Submarine Dog

カテゴリ: モーニング娘。(旧)

昨日Leolaさんの富士・朝霧高原のふもとっぱらのキャンプ動画で歌っていた『上を向いて歩こう』で思い出したことが一つ。

ちょっと昔のオタク話をしよう。



デビューする前のモーニング娘。、CD5万枚の手売りの試練を課された曲『愛の種』。
この曲のプロモーションビデオが撮影されたのが26年前の1997年10月で、撮影場所は明かされていないが静岡県の朝霧高原と判明している。

PVに富士山は映っていない。天気のせいだったのかもしれないが、わざと映さなかったような気もしている。メンバーだけが知っている富士山の姿と、まだデビューすらしていない海とも山ともつかぬメンバーたちを見る視聴者。

富士山を見て、「好きな空」を目指すのはメンバーたちだけが心に秘めればいいことだったのではないかと感傷的に思っている。

このPVの撮影時、服は各自の私服。
メイクさんもおらず、年少メンバーたち3人の化粧を中澤・石黒の年長コンビが手伝って挙げたという逸話が残っている。

本当に何もないゼロからのスタート。
アイドルを目指していたわけでもなかったし、大所帯グループをやるつもりもなかった。

ただただロックボーカリストオーディションという名の元に集まり、そして落選した5人。

ここが出発点。
今でこそ大所帯のアイドルグループ集団「ハロプロ」の中のモーニング娘。だが、かつての熱狂の時代の幕開け。
日本中を熱狂させた一つの物語の始まり。

それを思い出して、あの時に立ち上げに関わった夏先生、笠木先生も偲び盃を傾ける。

あの時代が帰ってくることはない。
だからこそ大切に思い続けていこうと思う。生きている限り。


このサイトの21周年も鑑み一文を投稿する。

ここには何回も書いてきたけど、楽曲を聴くときに編曲に注目して聴くようになったのは20年前のテキストサイトをやっていた頃の隣人さんたちの影響。

具体的に言えば、モーニング娘。とハロプロ(当時はハロプロという言葉はそこまで浸透していなかったが)の作詞作曲はつんく氏が一手に担っているが、編曲者は違うので編曲者によっての違いを見出そうというのがそもそもの始まりだったりする。

まあ音楽好きな人たちが集まった中で、つんく氏の話だけじゃつまらないからちょっと違う方向から掘ってみようか、そんなことだと思う。



初期のモーニング娘。の編曲に関わっていたのは森高千里さんのバンドメンバーの面々。

森高さんは芸能事務所・アップフロントエージェンシー(1999年当時・現アップフロントワークス)所属、90年代前半に音楽シーンを席捲したが90年代後半に入ると活動としては少し落ち着いていた。

モーニング娘。は1997年のテレビ東京『ASAYAN』のロックボーカリストオーディションを経て結成、アップフロントに所属することになる。

こうした経緯から森高さんの制作チームがモーニング娘。の制作に回ったと考えるのが構図としては分かりやすい。

つんく氏がまだ楽曲量産体制を整える前の話でDTMに不慣れだったことも理由の一つだろう。結果、当時のモーニング娘。楽曲には森高バンドの面々の生音が入ることとなった。

モーニング娘。とハロプロ初期の楽曲に多く携わった前嶋康明氏、高橋諭一氏、河野伸氏は皆森高制作チームの一員だ。
このメンバーに小西貴雄氏、鈴木俊介氏を加えると最初期の頃の楽曲はほぼほぼカバーできる。(何曲か例外はあるけれど))



前嶋康明氏
オルケスタ・デ・ラ・ルスのオリジナルメンバー。
森高千里バンドのキーボーディストでバンマスを務めていた。

主な編曲
モーニング娘。『サマーナイトタウン』『抱いてHOLD ON ME!』『Memory 青春の光』『Good Morning』『さみしい日』『おねがいネイル』『NIGHT OF TOKYO CITY』
山下智久『抱いてセニョリータ』
つりビット『バニラな空』『踊ろよ、フィッシュ』

初期のモーニング娘。ヒット曲を手がけた前嶋さん(2nd、3rd、4th)。イントロの名手で明るい曲でもどこか切ないようなポイントがあると思う。編曲の領域がどこまでか分からないが、コーラスの入れ方は前嶋さん担当曲だと本当に綺麗。

『NIGHT OF TOKYO CITY』(動画はOBのドリームモーニング娘。)


『さみしい日』(1999.4.18)

この時のキーボード弾いてるのは前嶋さんなのかな?(もう記憶定かならず)



高橋諭一氏
村下孝蔵氏のバックコーラスに始まり、森高千里バンドのギタリスト。アップフロントのライブのギタリストと言ったらこの方。森高さんの活動再開後はバンマスに。

どちらかといえばオーソドックスで目立たない編曲を手がける高橋さん。これはもちろん誉め言葉であって、ベーシックな部分を担えるのが高橋さん編曲だと思う。


主な編曲
モーニング娘。『A MEMORY OF SUMMER '98』『どうにかして土曜日』『ウソつきあんた』『せんこう花火』『シャボン玉』
カントリー娘。多数
より子。『ほんとはね。』(より子。との共編曲)
ソニン『ジグソーパズル』

『せんこう花火』




河野伸氏
キーボーディスト、森高千里バンドのメンバー。
その後、中島美嘉バンドのバンマスを長く務める。
アンジェラ・アキ、Crystal Kay、RIP SLYME、m-flo、坂本真綾らジャンルに関わらず数々のアーティストの編曲を担当。

R&Bに始まり、流れるようなピアノアレンジとストリングスアレンジが特徴。テレビドラマのBGM作曲者としても引っ張りだこに。


主な編曲
モーニング娘。『真夏の光線』『乙女の心理学』
モーニング娘。20th『タネはツバサ』
タンポポ『Motto』
黄色5『黄色いお空でBOOM BOOM BOOM』
太陽とシスコムーン『宇宙でLaTaTa』
ZYX『行くZYX! FLY HIGH』
テレビドラマサウンドトラック『世界の中心で、愛をさけぶ』『おっさんずラブ』(作・編曲)


タンポポ『Motto』



中島美嘉 - 雪の華 / THE FIRST TAKE

ピアノを弾いているのが河野さん


朔と亜紀 (ドラマ「世界の中心で愛を叫ぶ」サウンドトラック)




鈴木俊介氏
ギタリスト。初期からずっと現在もなおハロプロ楽曲の編曲に携わる。

アレンジはロック、ジャズ、ファンク寄り。なんと言ってもカッコいいギターフレーズが耳に残る。ベースラインを効かせた曲も多く、自分が編曲を気にするようになったのはこの方の存在が大きい。

主な編曲
モーニング娘。『好きで×5』『ダディドゥデドダディ!』『21世紀』『インスピレーション!』『でっかい宇宙に愛がある』『浪漫 〜MY DEAR BOY〜』
『泡沫サタデーナイト!』
モーニング娘。おとめ組『愛の園 〜Touch My Heart!〜』
安倍なつみ『トウモロコシと空と風』
タンポポ『わかってないじゃない』
COLOR『Stay with me』
樋井明日香『たったひとりの君』


モーニング娘。『ダディドゥデドダディ!』



モーニング娘。『インスピレーション!』



タンポポ『わかってないじゃない』(石黒ソロ)





小西貴雄氏。
キーボーディスト。
中西圭三氏との作曲活動を経てアレンジャーとして活躍。

小西さんは明るい曲、ロック寄りの曲、バラード、おちゃらけた曲、なんでもこなす万能アレンジャー。
『ふるさと』と『ミニモニ。ジャンケンぴょん!』と『ロマンスの神様』と『Woman』がまさか同じ編曲者だとは思わないよな…


主な編曲
モーニング娘。『Never Forget』『ふるさと』『忘れらんない』『愛車 ローンで』『Say Yeah! -もっとミラクルナイト-』『愛あらばIT'S ALL RIGHT』
タンポポ『ラストキッス』『愛の唄』『たんぽぽ (Single Version)』『ONE STEP』『聖なる鐘がひびく夜』
太陽とシスコムーン『月と太陽』
中澤裕子『悔し涙 ぽろり』
プッチモニ『BABY! 恋にKNOCK OUT!』
ミニモニ。『ミニモニ。ジャンケンぴょん!』『ミニモニ。テレフォン! リンリンリン』
松浦亜弥『100回のKISS』
Berryz工房『21時までのシンデレラ』
EE JUMP『おっととっと夏だぜ!』
中西圭三『Woman』(遠山淳と共編曲)
広瀬香美『ロマンスの神様』
ブラックビスケッツ『Timing』


タンポポ『ONE STEP』




この初期のアレンジャーたちの体制に変革をもたらしたのが1999年夏のダンス☆マンの登場だ。
『LOVEマシーン』『恋のダンスサイト』『八ッピーサマーウェディング』『恋愛レボリューション21』『ザ☆ピ〜ス!』と立て続けにヒット曲の編曲を担当。
基本はファンクミュージックながらもお祭りソング的な色は強くなり、結果として初期アレンジャーたちは徐々に離れ、モーニング娘。の音楽性も初期とはまったく違う路線に変わっていった。

モーニング娘。『LOVEマシーン』


モーニング娘。『DANCEするのだ!』(ダンス☆マン編曲)

この曲もベースラインかっこいいよね。


2000年代に入り、つんく氏の楽曲量産体制が整ったこと、ヒット曲の連発により初期投資の回収が終わったこと、『ASAYAN』の番組制作体制が変わり関係性が薄くなったこと、そしてこの初期編曲者たちが離れたこと(ダンス☆マンも離れるんだけどね)、色んな事が重なっていって2002年夏のハロマゲドンに繋がっていくのだと思うが、またそれは別の話…

例えばこの曲の路線が続いていたら。

まだ声は幼いし、ボーカルとしてもまだ未完成だけど、
レコーディングに時間かけて、トラックダウンも時間かけて、
って続けていたらまた違う世界があったのかもしれないな。

1998年夏。




4分曲でイントロ20秒、アウトロに30秒以上、間奏にも15秒使ってる、この曲。
まあ娘。初期の編曲はおかしいのが多いので(良い意味でねw)、この曲に限った話ではないが…

改めて聴くと、間奏の楽器構成どうなってるんだろうなあ。
縦笛っぽいけど電子音っぽいところもあるし…どなたか分かる方いたら教えてください。

今日数年ぶりにこのサイトに自分でスマホからアクセスしてみて、「こんな風に見えていたのか!」と驚いた。
拍手ボタンとか、更新があったらLINEから通知とか、そんな機能付いてたのね。

ちなみにこのサイト、初期の頃はこのライブドアのブログは使っていなくて、コメントは掲示板をレンタルして使っていたので、その頃のコメントは失ってしまっている。初期のアクセスの多かった頃のテキストにコメントがないのはそれが理由。

掲示板でも話を展開していたから取っておきたかったんだけど、サービス終了でどうしようもなかったからなあ。テキストそのものは移管できたので2回ほど別レンタルに移籍している。

--------------------

さてさて。

『抱いてHOLD ON ME!』




を見ていたら『Memory 青春の光』も見たくなって。



この動画のコメント欄見ていたらなんだか泣けてきた。

当時はあまり評価されなかったこの曲が20年以上の時を経て評価されているのを見て。

今見ても思うよ、彼女たちが成長してさらに実力をつけてこの歌を歌ったらどうなったんだろうって。

もし『LOVEマシーン』で完全なアイドル路線にシフトしなかったら、増員しないで解散の道を選んで、ときたま集まるグループになっていたら、そんなことを考えるけど、今の世界こそが収まるところに収まった形でもあると思うので・・・

まあでも思い出すんだよね、この曲が完成してはしゃぎまくって新年会で仲間芸人に自慢しまくったつんく氏のエピソードとか、安倍さん(なっち)がずっとこの曲を好きで『LOVEマシーン』以降の世界線になってもこの時のコンサートが好きと言っていたことや、そんなことをね。

自分も「アイドル的な」という括りで言えば、この曲より好きな曲はないな。
楽曲そのものの完成度(何しろこの曲だけ向こうのバックミュージシャン使ってニューヨークでトラックダウンしたりしている)、メンバーの思い入れ、そして最後の生バンドライブ、いろんな感情が重なってこの曲への思いを作っている。

あれから20年経っても1999年に発売された
モーニング娘。『セカンドモーニング』
タンポポ『TANPOPO 1』
太陽とシスコムーン『Taiyo & Ciscomoon 1』
の3作品は色褪せない名盤だね。
この年のつんく氏は本当に凄かった・・・


今回は思いっきり主観で楽曲の思い出話でした。また。

前回から続いて。


第一は福田さんの帰りを待っていたからなんだろうな。
いつか『Memory青春の光』の頃の8人で歌う日を。
ずっとそれを夢見ていたから。

他にも待っていた方もいたし、一応初期8人に特化して書いてる点では界隈の中ではそれなりに自負もあったので閉めるわけにはいかないなという思いもあった。

それは現状にも近いものがあるかもしれない。
おそらくこのブログを閉じると失われる情報はかなりあると思っている。
断片的に拾っていけるかもしれないけど、まとめてあるのはほとんどない。
そしてそれらを今さら繋げていく作業はもう出来ない。
当時徹底的に得られる情報拾ってまとめ上げたが、それはもう無理な話だと思う。

ま、失われたところで大したことないよと言われればそうなのだが、歴史修正主義宜しくあの頃の歴史を今に都合の良い様に使われるのは許せないので資料として残しておきたい。いわば当時のままの「一次資料」なので。

表向きはこの「福田さん待ち」と「資料残し」の2点が続けた理由だろう。


じゃあ裏向きはといえば・・・

たぶん自分の中で「いけだや」という人格が息抜きになっていったのだと思う。
自分はオタバレしないで一般生活を送っていたので、思ったことを書ける「いけだや」という存在が自分の中で楽だった。
例えば先に挙げた資料整理的なことは興味ない人にはまったく理解されないこと。しかし「いけだや」としてはそれを必要とする人に出会える。

無であるものが無でなくなる喜び。心の内はそういうことなんだろうなと。


それから、長年書き続けたことで、だいたいの性格・思考・嗜好を前提として理解してもらえている「いけだや」を消す勇気が自分にはなかったな。
名前を変えて、また一からというのは面倒でもあった。

それがこのブログと「いけだや」を続けた裏の理由だと思う。

まあ、まさかさ、『ASAYAN』のシャ乱Qロックボーカリストオーディション(モーニング娘。オリジナルメンバー5人を輩出したオーディションね)の最終予選の寺合宿の近所にあったお団子屋さんの名前で20年も続けるとは思わなかったけどね 笑

最初は本当に書き捨てのつもりでこの名前使ったから、まさかこんな付き合いになるとはね。

近年だとライブ行く時でもこの名前を使っているので、もう今さら変えられないだろうな。もはや屋号みたいなもの。
何かお店でもやりますか 笑

このサイトを開いてから20年。
更新もめっきりしなくなりました。
なんとか細々と生きております、いけだやです。

コメントも久しぶりにカキコがあって、ちょっと書く気が盛り上がりました。
過去の様にシリーズものとはいかないと思いますが、せっかくですから何でもいいから今月は書いておこうかと思います。

----

改めて自己紹介っぽいもの。

このサイトはモーニング娘。のテキストサイトの生き残り。
界隈の端っこで細々とやっていて、回りがどんどんいなくなり結果として残ってしまった、そんな場所。

始めた頃のモーニング娘。テキストサイトの界隈は、サブカルに強く、あちこちから猛者が集い、清濁併せ持ち、時には大きなうねりを、時には荒れたり、今となって振り返ってみればとても面白い世界だったと思う。

テキスト界隈+巨大掲示板+大手サイト+ASAYAN掲示板+個人ファンサイト
この5つに多くの人が集まり、モーニング娘。以外の話も夜な夜な繰り広げられていた。2002年前後の話*1

自分も巨大掲示板の方から流れて他で書いたり、とある物語を数本書いたり、そんな中でのこのサイトの開設だった。

当時は「ブログ」という言葉もなかった。
ただ単に「日記」とかテキストとか、そんなんだったんじゃないかな。

そもそもがSNSという概念もなくて、ブログという提供ツールもなくて、自分でサイトを組み上げて、今よりも投稿のハードルが格段に高かった。そこを超えてもやりたい人たちが集まっていたのだから、そりゃ面白いはずだよなと。

当時からウチは懐古厨扱いだった(笑)
『LOVEマシーン』以降の黄金期ブームに乗らず、それ以前の『Memory青春の光』を始めとしたコーラス重視の音楽を求めていたので、そりゃ煙たく感じる人も多かったと思う。

まあでもはっきりと音楽的な好みは出していたので、所謂アイドル本位というよりは楽曲本位の方たちとの交流は楽しかったな。
楽曲の見方はこの頃に培われたといってもいいくらい。編曲に注目して見るようになったのは間違いなくこの頃の影響。

数年経った頃にはどこかで「楽曲派」というレッテルを貼られることにもなった(笑)
今では「楽曲派」がどういう扱いになっているのか分からないが、当時はマイナスなイメージも強かった。

そりゃモーニング娘。を全肯定で応援している人たちにとってみれば、気に入らない楽曲だと「ああだこうだ」言っているのはイチャモンつけているようにしか感じないだろうなと。

えぇ、当時の方々スミマセン。
あの頃はけっこう好き放題言わせていただきました(笑)

安倍なつみさんが卒業する2004年くらいが自分の更新意欲的にもアクセス数的にもピークだったのかな。
安倍さん卒業前後くらいはカウンターが1万/日くらい動いててちょっと怖かったことを覚えている。いやいやウチは端っこですからって。これで有名どころだったらどれくらい動いてたのよ。

マザーシップと言われた安倍さんが抜けて、彼女をなんとなく物語の中心として見ていた*2自分も少し燃え尽きたのかな。
好きだったサイトの方もどんどん更新休止されてね、最初の頃の楽しさというのは正直失いつつあったと思う。

でも自分は辞めなかったんだよな、なんでだか分からないけど。



それを考えつつ、長くなったのでこのまま次回へ続ける・・・

マジで取って出し更新なので(笑)


-----------------
*1 2001年くらいから2005年くらいが盛り上がりの中心ですかね?
*2 福田さんが抜けた後のね。

モーニング娘。20周年案件が増えてきたここ最近。

忘れかけているエピソード、いや今となっては遥か昔のエピソードを一つ。


<敬称略>

20年前の1998年2月1日、モーニング娘。の5人は横浜アリーナでメジャーデビューシングル『モーニングコーヒー』の発売イベントを行った。

前年のASAYANでのオーディション、合宿と最終選考そして落選、さらに落選組の再召集と『愛の種』の手売り5万枚の試練と完売、それらを経ての満を持してのデビューだった。

『愛の種』の手売り時に4会場目で5万枚の完売が達成されたため5会場目に予定されていた東京でのイベントは中止、そのため『モーニングコーヒー』でのイベントでは大きい会場でやろうとなった。

手売り時には各地方ごとに1万人を超える人が集まっていたため当然東京でのイベントは1万人を遥かに超える人数を想像していた。

が、実際には集まった人数は6000人(一説には3000人)、会場の規模と比べると明らかに見合わない集客状況だった。

この日のことを当時のマネージャー・和田薫(以下和田マネ)がラジオで話している

----
2001年4月14日(土)
「和田薫のLF+Rプロデューサーズタイム」

モーニング娘。のデビューイベントって横浜アリーナでやってるのよ。で、これがね、ずーっと「ASAYAN」で追っかけて、モーニングが「愛の種」を買ってくれる人に対して握手会をやるというので、毎回1万人以上の人が集まってきてて、まあ要は、5万枚すぐ売っちゃって、プロデビューします。ここです。っていうことでやったのが、なにを考えたかちょっと間違えちゃって横浜アリーナを取ってたの。

俺ね、それをレコード会社から提案されたとき――「だってナゴヤ球場いっぱいになってるんですから。これやばいですよ。横浜アリーナぐらいじゃないと」って言われたとき、俺、大丈夫なのかなあとか思いながら「うん、まあ、じゃあそうしようか」って言ったんだけど、実際やったときね、横浜アリーナのアリーナしか埋まらなかったのよ。

でも当の本人達は、それまでもずーっと「ASAYAN」でやってきてたから、「横浜アリーナ満杯だあ!」ぐらいの気持ちで来てるわけよ。で、来たら横浜アリーナの、ほんとのアリーナのね、1階だけ――それも半分ぐらいしか埋まってなかったのよ。スタンドはおろか。
で、俺、来るときも一緒の車で行ってたから、本人達はもう、なんかウキウキで来てるわけよ。それでちょっと調子に乗ってんなあ、なんて思いながら。

で、1回目が終わって「あれ? いつもと違う」みたいな感じになってんのよ。「あれ? なんでこんなに少ないのかなあ」みたいな感じになってて。
で、そのあとやったら、次は100人ぐらいになっちゃったの。で、そのあと係の人間が「次30人ぐらいしかいませんよ。どうします?」「あ、やってやって」って。で、そのあと、最後――5人。

横浜アリーナだよ? 1万人以上入るんだけど。目の前に――最前列に5人だよ、5人。と、メンバー。メンバーとタイ。
それでね、ちょっとみんな、へらへらって――「あれ? なんでこんなんでやるの?」みたいな感じになったのよ。旧メンバーが――旧メンバーっていうか元々いる5人が。
で、俺、終わったあとに、すごい言ったのね。「今日お前らは、ここ満員になると思ってただろ。そんな甘かねえよ。テレビがずっと追っかけてたから満員だったんだ。そうじゃなくて満員になるわけないだろう」と。

「5人の前で歌ったの悔しかったか」「悔しかったです」「でもな、5人のお客さんに、いかに届けれるかだぞ。お前らその時に、どんだけ必死にやったんだ」っていう話をしてて――まあそれは意外と必死にやってたんだけど。5人の前でも。
で、横浜アリーナを出るとき――車に乗ってたんだけど――5人にね、横浜アリーナに「覚えとけ」って言えと。いつかここを金取って満員にしてやるからって。「覚えてろ、横浜アリーナ!」って言いながら、みんなで出てったのよ。

----

そして、その後のモーニング娘。はご存知の通り大ブレイクしミリオンヒットも生まれ、テレビでは見かけない日がないほどの人気者となっていく

あの日の横浜アリーナから3年が経った2001年4月8日、モーニング娘。はついに横浜アリーナでコンサートをやることになった。奇しくもこの日は和田マネの誕生日で、当時モーニング娘。に在籍していたオリジナルメンバーの中澤裕子・飯田圭織・安倍なつみの3人はそれぞれおめでとうメールを和田マネに送っていた(和田マネは2000年春にマネージャーを離れている)。

再び同ラジオから抜粋

----

こんなおハガキが来ております。

「和田さん、こんばんは。突然ですが、誕生日おめでとうございました。もうすぐ36ですね」

「誕生日おめでとうございました」で「もうすぐ36ですね」――これちょっと違うんだけど。36歳になったんだから。
でね、この前4月8日が僕、誕生日で、結構誕生日はいろんな人に祝ってもらったりとかしてて楽しかったんだけど、この日ね、俺、結構感動したのよ。
それはね、自分の誕生日を感動したわけじゃないのよ。そんなことをラジオで――公共の電波でしゃべるほど偉くないからあれなんだけど。

この日ね、モーニング娘。から結構メールが届いてたのね、朝から。
例えば生歌うたってくれて、メッセージを留守電に残してきてくれる子から、メールで、なんかいっぱい音楽が付いたメールが来たりとか、いろんな、それぞれのキャラクターに合わしたメールが来てたんだけど。

その日4月8日、モーニング娘。って横浜アリーナでコンサートやってたの。でね、もう1回またメールが来るのね、なぜか。
それがね、3人からだけ来たのね。この3人ていうのは、元々モーニングにいた3人なのよ。

「昨日今日、横浜アリーナ4回公演、全て満員でした」っていう――書き方はみんな少しずつ違うんだよ、1人ずつ――中澤、飯田、安倍。

例えば「和田さんとの約束を果たしました」っていう人もいたし、「和田さんがあの時言ったことがすごく悔しかった。悔しかったというか、ほんとに横浜アリーナ覚えてろよ、と思った、その気持ちがあったから今日のライブは最高でした」っていうやつもいたし、「ハッピーでした! 横浜アリーナ、とうとう2days4公演満杯! やりましたよ、和田さん!」みたいな、それぞれのメールが入ってたのね。それが、すっごいうれしくて。
で、そのあと別のスタッフから「お誕生日おめでとうございます」っていうメールが来たときに、「今日の横浜アリーナのモーニング、今までの中で最高でした」って来たのよ。これを聞いて、俺すっごい、あ〜……と思って。

ま、その時は――俺なんかもう忘れてたからね、それ。メール来るまで。メール来て「あぁあぁ、そういえば言ったなあ」ぐらいの気持ちだったんだけど、俺がね、「『覚えてろよ、横浜アリーナ』――そういう気持ちで来いよ。お前ら今まで調子に乗りすぎてんだよ。そんな芸能界甘くないよ」っていうのを言ったあとに――みんなだって、楽屋で泣いてたのよ、その子達。その頃――モーニングがね、終わったあと、くしゅくしゅくしゅくしゅ、5人の前で歌わされて、みたいなさ、どうなんだろう、みたいな感じだったときに、車で横浜アリーナの駐車場を出るときに言ったのがね、すっごい自分の中で思い出して、あ〜、なんかたまには俺もいいこと言うんだなあ、なんて思って。
俺なんかもう、誕生日で全然――友達集めてメシ食ってたからね、休みで。行けよ! お前も横浜アリーナ! みたいな。

でも俺はね、一応、明日――中澤卒業するのよ。これはね、最後大阪まで行きますから、ちゃんと。大阪に行って、最後のその、中澤の卒業を、ひとつ見届けたいな、というふうに思っております。
----

中澤はこのツアーで卒業することが決まっていた。
そしてこの横浜アリーナには石黒彩も訪れていた。

ツアーファイナルである翌週の中澤の地元の大阪公演(大阪城ホール)には和田マネに連れられた福田明日香も訪れている。

そう中澤はデビュー当初の雪辱を果たし、最高の形で卒業していったのだった。

中澤はこう書き残している。

----
4月7・8日の横浜アリーナのコンサート。
「1998年2月1日にリベンジを誓った場所。
 “モーニング娘。のコンサートでここを超満員にしてやる”
 自分のラストツアーで横浜アリーナが組まれるなんて、もうどこまでもラッキー。単独コンサートでは初めてだった横浜アリーナ。モーニング娘。ってこんなに大きくなってたんだ……。
 『私、本当にもう思い残すことないな』
 自分が実現させたいと思ったことはすべて現実となった。
 あんた、最高の人生やな。もう、ええやろ。十分やろ」
                (中澤裕子『ずっと後ろから見てきた』より)
----

この日からさらに3年が経った2004年の1月25日、今度は安倍なつみが横浜アリーナで卒業公演を行っていた。モーニング娘。の顔、マザーシップと言われた安倍なつみの卒業コンサートがモーニング娘。の単独コンサートでなくハロプロの合同コンサートであることに疑問はあったが、自分はこれが「横浜アリーナ」という会場としての都合が少なからずあったと思っている。

最終卒業公演、ラストで語りかけた飯田から安倍への言葉。

「覚えてる?
 デビューするときにさ…『ビッグなアーティストになろうね』って…
 横浜アリーナを満杯にできるくらいのビッグなアーティストになろうね』って…
 ねえ、見て、横浜アリーナ…いっぱいだよ」

涙を流して語りかけた飯田と、大きくうなずき涙をこぼす安倍。

二人の涙と思いに会場中も涙した。

今でも思い出すとウルっとくる。6年間の横浜アリーナにまつわる物語。
そして翌年には飯田も横浜アリーナで卒業した。

あれからも10年以上の時が経っているとは信じがたいものの、自分の中ではとっても大切にしているエピソード。



皆さん覚えていますか?

あ、中澤さん卒業時の特番『BS中澤SP』で保田さんが中澤さんに渡したプレゼントの写真、あれを見て中澤さんは泣いてしまったのですが、あの写真の中の1枚もデビューイベント時の横浜アリーナでの5人が映った写真でしたね。

このページのトップヘ