年の『LOVEマシーン』での大ブレイクまで持ち続けていた。この解散への危機意識というのはASAYANのオーディションでモーニング娘。以前の歴史を知らないと理解できないと思うので、改めてここに記しておく。

話を戻そう。

平家みちよがデビューした週末の11月9日。

モーニング娘。のメンバーたちは福岡にいた。
福岡はロックボーカリストオーディションが行われた地でもある。
この日手売りの会場となったキャナルシティには、寺合宿で共に苦労をした仲間が駆けつけてくれていた。





そしてライブ会場となったキャナルシティの円形ステージの観覧スペースには最上階までびっしりと観客が埋まっていた。会場整理も追いつかず、パニック寸前だったという。

このぎっしり埋まった会場を見上げたメンバーたち。それは忘れられない光景となったのではないだろうか。





この日は福岡HMVキャナルシティ店、天神店の2店舗で9,004枚を販売。大阪と合わせて24,616枚。目標である5万枚完売まで半分のところまできていた。

<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
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第14回>全国キャンペーンと手売り直前の奮闘




    < 15 >                (敬称略)


1997年11月2日、彼女たちは大阪入りする。
翌日にはいよいよ『愛の種』の手売りが始まるのだ。











果たしてどうなるか、まったく予想もつかず眠れずに過ごす夜。
それぞれが不安の言葉を口にしていた。

それまでの自分の生活を捨てて、見ず知らずの世界に飛び込んだ彼女たち。

もしこのチャレンジが失敗に終わっても元の生活に戻れる保証もなく、何も先が見えない中で必死に目の前のことと戦っていた。


そして明けて3日。
朝の7時半。

メンバーたちはホテルから地下鉄に乗って手売りの会場である大阪心斎橋のOPAに向かっていた。











極度の不安と緊張、そして時に抱く「もしかしたら」という期待。
寝不足も相まって複雑な表情を見せる彼女たち。

しかし地下鉄のホームから地上へ出てきたそのとき、



そこには信じられない光景が広がっていた。
開始2時間前には徹夜組を含む800人もの行列がそこには出来ていたのだ。



混乱を避けるためその前を足早に通り過ぎるメンバーたち。
並んでいるたくさんの人たちを自分たちの目で確かめ、また声もかけられ、うれしい思いでいっぱいだった。

会場入りした彼女たちは準備を急ぐ。
デビュー前の彼女たちはCDの段ボールを運ぶのも、机にCDを並べるのも、出来ることはなんでもやった。当時彼女たちが置かれていた状況とはそういうものだった。








準備が進む一方、会場の外はとんでもないことになりつつあった。

大阪HMV心斎橋店の開店時間である10時にはすでに行列は500メートルにもなっていた。





そのため11時から手売り開始予定だったところを急遽繰り上げ10時半から開始。しかし行列はどんどん伸び続け、11時には御堂筋沿いに道頓堀川を越えたひとつ先の難波駅に達し、
OPAから1.5キロも離れたOCAT(大阪シティエアターミナル)まで続いていた。



メンバーたちもこれには驚きを隠せない。

こんなにも多くの人たちが自分たちを応援してくれていることが初めて実感できたのだった。落選者と言われ、数カ月間さんざんに叱られてきた彼女たちにとって、初めての経験った。





夕方には手売りの枚数は10,000枚を突破。



他の会場から(おそらく名古屋から)急ぎ3000枚を運び込み、ひたすら手売りをし行列をさばいたものの、この日は15,612枚のCDを売って終了。



しかしこれも近隣の苦情により警察も出動する事態になったためイベントを中止したもので、並んだもののCDを買えなかった人はたくさんいた。

この15,612枚という数字は、同年のSay a Little Prayerが持っていた1店舗における同一レコードの1日売上枚数世界記録を倍近く伸ばしたことになり、関係者たちの予想もはるかに超えたムーブメントが来ていることを予感させた。

またこの騒動の結果(たしか始末書を提出することになったはず)、札幌や名古屋での手売り会場は変更されることになり、それがまた新たな物語を生んでいくことになる。

<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話
第7回>寺合宿開始とASAYAN制作裏話
第8回>最終審査と平家みちよのこれまで
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第13回>『愛の種』のレコーディングとPV撮影




    < 14 >                (敬称略)


楽曲制作と各撮影が終わると彼女たちはキャンペーンのために全国に飛んだ。
札幌・名古屋・福岡でのCDを売る会場も決まり、会場となるレコード店に土日を使って2日間で回ることになったのだった。









10月18日、テレビ北海道の朝の番組『おはようCandy』にPRのために出演。
そつなくこなしたように見えたが、しかしその基本的な姿勢を番組プロデューサーである泉正隆(第7回参照)に痛烈に批判される。



これは新人歌手のキャンペーンではなく、CDを一枚でも多く買ってもらい未来に繋げるために行っている。君らはタレントでもないし、これは仕事でやってるわけでもない。ASAYANに出ていればそれでいいのか、と。

番組の本番終了後に、こう怒られたのだ。

後年になって安倍なつみがこのVTRを見て大きくうなずくシーンがあった。泉正隆や和田マネ、夏まゆみや笠木新一らが彼女たちにかけた厳しい言葉は、当時は理不尽に思えたり反発を感じることもあったかもしれないが、やがてそれは彼女たちの大きな財産となっていくのである。

番組出演後、札幌パルス21・玉光堂に移動してポスター貼りと地元誌の取材を受けた。北海道はメンバー5人中3人の出身地でもあるので注目度も高かったようだ。



その後は15℃以上も気温差がある福岡へ、そして翌日には大阪・名古屋へと強行スケジュールは続いた。

そしてついに彼女たちの元へ完成した5万枚のCDが届く。
工場から出荷されてきた自分たちのCDを見て喜ぶメンバーたち。



彼女たちは買ってくれる人に感謝の気持ちを表すため、ポストカードに手書きのサインを入れることにした。来る日も来る日もサインをし、移動先のホテルや、時にはモノレールの中でも書き続け腱鞘炎になった。

朝まで書き続けることもあったらしく、あまりに眠かった福田は隠れるようにして寝ていたこともあったという。こんな状態なのでサインミスなどもあったようだが(重複してサインが6人分になったりとか)、逆にそれに当たった人は貴重なプレミア物を手に入れたといえるかもしれない。彼女たちにとっては若干不本意かもしれないが。

またこの間にも<ゆうせん>へ挨拶回りをし、各メンバーたちは地元に帰るとそれぞれあの手この手を使ってどうにかして『愛の種』を知ってもらうために奮闘していた。





中澤によれば、こうした活動により当初は「5人で頑張ろう」なんて思っていなかったものが、毎日一緒にいるうちに自然と「これは5人でやりとげるもの」と思うようになっていったという。

8月の下旬に再召集されて怒涛の2カ月が過ぎ、大阪での『愛の種』発売初日はもうすぐそこまで近づいてきていた。

<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話
第7回>寺合宿開始とASAYAN制作裏話
第8回>最終審査と平家みちよのこれまで
第9回>優勝者決定と落選者たち
第10回>落選者たちのその後と5人のメンバーの再招集
第11回>5人の顔合わせと夢への切符とその考察
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    < 13 >                (敬称略)


9月23日、5万枚という条件のためのCD『愛の種』のレコーディングが始まる。

このCD制作にあたっては後にモーニング娘。のプロデューサーとなるつんくの姿はない。

ASAYANのタカハタ氏ら制作陣とそれに和田マネらが調整して各布陣を整えていった。


楽曲打ち合わせ中の和田マネとアップフロントからのレコーディングディレクター・橋本慎。


ボイストレーニングにはロックボーカリストオーディションの寺合宿で厳しい指導を行った笠木新一を再び起用。指導は変わらず厳しかったが再会を喜び笑みを見せる場面もあった。


作曲とプロデューサーには桜井鉄太郎(右端)。楽曲はキャンディーズ『春一番』のイメージでビブラートを極力使わないように徹底指導してレコーディングをした。桜井によれば当時は華原朋美が流行っていて、その華原的な歌い方のクセがどもメンバーにも出ていて、それはこの曲に合わないと判断したからだった。

桜井鉄太郎はロックボーカリストオーディションにおいてメンバー選考の粗選り段階でも関与。安倍と福田をメインにすることを提唱するなど、ユニットコンセプトへも関わっていた。つんくはこの段階では「プロデュースは未知の領域でシャ乱Q以外に曲を提供するのもまだ自分が踏み込んでいける領域ではない」と述べ、本格的に関わることに躊躇いがある状態だった。

『愛の種』にはレコーディング中に歌詞が大幅変更されたという話が残っている。またサエキけんぞう(『愛の種』作詞担当)は曲タイトルをティアーズフォーフィアーズのシングルタイトルから受けて『シーズ・オブ・ラブ』と最初につけていたが「『愛の種』でいい!」とスタッフに言われ(ASAYANスタッフか?)決定した。サエキによれば「『面白い方がいい』という精神が感じられた」とのこと。

(けっこうメジャーな曲なのでご存知の方も多いと思うが参考までに)
Tears For Fears『Sowing The Seeds Of Love』


モーニング娘。が1st・2ndシングルを経てファーストアルバムをリリースする際、桜井鉄太郎やサエキけんぞうも何曲か関わることになっていたらしいが、それは立ち消えになり、以降はつんくのみの作品でプロデュースされることになる。







中澤はレコーディングで上手くいかず、気持ちを一新するために断髪。

「髪を切って 夢をみがく
 好きな空をめざすために」

『愛の種』の歌詞そのままに行動したわけだが、長髪で撮っていたジャケット写真を撮り直すことにもなり、それで迷惑をかけることになった。

・・・とASAYAN上の映像にはなっているが、実際には中澤が髪を切ったのはASAYANのスタッフにやんわりと髪を切ることを勧められたからである。それなのにつんくに「髪を切ったからって、そんなことたいしたことじゃない」と言われて相当頭にきたらしい。

その後歌割りが発表され、中澤はたった2か所しかソロパートを与えられなかった。視聴直後、中澤は号泣。悔しさの涙だと誰もが思ったが、たった2か所でもソロパートがあって良かったという嬉し涙だった。

この頃の中澤は泣いているか怒っているかのどちらかだった。そのおかげで精神的に鍛えられ少々のことではへこたれなくなった。強くなくては生きていけない・・・中澤が座右の銘とする「弱肉強食」はこれらの過程から抱くようになっていったものだった。


10月に入ると『愛の種』のプロモーションビデオの撮影が待っていた。

富士山のふもと、静岡県朝霧高原のとある牧草地と都内各所でそれは行われた。

朝霧高原では年上のメンバーが年下メンバーの化粧を手伝ってあげたという。服装もスタイリストは用意されず、自分たちの私服を着て撮影に臨んでいた。

また夕方に撮ったというコスモス畑のシーンでは周囲の牧場からの臭いがきつく、なかなか大変だったようだ。



静岡からの帰りがけにはほうとう屋で食事(中央道経由での帰路か?)。メンバーみんながほうとうを頼む中、福田だけピザを頼んで笑いを誘った。


『愛の種』はモーニング娘。が大きくなっていく中で徐々に封印され、頻繁に歌われていたのは最初の1年くらいである。

2001年に中澤裕子が卒業する際にNHKのスペシャル番組(この番組を作ったのはタカハタ秀太ら旧ASAYANのスタッフだった)で、また10周年の記念イベントの時にもオリジナルメンバーだけで歌っている。それは歌うメンバーの涙と共に、見ている側にも涙を誘うものだった。

また各メンバーが持つラジオ番組でも、節目となる時、意味を持たせたい時にこの曲がかけられ、最初の頃を思い出す曲としてメンバー自身が望み選んでかけることがあった。

『愛の種』はこうしてメンバーたちにとって大切な曲となっていくのである。


(2017年4月には福田明日香が『愛の種』を約19年ぶりに歌い、個人的に思い溢れる瞬間だった→Youtube-STONE Project asukaの気まぐれラジオ session4で検索。8:15から)

<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話
第7回>寺合宿開始とASAYAN制作裏話
第8回>最終審査と平家みちよのこれまで
第9回>優勝者決定と落選者たち
第10回>落選者たちのその後と5人のメンバーの再招集
第11回>5人の顔合わせと夢への切符とその考察




    < 12 >                (敬称略)


1997年8月30日。

この日、シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディションに落選した5人組がユニットとして初めてのスタジオ収録に臨んだ。

収録はお馴染みの東京メディアシティ(TMC)。ここで初めて5人組に対してつんくから「モーニング娘」という名前が提示された。
つんくによれば「モーニングセットのようなお得感のあるグループを」と説明があったが・・・



その名前が決まったとき、メンバーたちは好きになれず苦笑いしていた。もっとカッコいい名前が付くと想像していたらしい。

また「モーニング娘」の「。」に関しても、当時のASAYANはどんなテロップにも「。」を打つことを特徴としており、本来は「モーニング娘」のままでも良かったのだが、これもまたナインティナインの悪ふざけにより矢部浩之の一言で「モーニング娘。」が正式な名前となった。



一人だけ「漢字も『。』もついてお得だな」と言って受け入れていたがそれは少数派で、他のメンバーは最初の内はこの名前に抵抗を感じていたという。その時はまだこの名前が20年も続き、アイドル史に特別な意味を持つ名前になるとは誰も思っていなかった。

つんくの悪ふざけともとれるこの命名、アップフロントグループが6月に解散させたモーニング・グロウ・オーディション社の名がその元となっているのではないかと自分は考えている(同社については前回参照)。

これはアップフロントグループは(というよりもY会長{当時は社長・以降Y会長で統一})名前の使いまわしをたびたび行うので、直前に解散したオーディション部門の名前をメジャーデビュー前の新人に流用することは大いにありうるなと思うのだ。

例えば「花畑牧場」は同社が東京で営むレストランの名前でもあったし、「グランブルー」や「パシフィックヘブン」といった名もところどころで使っている。「モーニング娘。」と決まって以降も「カントリー娘。」や「ココナッツ娘。」と名前の流用は頻繁に見られる。飯田・石黒・矢口のユニット・タンポポという名もアップフロント所属の加藤紀子が1999年まで使っていたファンクラブの名称でもあった。

またY会長が大好きなハワイで営むコーヒー園の名も当初(モーニング娘。が出来る以前から)はモーニング・グロウ社という名前だった(その後アップフロントハワイ社に)。

Y会長の「モーニング娘。の事実上のプロデューサーは自分」という発言なども考慮すると、その意向を受けたつんくが悪ふざけを装ってASAYANで命名したのかなとも考えられる。ただこれは想像の域を出ず、仮にこれが本当だったとしても真相は明かされることはないと思うので、一つの妄想として捉えていただきたい。

ただ、後ににメンバーたちが自身の略称を世間で使われていた「モー娘。(モームス)」ではなく「モーニング」と呼んでいたことなども考えると、社内では「モーニング」というワードがメイン扱いだったのかなと思う。和田マネや夏先生も「モーニング」呼びだったように記憶している。


さて、これで名前が決まったモーニング娘。たち。

この日以降、彼女たちの生活は一変し、駆け足で走り続けることになっていく。

9月に入り、モーニング娘。の活動に専念するために石黒は服飾の短期大学を退学した。通学のことも考慮に入れ家族でこの年の4月に引っ越しをした石黒にとっては大きな覚悟と決心だった。

また北海道から通う飯田・安倍も学校は辞めざるを得ず、また東京在住とはいえ義務教育中だった福田は学業との両立という中学1年にしては重たい宿命を背負わされることになった。

当時は18歳以下の芸能タレントの深夜労働に関しての自主規律が緩く(厳しくなったのは1999年の大森玲子さんの件以降の事)、レッスンやレコーディングが夜遅くなることや朝までかかることも度々だった。

「前は帰ってきてごはん食べて、テレビを見たらすぐ寝てたんです。大晦日でも12時ぐらいにはもうバテて、除夜の鐘を聞けなかったのが(笑)、今は平気で朝の3時、4時まで仕事してますから。」(オリコン誌1998年5月18日号の安倍なつみの発言より)

このため福田は学校生活に支障を来たし、時には学校の先輩に目を付けられ、時には学校の友人たちと距離を感じるようになり、「普通の中学生」の生活は送れなくなっていった。

しかしそんな中での彼女たちの決心やひた向きさがまわりの人たちの心を動かし、やがて大きなうねりとなっていったのは多くの方が知っての通りだろう。

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