Submarine Dog

カテゴリ: カントリー娘。

2年ぶりの更新。
たぶん誰も見てないだろうから(まあいまだにカウンターは回ってるんだけども)、さらっと書く。

今日はカントリー娘。柳原尋美さんの23回目の命日。

ここ数年思うことだが、随分と遠くへ来たものだ。
こんな風に23年も経って書き続けることがいいことなのか、それともそっとしておくべきことなのか、悩んだ時期もあったが、もうそれすらも超えた遠くにきたように思う。

尋美さんが旅立つまでの数か月暮らした北海道中札内のフェーリエンドルフも、最近のキャンプブームに合わせ今では「グランピングリゾート」として営業している。
いつか行ってみたいものだな、彼女たちが青春を過ごしたコテージへ。

あそこの建物はバブル期の十勝地方の観光開発の関係でドイツ風に建てられていた。
もう30年ほど経つので、そろそろ建て替えとかもあるかもしれないな・・・

そういえば中札内に行ったのももう21年前になる。
富良野で『ふるさと』のロケ地を巡ったりもしてね。
懐かしいなあ。いろんなことが思い出の中。

時代は流れている。
でも自分は覚えていようと思う。
それがこのブログが動いていた20年前ですら「懐古厨」と言われていたこのサイトの運命なのかもしれない。

でも好きなもの、好きなことをずっと好きでいられるってのは幸せなことだと思う。

日常は普通に過ぎていく。
気持ち的にも復活しているように思う。

が、時としてどうしようもなく悲しくなる。
毎日のように通った散歩道を通り過ぎる時、好きだったお菓子を見かけた時、そんなちょっとしたことで人はいろんなことを思い出してしまうのだなと実感している。


さて、それはさておき・・・

こちらには書いていなかったので。
先月は柳原尋美さんのお墓参りにも行ってきた。

19年の歳月が過ぎ、あの頃一緒に活動していたモーニング娘。のメンバーたちは今年は20周年を祝っている。

別の時間の流れ、時に「もしも」はないと分かっているが、もし彼女がいたらどうなっていたのだろうと思った。

ノスタルジーでも原理主義でもない、あったかもしれない現在を想像して彼女を想う。そんな19年目だった。

来年は20年。りんねや小林さん、ご両親とそのご家族、太田監督や三本木さん達当時の関係者、自分には測り知れない思いがあるだろうが、彼女と共にある人たちの思いを少しでも感じられればいいなと思う。

7月16日。

カントリー娘。柳原尋美さんの命日です。

1999年に亡くなられたので18年の月日が経ちました。

何年かお墓参りをしていると、時として偶然の出会いがあります。

今年は『太陽娘と海』から始まる初期のモーニング娘。や柳原尋美さんが出演した映像作品に関わっておられた太田隆文さんと三本木久城さんにお会いすることが出来ました。

太田監督は、ドラマ『太陽娘と海』で監督補を務められた後、後継番組のドラマ『風の娘たち』で監督デビュー、また『モーニング刑事。』のメイキング映像なども手掛けられました。2006年の『ストロベリーフィールズ』で本格的に映画作品に進出、その後も『青い青い空』『朝日のあたる家』『向日葵の丘』と作品を出され、現在も新作『明日にかける橋』の制作真っ只中で奮闘されています。

太田監督の『ストロベリーフィールズ』時のインタビュー記事でその経歴を知り、初期のモーニング娘。や柳原尋美さんたちと作品を作ってこられたことを知りました。その後当時の思い出話などをブログ等でしてくださったこともあり、あの頃の話を追っている当サイトとしてはとてもお世話になっているのです。

また三本木カメラマンはやはり『太陽娘と海』からで、上記の太田監督の作品をすべて撮られた他、大林宣彦監督の作品や多くの監督の作品の映画を撮影をされています。素人の自分が言うのもおこがましいですが、自然との調和というか緑や太陽光と演者の融合の映像がとても綺麗で印象に残っています。編集もされるそうで、カメラマンとしてよりも長時間かかる編集作業で腰を痛めると聞いて意外に感じました。実は過去にとても近いところに住んでいらしたことを伺ってびっくりしました。

そんなお二方と偶然お会いし(太田監督はその日に来られることは知っていたものの)、お二人がその後寄るという尋美さんの実家行きに誘っていただいたのです。


ご実家では御両親にお会いすることが出来ました。お母様の目元が尋美さんにそっくりで、ちょっと突然来てしまったことになんだか恥ずかしくなりました(笑)。それとてっきり記憶で一人っ子だと思っていた尋美さんにお姉さんがいることも分かりまして・・・これ以上は個人情報ですね。

お宅に上がりお線香をあげさせていただきましたが、回りには尋美さんの写真がたくさん飾ってありました。笑顔が印象的なとてもいい写真が並んでいました。カントリー娘。3人のうちわもありましたよ。

その後、ご両親と三本木さんからたくさん話を伺ったわけですが・・・(太田監督は仕事のため急いで帰られました)
『太陽娘と海』の二階建てのロンドンバスの話や、あのホットドッグ屋さんの話、あそこが閉店するときに伺った話等も聞きました。
『風の娘たち』での北海道ロケの話や『ワイン娘』のフランスでのロケの話も当時の写真を見せてもらいつつ伺いました。

また現在の元モーニング娘。(1期のメンバーたち)や平家さんの近況など、こちらから話すこともありました。中澤さんが福岡へ行ったことやメンバーたちがまだ歌っていること、皆結婚してお母さんになったことを伝えると驚きと共に喜んでおられるようでした。

なんでしょうね、私が直接的にモーニング娘。のメンバーたちや尋美さんと面識があるわけでもないのに、とても自分に近い人のことを話したり聞いたりしているようで、とても嬉しかったんですよ、この空間。基本的に自分は人見知りなので初めての空間は苦手な方なのですが、気持ち的に徐々にほぐれて優しい時間を過ごせました。


尋美さんが『太陽娘と海』での湘南ロケに始まり、その後北海道・中札内、フランス、ハワイとロケに行き、また亡くなる前3カ月程北海道で過ごされた時間は、とても濃密で普通では体験できないことで、それがとても良かったという話もありました。

またその話を伺っていて、たくさんの風景と共に記録が残っていることはとても素晴らしいことなのだなと改めて分かりました。もしスタジオのテレビ撮影ばかりだったらこれほど記憶に残るものにはならないかもしれないですね。御両親も北海道や湘南での印象的なロケ地を巡ることをされたそうです。

帰宅してからりんね(あえて当時の親しみを込めて呼び捨てです)が2002年に辞める直前「牧場での撮影風景と記録を見直したい」と言っていたことを思い出し、ハッとしました。あぁ、こうしていろんなことが繋がっていたんだなと改めて感じたのです。

りんねについてもちょっとだけ話を伺いましたが、彼女は完全に一般人なのでここに書くことはしません。少しだけ書くならば年賀状でのやりとりがあること、また尋美さんのご両親がりんねの元へ会いに行きたがっているということでしょうか。

自分としては18年の時を経て、まだ交流が続いていることがとてもうれしかったです。だってねえ、18年ですよ! もうほぼ尋美さんが生きて過ごされたのと同じ時間が過ぎているわけで、あの頃の繋がりは本当に強いんだなと思いました。太田監督や三本木カメラマンもずっと繋がって交流を持ち続けているわけですから、それを思うと胸が熱くなります。

今回伺って惜しむらくは、もっと事前に頭の中の整理が出来ていれば!ということでした。何せ突然伺ったので心の準備と頭の準備が出来ていませんでした。もっといろんなことを聞けたかなとか、自分の引き出しが開いてないなあと思うこともあり、それがもったいなかったかもしれません。

でも良い日を過ごせて本当に良かったです。
まず普通には体験出来ない1日。



尋美さんが結んでくれた縁を大事にまた1年・・・



いよいよ来年は『太陽娘と海』から20年です。





2006年6月に書いたものの再掲です。補足説明も足しました(むしろ補足説明かなり書きました 笑)

故柳原尋美さんの誕生日(2005年10月19日)に、石垣島の友人から尋美さんの御両親へバースデーカードが届いていたということ。
そのときは「送ってきたのは、りんね(推定)」みたいな書き方をしたのですが、その後資料をひっくり返していて確定的なこととして書いて良いのではないかと思うようになりました。

りんねがカントリー娘。を辞める頃の状況とモーニング娘。の置かれた状況、2002年に行われたハロープロジェクトの改編(いわゆるハロマゲドン)、それとりんねと安倍さん(なっち)の関係を交えつつ振り返ってみようかと思います。



りんねは芸能界引退までに何回か石垣島を訪れているのですが、これは父親が石垣島に住んでいるからです。不動産屋をセミリタイアした父親が年に半年くらい滞在しているそうです。ほったて小屋みたいなところを改造して自炊して畑耕して・・・そんな暮らしぶりなのだそうです。さすがりんねの父親というか、この父があってこそのりんねというか、正直ちょっとうらやましいです。

カントリー娘。に石川梨華(モーニング娘。)私設記念館さんのヤンタン書き起こしに父親の自然体な暮らし振りが紹介されています。
りんねが2年ぶりの休暇を使って沖縄を訪れたのが2001年のゴールデンウィーク明けなので、ちょうどモーニング娘。初のミュージカル『LOVEセンチュリー』が始まった頃です。2年ぶりの休暇ということはりんねが牧場デビューしてから初めての休暇ということになります。いろんなことを乗り越えてきてメジャーデビューに至り、初めてゆっくりできた時間だったのではないでしょうか。

----

2001年10月、<カントリー娘。に石川梨華(モーニング娘。)>が新曲『恋人は心の応援団』をリリース。
りんねはデビュー曲『二人の北海道』から自分のCDをずーっと聴き直しています。

「そしたら、いろんなこと想い出したよ。曲って不思議で、メロディー聴くだけでそのころ感じた色とか想いとか全部よみがえるんだよね。「想い出だ」って思ってたことがリアルに感じるの。みんなが思うりんねってどんな子なんだろう?
 りんねは、カントリー娘。になってから3年近いけど、友達に「変わったよね」って言われるの。少し『女の子』っぽくなったって(笑)。確かに、CDの声も変わってきてるんだよ。
 最初は、「りんね変わった」って言われるのちょっとイヤだったんだ。「昔のりんねじゃない」って言われてるみたいでね。でもさ、高校生のころと今とじゃまわりの環境とかが全然違うし、その「違い」に合わせて変わっていくことは「成長する」ってことなんだと思うんだ。その場所によって「いろんな幸せ」を感じるために、人って変わるんだと思う。
 りんねは割と、自分の好きなこととか、物とかこだわっちゃうタイプだから、変わるのがちょっと怖かったんだけど、今は全然変われるよ。でもね、不思議とそう思えた時から、前よりもっと「好きな物」とか「好きなこと」がわかってきたの。あー、「りんねってこういうの好きなんだね」って自分に言ってること、よくあるもん」(「りんねのしっぽ」第47回より)

この後の11月18日、カントリー娘。はモーニング娘。と一緒に沖縄でライブを行いました。その日の夜、ホテルの部屋でカオリは矢口・圭ちゃん・みっちゃんと、多摩川の河川敷では明日香が、そしてりんねはなっちと一緒に夜空を見上げていました。その日は近年最大の獅子座流星群が見られると言われていた夜。

沖縄の夜空の下、りんねはハロプロの中で一番親しかったなっちといったいどんな会話をかわしていたのでしょう。なっちとの関係は10人祭(2001年のシャッフルユニット)の活動以降急速に深まったようですが、この時期から2人の発言はところどころ共通性が見られるようになります。

2001年末、『アイドルをさがせ』*1 DVD特典のためのコメント撮りがあります。デビュー当時を振り返ってのコメントでした。分かりやすいように少し補足してありますが、以下ほぼそのままの書き起こしです。

「…初めてのコンサートの時に姐さん(中澤)たちにコーラスしてもらったこと
 今でも忘れられないんだ…
 本当は3人(あずさ・ひろみ・りんね)でやる予定だったコーラスをやってもらって…
 始まる前に姐さん(中澤)に言われたんだ…
 『りんねはカントリーで一人でも、モーニングのみんなが仲間なんだから頑張んなさい』って。
 あの言葉、泣きそうなくらいうれしかった…」

「あのとき弱音は絶対吐けなかったから…
 肩ひじ張って、すごい力んで生きてるときで、
 だからモーニングの楽屋にいるときもすっごい緊張してて…」

「今のわたしが見ても、あの頃のりんねに『もっとリラックスしていいんだよ』
 って言ってあげたくなる…
 でも…すっごい頑張ってたなあって思う……」

『カントリーの歴史は全部アイさがが映してて…
 アイさがのスタッフがカメラを持って牧場にいることがあたり前だったから、
 それが牧場の一つの風景になってて…
 とにかく全部映像に残ってるから、もうちょっと時間が経ったら残ってるフィルムを
 全部見直してみたいなあって思います…』

(2014年補足追加)
1999年7月16日にカントリー娘。のメンバーである柳原尋美さんが交通事故により急逝。尋美さんは1998年の深夜ドラマ『太陽娘と海』の頃からモーニング娘。とは度々共演するアップフロント所属のタレントであった。

歌手を夢見ていた尋美さんが1998年の深夜ドラマ『風の娘たち』で花畑牧場を訪れたことをきっかけに北海道との関係性が始まり、翌年にはカントリー娘。の募集を開始。花畑牧場でのオーディションで選ばれた小林梓・柳原尋美・戸田鈴音の3人で活動をすることになる。

3人は花畑牧場に隣接するフェーリエンドルフのコテージで共同生活をし、時には喧嘩し、時には慰めあいながらデビューの日を夢見てレッスンと牧場仕事に精を出していた。が、7月23日のデビュー日を目前に先の事故が起こり、またその事故を受けてメンバーの一人あずさも心労により休業。先行きが見えないまま、残ったりんねが8月1日に北海道上ノ国でコンサートを行うモーニング娘。のステージに立つことになった。

メンバーを失ったカントリー娘。のステージにはモーニング娘。のメンバーがコーラスとして代わりに立った。また、それ以降柳原尋美さんや小林梓さんの思いも背負ってりんねはステージに立つことになる。

上記のりんねのコメント・回想はそれらを受けての発言。
2014年には残った二人が沖縄で再会。旧交を温めている。(追記ここまで)


そして、年が明けて新春ハロープロジェクトののコンサートが終わると、りんねは再び石垣島に向かいます。3日間、特に何もせずひたすらネコと一緒にボーッとしていたそうです。ネコはりんねが沖縄で一人で暮らす父親のためにプレゼントしたもの。そこでりんねがつくづく感じたこと、それは「自然はイイ」ってこと。りんねのエッセイは「春になったら牧場の自然に埋もれに来てねん!」としめくくられています。

2002年2月6日。りんね21歳の誕生日は半年ぶりの故郷・札幌で迎えました。
しかも、中学生の頃から寮生活をしていたりんねにとって10年ぶりの札幌雪まつりです。りんねは幼馴染みと雪まつりにくり出したそうです。この日東京から帯広に帰らず札幌で自分の時間を大切にしたりんね。走り続けて3年近くが過ぎ、いろいろと見つめ直す時期に来ていたのでしょうか。

また、この雪まつりには2月6日にりんねの小学生の時の出身劇団である「札幌こどもミュージカル」がうたのコンサートで参加しています。おそらく幼馴染みとはこの劇団で一緒だった人なのでしょう。りんねは自身の誕生日に自身の出身劇団のコンサートを昔の仲間と見るために故郷・札幌を訪れたのです。


2002年3月、りんねはまた石垣島に向かうチャンスがありました。それはTV番組『アイドルをさがせ』の最終回を石垣島で収録することになっていたからです。しかしこれは会長命令でストップがかかって、行くことが出来ませんでした。

りんねにはラジオ『ヤンタン』に出ることを優先させたため、ストップがかかったのです。ちなみにこの3月30日放送の『ヤンタン』でなっち・圭ちゃん・りんねの3人組の1年3ヶ月に渡るレギュラー出演が終わりでした。

この経緯を説明したヤンタンを聞いているとさんま氏が勘違いして話しているのでわかりにくいですが、なっちとりんねの話を抜いていくと話はちょっと違う風に見えてきます。りんねやなっちは時間的にもっと長い話をしていますよね。(やんどふぁんさいとさんの3月30日ヤンタン書き起こし

最初はりんねも『アイさが』のロケで石垣島に行くスケジュールが組まれていました。それが突然キャンセルされます。そりゃあ父親にも石垣島を訪れる旨を伝えていたでしょうし、りんねの大好きな場所に世話になってきた中澤さんや平家さんと一緒に行けることはりんねにとって何よりの喜びだったのではないでしょうか? なにしろ「姐さんが卒業してコンサートで一緒の楽屋になってうれしい」と言っていたりんねですから。

りんねは「なんでですか?」とマネージャーに食い下がります。マネージャーは「その日はヤンタンがあるでしょ!」とヤンタンを理由にキャンセルになったように言いました。りんねは「ヤンタンの方がやっぱ大事なんだなぁー」と自らを納得させます。石垣島に行けないのは心残りだったのでしょうが、りんね自身ヤンタンの仕事は好きですし、なっちや圭ちゃんとのつながりもあるのでそこは引いたのでしょう。コトはそれで収まるはずでした。

一方、なっちと圭ちゃんはヤンタンの卒業を通常の業務連絡の中で知らされます。モーニング娘。13人揃っている中で「えっと。ヤンタンとりあえず、えっと保田と安倍卒業だから」と。なっちと圭ちゃんは顔を見合わせます。2人の中でショックだったにもかかわらず、マネージャーは意に介することなく事務的に「明日のスケジュールは・・・」と続け出してしまいました。
なっちと圭ちゃんはかなり頭にきたようです。本体付きのマネージャーではなく、普段ヤンタンに一緒に来るマネージャーに苦情を訴えます(この辺の一連の流れはラジオ内容からの引用)。

2人は「微妙な抵抗」と言っていますが、けっこうきつい言い方をしたのではないでしょうか? それに、交替で入ってくるのが松浦さんだったことも2人の堪にさわったのかもしれません。この時期に流出した音源を一つ引用します。
  2002.04.14 モーニング娘。大阪城ホールコンサート流出音源。
    加護?「わー」
    その他「おーい」
    保田「大阪だっぜー」
    矢口「一回目でももりあがろーぜー」
    保田「もうかってまっかー」
    矢口「あー、もうかってませーん ハハハ」
    保田「ぼちぼちでんなー」
    矢口「会社にぼったくられてまーす」
    (周囲笑い)
    矢口「松浦のライブに使われてマース」
    加護「おー、そだよー」
    吉澤「そおやー」
    矢口「それでもがんばりまっす」
    保田「おーし」
    その他「おーし、おーし」
    加護「うぉ!」
    保田「がんばるぞ」
    スタッフ「本番です」

この当時の松浦さんへの認識にはこういうものがありました(もちろん個人的な憎悪とかいう話ではなく、仕事上での意味合いです)。2001年に松浦さんの宣伝に投資した莫大な資金の出所はメンバーだってわかっているでしょうから*2、こう思うのは普通のことだと思います。そういう認識があったから、松浦さんへレギュラー交替することに反発する心が芽生えたのではないかと思います。*3

その後なっちは不満を抱えたまま、どうにか自分を納得させたりんねと焼き鳥屋に食事に行きます。当然なっちはりんねもヤンタン卒業の件を知っていると思い、そのことを話します。りんねにとって衝撃事実でした。「えぇ!!!」「ちょっと待って!なっち!何?今の?」「聞いてないよ!」と取り乱します。りんねは自分にとってヤンタンは大事な仕事だと思っていたし、今後のためにもマネージャーがヤンタンを選んだのだから…と納得したのに、事実はその週の収録でヤンタンは最後でした。

りんねは現場のマネージャーのところに電話します。「今日なっちから聞いたんですけど…」と伝えると明らかに相手は動揺しています。動揺して「社長と話す!」と言ったので待ったものの社長までが動揺していたそうです。先になっちと圭ちゃんから苦情が上がり、今またりんねから上がってきたとなると、古参メンバーたちが結託していると思ったのかもしれません。「社長までが動揺」(瀬戸さんか山崎さんか分かりませんが)ってのはちょっとした騒動になっていたんじゃないでしょうか。

この時期は先述の松浦さんの件はもちろんのこと、『モーニングコーヒー2002』の件、楽曲的な不満*4 、市井さんの扱い等、「中澤さんがいなきゃ押さえる人いないだろ!」てくらい古参メンバーたちの不満が高まっていた時で、メンバーの動向には事務所側もけっこう敏感だったのではないでしょうか。

古参メンバーたちはラジオで意味深な発言を繰り返していましたし、矢口の自宅号泣事件や『青春の輝き』話*5 もこの頃のことです。中澤さんの4月7日オンエアのラジオでは「気分がどうもこう元気になれない時期。いつも不安で、私は一人なんじゃないかなとか、これからどうなるんだろうって思っている時期」と言い、そして「改心」したとなっています。

なっち・りんね共に言うところによると「次の日に大きいことになっちゃった…」。結局、なっちと圭ちゃんは月1回の出演を、りんねはカントリー娘。で持ち回りで一人ずつという準レギュラーの条件を引き出したのですが、この件はりんねのその後の去就に多大な影響を与えた一件だったのではないでしょうか。今から考えてみると、後のハロマゲドンにこの事件は少なからず関係があるとも思えます。

レギュラーを離れる3人はさんま氏にお別れの手紙を書いてきたのですが、りんねはなっちと圭ちゃんにもこの日手紙を書いて渡しました(非公開)。この手紙、おそらく重要なこと(微妙な反抗に関して)が書いてあったと思うのですが、まあ、絶対に表には出てこないものなので、、、公開されているさんま氏への手紙を載せておきます。やっぱりりんねの手紙だけちょっと異質な感じが漂ってますね。(手紙は準レギュラー待遇決定前に書いたもの)


●安倍なつみ
 こうして改めて手紙を書くのはこの前のラブレター企画以来ですね。
「ヤンタンはとりあえず卒業だよ」って聞いた時には、正直本当にショックで悲しくて悲しくて 「なんで?どうして?」って気持ちでいっぱいでした。もうみんなで笑ったり言い合いしたりジョークで大爆笑したりできなくなるんだなぁって、そう思うとなんだか悲しくて、ショージさんの芸術っぽい絵や玉井さんのさり気ないツッコミ が近くで見たり聞いたりできなくなるんだなぁって。
でもやっぱりさんまさんと会えなくなって心のどこかで なっちの事が薄れていくんだなぁって考えるのが一番悲しかったです。 次のメンバーと楽しくトークしてる所をパッと思い浮かべるとなんだかとても嫌であはは。 仕方のない事ですね。でもそのくらい番組とヤンタンメンバーが大好きでした。
 最初はこんなに思い出のある番組になるなんて思っていなくって、でも気が付けば本当に大好きな大好きな 大切な場所になってました。
 ショージさん、玉井さん、りんね、圭ちゃん、スタッフの皆さん。
そして愛するさんまさん。本当に本当にありがとうございました。また必ず遊びに来ます。その時は成長した ギャグなんかを披露しちゃいますよ。
以上なっちでした。

●保田圭
 さんまさん、ショージさん、玉井さん。1年半ありがとうございました。 私はヤンタンが本当に大好きです。だからレギュラーを離れるのが寂しいなぁ。 あっという間の1年半でした。
最初は全然喋れなかった私も「ポテチン」と呼ばれ、そして今じゃおっさんキャラです。 あれは確か『保田です。6時です』から始まったんですよね。ほんと全てがいい思い出です。
 でも1つだけ心残りというか気がかりな事があります。それはなっちの事。 レギュラーを離れる事で終わってしまうんですか?私からのお願いです。なっちをよろしくお願いします。
それでは本当にありがとうございました。

● りんね
さんまさんへ
 1年間と3ヶ月本当にお世話になりました。考えてみるとヤンタンに出演し始めた頃は りんねはまだデビューもしていなくて、ただの牧場娘だったんですよね。 りんねにとってヤンタンは泣いたり笑ったりとっても忙しい番組でしたが、今まで芸能界でしたどんなお仕事よりも楽しかったし、なぜかすごく落ち着く空間でした。 皆さんほんとに温かくて優しくてりんねはラッキーですね。
 そんなりんねにはヤンタンレギュラーに決まった時から一つの野望がありました。それはりんねがこんなに愛してる牧場とか自然とか動物とかが、さんまさんはあんまり興味がない又は嫌いって聞いたからです。そして絶対さんまさんを自然派にしてみせるという事を目標にしました。 案の定1回目から「はぁ?牧場なんで好きなん?」とか「俺は大嫌いや!」と冷たく言い放たれましたが、りんねは負けずに、いやたまに負けて泣いちゃいましたが、今1年とちょっと経ってみて 「コーギーの赤ちゃんってボブスレーみてぇで可愛いなぁ」とか「お家で飼おうかなぁ」とか言っている さんまさんを見て、目標達成20%と思っています。でもりんねはこの後何年とか何十年後とかに、さんまさんが朝7時とかに起きて、ショージさんと二人朝の散歩兼鯉の餌やりをやっちゃうような素敵なおじ様になるまで頑張りますので、だからさんまさんもずっとたくさん笑っていっぱいの人を笑顔にしていっぱい焼肉を食べて元気にいてください。
 いつの日かそれにも飽きちゃったら昼間のピクニックとかに行きましょうね。りんねもメジャーデビューして1年を迎えだいぶ慣れてきました。この1年ヤンタンの影響はすごく大きくてほんとに感謝してます。ありがとうございました。これからもりんねを見守っていてください。いつまでも優しくて元気でちょっとお茶目なさんまさんでいてください。
それではりんねより



これが放送された前の週のヤンタンで「会長から『今年カントリー娘。は変化する。大改革を予定』と言われた」との発言もありました。里田まいさんが入っての新しい4月17日発売のシングルの内容も、当初は「新曲は春or初夏の感じ」(連載「りんねのしっぽ」より)だったのに、どうやら差し換えで『sexy baby』に替わっているようです。これは後のハロマゲドンに先行するモノだったのでしょうか? この時期からハロマゲドンに向けて少しづつ手を打っているのでしょうか?

「牧場を感じる歌を歌いたい」「石川梨華ちゃんにもう1曲だけ入ってもらって、4月17日に曲を出します」といった発売前のりんねの発言を見ると、りんねの求めていたものは牧場を舞台にしてPVを作っていた頃のカントリー娘。だったのでしょう。ただ、もちろんりんねは我慢することろは我慢しなければならないってことは、当然分かっていたと思います。

今までハロマゲドンは「モーニング娘。の枠組みをハロープロジェクトの枠組みに変更したい*7 。ユニットの枠組みをとっぱらいたい。客の囲い込みと各メンバーの人気の底上げを図りたい、事務所の思惑としてはそんな風じゃないのかなと捉えていました。それに後藤さんとユウキの件を絡めて考えていたのですが、それは断片の一部に過ぎず、意外とこのヤンタンの古参メンバー反抗事件は大きいことなのかもしれません。ハロマゲドンがきちんとマーケティングをした上で行ったとは到底思えないし、感情的・直感的に動いてしまった部分も多々あったと思えます。

和田さん*8 が独立させられた後(2004春)、アップフロントの事務所に入っていっても社員から挨拶されないなんて話がありました。思いつきですがモーニング娘。からの旧勢力の潜在的影響力の排除みたいな側面もあったのかもしれないなあ。市井さん復帰の際も旧メン勢が当初は支援していたにもかかわらず、そのあと音沙汰なしになったし、市井さんが復帰してきたときに和田さんや平家さんと行動を共にしていたこともあったのですが、そのメンツもなんだかね…*9

市井さんが正式再デビューした2002年4月あたりから後藤さん卒業あたりまでは収録が一緒になることもたびたびあったのですが、それ以降急速に減ったのも気なるところです。その頃(2002前期?)は「松浦殺すbyソニン」と和田さんが言っていましたが*10 、カオリがラジオで「和田組」を公言してたのもこの時期ですね。一時代を築いたASAYANが終わったのも同時期だったし、区切りをつけるときだったのかもしれません。人事刷新して組織替えというか、古い人たちにはそれなりのポジションに移ってもらって、命令系統の再確立って面もありそうな感じですね。


話を戻しましょう。仮定に仮定の話をこれ以上広げても仕方ありません。

さて、その後のりんねですが、調べていくと以前とあるところに書いた状況とはちょっと違うのかなあと思えてきました。もちろんハロマゲドン直後の牧場ロケでのりんねとなっちとのやり取りは妄想に過ぎませんし、福岡の一夜も妄想にしか過ぎませんが、りんね卒業後のなっちとの関わり方を見ると、それに近いことがあったのは間違いないんだろうなと今でも思っています。*11
しかし、りんねの発言や行動を追っていくと、もっとより深刻というか、自分の節を曲げなかったりんね像が浮かび上がってきます。それがどういう結末を生むか分かってて、りんねは自分の意志を貫くのに必死だったんじゃないのかなと……初志貫徹と妥協に悩まされる葛藤の毎日だったのではないでしょうか。


----
長くて終わりません(汗
次回2002年4月以降のことをスケジュールと照らし合わせつつ振り返りたいと思います。



------------
(2017年2月補足説明追加)
*1 『アイドルをさがせ』は1999年1月から2002年3月までテレビ東京で放送されていたバラエティ番組。通称『アイさが』。モーニング娘。が所属するアップフロントエージェンシーの事実上の買い取り枠で、同事務所に所属するタレントが数多く出演していた。制作は『ASAYAN』を初期から中期にかけて作っていた吉本SSM。
*2 1999年の『LOVEマシーン』から始まり『恋のダンスサイト』『ハッピーサマーウエディング』『恋愛レボリューション21』の立て続けのミリオンヒット、それに付随するコンサートやグッズの収益、CM出演料等当時の収益は相当のものがあったと思われる。2001年デビューの同事務所の松浦さんには新人としては異例とも思える広告出稿量とテレビ出演が用意されていた。
*3 実際安倍さんと松浦さんはその後も距離は開いたままだったようで、その疎遠さは本人たちも認めるところだった(といっても「仲が悪い」というような類のものではない)。

*4 1999年以前から所属していたメンバーたちは初期のコーラス&ハーモニーを重視していた頃の楽曲への回帰への気持ちが強く、たびたび「ああいった曲を歌いたい」的な発言をしていた。
*5 矢口さんもこの頃、1年前の中澤さんの卒業DVDを見ては号泣、自分のミニモニでの活動姿を見ては落ち込んで泣いたりと、多忙すぎる生活と自身の思い描く活動とのギャップに悩まされていたようだ。『青春の輝き』はカーペンターズの曲で、矢口さんの好きなドラマで主題歌として使われていた曲。初心を思い出す曲として矢口さんの『オールナイトニッポン』でもかかっていた。福田明日香さんが卒業するときには彼女にこの曲を送った(福田さんもこのドラマが好きだった)。
*6 里田まいさんはカントリー娘。に2002年1月に加入、4月から本格活動を開始。

*7 当時はまだ「ハロー!プロジェクト」「ハロプロ」という枠組みは世間的にはメジャーな存在ではなく、カントリー娘。やメロン記念日といったグループも概ね「モーニング娘。でしょ?」という世間的なイメージがあったと思う。2002年夏のいわゆる「ハロマゲドン」以降、盛んに「ハロプロ」という単語が使われたため、その後普及していった。
*8 ハーモニープロモーション社長。シャ乱Qのチーフマネージャーの後、モーニング娘。初期のチーフマネージャー。『ASAYAN』でモーニング娘。企画を主導していた一人。1998年にアップフロントグループ内にハーモニープロモーションを立ち上げ、2004年に資本関係を解消。その後安めぐみ・優木まおみ・朝比奈彩らをブレイクに導く。
*9 平家さんのマネジメントを2002年初頭(時期記憶曖昧)に和田さんが申し出たことがあったが会長からは「考えがある」と却下された。また市井さんに関しても復帰後のマネジメントに疑問を呈す発言も見受けられた。

*10 和田さんが持っていたラジオで「ソニンが言っていた」という体にして松浦さんに毒づく発言が度々あった 笑
*11 ここいら辺の妄想は2002〜03年に書いたのですが、もう恥ずかしい過去なので 笑、どうしても知りたい方はこっそり聞いてね。

2月8日に私立恵比寿中学の松野莉奈さんが亡くなられました。
謹んで哀悼の意を表します。

18歳という若さで旅立ったこと、周囲の方々の心情を思うと言葉を失います。
そして松野さんの希望に満ちた未来を思うと・・・


自分は私立恵比寿中学と松野さんのことをよく知っているわけではありません。
時たま歌番組で得た知識がすべてといってもいいでしょう。

それでもこの訃報を聞いて苦しくなるほどに心が締め付けられたのは今から18年前に亡くなったあの子のことを思い出さずにはいられなかったからです。


--------


1999年7月16日。
北海道の中札内村で一人の女の子が旅立った。

彼女の名は柳原尋美。

カントリー娘。というユニットでCDデビューを1週間後に控えていた時の突然の事故だった。

カントリー娘。は尋美さんと小林梓さん・戸田鈴音(りんね)さんの3人組で、1999年の春に北海道中札内村にある花畑牧場で行われたオーディションで結成されたグループだ。

マネジメントはモーニング娘。(当時は『LOVEマシーン』での大ブレイク前で福田明日香さんが脱退の頃)が所属していたアップフロントグループで、プロデューサーも同事務所所属の田中義剛氏とされていた。

当時の花畑牧場も生キャラメルで全国的なブームを起こす前の借金にあえいでいた頃で、まだまだ牧歌的な雰囲気を残す牧場だった。


尋美さんはカントリー娘。になる以前にはデビューしたばかりの頃のモーニング娘。とたびたび共演。ドラマや映画の撮影で数多く行動を共にした。

中には1998年の春先の2週間あまり合宿しながら撮影したドラマ『太陽娘と海』のような例もあり、同世代だった当時のモーニング娘。のメンバーたちとは打ち解けて話すことも多かったようだ。

また同年には花畑牧場を舞台にしたドラマ『風の娘たち』にも出演しており、カントリー娘。結成以前から尋美さんは花畑牧場に出入りしていた。


カントリー娘。が結成されて以降、3人は花畑牧場に隣接する宿泊施設フェーリエンドルフにあるコテージを1棟借り共同生活をしていた。

時にはレッスンを行い、時には花畑牧場で牧場仕事の手伝いをし、時にはフェーリエンドルフ内にあるレストランでアルバイトをしながらの共同生活。時として喧嘩もあっただろうし、たくさんの試練があったに違いない。

一緒に暮らした濃密な3カ月余り。
そう、たった3カ月ほどのことだったのだが、その生活は突然の終止符によって(あえて言うならば)かけがえのないものとなった。

モーニング娘。のメンバーたちが先に述べた『太陽娘と海』での2週間あまりの合宿の出来事を後々まで覚えていたように、カントリー娘。に残された2人にとって尋美さんと過ごした3カ月は心の中でとても大きいものになったのだと思う。


訃報の後、1999年夏に予定されていたモーニング娘。とカントリー娘。の合同コンサート*1、尋美さんの御両親の意向によりパンフレットにはそのまま彼女の写真が掲載されていた。

ドラマで共演していたモーニング娘。のメンバーたちと同じステージで歌えることを尋美さんはそれは楽しみにしていたという。

しかしそれは叶わぬ思いとなった。

事故直後には心労で小林さんが抜け、ステージには数々の思いを背負ったりんねがただ一人残った。



りんねは(あえて親しみを込めて敬称略で書かせていただく)当時18歳で札幌出身。
騎乗ライセンスを持ち、子供の頃はミュージカル劇団に所属してポーランド公演に出演したこともある。

またキリスト教系の学校に学び高校時代は広島で寮生活、海外青年協力隊としてマレーシアに行ったこともあった。父親が40歳を過ぎてからのお子さんで、その父親は北海道と石垣島を行ったり来たりしているような方だったという。りんねの言葉によれば半自給自足の生活をしているような方だとか。

そうした環境に育ってきたりんねが尋美さんの旅立ちをどう受け止めたか。

それはもちろん彼女自身にしか分からないことではあるが、ある時期を超えて事務所から尋美さんの発言を止められたこと、また彼女が一つの決心をしたと思われる2002年の言動・行動から察するに、とても重きを置いていたのではないかと思う。



2002年10月にりんねは花畑牧場からもカントリー娘。からも去る。
その夏の発表でカントリー娘。は活動拠点を北海道から東京に移すと決まっていた。

りんねが1999年から一人で守り通し見せてきたものは、そこで終わったのだと思う。
それから先は彼女と彼女の気持ちを汲んだ周囲の人たちの中で思い出が生き続けたのだと思う。


その後。

尋美さんの誕生日にはバースデーカードがご両親の元へ石垣島から届いた。

尋美さんの命日近くには安倍さん(なっち)の元へ石垣島から野菜が届けられた。*2

尋美さんの誕生日の頃、小林さんが沖縄まで行ってかつての旧交を温めた。


歌を歌いたいと言っていた尋美さんの思い出とその活動の記憶、それらをずっと大事に胸にしまって生きている方たちが18年経った今でもいる。

そして自分はおそらくそうした思いを汲める範囲では拾えてきたのではないかと思う。*3

『太陽娘と海』や『風の娘たち』の太田監督からもたくさんの話と知らないことを伺えたし、時に思わぬ出会いがあったりもした。

そんな18年積み重ねたいろんなことが思い出されて、最近の訃報を聞いた時に胸がキュッとなったのですよ・・・


------------
*1 他には平家みちよ・太陽とシスコムーン・ココナッツ娘らが出演
*2 りんねと安倍さんはりんねが辞める頃とてもプライベートで親しくしていた。その後も安倍さんからりんねの話を聞くことが度々あった。
*3 とんだ勘違い野郎なのかもしれないが。

hiromi1


1999年の7月16日から17年。

思えば彼女がこの世で過ごした時間と変わらない年月がもうすぐ経とうとしている。

遠い記憶と変わらぬ思い。

今年も雨は降らず、帰りがけには日差しが差し込んできた。


今日はあの頃の仲間が歌っているとのこと。

17年目にしてこの日に歌うのは初めてだとか。

歌うことを夢見ていた彼女が笑っている姿がふと浮かんだ。



また1年が過ぎていきます。

先日、品川プリンスシネマにて太田隆文監督の新作映画『向日葵の丘 1983年・夏』を見てきた。

ここを見てくださっている方はご存知かと思うが太田監督は『太陽娘と海』や『モーニング刑事。』など初期のモーニング娘。の映像作品に関わられた方。

亡くなったカントリー娘。(になる前)の柳原尋美さんの映像やお話をたくさん残してくれたことで覚えていらっしゃる方もいると思う。

太田監督の初映画監督作品『ストロベリーフィールズ』の時のインタビューやブログで、そこにあった思いを聞き、また数々の思い出話を載せていただき、それ以来応援させていただいている(いや、追いかけていると書いた方が正しいか 笑)。

その後、書道を題材にした『青い青い空』や原発問題に向き合った『朝日のあたる家』を制作。そして最新作が今回見てきた『向日葵の丘』となる。

前売り券を渋谷で買ったので、渋谷で公開されたら見ようかどうしようか考えていたところ、太田監督が品川の映画館に来るという話なので、ちょうどそちら方面に出る予定もあったので、「これは!」と思い、その日に見ることに決めた。


映画は主人公・多香子が自分が高校生だった1983年を回想することで物語が進んでいく。その辺詳しく書いてしまうとネタバレになってしまうので難しいところだが、最初はリンクしなかった現代と過去が物語が進むにつれ、どんどん繋がっていくことが、この映画の見所ではないかと思う。

メインキャストを演じる<現代の>常盤貴子さんら3人と<1983年の>芳根京子さんら3人の役が映画が進むにつれ、同じ人物に見えてくる。それが楽しくもあり、物語の流れにおいて悲しくもある。

この高校生で1983年という時代、自分は少し下の世代なのでどこまでリアルに感じられるだろうかと見る前は少し不安があったが、学校の様子といい街並みといい、素直に受け入れることが出来た。

1983年で高校生3年生ということは『金八先生』の1期・2期(放映が1979・80年)の頃の生徒たちがちょうどその世代にあたる。再放送で見ていた杉田かおるやマッチや加藤優(直江喜一)たちの3年後の世界なんだなと、そんなこともふと思う。


また、映画を見ていて街並み・風景を単独で抜いたカットが多いようにも感じられた。これがまた綺麗な映像で、この映画の舞台となった静岡県・島田市にとってはこの映画が街の記録にもなるだろうと思った。

映像を撮ったのは三本木久城カメラマン。太田監督の作品にはこの方あり!で、これまた初期のモーニング娘。の映像作品に関わっていた方。昭和の時代の街の景色、そして現代との対比、そこにノスタルジーが現れていて物悲しくも美しい。

主人公・多香子が帰郷して30年ぶりに街を歩き、そして実家へ入る時に見せた葛藤の表情まで、そこに自分はグッと引き込まれた。セリフは少なく映像だけで語りかけてくる、そこにある「間」が切ないのだ。多香子の気持ちがスクリーンから溢れていた。


それと、この映画には映画好きにはきっとたまらないであろう会話が多数盛り込まれている。もし詳しく知っていたら、主人公たちが交わす会話に出てくる名優や名作の数々の名前、それに対するコメントなど、きっとマニア心をくすぐるものになっているのだろうなと想像できた。

特にあるシーンに出てくる8ミリのフィルムの種類と解説など、きっとマニアにはたまらないのだろう。

マニア心といえば、最初に出てきた主人公の部屋に貼ってあった『青い青い空』のpart2と『不揃いのいちごたち』のポスターや、平沢いずみさん演じる元女優の役名が「マリン」であったりしたことは自分的にくすぐられた。

「マリン」の役名は『太陽娘と海』の主人公で建みさとさんが演じていた「DJマリン」から来ているのだろうか? 気になるところである。「マリンのFM100」なんてセリフが頭をよぎる(笑)


さてさて、公開中でもあるし、長くもなってきたので、この辺にしたいところで、最後に一つ。

太田監督作品、確実に映画の撮影規模が大きくなってるんだなあと感じる。もちろん規模の大きさで映画の良し悪しが決まるわけじゃないが、出演した俳優さんたち、多数の市民俳優と地元の協力、撮影期間もかな? とにかく支持する背景が大きくなっているような気がするのだ。

これはそこに良い関係があるんだろうなと思わずにはいられない。そして今回の繋がりがまた新たな繋がりを生んで、なんだかまた次の作品で「ドバっ」と来そうな気がするのだ。なんだかそんなことを考えてしまうエンディングでもあったのだ。切ない中に感じる温かさというか、ほっこりする気持ちとでもいうか・・・

全体を通してみても優しい気持ちになれる映画だったなぁ。涙腺は基本的に弱いんで、そこいら辺は書かないでおきます(笑)



ということで、監督、ありがとうございました。
お会いできて嬉しかったです!
公開がまだまだ続きますが、お体気を付けてください!

このページのトップヘ