Submarine Dog

カテゴリ: 散歩道

平家がグランプリを獲得して、落選者たちはそれぞれの生活に帰って行った。

石黒は戻るとにすぐに合宿でダンスが出来なかったことを反省しダンスの教室を探し始める。またバンド活動で「ティーンズ・ミュージック・フェスティバル」(10代を対象にした誰でも参加できる音楽イベント。全国で行われる予選を勝ち抜いた本戦出場者にはメジャーデビューのチャンスがある)に向けて新たな曲作りも始めていた。さらに、オーディションの悔しさから毎日走っていたという。

室蘭に戻った安倍は落ち込む日が続いていたが、帰るとすぐに彼女の元には芸能事務所から「うちからデビューしませんか?」と電話がかかってきていた。大手の事務所だったらしいがASAYANスタッフから事務所に入ったり、新しいオーディションを受けることを受けることを安倍は止められていたという。

ASAYANにそのことを連絡し「まだ返事してないよね?」「また連絡しますから」と言われた安倍はASAYANを信じて待つことに決めた。この時にASAYANを信じた理由を「番組上としてじゃなくて、一人の人間としてちゃんとケアしてくれていた。そういう人たちがいたから…」と安倍は語っている。ASAYANのスタッフは過酷な試練を彼女たちに与え続けたけれども、優しさは忘れることなく彼女たちと接していたようだ。

中澤の元にASAYANのスタッフから電話がかかってきたのは、大阪の仲間と一緒に徳島の海に遊びに出かけちょうど海岸に着いたところだった。仲間たちがオーディションが終わった中澤を励まそうと、みんなでこの日海を渡って出かけてきたのだ。

一番になれなかったけれども、生まれて初めて一生懸命になれたことに満足してオーディションから帰った中澤。
ずいぶん会社にも迷惑かけたし、これからのこともちゃんと考えないといけないけど、その前にこの残り少ない夏を満喫しよう…そう思って出かけた海への旅行だった。

そこにかかってきた電話。
「何も聞かず、何も言わず、もう一度東京へ来てください」
そう言われた中澤は涙が止まらなくなってしまう。周りの仲間たちが心配するくらい中澤は泣いていたのだ。
「なんでまた東京?」
「もしかして、まだチャンス残ってた?」
…中澤はこのときに自分が一番になれなくて悔しかった本当の自分の気持ちに気がついた。満足していたのは自分が落ちたことを納得させるためだったと気付いたのだ。自分はまだ終わってない…そう思ったら涙が止まらなくなったのだった。

…中澤は何も分からないまま再び東京に向かう新幹線に飛び乗った。

そして石黒と安倍、飯田と福田の元にもそれぞれ電話がかかり、何が待つかも分からない東京に5人が集う。



<つづけ>



ASAYANの記憶が残っている人はお分かりだと思うけど、「散歩道」で書いていることはASAYANそのままではありません。たぶんASAYANそのままの物語は半分くらいだと思う。

その頃に彼女たちがインタビューとかで語り残したことだったり、もっとずっと後の時代になって彼女たちが思い出として語ったこと、書いたことも元になっている。

でもASAYANのモーニング娘。の企画もね、ASAYANから与えられるだけの話じゃなくて、当時からその裏にある彼女たちの葛藤や人生が見え隠れしていたから面白かったんだと思う。

時々ASAYANは所詮作られた物語なんて批判も見かけるけど、それは表面だけを見ればそうかもしれないけど、決してそうではなかったよ。そしてそれには多くの人が気付いていた。多くの人たちが自分たちには出来ない夢の世界、夢に向かって真っすぐ進む気持ちを彼女たちを通して見ていたのだと思う。同じように悩んだり挫折して生きている多くの人たちの共感があそこにはあった。

ただ、これは知らない人に理解してほしいわけではない。例えば自分が1997年のモーニング娘。から10年遡ったアイドルに興味があるかっていったら全然ないし調べようとも思わない。それは余程興味がわかなきゃ難しいことだと分かっている。だからそれについて書くことはしない。だって知識も経験もないんだもの。

年長メンバーのハロプロからの卒業でね、そういう点も住み分けができていけばいいなと思ったりするのだ。

1997年8月14日。

最終審査が終わってから10日あまり、再び11人は東京に呼び集められた。シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディションの優勝者がついにこの日発表されるのだ。

予選会場に足を運んで1次審査を受けた参加者約9900人。その頂点が選ばれ4ヵ月にわたって繰り広げられたオーディションもようやく終わる。

安倍は即キープで最終審査に進んだこともあって「もしかすると」という期待を胸に上京してきていた。前日から泊まり込んでいたホテルでは飯田と同室だったが、飯田が「優勝は平家さんかなあ」と言っている横で期待の膨らみ過ぎた安倍の鼓動は高まるばかりだったという。

しかし、この時の合宿メンバーの仲間内の予想では「ロックボーカリスト」という募集で開催された以上、平家か石黒のどちらかだろうという予想に概ね落ち着いていた。安倍は岡村から「実写版綾波レイ」と言われるほどビジュアルとしてはアイドルに傾いていたし、福田は最終審査の歌審査直前のフラフラの状態を知られていたから、予想の中には入らなかった。

グランプリの栄冠は歌で抜群の力を見せ、合宿生活もダンスにも必死に取り組んだ平家みちよの頭上に輝くことになる。即戦力を求めていたはたけの要望とも合致していたし(11月のシャ乱Q武道館ライブに立たせることになっていた)、回りの参加者からもその実力を認められた栄冠となった。オーディション開始時から自分のことを「凡人」と言い続けた平家が凡人でなくなった瞬間だった。





落選を受けて後のモーニング娘。となる5人は最後の心境をこう述べている。



「ちっちゃい頃からずっと歌が好きで、何時間歌っても飽きないんですよ。だから私には歌しかないなと思って。売れなくても自分が好きな音楽をやっていけたらって思ってます」(福田)



「とりあえず、今の生活からは抜け出したいんで……。これからも人生冒険します」(中澤)



「ASAYANしかないから、オーディションって。だからASAYAN……また受けます」(安倍)



「やっと終わったって感じ……。(平家には)おめでとう、って。ホント嬉しかったし」(飯田)



「歌も頑張ってたし、ダンスも頑張ってたし、平家さんは自分より全部上だったんで、認められます」(石黒)

<コメント部『モーニング娘。5+3-1』より抜粋>

こうしてオーディションは終わり最終予選で敗れた面々もそれぞれの地元に帰って行くのだが、安倍は室蘭の自宅に帰るまで…いや帰ってからも泣き続けた。どん底まで落ち込んで泣いていた安倍のところには飛行機のスチュワーデスまでが慰めにやってきたという。機内で配るお菓子を差し出し「これ食べて元気出して」と、まるで子供をあやすようだった。この後何十回と羽田と千歳を往復することになる安倍はこのスチュワーデスの方と再会したという…

また、関西に向かう新幹線組の二人は平家が中澤に「整形した?」と最後の質問をしていた。もちろんこれは二人の中での笑い話なのだが、こちらは札幌組とはうって変わって明るい帰路となったようだった。

これでオーディションはすべて終了、誰もがそう思っていたがこの後事態は急展開を迎えることになる…



<つづけ>

*8で明日香の記述をちょっと足しました。

最終審査では11人を一つのグループとしてダンス審査を行った。

そのダンス披露で選ばれた曲は『リーチ』。
ダンスレッスンを担当した夏まゆみの選曲で、曲名と手を伸ばす振り付けには「みんなが夢に手が届きますように」という願いがこめられている。

ステージ披露の前に夏先生と11人が円陣を組んで気合いを入れる。
「一番良い状態を見せるんだよ」と夏先生は11人を送り出した。

…そしてダンス披露。



結果は夏先生にとって満足のいくものではなかった。
戻ってきた11人に頑張っていたことは認めた上で「練習のときの方がよかった」「これからプロとしてやっていくつもりなら本番こそがすべて」と涙ながらに怒る。11人もその夏先生の熱い思いと情熱に打たれ、また「今日で会えなくなる子がほとんどで…」との夏先生の言葉に全員が涙していた。

この時のことを中澤は「夏先生は最上級の愛とエネルギーを与えてくれた」と後に語っている。単なるスパルタ教育ではない、そこには後に繋がっていく深い心の繋がりが生まれていた。











その後に行われた個別の歌審査。
シャ乱Qはたけによって直前にメロディーラインの微妙な変更があり、それが11人を苦しめることになる。「プロになるからにはこういう変更はいつでも有り得る」とはたけから説明があったが、緊張の極限状態にあったオーディション参加者にはかなり酷な要求だったようだ。

福田はダンスの後の夏先生とのやり取りを引きずっていて、歌審査の直前まで泣いていた。福田自身はダンスは踊れていたと思ったらしいのだが、周りの泣いている空気にのまれ、ずっと張りつめていたものが爆発してしまったのだ。歌う間際になっても立ち上がれず、気力がまったく出てこなかった。意外なことにこのときボロボロだった福田を励ましたのは最もオーディションで目立ち個性的な兜森だったという。兜森の励ましを受けてなんとか福田はステージに立った。

この歌審査で使われた曲が合宿で使った課題曲であり平家みちよのデビュー曲である『GET』。平家がハロプロを去ることになった2002年のラストライブでも『GET』は最後の最後に歌われている。

この歌審査の直後にシャ乱Qと和田マネージャーによる個別面談があり、それが終わったあと一旦解散となりそれぞれ帰郷した。帰りの新幹線では緊張から解放された中澤が平家にビールを買いに行かせて、平家が戸惑って相手をしたとかそんな話も伝え残る…

平家はこのとき高校3年生の18歳。
中学1年の頃にGAOの『サヨナラ』という曲と出会い、この歌をすごく好きになったことが歌手を目指すきっかけだった。GAOのファンクラブに入り、いつか会うこともあるかもしれないと思い、必死になって『サヨナラ』の練習を積んだ。

中学2年の修学旅行のバスの中で平家はこの歌を披露する。
それまで地味に学校生活を送っていた平家だったが、この時は今まで見向きもしなかった同級生たちが平家の歌う姿に振り返った。
いよいよ平家は歌手を強く志すようになる…

中学2年からオーディションを受けること十数回。ASAYANのオーディションも3回目。平家の夢はあと一歩のところまで近付いてきていた。


GAO『サヨナラ』


Rie ScrAmble『文句があるなら来なさい!』


※『文句があるなら来なさい!』は平家や石黒をはじめとして当時のオーディション参加者の多くが歌っていた。このRie ScrAmbleのボーカル・藤原理恵は元C.C.ガールズの一員で、後にASAYANの演出家だったタカハタ秀太氏と結婚。



<つづけ>


息切れしてきました。

上京して砧のTMCで審査を受ける札幌組。
安倍は早々に「即キープ」として最終予選へ駒を進め、石黒と飯田も追加審査に臨み勝ち進んだ。





『ガレージ』より


ここまで残ってきたオーディション参加者は合計11名。
ここでオーディション優勝者を決めるために全員を集めて合宿を行うことがシャ乱Qの口から発表される。その当時ASAYANでは敗者復活の3人組・Say a Little Prayerが手売りで1万枚という企画に挑戦しており、そのために合宿する様子も放送され、それが好評だったこともあるのだろう。一旦それぞれの地元に戻っていた11人は再び東京に呼ばれることになった。ただし、この時点では「スニーカーとジャージと着替えを持って」としか知らされておらず、全員で合宿をやることは参加者には知らされていない。

安倍は上京直前に開催された「むろらん港まつり」に繰り出しひと時の息抜きをし(結果としてこれが安倍の最後の地元のお祭りへの参加となった)、中澤と平家は再会を喜び合い、飯田は再び現れた鼻ピアス石黒にビビり、他の多くの参加者たちもそれぞれの思いを胸に集まってきた。





1997年7月28日。
赤坂(当時)の東京吉本の前に停められたマイクロバスに上京してきた11人の参加者たちは乗せられる。行き先は告げられなかったのでまだ笑顔を見せる余裕のある子もいた。

バスが着いたのは東京練馬区のとあるお寺。後に後藤真希が参加した第2次追加オーディションや石川梨華や吉澤ひとみが参加した第3次追加オーディションでも合宿に使われた縁あるお寺だ。石神井公園に囲まれた閑静な場所にあるこのお寺で11人は3泊4日の合宿をすることになった。



合宿の初日にカセットテープが配られ「この曲がデビュー曲になる」と告げられる。そこにはデビューしたいのなら自分の力で掴み取れという強烈なメッセージが込められていた。4日間通して彼女たちはこの曲を課題曲としてレッスンを積むことになる。

合宿は5時に起床、読経や境内の掃除もこなしつつ本来の合宿目的であるボイストレーニングとダンスレッスンが3、4時間ずつ、さらに朝昼晩の三食すべて自炊な上にお風呂は1キロ歩いたところにある銭湯、そして10時に就寝とかなり過酷なスケジュールが課せられた。

ボイストレーニングには笠木新一、ダンスレッスンには夏まゆみと厳しい言葉も厭わない講師が招かれ、合宿参加者たちを指導した。それは細かい技術指導というよりも芸能界で生きていくことへの基本的な心構えの指導だったかもしれない。これから後数年経った卒業時に、安倍はテレビの企画で見ていたASAYANのVTRの笠木先生の言葉に大きくうなずくことになる。







合宿時、中澤は受かる可能性を考えていなかったという。11人の中に選ばれたのも一人だけ年いった人がいた方がテレビ的に面白いからだろうとさえ思っていた。中澤はそれならばまわりに気を遣わずに自分のやりたいよう思いっきりやろうと決めていたそうだ。これからの人生のために何か意味のあるものを掴み取りたい… それが中澤の決意だった。

そんな中澤と目立たないながらも合宿を引っ張っていた石黒に家事で怒られていたのが安倍と飯田だ。同じ北海道から上京し、同い年、二人はこの合宿でいよいよ仲良くなりいつも行動を共にしていたが、まわりの参加者から見ると二人がふざけているように見えたこともあったらしい。中澤に「あんたらちゃんとしぃや!」と怒られることもたびたびあったとか。

一方福田は完全にマイペースを貫き通す。そもそも中学生の参加者は福田ただ一人、しかも12歳でその上は飯田と安倍の15歳、同じ東京出身の河村も16歳だったので、仲良くなりようもなかった。福田は「なんかね、私の目にはみんなが珍しい人に見えたんです。いっぱい喋るんですよ。でも私は、なんでそんなに喋ることがあるんだろう?と思ってて…。必要以上には話さなかったですね」と部屋の片隅で一人で課題曲をウォークマンでずっと聴いていた。

安倍が途中で写真のアルバムを持って福田のところに話しかけに来たが、福田は上記のような気持でいたので話がかみ合うはずもなく、安倍は「東京の子はクールだなぁ」、福田は「北海道の人はよく話すなあ」と、そんな印象しかこの時は持たなかった。

そして怒涛の合宿は終わり、8月3日に再び東京TMCに集められた11人は最終審査に臨むことになる。

1


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<つづけ>

題名思い浮かばんかった…


安倍なつみはこの日、室蘭から3時間、父親の運転するクルマに揺られ札幌にやってきていた。

安倍はこの時高校1年生。コンビニでバイトを始めたり、友人とバンド活動の真似事をしてみたり、清新な活力真っ盛りな頃。
そんな時にASAYANのロックボーカリストオーディション・札幌予選の開催を知った。ASAYANのオーディションは札幌で地方予選をやらないこともあったので、親と「オーディションを受けるのは高校になってから」という約束をしていた安倍にとってこのオーディションはタイミングよく巡ってきたチャンスだった。

札幌への道中、車内では父親がかつて芸能界を目指したこと、途中で挫折して室蘭に帰ってきたこと、そのことを今でも後悔しているから今度のオーディションは悔いなく頑張ってほしいことなど、今まで聞かされなかったことを安倍は父親から聞かされた。安倍にとってこの札幌行きの車内での会話はオーディション当時の大切な思い出となっていく…

札幌に着き安倍が書類審査の受付を済ますと、その整理番号は1111番。何か運命を感じたという。
安倍がオーディションの曲として選んだのはglobeの『FACE』。
この曲は東京スタジオ審査に進んだ時にも歌っている。



札幌の審査では曲の1番を歌って終わるはずなのに安倍のときは2番までオケが流され、不思議に思いながら歌詞に詰まりつつも安倍は2番も歌った。これはおそらく安倍がオーディションを勝ち進んでいくことを想定した上でのスタッフ側の意図的なミスなのだろう。1111番という特徴的な整理番号を安倍に割り振ったことも含めて、安倍には制作サイドからかなりの期待がかかっていたことが窺がえた。もちろん安倍はそんなことは微塵も知る由はなく、緊張の連続でオーディションを進んでいくのだが。

安倍の「globe『FACE』」という選択は当時の流行やASAYANオーディションを考えれば無難な選択だったのかもしれない。しかし実は安倍は本当は違う曲を歌うつもりでいた。
安倍はUAの『雲がちぎれる時』という曲を本当は歌いたかったという。しかしこの曲のオケだけのCDを用意することが出来ず審査で歌うことは断念した。

UA『雲がちぎれる時』


後にこのエピソードは2002年のラジオ『エアモニ』で明かされ、そしてさらに時を経た2008年になって安倍が自身のライブで歌を披露している。安倍の音楽に対する根底にある世界観がこの曲の選択には表れていた。


札幌から東京のスタジオ審査に進んだのはこの安倍、そして石黒・飯田を含めた8名。

安倍と飯田は初めての東京行きに大はしゃぎしながら飛行機に乗っていた。特に安倍はこの時のASAYANから送られてきた東京行きの航空チケット、機内から持ち帰ったイヤホンや「翼の王国」まで、それを今でも大事に取ってあるという…



<つづく>

1997年6月21日。
札幌予選。
ロックボーカリストオーディションではこれが最後の地方予選となる。

ASAYANのオンエアではすでに福岡予選の最終選考進出者が決まっており、東京予選でもスタジオ審査が終わり福田明日香や兜森雅代といった個性派に次の審査への発注がかかっている段階でのオーディションとなった。

後日談では最もレベルの高かった札幌予選と言われているが、それはここまでの途中経過をASAYANで見ても怖気づかなかった人、自信のある人、そして強い意志を持った人が集まっていたからなのだろう。

札幌の中島児童会館に集まった参加者は約1000人。
その中に石黒彩・飯田圭織・安倍なつみの後のモーニング娘。となる3人の姿があった。

石黒は前年の小室オーディションに次いで2回目のASAYANオーディション参加。4月から服飾の短大に進学し、また短大に近くなるということもあり家族ぐるみで引っ越したばかりでもあった。

高校時代にビジュアル系でハードなバンドでならした石黒にとって「ロックボーカリストオーディション」に参加することはごく自然な成り行きだった。バンド時代はLUNA SEAやL'Arc〜en〜Cielのカバーをよくやっていた石黒、歌審査は当時ASAYANオーディション参加者がよく歌っていたRie ScrAmble『文句があるなら来なさい!』で臨む。アイドル的なアプローチはまったくなく、細い眉毛で眉間にしわを寄せ黒づくめのスタイル…完全なロック姉ちゃんだった。

この時に審査を担当していたスタッフは前年スタジオ審査にまで進んだ石黒のことを覚えており、7キロも減量した石黒を見て驚いている。ロックなテイストとビジュアル、そしてステージ慣れ、石黒は文句なしの東京スタジオ審査進出を決めた。


この日のオーディションに友達と参加していたのが飯田圭織。
飯田は前日からその友人の家に泊まりこんでこの会場にやってくる。しかしその友人宅で喋り明かしてしまいほとんど眠ることなくオーディション当日を迎えてしまっていた。

みっちり練習を積んで夜はぐっすり寝てオーディションに参加した福田とはまったく対照的だが、当時は多くの女子中高生が飯田のように芸能界に憧れ、友達と一緒に語り合ってオーディションに参加していた。普段その辺にいる普通の女の子が夢を見ることのできる、ASAYANとはそんなオーディション番組だった。

目が腫れぼったいままの飯田だったが、83人しか進めなかった歌審査には見事残った。そこで飯田はSPEEDの『STEADY』を披露しASAYAN3度目の挑戦にして初めて東京スタジオ審査に進むこととなる。

そして飯田はこの時の歌審査の会場だったアートプラザホテルで順番を待っているときに隣に座っている子と運命的な出会いをする。

隣にいる純朴そうな小さな女の子。「きっとこの子は勝ち進むんだろうなあ…」「今友達になっておけば芸能人と友達になれるかもしれない」そんな些細な気持ちがきっかけだった。

それは
「どっから来たの?」
「室蘭」
「私の婆ちゃん家が室蘭だよ」
と他愛もない会話から始まった関係…

そう、隣にいたのは安倍なつみ。
時には大喧嘩をし、時には泣き合い抱き合って、6年半にも渡って苦楽を共にしていく、その二人の出会いだった。



<つづく>

中澤裕子がロックボーカリストオーディションの大阪予選に参加したのは1997年5月24日のこと。

テレビで九州予選の映像を見ている時に流れた大阪予選の告知に心を鷲掴みにされてオーディションへの参加を決意する。京都の福知山から上阪して6年、規則正しいOL生活に息苦しさを覚え、ちょっと前に始めた北新地での夜のバイトに精神的開放感を感じていた頃だった。

しかし23歳でオーディションを受けることに戸惑い、本当に受けていいものかどうか迷い続ける中澤。彼女はオーディション当日一つの賭けをする。

それは方向音痴である中澤が時間に余裕を持たずに出発し、オーディションの集合時間までに着けたら参加しようというものだった。住んでいるアパートからオーディション会場までは歩いて20分の距離。もし迷わずに時間通りに着けたなら「神様がオーディションを受けなさいと言っているのだ」と思うことにしたという。

そして中澤は時間通りに着く、いや自らの予想に反して着いてしまった。
会場には3000人の参加者が集っていた。

中学生や高校生に混じって並ぶこと数時間。
気持ち悪くなるほどの緊張感の中、1次審査はたったの数秒で終了。
99%受かる自信はなかったという。
しかし…中澤は1%の可能性をものにする。大阪予選ではその日のうちに会場で予選通過者が発表されるのだが、見事に中澤はその中に残っていた。

翌日に行われた2次の歌審査。
一番良い恰好でとスタッフに言われ、後につんくから「サイズが合ってない」と揶揄された黒いスーツ姿で審査に臨む。
この時と東京スタジオ審査に進んで歌ったのが『ら・ら・ら』である。東京の時はスーツの失敗を反省し慎重に衣装を選んで行った。



審査が終わった後には「東京に来た記念に」とスタッフがお台場のフジテレビに連れて行ってくれたそうだ。今から11年前、フジテレビはこの年にお台場に移転してきたばかり。お台場はドラマ『踊る大捜査線』(1997.1〜1997.3放送)でも分かるようにまだまだ空地の目立つ時代だった。

大阪に戻って数日、「説得力のあるバラードで」と要望が出され、さらに中澤のオーディションは続く。大阪予選に参加した3000人はすでにこのとき3人になっていた。会社の有給を使い上京する中澤。こっそり誰にも言わずに受けたオーディションだったが、日に日に周囲からはそういう目で見られるようになり、中澤にはそれもプレッシャーになっていた…

『めちゃくちゃに泣いてしまいたい』


この日のオーディションの後、大阪から来た3人はホテル泊まり。ホテルに入った3人は夜遅くまで語り合った。それは中澤裕子と平家充代の初めての語らい。このときは二人ともこれで会うのが最後だと思っていた。後には中澤がラジオでハロープロジェクトからの平家の卒業を話していて落涙してしまうことになる関係。その関わり合いの原点となるものだった…

中澤はその後大阪に戻り、友人や会社の人たちに応援されながら、最終予選を待つことになる。



オーディションが進むものの自信を持てずにいた中澤は、地元・大阪の友人たちと飲むたびに涙を流していたという…



<つづく>

なんかどんどんドキュメンタリータッチになってる(笑
もっと軽くやってくつもりだったのに、どうしようかな…

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