Submarine Dog

カテゴリ: いつか来た道

<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話
第7回>寺合宿開始とASAYAN制作裏話
第8回>最終審査と平家みちよのこれまで


    < 9 >                (敬称略)


最終審査が行われた翌日の8月4日。

シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディションが盛り上がっている中で、『ASAYAN』はもう一つの盛り上がりをみせていた。

第1回で書いたデビュー予備軍・AISでデビューを勝ち取れなかった田口理恵・片桐華子・大櫛江里加の3人で結成したSay a Little Prayerが、インディーズCDを1店舗10日間で1万枚売ったらレコード会社と契約できるという企画にこの日から挑んでいたのだ。

Say a Little Prayer『小さな星』


タワーレコード渋谷店で手売りを行った3人は初日に約7000枚を売り、翌5日午後8時半頃に1万枚完売を達成。10日予定のところを2日で売り切り見事メジャーデビューの夢を勝ち取った。

この記録は1店舗における1日のCD売り上げ枚数の世界記録だったが、その記録は3カ月後にあっさりと抜かれてしまうこととなる・・・


そして1997年8月14日。

最終審査が終わってから10日あまり、再び11人は東京に集められた。シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディションの優勝者がついにこの日発表されるのだ。

予選会場に足を運んで1次審査を受けた参加者約9900人。4ヵ月にわたって繰り広げられたオーディションもようやく終わりを迎えようとしていた。

安倍は即キープで最終審査に進んだこともあって「もしかすると」という期待を胸に上京していた。前日から泊まり込んでいたホテルでは飯田と同室だったが、飯田が「優勝は平家さんかなあ」と言っている横で期待の膨らみ過ぎた安倍の鼓動は高まるばかりだったという。

しかしこの時の合宿メンバーの仲間内の予想では「ロックボーカリスト」という募集で開催された以上、平家か石黒のどちらかだろうという予想に概ね落ち着いていた。安倍はナインティナイン岡村から「実写版綾波レイ」と言われるほどビジュアルとしてはアイドルに寄っていたし、福田は抜群の歌唱力を誇るとはいえ最終審査の歌審査直前のフラフラの状態を知られていたことや年齢からいっても予想の中には入らなかった。

グランプリの栄冠は歌で安定した力を見せ、合宿生活にもダンスにも必死に取り組んだ平家みちよの頭上に輝くことになる。即戦力を求めていたはたけの要望とも合致していたし(11月のシャ乱Q武道館ライブに立たせることになっていた)、周囲の参加者からもその実力を認められた栄冠となった。オーディション開始時から自分のことを「凡人」と言い続けた平家が凡人でなくなった瞬間だった。



落選を受けて後のモーニング娘。となる5人は最後の心境をこう述べている。



「ちっちゃい頃からずっと歌が好きで、何時間歌っても飽きないんですよ。だから私には歌しかないなと思って。売れなくても自分が好きな音楽をやっていけたらって思ってます」(福田)



「とりあえず、今の生活からは抜け出したいんで……。これからも人生冒険します」(中澤)



「ASAYANしかないから、オーディションって。だからASAYAN……また受けます」(安倍)



「やっと終わったって感じ……。(平家には)おめでとう、って。ホント嬉しかったし」(飯田)



「歌も頑張ってたし、ダンスも頑張ってたし、平家さんは自分より全部上だったんで、認められます」(石黒)

<コメント部『モーニング娘。5+3-1』より抜粋>

こうしてオーディションは終わり最終予選で敗れたメンバーたちもそれぞれの地元に帰って行くのだが、安倍は室蘭の自宅に帰るまで…いや帰ってからも泣き続けた。

どん底まで落ち込んで泣いていた安倍のところには飛行機のスチュワーデスまでが慰めにやってきたという。機内で配るお菓子を差し入れ「これ食べて元気出して」と、まるで子供をあやすようだった。この後何十回と羽田と千歳を往復することになる安倍はこのスチュワーデスの方と再会したという。

また、関西に向かう新幹線組の二人は平家が中澤に「整形した?」と最後の質問をしていた。もちろんこれは二人の中での笑い話なのだが、こちらは札幌組とはうって変わって明るい帰路となったようだった。

これでオーディションはすべて終了、誰もがそう思っていたがこの後事態は急展開を迎えることになる。

いつか来た道


<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話
第7回>寺合宿開始とASAYAN制作裏話



    < 8 >                (敬称略)


最終審査では11人を一つのグループとして振り付けがされ、その上でダンス審査を行った。

そのダンス披露で選ばれた曲は『リーチ』。
ダンスレッスンを担当した夏まゆみ(以下夏先生)の選曲で、曲名と手を伸ばす振り付けには「みんなが夢に手が届きますように」という願いがこめられている。

ステージ披露の前に夏先生と11人が円陣を組んで気合いを入れる。
「一番良い状態を見せるんだよ」と夏先生は11人を送り出した。

そしてダンス披露。



結果は夏先生にとって満足のいくものではなかった。
戻ってきた11人に頑張っていたことは認めた上で「練習のときの方がよかった」「これからプロとしてやっていくつもりなら本番こそがすべて」と涙ながらに怒る。11人もその夏先生の熱い思いと情熱に打たれ、また「今日で会えなくなる子がほとんどで…」との夏先生の言葉に涙していた。

この時のことを中澤は「夏先生は最上級の愛とエネルギーを与えてくれた」と後に語っている。単なるスパルタ教育ではない、そこには深い心の繋がりが生まれていた。











その後に行われた個別の歌審査。
シャ乱Q・はたけによって直前にメロディーラインの微妙な変更があり、それが11人を苦しめることになる。

「プロになるからにはこういう変更はいつでも有り得る」とはたけから説明があったが、緊張の極限状態にあったオーディション参加者にはかなり酷な要求だったようだ。歌審査で声が震えたり歌詞が飛んでしまったりと普段の実力を発揮できないメンバーが続出することになる。

福田はダンスの後の夏先生とのやり取りを引きずっていて、歌審査の直前まで泣いていた。福田自身はダンスは踊れていたと思ったらしいのだが、周りの泣いている空気にのまれ、ずっと張りつめていたものが爆発してしまったらしい。歌う間際になっても立ち上がれず、気力がまったく出てこなかった。意外なことにこのときボロボロだった福田を励ましたのは最もオーディションで目立ち強気な言動の多かった兜森だったという。兜森の励ましを受けてなんとか福田はステージに立った。

この歌審査で使われた曲が合宿で練習した課題曲であり、後の平家みちよのデビュー曲の『GET』である。平家がハロプロを去ることになった2002年のラストライブでも『GET』は最後の最後に歌われている。

この歌審査の直後にシャ乱Qと和田マネージャーによる個別面談があり、それが終わったあと一旦解散となりそれぞれ帰郷した。帰りの新幹線では緊張から解放された中澤が平家にビールを買いに行かせて、平家が戸惑ったとかそんな話も伝え残る…

平家はこのとき高校3年生の18歳。
中学1年の頃にGAOの『サヨナラ』という曲と出会い、この歌をすごく好きになったことが歌手を目指すきっかけだった。GAOのファンクラブに入り、いつか会うこともあるかもしれないと思い、必死になって『サヨナラ』の練習を積んだ。

中学2年の修学旅行のバスの中で平家はこの歌を披露する。
それまで地味に学校生活を送っていた平家だったが、この時は今まで見向きもしなかった同級生たちが平家の歌う姿に振り返った。
いよいよ平家は歌手を強く志すようになる。

平家の8歳年上の姉の中学の同級生には歌手の平井堅がいた。彼は1995年にデビューしているので、そんなことからも歌手という夢を追いかけることになったのかもしれない。

中学2年からオーディションを受けること十数回。ASAYANのオーディションも3回目。平家の夢はあと一歩のところまで近付いてきていた。


GAO『サヨナラ』



いつか来た道


<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話



    < 7 >                (敬称略)


上京して世田谷区砧のTMCでスタジオ審査を受ける札幌組。
安倍は早々に「即キープ」として最終予選へ駒を進め、石黒と飯田も追加審査を経て勝ち進んだ。

最終審査まで残ったオーディション参加者は合計11名。
ここでオーディション優勝者を決めるために全員を集めて合宿を行うことがシャ乱Qから発表される。

当時ASAYANでは敗者復活の3人組・Say a Little Prayer(第1回参照)が手売りで1万枚を売るという企画に挑戦しており、そのために合宿する様子も放送され、それが好評だったこともあるのだろう。一旦それぞれの地元に戻っていた11人は再び東京に呼ばれることになった。ただし、この時点では「スニーカーとジャージと着替えを持って」としか知らされておらず、全員で合宿をやることは参加者には知らされていなかった。

安倍は上京直前に開催された「むろらん港まつり」に繰り出しひと時の息抜きをし(結果としてこれが安倍の最後の地元のお祭りへの参加となった)、中澤と平家は再会を喜び、飯田は再び現れた鼻ピアスの石黒にビビり、他の多くの参加者たちもそれぞれの思いを胸に集まってきていた。





1997年7月28日。
赤坂の東京吉本(現在は新宿に移転)の前に停められたマイクロバスに上京してきた11人の参加者たちは乗せられる。行き先は告げられなかったのでまだ笑顔を見せる余裕のある子もいた。

ちなみに東京吉本に集められた理由。
『ASAYAN』は吉本興行の制作番組でたびたび収録も赤坂の吉本社内で行われていたからなのだ。社内にASAYANのスタッフルームもあった。パーテーションの仕切りが見える会議室のような場所でのロックボーカリストオーディションの映像は、ほぼほぼ当時の吉本社内の映像だと思って良い。

番組プロデューサーの泉正隆も吉本の社員だった。
泉正隆といえばモーニング娘。のメンバーたちが『愛の種』を手売りしていた頃に強烈なダメ出しをしたことで知られる人物で、逆にそれで後々までメンバーからの信頼を得ている。各メンバーたちの卒業公演にも顔を出していた。

泉正隆は吉本印天然素材(ナインティナインら吉本の若手芸人たちのユニット)の立ち上げを行った人物でもあり、その縁もあってかナインティナインや夏まゆみ(吉本印天然素材のダンスレッスンをしていた)らが『ASAYAN』に関わることになった。

吉本の反主流派と言われていた時期もあったがグループ内事務所・吉本SSM社長を経て、後にはよしもとクリエーティブ・エージェンシーの取締役副社長まで務めた。

また『ASAYAN』はエイベックスをメインスポンサーとし、その関係で小室哲哉やMAX松浦らの影響力が強い番組でもあった。

そのため、ここに割り込んでメイン企画を作り上げたアップフロントエージェンシーとシャ乱Q、というか和田マネは敏腕であったといえるだろう。

とはいえ前年に行われた三井のリハウスCMのオーディションにおいて、オーディション前のCMはアップフロントエージェンシーの建みさと(後にドラマ『太陽娘と海』でモーニング娘。らと共演)が担当しており、オーディション後には吉本SSMに所属することになった池脇千鶴に変更されたので、その頃からアップフロントの入り込む下地は出来ていたのかもしれない。ロックボーカリストオーディションの開催も96年末には決まっていたとされている。

この他『ASAYAN』には電通も制作で関わっており、またタカハタ秀太ら制作陣も精力的に仕事を進めていて、その中にアップフロント(というか和田マネ)も入り込むことになっていくので、まさに複雑怪奇な状況であった。


話を元に戻そう。

バスが着いたのは東京練馬区のとあるお寺。後に後藤真希が参加したモーニング娘。第2次追加オーディションや石川梨華や吉澤ひとみが参加した第3次追加オーディションでも合宿に使われた縁あるお寺だ。石神井公園に囲まれた閑静な場所にあるこのお寺で11人は3泊4日の合宿をすることになった。



合宿初日にカセットテープが配られ「この曲がデビュー曲になる」と告げられる。
そこにはデビューしたいのなら自分の力で掴み取れという強烈なメッセージが込められていた。4日間通して彼女たちはこの曲を課題曲としてレッスンを積むことになる。

朝は5時に起床、読経や境内の掃除もこなしつつ本来の合宿目的であるボイストレーニングとダンスレッスンが3、4時間ずつ、さらに朝昼晩の三食すべて自炊な上にお風呂は1キロ歩いたところにある銭湯、そして10時には就寝と過酷なスケジュールが課せられた。

ボイストレーニングには笠木新一、ダンスレッスンには夏まゆみと、厳しい言葉も厭わない講師が招聘され合宿参加者たちを指導した。それは細かい技術指導というよりも芸能界で生きていくことへの基本的な心構えの指導だったかもしれない。これから数年経った卒業時に、安倍はテレビの企画で当時を振り返って見ていたASAYANの笠木先生の言葉に大きくうなずくことになる。







合宿時、中澤は受かる可能性を考えていなかったという。11人の中に選ばれたのも一人だけ年いった人がいた方がテレビ的に面白いからだろうとさえ思っていた。

中澤はそれならばまわりに気を遣わずに自分のやりたいよう思いっきりやろうと決めていたそうだ。これからの人生のために何か意味のあるものを掴み取りたい…
それが中澤の決意だった。

そんな中澤と目立たないながらも合宿を引っ張っていた石黒に家事で怒られていたのが安倍と飯田だ。北海道から共に上京し同い年の二人はこの合宿でいよいよ仲良くなり、いつも行動を共にしていたが、まわりの参加者から見ると二人がふざけているように見えたこともあったらしい。中澤に「あんたらちゃんとしぃや!」と怒られることもたびたびあったとか。

一方福田は完全にマイペースを貫き通す。そもそも中学生の参加者は福田ただ一人、しかも12歳でその上は飯田と安倍の15歳、同じ東京出身の河村も16歳だったので、仲良くなりようもなかった。福田は「なんかね、私の目にはみんなが珍しい人に見えたんです。いっぱい喋るんですよ。でも私は、なんでそんなに喋ることがあるんだろう?と思ってて…。必要以上には話さなかったですね」と部屋の片隅で一人で課題曲をウォークマンでずっと聴いていた。

安倍が途中で写真のアルバムを持って福田のところに話しかけに来たが、福田は上記のような気持でいたので話がかみ合うはずもなく、安倍は「東京の子はクールだなぁ」、福田は「北海道の人はよく話すなあ」と、そんな印象しかこの時は持たなかった。

そして怒涛の合宿は終わり、8月3日に再び東京TMCに集められた11人は最終審査に臨むことになる。


いつか来た道


<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選


    < 6 >                (敬称略)


安倍なつみはこの日、室蘭から3時間、父親の運転するクルマに揺られ札幌にやってきていた。

安倍はこの時高校1年生。コンビニでバイトを始めたり、友人とバンド活動の真似事をしてみたり、清新な活力真っ盛りな頃。身長が低いのが悩みで、背を伸ばしたくて毎日牛乳を飲んでいた。

そんな時にASAYANのロックボーカリストオーディション・札幌予選の開催を知った。ASAYANのオーディションは札幌で地方予選をやらないこともあったので、親と「オーディションを受けるのは高校になってから」という約束をしていた安倍にとってこのオーディションはタイミングよく巡ってきたチャンスだった。

札幌への道中、車内では父親がかつて芸能界を目指したこと、途中で挫折して室蘭に帰ってきたこと、そのことを今でも後悔しているから今度のオーディションは悔いなく頑張ってほしいことなど、今まで聞かされなかったことを安倍は父親から聞かされた。安倍にとってこの札幌行きの車内での会話はオーディション当時の大切な思い出となっていく…

札幌に着き安倍が書類審査の受付を済ますと、その整理番号は1111番。何か運命を感じたという。
安倍がオーディションの曲として選んだのはglobeの『FACE』。
この曲は東京スタジオ審査に進んだ時にも歌っている。





札幌の審査では曲の1番を歌って終わるはずなのに安倍のときは2番までオケが流され、不思議に思いながら歌詞に詰まりつつも安倍は2番も歌った。

これはおそらく安倍がオーディションを勝ち進んでいくことを想定した上でのスタッフ側の意図的なミスなのだろう。1111番という特徴的な整理番号を安倍に割り振ったことも含めて、安倍には制作サイドからかなりの期待がかかっていたことが窺がえた。もちろん安倍自身はそんなことは微塵も知る由はなく、緊張の連続でオーディションを進んでいくのだが。

ちなみに安倍の1111番だけに限らず、中澤も1661番と覚えやすい番号。
福田は1298番、平家は3098番と(当時福田は12歳)これまた何かしらの意図を感じるオーディションの整理番号だった。このオーディションに限らず後のASAYANオーディションでも意図的なオーディション番号は多々見受けられた。


安倍が歌った「globe『FACE』」という選択は当時の流行やASAYANオーディションを考えれば無難な選択だったのかもしれない。しかし実は安倍は本当は違う曲を歌うつもりでいたという。

安倍はUAの『雲がちぎれる時』という曲を本当は歌いたかった。
「流行りの曲じゃなくて個性を出したかったから」と。
しかしこの曲のオケのCDを用意することが出来ず審査で歌うことは断念した。

後にこのエピソードは2002年9月19日のラジオ『エアモニ』で明かされ(この回のラジオは福田脱退時のライブの「風船シャワー」のエピソードなど思い出話がとても多かった回))、そしてさらに時を経た2008年になって安倍が自身のライブでこの歌を披露している。安倍の音楽に対する根底にある世界観がこの曲の選択には表れていた。

そしてオーディションが終わった帰り際に安倍は和田マネに呼び止められ、すっぴんで来たのかどうか訊ねられ「今度もすっぴんで来なさい」と言われ驚いたという。


札幌から東京のスタジオ審査に進んだのはこの安倍、そして石黒・飯田を含めた8名。

安倍と飯田は初めての東京行きに大はしゃぎしながら飛行機に乗っていた。特に安倍はこの時のASAYANから送られてきた東京行きの航空チケット、機内から持ち帰ったイヤホンや「翼の王国」まで、それを今でも大事に取ってあるという・・・

いつか来た道


<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選


    < 5 >                (敬称略)


1997年6月21日。
札幌予選。
ロックボーカリストオーディションではこれが最後の地方予選となる。

ASAYANのオンエアではすでに福岡予選の最終選考進出者が決まっており、東京予選でもスタジオ審査が終わり福田明日香や兜森雅代といった個性派に次の審査への発注がかかっている段階でのオーディションとなった。

後日談では最もレベルの高かった札幌予選と言われているが、それはここまでの途中経過をASAYANで見ても怖気づかなかった人、自信のある人、そして強い意志を持った人が集まっていたからかもしれない。

札幌の中島児童会館に集まった参加者は約1000人。
その中に石黒彩・飯田圭織・安倍なつみの後のモーニング娘。となる3人の姿があった。

石黒は前年の小室オーディションに次いで2回目のASAYANオーディション参加。4月から服飾の短大に進学し、また短大に近くなるということもあり家族ぐるみで引っ越したばかりだった。

高校時代にビジュアル系が好きでハードなバンドでならした石黒にとって「ロックボーカリストオーディション」に参加することはごく自然な成り行きだった。

バンド時代はLUNA SEAやL'Arc〜en〜Cielのカバーをよくやっていた石黒。
歌審査では当時ASAYANオーディション参加者がよく歌っていたRie ScrAmble『文句があるなら来なさい!』を選んだ。アイドル的なアプローチはまったくせず、細い眉毛で眉間にしわを寄せ黒づくめのスタイル、鼻ピアスも付け完全なロック姉ちゃんだった。

この時に審査を担当していたスタッフは前年スタジオ審査にまで進んだ石黒のことを覚えており、7キロも減量した石黒を見て驚いている。ロックなテイストとビジュアル、そしてステージ慣れ、石黒は文句なしの東京スタジオ審査進出を決めた。





ちなみにRie ScrAmbleこと藤原理恵はバブル期に一世を風靡した元C.C.ガールズのメンバーで『ASAYAN』のゲストアーティストとしても時々呼ばれていたが、その後番組の演出家・タカハタ秀太と結婚する。


この日のオーディションに友達と参加していたのが飯田圭織。
飯田は前日からその友人の家に泊まりこんでこの会場にやってくる。しかしその友人宅で喋り明かしてしまいほとんど眠ることなくオーディション当日を迎えてしまっていた。

みっちり練習を積んで夜はぐっすり寝てオーディションに参加した福田とは対照的だが、当時は多くの女子中高生が飯田のように芸能界に憧れ、友達と一緒になってオーディションに参加していた。普段その辺にいる普通の女の子が夢を見ることのできる、ASAYANとはそんなオーディション番組だった。

目が腫れぼったいままの飯田だったが、83人しか進めなかった歌審査には見事残った。オーディション会場に来ていた和田マネからは「整形したのか?」と失礼な質問をされるが、飯田はSPEEDの『STEADY』を披露しASAYAN3度目の挑戦にして初めて東京スタジオ審査に進むこととなる。





そして飯田はこの時の歌審査の会場だったアートプラザホテルで順番を待っているときに隣に座っている子と運命的な出会いをする。

隣にいる純朴そうな小さな女の子。「きっとこの子は勝ち進むんだろうなあ…」「今友達になっておけば芸能人と友達になれるかもしれない」そんな些細な気持ちがきっかけで話しかけた。

それは
「どっから来たの?」
「室蘭」
「私の婆ちゃん家が室蘭だよ」
と他愛もない会話から始まった関係。

そう、隣にいたのは安倍なつみ。
時には大喧嘩をし、時には泣き合い抱き合って、6年半にも渡って苦楽を共にしていく、その二人の出会いだった。

後に二人は知ることになるのだが、まさかこの時は室蘭の同じ病院で生まれていたとは思いもよらなかっただろう。

仲が良い悪いだけでは語り切れない二人の数奇な運命。
生まれた時に会って以来、約16年ぶりの再会を二人は果たしたのだった。

(飯田は1981年8月8日生まれ、安倍は1981年8月10日生まれ。同じ病院で生まれたので、すでにこの時二人は出会っていたと言われている。)

<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選


    < 4 >                (敬称略)


中澤裕子がロックボーカリストオーディションの大阪予選に参加したのは1997年5月24日のこと。

テレビで福岡予選の映像を見ている時に流れた大阪予選の告知に心を鷲掴みにされてオーディションへの参加を決意する。京都の福知山から上阪して6年、同じことの繰り返しのOL生活に息苦しさを覚え、ちょっと前に始めた北新地での夜のバイトに精神的な開放を感じていた頃の出来事だった。

しかし23歳という年齢でオーディションを受けることに戸惑いを覚え、本当に受けていいものかどうか迷い、彼女はオーディション当日に一つの賭けをする。

それは方向音痴である彼女が時間に余裕を持たずに出発し、オーディションの集合時間までに着けたら参加しようというものだった。住んでいる京橋のマンションからオーディション会場の大阪ビジネスパークまでは歩いて20分の距離。もし迷わずに時間通りに着けたなら「神様がオーディションを受けなさいと言っているのだ」と思うことにしたという。

そして中澤は時間通りに着く、いや自らの思いに反して着いてしまったのかもしれない。
会場には3000人の参加者が集っていた。

中学生や高校生に混じって並ぶこと数時間。
気持ち悪くなるほどの緊張感の中、1次審査はたったの数秒で終了。
99パーセント受かる自信はなかったという。
しかし…中澤は1パーセントの可能性をものにする。大阪予選ではその日のうちに会場で予選通過者が発表されたのだが、中澤はその中に残っていた。

翌日に行われた2次の歌審査。
一番良い恰好でとスタッフに言われ、後につんくから「サイズが合ってない」と揶揄された大きめの黒いスーツ姿で審査に臨む。
この時と東京スタジオ審査に進んでから歌ったのが大黒摩季の『ら・ら・ら』である。東京の審査にはスーツの失敗を反省し慎重に衣装を選んで行った。





その後『ら・ら・ら』は中澤にとってとても大事な曲となり、節目というときには必ずといっていいほど自分のライブなどで歌っている。2010年には大黒摩季と対面、感激のあまり泣いてしまったという(→中澤ブログ2010年10月16日)。

時にはメンバーが中澤のために歌ったこともあった。


スタジオ審査が終わった後には「東京に来た記念に」とスタッフがお台場のフジテレビに連れて行ってくれた。1997年、フジテレビ本社屋はこの年にお台場に移転してきたばかり。お台場はドラマ『踊る大捜査線』(1997.1〜1997.3放送)でも分かるようにまだまだ空地の目立つ時代だった。しかしフジテレビ社屋に代表されるように近未来感が漂い若者が集う流行りのスポットでもあった。翌年にはお台場を舞台として『モーニングコーヒー』のプロモーションビデオも撮影される。

中澤が大阪に戻って数日、「説得力のあるバラードで」と番組から要望が出され、さらに中澤のオーディションは続いた。大阪予選に参加した3000人はすでにこのとき3人になっていた。

会社の有給を使い上京する中澤。こっそり誰にも言わずに受けたオーディションだったが、日に日に周囲からはそういう目で見られるようになり、中澤にはそれもプレッシャーになっていった。

この日のオーディションの後、大阪から来た3人は用意されたホテルに泊まった。
ホテルに入った3人は夜遅くまで語り合ったという。

それは中澤裕子と平家充代の初めての語らい。このときは二人ともこれで会うのが最後だと思っていた。しかしこの二人の関係は後々まで続いた。

一緒にバラエティ番組のMCをしたり、ハロープロジェクトの年長者としてみんなを共に引っ張っる立場になっていく。2002年には中澤がラジオでハロープロジェクトからの平家の卒業の話をしていて落涙してしまうこともあった。

このホテルでの語らいはその二人の関わり合いの原点となるものだった。

中澤はその後大阪に戻り、友人や会社の人たちに応援されながら、最終予選を待つことになる。

オーディションが進むものの自分に自信を持てずにいた中澤は、地元・大阪の友人たちと飲むたびに涙を流していたという…

<第1回>http://blog.livedoor.jp/m-16_67297/archives/52656671.html
<第2回>http://blog.livedoor.jp/m-16_67297/archives/52657082.html

    < 3 >                (敬称略)


『ASAYAN』にてシャ乱Q女性ロックボーカリストオーディションが告知されたのは1997年4月初めのこと。

最初はシャ乱Qがプロデュースすることは伏せられていた。小室哲哉、MAX松浦に次ぐ第3弾のボーカリストオーディションとしてのみ告知されたのである。募集画面には「ロック魂。」と大きく映し出されていた。

告知を行ったのは後にモーニング娘。の名物マネージャーとして有名になる当時はシャ乱Qのチーフマネージャーを務めていた和田薫であった(以下「和田マネ」)。

当時のシャ乱Qは94年から96年にかけてのブレイクが一段落し次の展開を模索している最中で、97年には派生ユニット・スーパー!?テンションズを結成したり主演映画『シャ乱Qの演歌の花道』が公開されたりと、今までと違った形で仕事をしている。

これは96年に2500万円するとされる衣装が盗難にあったことも影響しているかもしれない。当時のシャ乱Qはシャネルに衣装を発注することで知られており、2500万円もの被害の影響は少なからずあったのではないかと思う(盗難保険がどうなっていたかは知る由もないが)。

また和田マネは97年にはシャ乱Q→スーパー!?テンションズ→モーニング娘。と徐々にマネージャ業務の中心をシフトしており、98年にはシャ乱Qの所属事務所であるアップフロントグループ内に自分の事務所であるハーモニープロモーションを設立した(実際には会長命令により立ち上げさせられたと言った方がいいかもしれない)。

ハーモニープロモーションはその後99年にプッチモニのマネジメントをした後、新堂敦士・EE JUMP・より子。・THETAと音楽系中心のマネジメントをしていたが、その後は徐々にグラビアやアナウンサーなどの少し大人の女性をメインとしたマネジメントにシフト。安めぐみや優木まおみ、橋本マナミや朝比奈彩といった面々をブレイクに導いている。

そのシャ乱Qの和田マネが夏頃にデビューする女性ロックボーカリストを求めているとASAYANで告知したのだ。当然和田マネが何者なのか当時は分からなかったので「誰がプロデューサーなのか」と、番組として期待を煽った面もあった。





4月27日、スタジオにシャ乱Qが登場した時に、はたけが責任者、しゅうが衣装担当ということが判明。シャ乱Qのメンバーは番組とオーディションのことをよく分かっていない感じで、和田マネが取ってきた仕事の内の一つという感じだったように思う。

4月13日には福岡オーディションが始まっているので、シャ乱Qプロデュースということは分からないままオーディションに参加していた人も多数いた。5月3日には東京オーディションに福田明日香が参加している。

この春に中学に進学した福田、部活はブラスバンド部に入りドラムを叩いて新たな学生生活が軌道に乗り始めた頃だった。このオーディションの申し込みで書いた履歴書、これに載せる写真のためにした化粧が福田が自分で初めてしたメイクだった。ロックの雰囲気で仕上げたという。鏡の中の自分を見て「あぁ、これで矢は放たれた」と福田は思ったそうだ。

シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディションには事前の書類審査がなく、東京オーディションの会場には5000人の女性が詰めかけていた。福田によるとテレビ東京に向かう電車の中はそれらしい人でいっぱいだったらしい。会場では和田マネが来場者を食い入るように物色していた。

当時のオーディションは高校生から20歳前後の女の子が中心で、これを書いている2017年ほど低年齢化が進んでいなかった。その中で中学1年生だった福田のまわりは(彼女からすれば)大人ばかりで少々圧倒された面もあったようだ。

福田のところにはその日の夜のうちにASAYANのスタッフから電話がかかってきて、一次審査の合格と初めての歌審査が5月5日に行われるということが伝えられた。福田は家のカラオケで練習を積み、父親に英語の発音をアドバイスされたりしながら、その日を迎えることになった。





ここからが福田明日香伝説の始まりで、2次審査の相川七瀬『BREAK OUT』、スタジオ審査で歌った安室奈美恵『Body Feels EXIT』、工藤静香『激情』で鮮烈な印象を残していく。

また、本人は「緊張していただけ」と言うかもしれないが、ちょっとぶっきらぼうな話し方で愛想のない姿勢は彼女をとても大人に見せていた。『BREAK OUT』を歌った2次審査の時も「ホントに12歳なの?」とスタッフから何度も聞かれている。

このオーディション当時の福田の心境は語り下ろしの書籍『もうひとりの明日香』に載っているが、この時のオーディションに対する捉え方、取り組み方にものすごく彼女独特の感性が出ていて面白い。後に安倍なつみが『ALBUM1998-2003』で触れているスカートコンプレックスのことや、自分をアイドルとして見ることへの疑問が率直な気持ちで書かれている。

…そして東京予選で福田は「つんく一推し」の評価を得て、河村理沙・兜森雅代と共に最終予選へとコマを進めることになる。

ちなみに東京予選の2次審査に後にチェキッ娘として活動する藤岡麻美(ディーン・フジオカの妹)がいたという話もあるが、それはまだ確認できていない。

このページのトップヘ