Submarine Dog

カテゴリ: モーニング娘。(旧)

<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話
第7回>寺合宿開始とASAYAN制作裏話
第8回>最終審査と平家みちよのこれまで
第9回>優勝者決定と落選者たち
第10回>落選者たちのその後と5人のメンバーの再招集
第11回>5人の顔合わせと夢への切符とその考察
第12回>モーニング娘。命名とその謎、活動開始と生活激変




    < 13 >                (敬称略)


9月23日、5万枚という条件のためのCD『愛の種』のレコーディングが始まる。

このCD制作にあたっては後にモーニング娘。のプロデューサーとなるつんくの姿はない。

ASAYANのタカハタ氏ら制作陣とそれに和田マネらが調整して各布陣を整えていった。


楽曲打ち合わせ中の和田マネとアップフロントからのレコーディングディレクター・橋本慎。


ボイストレーニングにはロックボーカリストオーディションの寺合宿で厳しい指導を行った笠木新一を再び起用。指導は変わらず厳しかったが再会を喜び笑みを見せる場面もあった。


作曲とプロデューサーには桜井鉄太郎(右端)。楽曲はキャンディーズ『春一番』のイメージでビブラートを極力使わないように徹底指導してレコーディングをした。桜井によれば当時は華原朋美が流行っていて、その華原的な歌い方のクセがどもメンバーにも出ていて、それはこの曲に合わないと判断したからだった。

桜井鉄太郎はロックボーカリストオーディションにおいてメンバー選考の粗選り段階でも関与。安倍と福田をメインにすることを提唱するなど、ユニットコンセプトへも関わっていた。つんくはこの段階では「プロデュースは未知の領域でシャ乱Q以外に曲を提供するのもまだ自分が踏み込んでいける領域ではない」と述べ、本格的に関わることに躊躇いがある状態だった。

『愛の種』にはレコーディング中に歌詞が大幅変更されたという話が残っている。またサエキけんぞう(『愛の種』作詞担当)は曲タイトルをティアーズフォーフィアーズのシングルタイトルから受けて『シーズ・オブ・ラブ』と最初につけていたが「『愛の種』でいい!」とスタッフに言われ(ASAYANスタッフか?)決定した。サエキによれば「『面白い方がいい』という精神が感じられた」とのこと。

(けっこうメジャーな曲なのでご存知の方も多いと思うが参考までに)
Tears For Fears『Sowing The Seeds Of Love』


モーニング娘。が1st・2ndシングルを経てファーストアルバムをリリースする際、桜井鉄太郎やサエキけんぞうも何曲か関わることになっていたらしいが、それは立ち消えになり、以降はつんくのみの作品でプロデュースされることになる。







中澤はレコーディングで上手くいかず、気持ちを一新するために断髪。

「髪を切って 夢をみがく
 好きな空をめざすために」

『愛の種』の歌詞そのままに行動したわけだが、長髪で撮っていたジャケット写真を撮り直すことにもなり、それで迷惑をかけることになった。

・・・とASAYAN上の映像にはなっているが、実際には中澤が髪を切ったのはASAYANのスタッフにやんわりと髪を切ることを勧められたからである。それなのにつんくに「髪を切ったからって、そんなことたいしたことじゃない」と言われて相当頭にきたらしい。

その後歌割りが発表され、中澤はたった2か所しかソロパートを与えられなかった。視聴直後、中澤は号泣。悔しさの涙だと誰もが思ったが、たった2か所でもソロパートがあって良かったという嬉し涙だった。

この頃の中澤は泣いているか怒っているかのどちらかだった。そのおかげで精神的に鍛えられ少々のことではへこたれなくなった。強くなくては生きていけない・・・中澤が座右の銘とする「弱肉強食」はこれらの過程から抱くようになっていったものだった。


10月に入ると『愛の種』のプロモーションビデオの撮影が待っていた。

富士山のふもと、静岡県朝霧高原のとある牧草地と都内各所でそれは行われた。

朝霧高原では年上のメンバーが年下メンバーの化粧を手伝ってあげたという。服装もスタイリストは用意されず、自分たちの私服を着て撮影に臨んでいた。

また夕方に撮ったというコスモス畑のシーンでは周囲の牧場からの臭いがきつく、なかなか大変だったようだ。



静岡からの帰りがけにはほうとう屋で食事(中央道経由での帰路か?)。メンバーみんながほうとうを頼む中、福田だけピザを頼んで笑いを誘った。


『愛の種』はモーニング娘。が大きくなっていく中で徐々に封印され、頻繁に歌われていたのは最初の1年くらいである。

2001年に中澤裕子が卒業する際にNHKのスペシャル番組(この番組を作ったのはタカハタ秀太ら旧ASAYANのスタッフだった)で、また10周年の記念イベントの時にもオリジナルメンバーだけで歌っている。それは歌うメンバーの涙と共に、見ている側にも涙を誘うものだった。

また各メンバーが持つラジオ番組でも、節目となる時、意味を持たせたい時にこの曲がかけられ、最初の頃を思い出す曲としてメンバー自身が望み選んでかけることがあった。

『愛の種』はこうしてメンバーたちにとって大切な曲となっていくのである。


(2017年4月には福田明日香が『愛の種』を約19年ぶりに歌い、個人的に思い溢れる瞬間だった→Youtube-STONE Project asukaの気まぐれラジオ session4で検索。8:15から)

<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話
第7回>寺合宿開始とASAYAN制作裏話
第8回>最終審査と平家みちよのこれまで
第9回>優勝者決定と落選者たち
第10回>落選者たちのその後と5人のメンバーの再招集
第11回>5人の顔合わせと夢への切符とその考察




    < 12 >                (敬称略)


1997年8月30日。

この日、シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディションに落選した5人組がユニットとして初めてのスタジオ収録に臨んだ。

収録はお馴染みの東京メディアシティ(TMC)。ここで初めて5人組に対してつんくから「モーニング娘」という名前が提示された。
つんくによれば「モーニングセットのようなお得感のあるグループを」と説明があったが・・・



その名前が決まったとき、メンバーたちは好きになれず苦笑いしていた。もっとカッコいい名前が付くと想像していたらしい。

また「モーニング娘」の「。」に関しても、当時のASAYANはどんなテロップにも「。」を打つことを特徴としており、本来は「モーニング娘」のままでも良かったのだが、これもまたナインティナインの悪ふざけにより矢部浩之の一言で「モーニング娘。」が正式な名前となった。



一人だけ「漢字も『。』もついてお得だな」と言って受け入れていたがそれは少数派で、他のメンバーは最初の内はこの名前に抵抗を感じていたという。その時はまだこの名前が20年も続き、アイドル史に特別な意味を持つ名前になるとは誰も思っていなかった。

つんくの悪ふざけともとれるこの命名、アップフロントグループが6月に解散させたモーニング・グロウ・オーディション社の名がその元となっているのではないかと自分は考えている(同社については前回参照)。

これはアップフロントグループは(というよりもY会長{当時は社長・以降Y会長で統一})名前の使いまわしをたびたび行うので、直前に解散したオーディション部門の名前をメジャーデビュー前の新人に流用することは大いにありうるなと思うのだ。

例えば「花畑牧場」は同社が東京で営むレストランの名前でもあったし、「グランブルー」や「パシフィックヘブン」といった名もところどころで使っている。「モーニング娘。」と決まって以降も「カントリー娘。」や「ココナッツ娘。」と名前の流用は頻繁に見られる。飯田・石黒・矢口のユニット・タンポポという名もアップフロント所属の加藤紀子が1999年まで使っていたファンクラブの名称でもあった。

またY会長が大好きなハワイで営むコーヒー園の名も当初(モーニング娘。が出来る以前から)はモーニング・グロウ社という名前だった(その後アップフロントハワイ社に)。

Y会長の「モーニング娘。の事実上のプロデューサーは自分」という発言なども考慮すると、その意向を受けたつんくが悪ふざけを装ってASAYANで命名したのかなとも考えられる。ただこれは想像の域を出ず、仮にこれが本当だったとしても真相は明かされることはないと思うので、一つの妄想として捉えていただきたい。

ただ、後ににメンバーたちが自身の略称を世間で使われていた「モー娘。(モームス)」ではなく「モーニング」と呼んでいたことなども考えると、社内では「モーニング」というワードがメイン扱いだったのかなと思う。和田マネや夏先生も「モーニング」呼びだったように記憶している。


さて、これで名前が決まったモーニング娘。たち。

この日以降、彼女たちの生活は一変し、駆け足で走り続けることになっていく。

9月に入り、モーニング娘。の活動に専念するために石黒は服飾の短期大学を退学した。通学のことも考慮に入れ家族でこの年の4月に引っ越しをした石黒にとっては大きな覚悟と決心だった。

また北海道から通う飯田・安倍も学校は辞めざるを得ず、また東京在住とはいえ義務教育中だった福田は学業との両立という中学1年にしては重たい宿命を背負わされることになった。

当時は18歳以下の芸能タレントの深夜労働に関しての自主規律が緩く(厳しくなったのは1999年の大森玲子さんの件以降の事)、レッスンやレコーディングが夜遅くなることや朝までかかることも度々だった。

「前は帰ってきてごはん食べて、テレビを見たらすぐ寝てたんです。大晦日でも12時ぐらいにはもうバテて、除夜の鐘を聞けなかったのが(笑)、今は平気で朝の3時、4時まで仕事してますから。」(オリコン誌1998年5月18日号の安倍なつみの発言より)

このため福田は学校生活に支障を来たし、時には学校の先輩に目を付けられ、時には学校の友人たちと距離を感じるようになり、「普通の中学生」の生活は送れなくなっていった。

しかしそんな中での彼女たちの決心やひた向きさがまわりの人たちの心を動かし、やがて大きなうねりとなっていったのは多くの方が知っての通りだろう。

<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話
第7回>寺合宿開始とASAYAN制作裏話
第8回>最終審査と平家みちよのこれまで
第9回>優勝者決定と落選者たち
第10回>落選者たちのその後と5人のメンバーの再招集



    < 11 >                (敬称略)


1997年8月20日。

中澤・石黒・飯田・安倍・福田の5人が東京に呼び集められた。











会議室にはシャ乱Qの5人と和田マネが待ち受けていた。

そこに時間差で呼びこまれるメンバーたち。

福田や中澤の緊張は半端なものではなく、何をやらされるのか不安と期待が入り交じり複雑な表情だった。

北海道組の飯田と安倍はお互いに連絡を取り合っていたが、上京することはお互いに話さず顔を合わせて気まずかったという。また石黒は飯田に上京のことを話していたが、飯田は話さなかったので、会議室で顔を合わせてさらに気まずかった。











5人が集まって告げられた話。

5日間でCDを5万枚売るというチャレンジをしてみませんか?ということだった。

この8月20日の時点では完売したからといってメジャーデビューが確約されていたわけではない。このチャレンジを頑張ってみて、5万枚完売させたら何か動きだすかもしれないよという類のものだった(テロップには「デビュー」と出ていたが、話の内容は「デビューもありうる」というものだった)。

それが5人でのメジャーデビューだったのか、あるいは一部メンバーはどこかの事務所・レコード会社から声がかかるかもしれないといったことだったのか、はたまた一部メンバーだけでのユニットデビューを見据えていたのか、つんくの説明は曖昧なままであくまでも「進行中の話」という域を出なかった。

ただし、ASAYANでは8月5日にSay a Little Prayer(以下セイア)が1万枚を1店舗のみの販売で2日間で完売させてメジャーデビューの道を掴んでおり(第9回参照)、5万枚完売という条件もセイアの結果から出されたものであり、セイアはそれによってデビューに至ったので、再召集の5人も完売でメジャーデビューという路線にはなっていたように思う。


一方、和田マネやシャ乱Qが所属するアップフロントエージェンシーは、6月下旬にグループ内のオーディション業務を再編。前年10月に設立したアーティストオーディション専門のモーニング・グロウ・オーディション社を解散させている。

これは見方によっては、自社オーディションからの選抜を打ち切り、ASAYANからのタレントの卵の供給を期待していたという風にも見ることが出来るだろう。現にオーディション優勝者の平家みちよはアップフロントグループのクーリープロモーションと契約しているし、その後のアップフロントの新人発掘もしばらくはASAYANあるいはテレ東と組んだモーニング娘。関係のオーディションにほぼほぼ限定されている。

この企画は5人にとってのチャレンジであると共に、アップフロントの今後の事務所としてのタレントオーディション・スカウト・育成といった点での試験的運用の意味合いもあったのではないかと思う。

アップフロントのY会長の「事実上のプロデューサーは自分」「(モーニング娘。の立ち上げ時)月に500万かかっていた(育成費用や地方組の滞在費・上京費などかと思われる)」という発言からもそうしたことが伺える(時期的にははっきりとしないが運転資金はASAYAN持ちではなく、アップフロント持ちだったのではないかということ)。


突然の呼び出し、そして上京。
自分たちの置かれた状況は判然としないものがあったが、CD手売りの話を聞かされてその場で5人全員が「やります」と決意を述べた。自分たちがオーディション落選者であり、これが最後のチャンスになるかもしれないということは痛いほど分かっていたのかもしれない。

ただ拭いきれない不安は全員が持っていた。
中澤と石黒、安倍と飯田はその日泊まったそれぞれのホテルの部屋で今後について朝まで話し込んだという。中澤の手元にはビールの缶が転がっていた。

いつか来た道


<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話



    < 7 >                (敬称略)


上京して世田谷区砧のTMCでスタジオ審査を受ける札幌組。
安倍は早々に「即キープ」として最終予選へ駒を進め、石黒と飯田も追加審査を経て勝ち進んだ。

最終審査まで残ったオーディション参加者は合計11名。
ここでオーディション優勝者を決めるために全員を集めて合宿を行うことがシャ乱Qから発表される。

当時ASAYANでは敗者復活の3人組・Say a Little Prayer(第1回参照)が手売りで1万枚を売るという企画に挑戦しており、そのために合宿する様子も放送され、それが好評だったこともあるのだろう。一旦それぞれの地元に戻っていた11人は再び東京に呼ばれることになった。ただし、この時点では「スニーカーとジャージと着替えを持って」としか知らされておらず、全員で合宿をやることは参加者には知らされていなかった。

安倍は上京直前に開催された「むろらん港まつり」に繰り出しひと時の息抜きをし(結果としてこれが安倍の最後の地元のお祭りへの参加となった)、中澤と平家は再会を喜び、飯田は再び現れた鼻ピアスの石黒にビビり、他の多くの参加者たちもそれぞれの思いを胸に集まってきていた。





1997年7月28日。
赤坂の東京吉本(現在は新宿に移転)の前に停められたマイクロバスに上京してきた11人の参加者たちは乗せられる。行き先は告げられなかったのでまだ笑顔を見せる余裕のある子もいた。

ちなみに東京吉本に集められた理由。
『ASAYAN』は吉本興行の制作番組でたびたび収録も赤坂の吉本社内で行われていたからなのだ。社内にASAYANのスタッフルームもあった。パーテーションの仕切りが見える会議室のような場所でのロックボーカリストオーディションの映像は、ほぼほぼ当時の吉本社内の映像だと思って良い。

番組プロデューサーの泉正隆も吉本の社員だった。
泉正隆といえばモーニング娘。のメンバーたちが『愛の種』を手売りしていた頃に強烈なダメ出しをしたことで知られる人物で、逆にそれで後々までメンバーからの信頼を得ている。各メンバーたちの卒業公演にも顔を出していた。

泉正隆は吉本印天然素材(ナインティナインら吉本の若手芸人たちのユニット)の立ち上げを行った人物でもあり、その縁もあってかナインティナインや夏まゆみ(吉本印天然素材のダンスレッスンをしていた)らが『ASAYAN』に関わることになった。

吉本の反主流派と言われていた時期もあったがグループ内事務所・吉本SSM社長を経て、後にはよしもとクリエーティブ・エージェンシーの取締役副社長まで務めた。

また『ASAYAN』はエイベックスをメインスポンサーとし、その関係で小室哲哉やMAX松浦らの影響力が強い番組でもあった。

そのため、ここに割り込んでメイン企画を作り上げたアップフロントエージェンシーとシャ乱Q、というか和田マネは敏腕であったといえるだろう。

とはいえ前年に行われた三井のリハウスCMのオーディションにおいて、オーディション前のCMはアップフロントエージェンシーの建みさと(後にドラマ『太陽娘と海』でモーニング娘。らと共演)が担当しており、オーディション後には吉本SSMに所属することになった池脇千鶴に変更されたので、その頃からアップフロントの入り込む下地は出来ていたのかもしれない。ロックボーカリストオーディションの開催も96年末には決まっていたとされている。

この他『ASAYAN』には電通も制作で関わっており、またタカハタ秀太ら制作陣も精力的に仕事を進めていて、その中にアップフロント(というか和田マネ)も入り込むことになっていくので、まさに複雑怪奇な状況であった。


話を元に戻そう。

バスが着いたのは東京練馬区のとあるお寺。後に後藤真希が参加したモーニング娘。第2次追加オーディションや石川梨華や吉澤ひとみが参加した第3次追加オーディションでも合宿に使われた縁あるお寺だ。石神井公園に囲まれた閑静な場所にあるこのお寺で11人は3泊4日の合宿をすることになった。



合宿初日にカセットテープが配られ「この曲がデビュー曲になる」と告げられる。
そこにはデビューしたいのなら自分の力で掴み取れという強烈なメッセージが込められていた。4日間通して彼女たちはこの曲を課題曲としてレッスンを積むことになる。

朝は5時に起床、読経や境内の掃除もこなしつつ本来の合宿目的であるボイストレーニングとダンスレッスンが3、4時間ずつ、さらに朝昼晩の三食すべて自炊な上にお風呂は1キロ歩いたところにある銭湯、そして10時には就寝と過酷なスケジュールが課せられた。

ボイストレーニングには笠木新一、ダンスレッスンには夏まゆみと、厳しい言葉も厭わない講師が招聘され合宿参加者たちを指導した。それは細かい技術指導というよりも芸能界で生きていくことへの基本的な心構えの指導だったかもしれない。これから数年経った卒業時に、安倍はテレビの企画で当時を振り返って見ていたASAYANの笠木先生の言葉に大きくうなずくことになる。







合宿時、中澤は受かる可能性を考えていなかったという。11人の中に選ばれたのも一人だけ年いった人がいた方がテレビ的に面白いからだろうとさえ思っていた。

中澤はそれならばまわりに気を遣わずに自分のやりたいよう思いっきりやろうと決めていたそうだ。これからの人生のために何か意味のあるものを掴み取りたい…
それが中澤の決意だった。

そんな中澤と目立たないながらも合宿を引っ張っていた石黒に家事で怒られていたのが安倍と飯田だ。北海道から共に上京し同い年の二人はこの合宿でいよいよ仲良くなり、いつも行動を共にしていたが、まわりの参加者から見ると二人がふざけているように見えたこともあったらしい。中澤に「あんたらちゃんとしぃや!」と怒られることもたびたびあったとか。

一方福田は完全にマイペースを貫き通す。そもそも中学生の参加者は福田ただ一人、しかも12歳でその上は飯田と安倍の15歳、同じ東京出身の河村も16歳だったので、仲良くなりようもなかった。福田は「なんかね、私の目にはみんなが珍しい人に見えたんです。いっぱい喋るんですよ。でも私は、なんでそんなに喋ることがあるんだろう?と思ってて…。必要以上には話さなかったですね」と部屋の片隅で一人で課題曲をウォークマンでずっと聴いていた。

安倍が途中で写真のアルバムを持って福田のところに話しかけに来たが、福田は上記のような気持でいたので話がかみ合うはずもなく、安倍は「東京の子はクールだなぁ」、福田は「北海道の人はよく話すなあ」と、そんな印象しかこの時は持たなかった。

そして怒涛の合宿は終わり、8月3日に再び東京TMCに集められた11人は最終審査に臨むことになる。



4月22日は再びSTONE Projectの合同ライブへ。
「大人の休日倶楽部vol.2」at 自由が丘マルディグラ。

今年に入ってから山手線の円周の外へはライブを見に行かないと秘かに決めていたのに、早くも4月で2回か(色々とやることもたまってるし、諸々事情がありまして、ライブ本数自体絞っている最中)。

この日は
PEACE$TONEのTERRAさんにayumi&えっちゃんの3人でやった1部。
八戸出身のギター弾き語りSSW・大石啓太さん。
そしてTERRAさんとasukaさん(以下福田さん)にギターとピアノサポートを加えての2部。
の3ステージ構成。

1部は前回に引き続いて手話を取り入れた振り付けをみんなでやったり、また客席とのやりとりもアットホームな雰囲気。一昨年くらいの大人数バンド編成から一転、客席は座りで距離感の近い少人数編成でのライブが増えているが、徐々にその場の雰囲気が醸成されてきている感じ。お約束が増えすぎるのは良くないけど、やはりその場でしか味わえない空気感とでもいうか、「お、これこれ」と思えることがあるのは楽しいよねと。

1部の目玉はなんといっても『ONE』。
2年くらい前に初披露された時はこれがニューアルバムの顔になる曲だと思った盛り上がり必至のキラーチューン。
アルバムには収録されなくて、また曲自体の披露も久々だったので(たぶん一昨年の横田かよみうりランド)うれしくなる。
この曲で「タオル回しましょう!」ってなってたのはすっかり忘れてた 笑(まあ今は座りライブなのでカバンにマフラーもタオルも入れてないんですが)

2部では福田さんがビートルズの『Let It Be』に自身で歌詞を作って初お披露目。
内容は書きません。知りたきゃライブに行きましょーと 笑 今日もMCも曲説明もガンガンやってくれたんで!

今日の福田さん、花粉症の症状も出ず調子が良いそうで(ってか前回あれで調子悪かったのかい!)、「今日は歌います!」の宣言通りモリモリ歌ってくれる。ビートルズはTERRAさんの音楽的なルーツにもなっているので、PEACE$TONEのライブとしてはこの選曲はぴったりなのかな。

キーはちょっと上げてもいいかなと思ったけど、どうだったんだろ。他の曲で高いところがメチャ気持ちよく聴こえたので、自分がそう思っただけかな。うむ、いらぬ心配 笑

2部はギターとピアノのサポートが入ってボサノバ的な感じに。休日の午後、まったりとお酒飲みながら聴いているなんて、こりゃなんて素敵な空間。

ギターのサポートは久々のノザワさん。
前述の大人数編成の時には必ず入っていた愛すべきいじられキャラ。
今日はキャラ封印して、そのギターフレーズでイイ雰囲気作ってくれました。ステージの配置上ピアノの方が他のメンバーの方向を向けないので、ノザワさんが呼吸を合わせているのが好印象だったな。頼もしやー。

TERRAさんがどのステージにも積極的に絡んで、全体として話がまとまっていた印象。大石さんの登場もあって「東北・八戸」との関りと今後への展開や、メンバーとの関係性がさらによく見えてきた回だったと思う。

ただ!もう少し長く歌って!と注文を。
2時間座っていたらお尻痛くなりそうだけどね 笑

公式サイトのライブ感想は以下へアクセス!
http://ameblo.jp/peacestoneofficial/entry-12267977014.html
http://ameblo.jp/peacestoneofficial/entry-12267985632.html
http://ameblo.jp/asukafukuda-official/

    < 2 >                (敬称略)


1997年4月初頭に『ASAYAN』で告知された「シャ乱Qロックボーカリストオーディション」は、その後のアイドル界にとって重要な歴史の転機である。

90年代前半のアイドル冬の時代、その後の小室全盛期、沖縄アクターズスクールの躍進の流れはこのオーディションをきっかけに変わったと言っても過言ではない。

芸能プロダクションや芸能スクールでレッスンを積んで、レコード会社に宣伝してもらってソロに近い形でデビューするというそれまでのメインストリームはここから変わっていったように思う。

もちろんこれ以前にもおニャン子クラブや乙女塾といった素人的な部分を売りにしたアイドルグループはあったがそれは一過性に過ぎず、また沖縄アクターズスクール勢にしても全面的にアイドルとして活動しているわけではなかった。

その後「アイドル戦国時代」と言われるグループアイドルの隆盛はこの「シャ乱Qロックボーカリストオーディション」に端を発していると言ってもいいのではないだろうか。

そう、言わずもがなだが、このオーディションからモーニング娘。の歴史が始まるのである。ただし、あくまでもこのオーディションは一人のロックボーカリストを求めて始まったのだということは改めて記しておく。

後にモーニング娘。になるメンバーたちは決してアイドルになることを目標にオーディションを受けたわけではなかった。


さて、「シャ乱Qロックボーカリストオーディション」を振り返る前に1996年のことをもう少し振り返っておこう。

このオーディションを受けた主要メンバーたちは1996年には何をしていたのか。
なぜ彼女たちはオーディションを受けることになったのか、その背景を探っていこうと思う。

1996年4月の時点でのモーニング娘。のオリジナルメンバー5人の年齢は以下の通り(シャ乱Qロックボーカリストオーディションは97年)。

中澤裕子(22) OL
石黒彩(17)  高校3年生
飯田圭織(14) 中学3年生
安倍なつみ(14)中学3年生
福田明日香(11)小学6年生

中澤裕子は大阪でOLとして働き始めて5回目の春。
上阪後の寮生活を経て一人暮らしにも慣れ、徐々に敷かれたレールが見えてきてしまい違う世界への冒険を夢見る日々。

石黒彩は高校1年の時にベースを買ってもらって以来バンド活動まっしぐら。しかもビジュアル系。札幌市内のライブハウスで歌っていたこともある。
5月にASAYANの札幌オーディションに参加して予選を突破、東京のスタジオ審査にまで進んだものの落選。落選後、自分が写るASAYANの放送を見てダイエットを決意する。(おそらくこのオーディションはAISの佐々木祐子が勝ち進んだときのもの)

飯田圭織は7月のASAYAN札幌予選に参加。『Body Feels EXIT』を歌う。
「小室さんの彼女にしてください」の迷言を残すも東京での本戦出場はならず。95年にはSONYのアルカリ乾電池のパッケージのモデルを務めたりもしたので、芸能界への志向は元々かなり強かったのではないかと思われる。

安倍なつみは中1の頃にイジメられた経験があったという。
その時ラジオから流れてきたJUDY AND MARYの『小さな頃』を聴いて救われてからは歌手を夢見る少女となる。オーディションに参加するのは高校生になってからと親から言われ、そのときを待ち望む日々。
96年のASAYANに参加しなかったのは結果論からすればすごく幸運だったと言えるかもしれない。私見ながら、96年に参加していたらそれなりに上位に勝ち進んでAISやSay a Little Prayerとしての活動が待っていたかもしれなかった。

福田明日香は家のカラオケで歌いこむ毎日と、モダンバレエを習ったりする日々。この年に劇団に所属する可能性はあったが、未所属のまま翌年のASAYANオーディションを迎えている。家出経験があったり友達の家で裏○○○を見たり、なかなかやんちゃな一面もあったようだ。当時の流行もあり、デビューしたばかりのKinki Kidsが好きだったこともあったとか。

平家充代は高校2年生。中華料理店でアルバイトをしていた。
ロックボーカリストオーディションの前にもASAYANのオーディションを数回受けていたというから、おそらくは96年のいずれかの大阪か名古屋の予選に参加している。

またモーニング娘。の2期メンバーである市井紗耶香も中学1年生だった96年からASAYANオーディションを受けていたが書類選考の段階であえなく落選。

矢口真里は中学2年生。
96年4月期のドラマ『みにくいアヒルの子』のオーディション(ASAYANとは関係ない)に小学生役で受けるも落選。このドラマの岸谷五朗演じる主人公が自らのことを「おいら」と呼んでいたことから、後に矢口も自分のことを「おいら」と呼ぶようになる。

高校1年生だった保田圭はおそらくこの頃はコンビニで週5日のバイトをこなしていた。
メッシュ、カラコン、ルーズソックスのコギャルファッション。
その後モーニング娘。加入までにヨーカドー→CASA→マクドナルドとバイトを渡り歩いたらしく、けっこういまどきな感じのする高校生だった。

その他、モーニング娘。以外のメンバーでは、カントリー娘。の戸田鈴音は広島の高校で、ソニンは神戸の中学でそれぞれ寮生活しており、親元を離れた厳しい環境で学生生活を送っている。

公に芸能活動していたのは稲葉貴子が大阪パフォーマンスドールとして活動していたくらいで、この時点では大部分がレッスンも受けていない素人ばかりだった。


シャ乱Qロックボーカリストオーディションが始まる前の、つまりハロープロジェクトの歴史が始まる前の1996年とはこんな時代だった。

当然今に繋がるモーニング娘。やハロプロが出来るなどと思うはずもなく、つんくがプロデューサーとして名前を轟かすとも誰も思っていなかった時代。

振り返ってみると、ASAYANそのものが求心力を持って時代と共に歩んでいたんだなと思う。「夢のオーディションバラエティ」とは言い得て妙で、そこに人が集まるべくして集まってきたとでもいうか・・・

Submarine Dog的モーニング娘。20周年企画『いつか来た道』
〜世紀末のオーディション番組とモーニング娘。を振り返る〜


2008年に書いたシリーズものを加筆修正して再構築。
2017年のモーニング娘。20周年にあたって当時の事を振り返っていこうと思います。

ゆっくり更新。一応『愛の種』完売のところまでを目標としていますが、なにぶん遅筆&面倒くさがりなので叱咤激励してください(笑)

とりあえず活動の始まった1997年4月に合わせて1本目。
ASAYANを中心に振り返る予定なのでまずは97年4月にたどり着くまでの前史です。
ここがないとあのオーディションの本質が見えてこないと思うので・・・

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    < 1 >                (敬称略)


1999年に地球が滅びるというノストラダムスの大予言。

そんな都市伝説が巷で話題になっていた90年代中ごろ、日本はバブル崩壊でお先真っ暗の超就職氷河期の真っ只中。
「地球が滅びるなんて・・・」と思いつつも、どこか終末思想的な考えを少なからず持っていたあの頃。

そんな時代に芸能界という華やかな世界を目指すための一つの番組があった。

世の中の不況はどこ吹く風、音楽業界は毎年のようにCD売り上げを伸ばしミリオンヒット連発、まさに沸騰している状況であった。その活況を呈している音楽業界、引いては芸能界を目指すオーディション番組があったのである。

1995年10月に始まったテレビ東京の『ASAYAN』。

20年が経った現在でもこの番組に携わった人たちが今なお多く活躍している伝説のオーディション番組である。



『ASAYAN』は1992年にスタートした『浅草橋ヤング洋品店』を前身としており、1995年に始まった段階では番組前半部が従来の『浅草橋ヤング洋品店』を受け継いだバラエティー色の強いコーナー、後半部が『コムロギャルソン』という小室哲哉がプロデュースするオーディションコーナーとなっていた。

その『コムロギャルソン』のコーナーを拡大し、1996年4月に「夢のオーディションバラエティー」として1時間番組としてリニューアルしたものが我々のよく知る『ASAYAN』という番組である。

司会にはナインティナインと永作博美を起用。
世田谷区の砧にある東京メディアシティ(TMC)で行われる公開収録には女性を多く観覧に入れ、制服姿の女子高生もかなり見受けられた。

始まった当初は観覧席の中にナレーションブースを設け、当時『ニュースステーション』内のサッカーニュースで人気を博していた川平慈英が「いいんですか?いいんです!」と実況していた。

ナインティナインにしても1996年にフジ『めちゃ2イケてるッ!』が始まったばかり。
永作博美もアイドルグループ終了後の女優活動が軌道にのってきた時期であり、まさに時流に乗った勢いのある布陣だった。

オーディションプロデュースを行う小室哲哉もミリオンヒットを連発していた全盛期で、彼の音楽を耳にしない日はないというほど彼の音楽が流れていた頃である。



最初に行ったオーディションはdosを輩出したオーディションで、このオーディションから他には松澤由美が後に活躍する。

dosはtaeco(元アイドル西野妙子)・asami(ダンスグループL.S.Dより抜擢、後に小室哲哉とユニットTRUE KiSS DESTiNATiONを結成、小室と結婚後離婚)・kaba(振付師、小室哲哉により抜擢、後にカミングアウトしKABA.ちゃんとして活動)の3人で結成されたダンスボーカルユニットでデビュー曲『Baby baby baby』はオリコン初登場4位を記録した。

dos『Baby Baby Baby』



また当時は小室哲哉が多忙で、小室のサウンドチームの一員である久保こーじがオーディションを担当することもあった。

同時並行的にJリーガーオーディションやCM出場権をかけたオーディションも行われており、まさに『ASAYAN』は華やかな世界への「夢のオーディションバラエティ」となりつつあった。

三井のリハウスのCM出場権をかけたオーディションでは池脇千鶴がその座を射止め、その後瞬く間に女優としての階段も駆け登っている。同オーディションにはまだ無名の頃の加藤あいも参加している。




1996年8月にL☆ISという15人グループをデビューさせたことはオーディションの一つの転機となった。

惜しいところまで勝ち抜いてデビューを掴めなかった人たち、ダンスの実力はあるものの・・・という人たちを一つの大所帯のグループとしてデビューさせることにしたのだ。

L☆IS『Running On』



プロデューサーは久保こーじが務め、デビュー曲は小室のヒット曲をメドレーにしたものでオリコン初登場13位を獲得(当時は今と違って10位以下でも5万枚超えが珍しくない時代)、グループとしても個々としてもそれなりの人気を得ていたものの、デビュー後わずか2カ月で解散。

久保氏によれば元々1曲と決まっていたという話だったが、グループとしての統一性のなさ、悪く言えば勝手が過ぎ見放されたという噂もあった。

現にメンバーの二人は某男性グループアイドル二人との写真を報じられており、全員がそうというわけではないのだろうが、グループ内でロリータチーム、アダルトチーム、ダンスチームとはっきりと分けてしまっていたことも方向性の不一致に拍車をかけていたかもしれない。

しかしこのソロデビューの座を掴めなかった人たちに一つの可能性を感じさせたことは後のこの番組にとって重要なファクターとなっていく。


L☆ISの後には「レコード会社争奪オーディション」で12社からの指名を受けた亜波根綾乃がデビューした。彼女は沖縄タレントアカデミー出身で、同時期に所属していた仲間由紀恵以上の逸材と呼ぶ声もあったほどだった。

亜波根綾乃『ひこうき雲の空の下』CM


この「レコード会社争奪オーディション」ではデビュー予備軍・AISが結成される。
AISはそれまでのオーディションでの有力者を小室プロデュースでは無理なので他のレコード会社に選んでもらってデビューしてもらおうというものだった。

そして華原朋美の再来と言われた佐々木祐子や、後にshelaとしてスマッシュヒットを飛ばす大泉めぐみ、太陽とシスコムーンのオーディションにも参加しハロー!プロジェクトの番組にも出演していた小林優美などがソロデビューの栄冠をつかみ取っている。

佐々木ゆう子『恋はセシボン』


このAISに所属していたもののレコード会社からのデビューに至らなかった田口理恵、AISに所属していたものの学校の都合でオーディションを受けなかった片桐華子・そしてオーディションをスタジオ観覧に来ていた女子高生・大櫛江里加の3名で結成したのがSay a Little Prayerである。

彼女たちはインディーズCDを1店舗10日間で1万枚売ったらレコード会社と契約できるという企画に挑み、見事わずか2日間で1万枚の手売りを果たしメジャーデビューに至った。

LUNA SEAの河村隆一のプロデュースを受け、良曲にも恵まれたが1999年に解散している。

ちなみにAISの一部メンバーたちの交流は後々まで続き、時に食事したり、結婚を祝ったりする姿がブログ等で確認できる。

また1996年当時の小室オーディションには後にモーニング娘。のメンバーとなる石黒彩・飯田圭織・市井紗耶香らも参加していたが、デビューに至らず落選している。


これに並行して1996年秋から6カ月に亘ってavexのMAX松浦がプロデュースする「乱発オーディション」も開催。YURIMARIらを輩出し、後にmoveを結成するyuriや瀬戸カトリーヌらも参加していたが、こちらは大きなムーブメントとはならなかった。

これらの経過から『ASAYAN』の作りはオーディションの結果そのものよりも、オーディションを勝ち抜いていく過程を面白く見せる方向にシフトしていったように思う。

多人数を見せておき、グランプリや落選者と共に視聴者が一喜一憂する。
放送初期と比べ参加者への視聴者の思い入れが強くなったのは間違いない。
オーディションとしての番組が始まって約1年半、作りとしてもちょうど円熟期を迎えていたように思う。

そしてSay a Little PrayerがCD手売り企画に挑み始めた最中の1997年4月、『ASAYAN』を伝説の番組へと変えるオーディションが始まるのである。


Say a Little Prayer『a day』1998

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