Submarine Dog

カテゴリ: 石黒彩

いつか来た道


<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選


    < 5 >                (敬称略)


1997年6月21日。
札幌予選。
ロックボーカリストオーディションではこれが最後の地方予選となる。

ASAYANのオンエアではすでに福岡予選の最終選考進出者が決まっており、東京予選でもスタジオ審査が終わり福田明日香や兜森雅代といった個性派に次の審査への発注がかかっている段階でのオーディションとなった。

後日談では最もレベルの高かった札幌予選と言われているが、それはここまでの途中経過をASAYANで見ても怖気づかなかった人、自信のある人、そして強い意志を持った人が集まっていたからかもしれない。

札幌の中島児童会館に集まった参加者は約1000人。
その中に石黒彩・飯田圭織・安倍なつみの後のモーニング娘。となる3人の姿があった。

石黒は前年の小室オーディションに次いで2回目のASAYANオーディション参加。4月から服飾の短大に進学し、また短大に近くなるということもあり家族ぐるみで引っ越したばかりだった。

高校時代にビジュアル系が好きでハードなバンドでならした石黒にとって「ロックボーカリストオーディション」に参加することはごく自然な成り行きだった。

バンド時代はLUNA SEAやL'Arc〜en〜Cielのカバーをよくやっていた石黒。
歌審査では当時ASAYANオーディション参加者がよく歌っていたRie ScrAmble『文句があるなら来なさい!』を選んだ。アイドル的なアプローチはまったくせず、細い眉毛で眉間にしわを寄せ黒づくめのスタイル、鼻ピアスも付け完全なロック姉ちゃんだった。

この時に審査を担当していたスタッフは前年スタジオ審査にまで進んだ石黒のことを覚えており、7キロも減量した石黒を見て驚いている。ロックなテイストとビジュアル、そしてステージ慣れ、石黒は文句なしの東京スタジオ審査進出を決めた。





ちなみにRie ScrAmbleこと藤原理恵はバブル期に一世を風靡した元C.C.ガールズのメンバーで『ASAYAN』のゲストアーティストとしても時々呼ばれていたが、その後番組の演出家・タカハタ秀太と結婚する。


この日のオーディションに友達と参加していたのが飯田圭織。
飯田は前日からその友人の家に泊まりこんでこの会場にやってくる。しかしその友人宅で喋り明かしてしまいほとんど眠ることなくオーディション当日を迎えてしまっていた。

みっちり練習を積んで夜はぐっすり寝てオーディションに参加した福田とは対照的だが、当時は多くの女子中高生が飯田のように芸能界に憧れ、友達と一緒になってオーディションに参加していた。普段その辺にいる普通の女の子が夢を見ることのできる、ASAYANとはそんなオーディション番組だった。

目が腫れぼったいままの飯田だったが、83人しか進めなかった歌審査には見事残った。オーディション会場に来ていた和田マネからは「整形したのか?」と失礼な質問をされるが、飯田はSPEEDの『STEADY』を披露しASAYAN3度目の挑戦にして初めて東京スタジオ審査に進むこととなる。





そして飯田はこの時の歌審査の会場だったアートプラザホテルで順番を待っているときに隣に座っている子と運命的な出会いをする。

隣にいる純朴そうな小さな女の子。「きっとこの子は勝ち進むんだろうなあ…」「今友達になっておけば芸能人と友達になれるかもしれない」そんな些細な気持ちがきっかけで話しかけた。

それは
「どっから来たの?」
「室蘭」
「私の婆ちゃん家が室蘭だよ」
と他愛もない会話から始まった関係。

そう、隣にいたのは安倍なつみ。
時には大喧嘩をし、時には泣き合い抱き合って、6年半にも渡って苦楽を共にしていく、その二人の出会いだった。

後に二人は知ることになるのだが、まさかこの時は室蘭の同じ病院で生まれていたとは思いもよらなかっただろう。

仲が良い悪いだけでは語り切れない二人の数奇な運命。
生まれた時に会って以来、約16年ぶりの再会を二人は果たしたのだった。

(飯田は1981年8月8日生まれ、安倍は1981年8月10日生まれ。同じ病院で生まれたので、すでにこの時二人は出会っていたと言われている。)


1996年5月11日、『ASAYAN』コムロギャルソンの札幌オーディションに石黒彩が参加。SUPER MONKEY'S 4『DANCING JUNK』を歌い予選を突破、東京のスタジオ審査に進む。


今から20年前の出来事。
『ASAYAN』発のモーニング娘。というグループはまだ影も形も見えず、オーディションに参加した多くの女性が「歌手」という夢を漠然と追っていた時代。石黒さんはまだ地元でベースを弾いてライブハウスに出入りしていた。

石黒さんがオーディションで歌ったSUPER MONKEY'S 4*1というグループはご存知の方も多いと思うが安室奈美恵さんが元々所属していたグループで、メンバー全員が沖縄アクターズスクール出身。安室さんは前年のスマッシュヒット連発、そして96年の立て続けのミリオンヒットによりアムラー旋風を巻き起こしていた。

『ASAYAN』は安室さんの楽曲プロデュースをしていた小室哲哉氏がオーディションの監修をし、そして安室さんのレコード会社だったavex(ひいては代表のMAX松浦氏)がスポンサーにについていたため、彼女に憧れた多くの同世代の女子たちがオーディションを受けていた。*2

その頃はアイドル氷河期と言われる時代が終わった時期であり、また音楽シーンではGIRL POPが隆盛を極めていたこともあって、「アイドルになりたい」「シンガーソングライターになりたい」という目的はあまりハッキリとはせず、「華やかな世界で歌を歌いたい」というような子が多かったのではないかと思う。

ビジュアル系・ロックテイストが好きだった石黒さんが、アイドルっぽい曲でオーディションを受けることに違和感を感じない、そんな曖昧さをすべて飲みこんでしまうだけの活気も当時の音楽業界にはあったのではないかと思う。*3

ちなみにCDが最も売れたのは1998年*4。初回盤もタイプ別もなく、一人が1枚だけCDを買うことがほとんどの時代にこれだけ売れたということは、現代のミリオンとは認知度とその拡がりにおいて大きく意味が違うことは認識した方がいいだろう。


20年前とはそんな時代。

来年に向けたさわりとして、ちょっとだけ前時代を振り返ってみた。



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*1 グループの変遷は以下の通り
SUPER MONKEY'S<安室奈美恵・牧野アンナ・澤岻奈々子・天久美奈子・新垣寿子>
SUPER MONKEY'S 4<安室奈美恵・澤岻奈々子・天久美奈子・新垣寿子>
安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S<安室奈美恵・澤岻奈々子・天久美奈子・松田律子・宮内玲奈>
牧野アンナは脱退後沖縄アクターズスクールのチーフインストラクターへ転身、後にAKBグループの振り付けやダンスレッスンも担当するようになる。
新垣寿子はやはり沖縄アクターズスクールに帰還、後にスクールを立ち上げ牧野と共にAKBグループの振り付けを担当するようになる。
澤岻奈々子・天久美奈子・松田律子・宮内玲奈の4人はMAXを結成。

*2 96年の7月7日には飯田圭織が『ASAYAN』の小室オーディションの札幌予選に参加。やはり安室奈美恵の『Body Feels EXIT』を歌っている。「小室さんの彼女にして下さい」という迷言を残した。
*3 何しろ石黒さんは鼻ピアスだしね!
*4 1994〜1999年が日本でCDが爆発的に売れた時代と言われている(NHK・Eテレ『亀田音楽専門学校シーズン3』より)。

ここのところずっとロケ地の検証を続けているのだけど・・・

初期のモーニング娘。関係のプロモーションビデオでロケ地が判明していないものがいくつか残っていた。

『愛の種』草原部については数年前にあおさんが発見してくれたので解決。
『モーニングコーヒー』『抱いてHOLD ON ME!』『ふるさと』『たんぽぽ』については概ね判明済み。細かいところまで追うときりないけど、印象的なシーンはほとんど解決しているはず。

『サマーナイトタウン』の沖縄、『真夏の光線』のグアム、『Motto』のサンフランシスコについては検証&確認作業が困難なこともあり、半ば放棄。
『Memory 青春の光』についてはニューヨーク説と日本説があり、映像にも判断材料が少ないので(唯一、倉庫からシャッターが開いているシーンのみ)、これもまた深く探ってはいない。

で、残った一曲。
撮影した場所は分かっているのに、その細かいところまで特定できていなかった曲。

国内で撮影したのにね。
しかも軽井沢。

さっきPV見ていて、気になる部分を調べたら・・・
分かっちゃったんですよ(笑


『ラストキッス』



この洋館がどこかってことが問題だったわけで、まあ軽井沢って土地柄から、「洋館」って情報だけじゃ見つからないと今まで思っていたこともあり、そんなに探ってこなかった。

で、久しぶりにPV見ていたら、3分9秒のところに映っている暖炉横の赤い文様が目に付いて。もしかしたらここから探れるかもしれないと思って、軽井沢の洋館で検索かけていったら、あっさり引っかかった!

この記事見つけて、
http://aoikuruma.blog10.fc2.com/blog-entry-522.html
ラウンジの暖炉を見て「おぉ!」と思って、ほぼ確信し、
PVの1分53秒に映っている窓飾りとリンク先ブログの写真を見比べて、100%の確定を打つ!

『ラストキッス』PV撮影から12年目にしてようやく判明しましたよ。


軽井沢ロンギングハウス
http://longinghouse.jp/index.htm


現地を訪れればもしかしたら「判別は不可能」と言われていた自然の中での撮影地も分かったりするかもしれない。

PV最後の水辺は<雲場池>なのかそれとも<深沢紅子野の花美術館>近くの池か?
検索して画像を見てみると<雲場池>ではなさそうな感じ。

あぁ、すっきりした。


●小湊さん

今日は大阪で復活ライブをやっている太陽とシスコムーン。

32歳2児の母でこの写真はずるいと思います(笑
人を迷わします。いや、惑わします(笑

今日のライブはどうだったのかなぁ。
信田さんのバク宙は?


●彩っぺ

懐かしい話
1998年。1999年。

タンポポの『ラストキッス』のジャケット撮影時の話。
たぶん1998年10月の終わりくらいのこと。

撮影のために富士山の急斜面ギリギリのところに立ち、タンポポの3人でお互いに支え合わないと立っていられなかったという話が残っている。
そしてグループとしてぎこちなかった3人の意識が少し改まったという感想も。

そんなハートウォーミングなエピソード。

その裏で彩っぺ、なんてTシャツを買っているんだか(笑
たしか深夜から早朝にかけてのロケのはずだったけど、もう売店って開いてるのか?

そういえば、この前触れたASAYANとめちゃイケ学力テスト(岡女)の関係で一つ思い出した。
岡女の中で岡村先生と矢口が繰り広げるどつき合いコント。
それは『ラストキッス』でASAYANにタンポポとして出演した矢口と岡村のやり取りに始まる。
矢口が岡村を軽く叩いたら、岡村が大げさに痛がって見せたという1998年11月オンエアのASAYANから。

ちなみにその頃は姐さん・なっち・明日香がASAYANのアシスタントを持ち回りで務めてた(矢口も1回ある)。鈴木亜美となっち・明日香の3ショットもあったなあ…


で、彩っぺのブログに戻って。

画像のTシャツ。

懐かしのロゴマーク(1999年のグッズに使われていた)。

ウチのサイトにも立ち上げ時からずっと置いてあるんだけど、1999年の象徴みたいなものなので、彩っぺが触れてくれたことがすごくうれしい。

出来ればメモ青ツアーのTシャツにしてほしかったけどね(笑

思い出話から繋げて圭ちゃんの手術のことや当時の様子にも触れてくれていて、こちらもまたハートウォーミング。

今日は疲れる話はやめてちょいと休憩。

●矢口と夏川純(12)7月3日のデート(笑)

表参道という場所柄、レセプションパーティーという舞台、それは分かるんだけど矢口は目立つ格好をしすぎでないかい?(笑)

そういえば表参道といえば、ちょうど10年前に映画『モーニング刑事。』の撮影で同潤会アパートの前を駆け抜けたのだけど、矢口はそのことをちょっとでも思い出してくれたのかなぁ… 8人プラスみっちゃんで、真っ白な服着てさ…

ま、今の表参道に当時の面影はまったくないけど。


●島田珠代ブログに圭ちゃん…ではなくて彩っぺ

彩っぺがプロデュースしたママさん用のサプリを島田さんにあげたらしい
圭ちゃんだけじゃなく、彩っぺとも繋がりがあるみたい。それとも圭ちゃん経由なのかなー? 何にせよ圭ちゃんと彩っぺの関係って一時期いろんなことが言われたけど、そんなことないよーっていう明確な情報の一つになりそうですな、これ。

このサプリ、ここ最近の出産ラッシュのハロプロ周辺妊婦さんたちはみんな飲んでたりして。

●つんくと彩っぺ、久々の再会

つんくブログに彩っぺと『つんく♂TV』で共演した記事が。
彩っぺの方にもつんくとの記事

つんくは彩っぺとの共演に対して「能動的」でいるのはOKなんだな…なるほど。徐々に周りから状況を整えていかないとね。

自分としては来週か、クリスマスディナー後に、何かあるかなという期待はしている。

●『ジャンプ!○○中』に彩っぺ

特に目新しい話はないが、当時を知らない人たちにとっては刺激的な内容だったんでないのかなと。初期投資にお金がかかっていたことも、給料が安かったことも、他の芸能人と目立った交流がなかったことも、まあ当時から知られていたことなので特に驚きはない。

気になった点といえば「アイドルと付き合っていた」という質問に[YES]を出していた彩っぺだが、それは真矢とのことを言っているのかい?という疑問が。まあ真矢じゃないにせよ、当時のモーニング娘。は処女性(not現実の処女性)でとやかく言うグループではなかったので、今さらそれを聞いたところで何とも思わないが。

「アイドルに限界を感じた瞬間は?」の問いに「とくになし」と答えていたことも、彩っぺが限界を感じて辞めたわけではないことは明白なので、当然といえば当然の答えである。

それと「『ラブマ』のヒットでようやく赤字がなくなった」という話。これまた「モーニング娘。」だけを対象としている話ではない。単純に初期費用が回収出来ていればそれでいいという話ではなく(そういう考えだったら明日香の卒業に合わせたグループ解散もあり得た)、そこからさらに運用できる資金が出来て初めて赤字ではないといえる。大まかな例でいえば松浦を売り出す資金ができたことでようやく「赤字ではなくなった」のだ。それと、あの年の『ラブマ』前にデビューした太シスやカントリー、ココナッツ、三佳千夏らの初期費用がどこから出ていたのかを考えれば、『ラブマ』まで余裕がなかったことは容易に想像がつく。

ま、彩っぺの感覚から言えば全然「暴露」な話はしていないのだろうが(そもそも彩っぺが自分のことをアイドルと思っているかすら疑問)、あのくらいやってくれた方がちょっとした刺激になって良かったと思う(笑


●とある作業中…

いろいろと調べていたら、明日香が脱退の話し合いを両親と和田さんとY社長と話し合いを持ったのが98年の12月7日頃だと分かった。その後に収録したラジオ『お願いモーニングコール』の中で、明日香がなっちに対して「今まで言わなかった」話として「『抱いてHOLD ON ME!』のダンスレッスンの時に自分に自信をなくして帰りのタクシーで泣いた」と話したことって、少し気が楽になったからだったのかな、と思う。脱退が正式に決定して、ずっと我慢してきた気持ちが緩み、ふっとなっちに素が出たのかなと。

明日香が「孤独だ」って言い続けていたことにも改めてその意味の深さに気付いた。確かにあのとき抱えていたものを考えると、13歳の女の子には重すぎたんだと思う。メンバーと過ごす時間がほとんどなのに、ずっと一人で誰にも言わずに重い決断を背負っていたんだから…

なっちがそんな「孤独だ」と言う明日香を一生懸命受け止めようとしていたけど、そこには明日香が翌年まで絶対にメンバーに言えない秘密があり、それがなっちに甘えられなかった薄い壁だったのだと思う(まあ、明日香が素直に甘えるとも思えないが)。

…今、当時のASAYANをちょこちょこと見返しているのだが、やっぱり面白い。ASAYANそのものも面白いが、その裏にある物語も時が経って相当の部分で分かっているから、いろんな妄想が出来て楽しいのだ(笑

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