(2014年11月7日 加筆・修正)
第8回目。
『LOVEマシーン』をレコーディングする8月以降のスケジュールを追っていく予定でしたが、一旦北海道方面の資料を整理してしまおうということで、今回は花畑牧場・カントリー娘。のことについて少し書きます。
調べていたらココナッツ娘。結成の遠因と思えるものも発見してしまいました。
最後の方、1999年を超えて2002年頃まで言及してますが、話の流れと言うことでご了承を。それと、内容は憶測・妄想で語っていることも多々あり、事実とは違う場合もありますので…予め御断りしておきます。これを未来に読むときは新たな情報が出ている可能性もあるのでよく調べてください。
終わりはちょっと急ぎすぎたかなという気もしますが、2001〜2002年のカントリー娘。についてはまた機会があるときに改めて書きます。
調べてて分かったことは今回かなりありました。興味のない人には「なんのこっちゃ」って話ばかりなのですが…
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(1)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(2)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(3)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(4)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(5)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(6)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(7)
の続き。
----
まず花畑牧場の所在地である中札内村、十勝地方のことから入っていこうと思う。
なぜここで牧場を開くことになるのか、アイドル事業をすることになるのか、分かる範囲で記しておく。
何年か経ったときに調べ物として役に立つときが来るかもしれない。
まずは昭和の時代までさかのぼる。
十勝地方で有名な「幸福駅」「愛国駅」のある国鉄広尾線が廃止されたのは1987年(昭和62年)2月1日のこと。
鉄道はバス転換され、村の中心部にあった中札内駅もその歴史に幕を閉じた。元々観光資源に乏しかったこの地方は鉄道廃止により観光重要はますます減ることが予想された。
鉄道が廃止された翌年の1988年、村は早くも観光開発計画に着手している。
その中には90年代にこの地方に現れた数々の施設の原計画と思えるような記述が多々あった。また、この年の6月に村で行われた観光開発シンポジウムには六花亭(帯広市)の副社長が参加しており、村への関わりをこの当時からすでに持っていたことが分かる。
このシンポジウムのディスカッションで、
1. 「観光開発」は地域住民の共通した考え方の中から発展していく。例えば花いっぱいとか、美しい並木道など。
2. 誰でも気軽に利用できる丸太小屋がある村というような親しみやすいイメージを作ったらと思う。
3. 豊富な農畜産物を生かした優れた地場産品を恒久的に供給できる生産性の確立と消費者の獲得が長い目での観光に結びつくと考える。
といった意見が出されていた。
(引用元:http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/nakasatsunai_koutuu_kankou.html)
この計画・方針の元で建設されたと思われる施設をいくつか紹介していこう。
●日高山脈山岳センター
1990年12月完成、1991年4月28日オープン。日高山脈に関する自然や最新情報の提供、資料の展示や登山研修などを目的として建設される。
先述の1988年の「観光開発計画」の報告書を作成した会社が設計を担当。村の西部、ピョウタンの滝近くの札内川園地内にある。ピョウタンの滝には自分も行ったことがあるが、「時間をかけて遠くまできたわりには…」という印象。
(参考:http://www.vill.nakasatsunai.hokkaido.jp/kankou/spot/%E6%97%A5%E9%AB%98%E5%B1%B1%E8%84%88%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC/)
●一本山展望タワー
1990年8月建設開始、同年11月完成。一本山(標高355メートル)の頂上にある高さ24メートルの展望タワー。中札内村から日高山脈まで、十勝の自然を一望できる。
(参考:http://www.vill.nakasatsunai.hokkaido.jp/kankou/spot/%E4%B8%80%E6%9C%AC%E5%B1%B1%E5%B1%95%E6%9C%9B%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC/)
●フェーリエンドルフ
ドイツの休暇村を模した中期滞在型農村リゾート。
1991年に花畑牧場の一区画北(当時はまだ花畑牧場はない)の村有地に、帯広の不動産デベロッパー・ぜんりん地所建設の西惇夫社長(当時)がドイツ型農村休暇村を建設提案。ぜんりん地所はこれにグリュック王国(後述)との連係構想を掲げ、中札内村の観光開発計画ともその内容が合致したので、村は受け入れることを決定した。
基本計画では50ヘクタールの敷地に350棟の休暇ハウス、レストランや各種ショップ、スポーツ施設、研修施設、厩舎、教会、野外ステージ、風車小屋等、農村リゾートとしての多数の施設を整える予定だった(その後規模を縮小)。
1992年に着工、同年度中に100戸あまりが完成したが、その後のバブル崩壊の影響を受けて当初の計画通りには進展しなかった。現在ものどかなドイツの田舎風の生活を過ごせる貸別荘として健在。
(詳細:http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/nakasatsunai_koutuu_kankou.html
参考:http://www.vill.nakasatsunai.hokkaido.jp/kankou/?s=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95
HP:http://www.zenrin.ne.jp/index.html)
●中札内美術村
六花亭(帯広市)資本の芸術村。「有機農業の村」を宣言している中札内村と良質な原料提供で手を結べることなどから進出を計画した(引用:http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/nakasatsunai_koutuu_kankou.html)。1987年88年に22ヘクタールの土地を取得、坂本直行記念館を皮切りに複数の施設を建設、現在に至る(詳しくは六花亭ホームページへ)。
●坂本直行記念館(中札内美術村)
1990年計画発表、1991年4月着工、12月完成。六花亭の花柄包装紙にも使われている画家・坂本直行の作品を展示した記念館。同時にレストラン「ポロシリ」や売店「柏林」も建設された。1992年4月オープン。館内にはコンサートも出来るホールが建設されている。クラシック系コンサートも多数開かれ、芸術系のイベントホールとしての存在を確立している。
●相原求一朗美術館(中札内美術村)
1997年8月8日開館。中札内村と姉妹提携を結ぶ埼玉県川越市生まれの画家・相原求一朗の作品を展示した美術館。同氏は北海道の風景を30数年描き続け、「幸福駅2月1日」が六花亭社長・小田豊氏などから評価されて美術館の建設に至った。同館は永久保存の運動があった帯広市の築70年の銭湯「帯広湯」を移築、復元することで建設されている。
●花六花(中札内美術村)
1998年に福井県から築200年のかやぶき屋根の民家を移築。現在はうどん・甘味処として営業。ちなみに中札内村は明治時代に福井県から多くの開拓者が殖民している。アップフロントと福井県の繋がりの一端として記憶に留めておいてもいいかもしれない。
以上が中札内村の施設。以下にごく近郊に展開された観光施設を紹介する。
●グリュック王国
1989年に帯広市にオープンしたテーマパーク。
場所は幸福駅からすぐ近く。事業主はぜんりん地所建設(建物はぜんりんレジャーランドが所有)。施設のコンセプトはフェーリエンドルフと同様に「ドイツ」、長崎のハウステンボスに刺激されたのか、建造物による雰囲気作りは徹底していて豪勢なものがあった。
1992年夏にはテーマパークのシンボル「ビュッケブルグ城」が完成、城の中に67室の「シュロスホテル」をオープンさせた。オープン当初は70万人を超える入場者を集めそれなりの集客力があったが、バブル崩壊後から急速に経営が悪化、1997年以降は建物のメンテナンスもままならず、従業員の教育すら行き届かないことがあった。来場者は2000年で20万人を切ったという。
経営が傾いた2001年、再建を期し「十勝エコ・ヒーリングガーデンフェスト花大祭」を開催、施設のテーマを「十勝幸福街道・21世紀のエコ・ミュージアム」に大転換したが、業績回復には繋がらなかった。2002年以降段階的に施設の閉鎖をおこない、2003年には休園に追い込まれた。長らく休園が続いていたが2007年2月に競売にかけられ、再出発の見込みはなくなった。しかも競売への入札は一件もなかったという。
(参考・詳細:http://www.fantastics.co.jp/glucks_1.htm)
2012年10月7日川崎の東急東横線元住吉駅前に同王国に飾られていた「ブレーメン音楽隊像」がフェーリエンドルフの西オーナーより寄贈された。
●十勝インターナショナルスピードウェイ
中札内村の南、更別村にある国際規格のサーキット。1992年10月にオープン。有名なところでは全日本GT選手権などを開催していた。十勝で行われる国際ラリー選手権の「ラリージャパン」にもスタッフを派遣。東京から最も近い(時間的に)サーキットと言われている。
2009年に自己破産を申請。現在は携帯電話サイトなどを運営するMSF株式会社が買収し営業を継続している。
●紫竹ガーデン
国道236号、幸福駅から西に入ったところにある花の庭園。住所は帯広市だが中札内村にはほど近い。18000坪の花畑が広がる。1989年にプライベートガーデンとしてオープン。観光スポットとして順調に伸び現在も同場所で営業中。2013年には13万人の観光客が訪れた。
以上、ざっと観光スポットを取り上げてきたが、中札内村周辺の観光施設の整備は1990年代の前半に集中している。これにはバブルの影響が見え隠れし、建設優先で資金回収の不透明な施設と思えるものも多々あった。
1992年にはグリュック王国と十勝インターナショナルスピードウェイという2大観光スポットが揃ったことによって、十勝地方への日帰り観光客、年間宿泊客数とも1985年に比べて2倍近い伸びを示していた。
同年には開基110年・帯広市制施行60年を記念する「十勝・緑の地球博 みどりいむ'92」が開催され、十勝地方への観光需要はピークを迎える。
そんな中の1992年末、田中義剛氏が初めて事業目的でこの地を視察に訪れている。伝えられている一説によれば、事務所の紹介でぜんりんの西惇夫社長と出会い、それがきっかけでこの地に牧場を開くことになったという(あくまでも一説、真相は不明)。国道から入ってフェーリエンドルフを過ぎた一区画に牧場の地は選ばれた。
牧場の土地取得は1994年3月で、オープンは同年の11月7日。
牧場ではオープンパーティーが開かれ地元の農業関係者の他、多数の人がつめかけた。アップフロントの社長や、有賀さつきさん、その後宮崎県知事になったそのまんま東氏ら多くの芸能関係者も訪れていたという。また、同牧場の花畑工事を手がけた紫竹ガーデンの社長や中札内村の村長も訪れていた。
翌1995年には「花畑牧場コンサート」を開催、堀内孝雄氏、森高千里さんらアップフロント(以下UF)の歌手を呼んで村民800人を集め、中札内村への花畑牧場のアピールを行った。
上記の通り中札内村への田中義剛氏の関わりは一番早い時点をとっても1992年の末、土地取得が決まったのは1994年の春である。しかし、花畑牧場の会社概要によれば「株式会社 花畑牧場」の設立年月日は1992年5月7日となっている。そして当時の田中氏は株式会社 花畑牧場の社長ではない。この時系列をどう整理していくか。
(東京に存在していたレストラン「花畑牧場」との絡みの可能性もあるが、詳しい情報がないので今回は考慮しない)
個人的な憶測をするならば、十勝地方の有力者と親交のあったUFサイドが1980年代末から始まった十勝地方の観光バブルを見て「何かやろう」と思ったことが始まりだったのではないだろうか(あくまでも憶測)。
花畑牧場でやろうとしていたことは1988年に中札内村で出された観光開発計画での意見そのものに見える。しかも社長が命名し、ニュージーランドにその名を求めたということになっている「花畑牧場」という名前さえもが、実際は村の観光開発計画の内容から取ったのではと穿った目で見てしまう。
そして農業経験もあり牧場経営が夢だったUF所属の田中氏に広告塔としての役割も期待して牧場を任せたというのが1992年末の田中氏の十勝視察に繋がるのではないだろうか。
もちろん田中氏自身も元から牧場経営を望むところがあったので、これはどちらが先に言い出した等は論ずる部分ではなく両者の思惑が一致していたということなのだろう。そうでなければ3億も4億もお金を出すまい。
その田中氏であるが、かつてwebで連載していた花畑通信でも分かるように、牧場開始当初から地元の農協関係者や古参の酪農家たちとはうまくいっていなかった(と書いてある)。それは端から見ればお互いさまの言葉の応酬であったりするのだが、その根底にあるものが田中氏の地元の既存勢力への反発だったのではないかと思う。それが一時期話題になっていた六花亭との対立に繋がるのではないだろうか。田中氏の六花亭への敵意は10年を超える歴史の中で育まれたものではないだろうか。
先述したように六花亭は帯広市に本社を置き、中札内村の観光開発計画が決定される前から、村への進出を計画していた。早い段階で現在も運営している数々の施設を村に作ってコミットしている。同じく帯広に本社を置くぜんりんも進出したのだが、タレントを使ったPR等、海外をテーマにした大きな箱ものなど、今から考えればバブルな拡大路線を取っていた。花畑牧場は後発組でここと近い距離(心情的な)で十勝に進出してきたから(推定)、六花亭と相容れない構図はなにも今に始まったことではないのだろう。
1990年代半ば以降、十勝地方への観光需要が一気に減りぜんりんの思惑は外れるのだが(ぜんりんだけではないが)、同様に進出していた花畑牧場も苦しくなる。「株式会社 花畑牧場」はUFの人間が代表取締役を務め100%UFグループ出資の子会社だった。当時の田中氏はその会社の中の取締役で現場の牧場長である。田中氏が同地に居を構えUFからお金を借り、引くに引けない状況で進退極まっていたというのが、1990年代後半の情勢だったのではないだろうか。記憶が確かならば、この頃は牧場の存続を危ぶんだような報道がされていた記憶もある。
そのような情勢の中、六花亭が1997年に中札内村に工場を作る計画が持ち上がった。この計画に村は素早い認可を降ろす。そして雪解け後の翌98年4月には着工、11月に完成、12月には早くも操業を開始している。前述の「相原求一朗美術館」のオープンや「花六花」の福井県からの移築と合わせ、この時期の六花亭は開発を広げていた。
これに対して花畑牧場は1998年の4月からトムチーズの販売を開始。チーズとソフトクリームという現在も花畑牧場製品の主力を担う自家製品の開発と営業・販売はこの年から始まった。この当時からジャージー牛に重点を置いて商品開発していたことは、先見の明があったといってもいいだろう。
当時の花畑牧場と六花亭がどの程度対立していたかは知る由もないが、花畑牧場は後発組であり、その存在は北海道土産菓子3大メーカーの一つである六花亭とは比べ物にならなかった。だからこそ必死になってPRする必要もあったし、タレント的な特権を使ったのだろう。借金がある状況では致し方ない部分ではある。
1998年の6月、UFの北海道事業にとって一つの転機が訪れた。それがドラマ『風の娘たち』の北海道での撮影である。
1998年4月期の『太陽娘と海』に続いて製作されたこのドラマはモーニング娘。こそ出演していなかったが、前作に引き続き建みさとさんと柳原尋美さんが出演していた。そしてこのドラマが放送されている最中の1998年9月、モーニング娘。は『抱いてHOLD ON ME!』でオリコン1位を取り、ASAYANと共にブームを巻き起こす。
さてここで、モーニング娘。のマネジメントに関して当時は主たる権限をUF側が持っていないという問題がある。
これはそのオーディション過程から来るものだが、プロデュース面ではタカハタ氏らASAYAN演出・制作陣、和田薫氏、それにつんく氏、この三者が「あーだこーだ言いながら」進めていた。またASAYANそのものは吉本興行の企画であり(番組プロデューサーの泉正隆氏は吉本興行所属)、そこに広告会社も絡んでくる。また番組出身の都合上テレビ局との関係も出てくる。その上でメンバー育成の資金面はUF持ちで進んでいた。
お金を出しているのにその育成したタレントを自由に使えないもどかしさ。(これが当時CMに出なかったり、他局へのレギュラー出演のネックになっていたといわれている)
つまり何が言いたいかというと、花畑牧場の広告塔としてどんなに利用価値があってもモーニング娘。は使えなかったということである。
またこの考察シリーズで書いている通り当時はそれまでUFの芸能事業の稼ぎ頭として主力を担ってきた森高千里さんや谷村有美さん、加藤紀子さんらが活動を縮小している時期であり、その次を担う人材を探していたように思う。
上記の理由…モーニング娘。という名前の利用価値、当時の花畑牧場の窮状、次世代タレントの育成…それらが関係者の中で合わさって方向性を生み、翌年のカントリー娘。誕生に繋がっていったのではないだろうか。
また、1998年1月10日の十勝毎日新聞の記事によると、グリュック王国の敷地内にハワイをイメージしたプール中心の大規模レジャー施設を建設する計画が持ち上がっている。
施設の仮名は「ブルー・ハワイアン」で、ハワイからスタッフを呼び、ハワイアンダンスなどをイベントとして予定していたという。オープンは「1999年の7月」を目指していた。また、経営難に陥っていたグリュック王国への経営支援も行われる予定だったという。
このグリュック王国へ乗り出してきた企業がジェイ・ウェイ(本社・東京千代田区)というインターネット関連のベンチャー企業で、時を同じくして帯広と富良野の中間に位置する新得町で大規模なLEDの研究・製造施設を作ろうとしていた。計画通り完成していれば1999年4月から工場が稼動する予定だったという。(1997年10月の十勝毎日新聞より)
しかし結局このジェイ・ウェイの計画は頓挫する(何をどう調べても完成記事や情報が出てこなかった)。グリュック王国(ドイツのテーマパーク)へのハワイ関連施設の投入など、常識からずれた感覚は最初から結果が見えていたように思う。このずれた感覚というのが、どうも気になっていた。
このグリュック王国へのハワイをテーマにした大規模施設がオープンする予定だったのが1999年7月。カントリー娘。とココナッツ娘がデビューしたのも同月。これは偶然なのだろうか? キャシー中島さんのキルト教室・フラダンス教室、ハワイでのコーヒー園の事業、そして田中氏曰く「会長はハワイに入り浸っている」発言、一つの方向性を示しているように見えるが、ここではそれを直接的に言うべきではないだろう。
下記にここまでのことをざっと年表にまとめておく。
1987.02. 国鉄広尾線廃止
1987〜88 六花亭、中札内村に土地を取得
1988. 中札内村観光開発計画
1989. グリュック王国オープン
紫竹ガーデンオープン
1990.11. 一本山展望タワー完成
1991.04. 日高山脈山岳センターオープン
1991.12. 六花亭、坂本直行記念館完成
1992.05. (株)花畑牧場設立
1992. グリュック王国、ビュッケブルグ城オープン
フェーリエンドルフオープン
1992.10. 十勝インターナショナルスピードウェイオープン
1992.12. 田中義剛氏、十勝初視察
1994.03. (株)花畑牧場、中札内村に土地を取得
1994.11. 花畑牧場オープン
1995. 花畑牧場コンサート
(十勝地方への観光需要の大幅低下、注目度の減少)
1997. 六花亭、中札内村工場新設計画
1998.01. グリュック王国に経営支援計画と、ハワイをテーマにした施設の建設計画
1998.04. 花畑牧場、トムチーズ販売開始
1998.06〜 北海道で『風の娘たち』撮影開始
1998.08. 六花亭、相原求一朗美術館開館
六花亭、福井県から民家を移築、「花六花」オープン
1998.12. 六花亭、中札内村工場操業開始
1999.03. カントリー娘。オーディション開始(柳原尋美・戸田鈴音・小林梓が選出)
1999.06. モーニング娘。、北海道美瑛でプロモーションビデオ撮影
1999.07. グリュック王国でハワイをテーマにした施設がオープン予定だった
1999.07.16 柳原尋美さん、中札内村で交通事故、還らぬ人に
1999.07.23 カントリー娘。・ココナッツ娘デビュー
1999.08.01 モーニング娘。北海道上ノ国でコンサート(カントリー娘。もりんね一人で出演)
1999.08. スターダストレビュー(UF所属)の新曲が新富良野プリンスホテルCMのテーマソングに
グリュック王国と経営を同じくするフェーリエンドルフ。
1999年、花畑牧場から3キロほどのところにあるこの休暇村にカントリー娘。のオリジナルメンバーたちは住んでいた。施設内にあるコテージ1棟を借りて3人で生活していたのだ。
また、尋美さんはフェーリエンドルフ内にあった花畑牧場が経営するレストランでも仕事をこなしていた(現在は「ミュンヒ・ハウゼン」というレストランに変わっている)。メンバーたちはこのコテージで寝起きを共にし、毎日花畑牧場まで通い、ダンスレッスンや歌のレッスンをこなしながら、デビューの日を夢見ていたのである。
たった3、4ヶ月のことではあるが、この日々のことを思わなければりんねが後々までカントリー娘。を愛し牧場にこだわっていたかを理解するのは難しい。また小林さんが毎年変わらず尋美さんのお墓参りに行っていることも、この頃を知らない人には理解されないだろう。
わずか2週間一緒に暮らしたモーニング娘。のオリジナルメンバー5人ですらその時の思い出は深く残ったのだから、カントリー娘。3人の3、4ヶ月の共同生活はそれはそれは深く思い出に残ったに違いない。ましてやああいう形でその生活は終わりを遂げたのだから…
1999年10月。新曲『雪景色』が発売される1か月ほど前の話。
一人活動を続けていたりんねが語っている。
「カントリー娘。のオーディションの時は明るいひろみの性格のおかげですぐに打ち解けることができた。
でもメンバー決定後にはすぐに仲が悪くなってしまった。
そんな中でも忙しい日々が過ぎていくうちにそれぞれの役割が分かってきて、デビューが決まり、レコーディングやプロモーションビデオの撮影が行われ、いつしかお互いに励まし合い頑張っていこうという雰囲気のグループになっていった…」
この時の思いが後々まで続く。
そしてあれから15年が経った今でもりんねと小林さんが会い笑顔で話している。
あの頃の思い出話に花を咲かせている。
いろんなしがらみや思惑から完全に離れたところで彼女たちは自分たちの思いを胸にしまい強く生きている。
それが彼女たちが選んだ道。
90年代前半から中札内村での事業計画に携わってきたUFだったが、バブル期の他社の計画の相次ぐ失敗を見てか観光事業への見切りをつけていったように思う。田中氏の考え方も観光牧場としてより商売の方に重点を置いた発言が多くなっていったような気がする。ラーメン屋をプロデュースし牧場産のチーズを卸し始めたりしたのも90年代末〜00年代初め頃だったと記憶している。
その後、2001年に経営難の続いたグリュック王国は方針を大転換、「十勝幸福街道/21世紀のエコ・ミュージアム」をテーマに、国道236号・国道241号をドイツの「ロマンチック街道」や「メルヘン街道」に模して十勝地方全体を利用しての観光客増員を目指し、紫竹ガーデンや中札内美術館・六花亭との共通パスポートを作ろうとしていた。(詳細:http://www.fantastics.co.jp/glucks_3.htm)
この広域化計画に花畑牧場の名前を見ることができないが、これはたまたまなのだろうか? 推測するに、グリュック王国側の計画にそれまで協力体制になかったと思われる六花亭の名前が見えることから、逆にUFサイドとは縁が遠くなったという証明にならないだろうか。地元の大企業である六花亭との提携を模索したというのが、グリュック王国2001年の動きだったのだと思う。また、2002年には再び方針転換、「食」をテーマにし今度は地元農業関係者との関係を再構築をしようとした。(詳細:http://www.fantastics.co.jp/glucks_4.htm)
こうした動きは六花亭や地元既存勢力と争ってきた田中氏の言動とは相反するものである。つまり、この時期にはUFとぜんりんの関係は薄くなっていたと考えるのが自然だ。記憶が確かならば2001年の末くらいにりんねが「来年はカントリー娘。は変革の年になる」とUF会長(2001年の組織改編によりグループ会長に就任)から言い渡されている。この<変革>が行われる理由の一つに、この北海道での勢力図の変化があったのではないだろうか。
つまりこの2001年末の段階で、ユニット発足の足掛かりとなった施設との縁は完全に切れ、また花畑牧場も観光地としては十勝では独立した存在を歩み始め、これ以降は自社製品の開発と販売・営業に重点を置くようになり、牧場で働く「半農」アイドルは花畑牧場もUFも必要としなくなった。東京で宣伝してくれれば十分な存在になった。これが2002年秋のカントリー娘。の牧場からの撤退なのではないかと思う。
そしてりんね。りんねは99年にフェーリエンドルフで暮らし、働き、その思い出を強く残しているメンバーである。現地にも友人がいただろうし、あの事故から、いやその前からずっと応援してきてくれた知り合いもいっぱいいたはずだ。そうした思いを背負っていたりんねと、そこを離れるという方針は当然相入れるわけがない。
2002年の最初に「『アイさが』のカメラが入って撮影していた頃の牧場の生活VTRを見直したい」とりんねが言っていたのは、やはり中札内村での状況変化にりんねは気付いていたからなのだろう。そして自分の去就をどうするか悩み続けていたのだろう。それが別れに繋がっていった。
2002年10月13日にりんねは牧場から去った。
彼女が残した思い出、1999年に起きた忘れられない出来事、色褪せずに心に深く残る。
この考察シリーズからはちょっと外れるのかもしれないが、1999年を語るからにはこの件は外せない。
ちまたで言われているようにただ単にりんねは解雇されたわけでもなく、そこには強い意思が見え隠れしていた。そして小林さんにも強い思いがあり、今でもそれは変わらない。
亡くなった尋美さんもきっとそんな2人のカントリー娘。を暖かく見守ってくれていたに違いない。
そこには深く強い絆が存在していたのだということを、これから先も忘れてはならないと思う。
いわゆる「大人の事情」に振り回され続けたカントリー娘。だったが、本気でそれに賭けていた女の子たちがいたのだ…
そしてそんな事情とは別の世界で「思い」を続けた彼女たちにとてつもない優しさを感じるのだ。
何があっても彼女たちはその思いだけは今後もずっと変わらないだろうな…
第8回目。
『LOVEマシーン』をレコーディングする8月以降のスケジュールを追っていく予定でしたが、一旦北海道方面の資料を整理してしまおうということで、今回は花畑牧場・カントリー娘。のことについて少し書きます。
調べていたらココナッツ娘。結成の遠因と思えるものも発見してしまいました。
最後の方、1999年を超えて2002年頃まで言及してますが、話の流れと言うことでご了承を。それと、内容は憶測・妄想で語っていることも多々あり、事実とは違う場合もありますので…予め御断りしておきます。これを未来に読むときは新たな情報が出ている可能性もあるのでよく調べてください。
終わりはちょっと急ぎすぎたかなという気もしますが、2001〜2002年のカントリー娘。についてはまた機会があるときに改めて書きます。
調べてて分かったことは今回かなりありました。興味のない人には「なんのこっちゃ」って話ばかりなのですが…
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(1)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(2)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(3)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(4)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(5)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(6)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(7)
の続き。
----
まず花畑牧場の所在地である中札内村、十勝地方のことから入っていこうと思う。
なぜここで牧場を開くことになるのか、アイドル事業をすることになるのか、分かる範囲で記しておく。
何年か経ったときに調べ物として役に立つときが来るかもしれない。
まずは昭和の時代までさかのぼる。
十勝地方で有名な「幸福駅」「愛国駅」のある国鉄広尾線が廃止されたのは1987年(昭和62年)2月1日のこと。
鉄道はバス転換され、村の中心部にあった中札内駅もその歴史に幕を閉じた。元々観光資源に乏しかったこの地方は鉄道廃止により観光重要はますます減ることが予想された。
鉄道が廃止された翌年の1988年、村は早くも観光開発計画に着手している。
その中には90年代にこの地方に現れた数々の施設の原計画と思えるような記述が多々あった。また、この年の6月に村で行われた観光開発シンポジウムには六花亭(帯広市)の副社長が参加しており、村への関わりをこの当時からすでに持っていたことが分かる。
このシンポジウムのディスカッションで、
1. 「観光開発」は地域住民の共通した考え方の中から発展していく。例えば花いっぱいとか、美しい並木道など。
2. 誰でも気軽に利用できる丸太小屋がある村というような親しみやすいイメージを作ったらと思う。
3. 豊富な農畜産物を生かした優れた地場産品を恒久的に供給できる生産性の確立と消費者の獲得が長い目での観光に結びつくと考える。
といった意見が出されていた。
(引用元:http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/nakasatsunai_koutuu_kankou.html)
この計画・方針の元で建設されたと思われる施設をいくつか紹介していこう。
●日高山脈山岳センター
1990年12月完成、1991年4月28日オープン。日高山脈に関する自然や最新情報の提供、資料の展示や登山研修などを目的として建設される。
先述の1988年の「観光開発計画」の報告書を作成した会社が設計を担当。村の西部、ピョウタンの滝近くの札内川園地内にある。ピョウタンの滝には自分も行ったことがあるが、「時間をかけて遠くまできたわりには…」という印象。
(参考:http://www.vill.nakasatsunai.hokkaido.jp/kankou/spot/%E6%97%A5%E9%AB%98%E5%B1%B1%E8%84%88%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC/)
●一本山展望タワー
1990年8月建設開始、同年11月完成。一本山(標高355メートル)の頂上にある高さ24メートルの展望タワー。中札内村から日高山脈まで、十勝の自然を一望できる。
(参考:http://www.vill.nakasatsunai.hokkaido.jp/kankou/spot/%E4%B8%80%E6%9C%AC%E5%B1%B1%E5%B1%95%E6%9C%9B%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC/)
●フェーリエンドルフ
ドイツの休暇村を模した中期滞在型農村リゾート。
1991年に花畑牧場の一区画北(当時はまだ花畑牧場はない)の村有地に、帯広の不動産デベロッパー・ぜんりん地所建設の西惇夫社長(当時)がドイツ型農村休暇村を建設提案。ぜんりん地所はこれにグリュック王国(後述)との連係構想を掲げ、中札内村の観光開発計画ともその内容が合致したので、村は受け入れることを決定した。
基本計画では50ヘクタールの敷地に350棟の休暇ハウス、レストランや各種ショップ、スポーツ施設、研修施設、厩舎、教会、野外ステージ、風車小屋等、農村リゾートとしての多数の施設を整える予定だった(その後規模を縮小)。
1992年に着工、同年度中に100戸あまりが完成したが、その後のバブル崩壊の影響を受けて当初の計画通りには進展しなかった。現在ものどかなドイツの田舎風の生活を過ごせる貸別荘として健在。
(詳細:http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/nakasatsunai_koutuu_kankou.html
参考:http://www.vill.nakasatsunai.hokkaido.jp/kankou/?s=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95
HP:http://www.zenrin.ne.jp/index.html)
●中札内美術村
六花亭(帯広市)資本の芸術村。「有機農業の村」を宣言している中札内村と良質な原料提供で手を結べることなどから進出を計画した(引用:http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/nakasatsunai_koutuu_kankou.html)。1987年88年に22ヘクタールの土地を取得、坂本直行記念館を皮切りに複数の施設を建設、現在に至る(詳しくは六花亭ホームページへ)。
●坂本直行記念館(中札内美術村)
1990年計画発表、1991年4月着工、12月完成。六花亭の花柄包装紙にも使われている画家・坂本直行の作品を展示した記念館。同時にレストラン「ポロシリ」や売店「柏林」も建設された。1992年4月オープン。館内にはコンサートも出来るホールが建設されている。クラシック系コンサートも多数開かれ、芸術系のイベントホールとしての存在を確立している。
●相原求一朗美術館(中札内美術村)
1997年8月8日開館。中札内村と姉妹提携を結ぶ埼玉県川越市生まれの画家・相原求一朗の作品を展示した美術館。同氏は北海道の風景を30数年描き続け、「幸福駅2月1日」が六花亭社長・小田豊氏などから評価されて美術館の建設に至った。同館は永久保存の運動があった帯広市の築70年の銭湯「帯広湯」を移築、復元することで建設されている。
●花六花(中札内美術村)
1998年に福井県から築200年のかやぶき屋根の民家を移築。現在はうどん・甘味処として営業。ちなみに中札内村は明治時代に福井県から多くの開拓者が殖民している。アップフロントと福井県の繋がりの一端として記憶に留めておいてもいいかもしれない。
以上が中札内村の施設。以下にごく近郊に展開された観光施設を紹介する。
●グリュック王国
1989年に帯広市にオープンしたテーマパーク。
場所は幸福駅からすぐ近く。事業主はぜんりん地所建設(建物はぜんりんレジャーランドが所有)。施設のコンセプトはフェーリエンドルフと同様に「ドイツ」、長崎のハウステンボスに刺激されたのか、建造物による雰囲気作りは徹底していて豪勢なものがあった。
1992年夏にはテーマパークのシンボル「ビュッケブルグ城」が完成、城の中に67室の「シュロスホテル」をオープンさせた。オープン当初は70万人を超える入場者を集めそれなりの集客力があったが、バブル崩壊後から急速に経営が悪化、1997年以降は建物のメンテナンスもままならず、従業員の教育すら行き届かないことがあった。来場者は2000年で20万人を切ったという。
経営が傾いた2001年、再建を期し「十勝エコ・ヒーリングガーデンフェスト花大祭」を開催、施設のテーマを「十勝幸福街道・21世紀のエコ・ミュージアム」に大転換したが、業績回復には繋がらなかった。2002年以降段階的に施設の閉鎖をおこない、2003年には休園に追い込まれた。長らく休園が続いていたが2007年2月に競売にかけられ、再出発の見込みはなくなった。しかも競売への入札は一件もなかったという。
(参考・詳細:http://www.fantastics.co.jp/glucks_1.htm)
2012年10月7日川崎の東急東横線元住吉駅前に同王国に飾られていた「ブレーメン音楽隊像」がフェーリエンドルフの西オーナーより寄贈された。
●十勝インターナショナルスピードウェイ
中札内村の南、更別村にある国際規格のサーキット。1992年10月にオープン。有名なところでは全日本GT選手権などを開催していた。十勝で行われる国際ラリー選手権の「ラリージャパン」にもスタッフを派遣。東京から最も近い(時間的に)サーキットと言われている。
2009年に自己破産を申請。現在は携帯電話サイトなどを運営するMSF株式会社が買収し営業を継続している。
●紫竹ガーデン
国道236号、幸福駅から西に入ったところにある花の庭園。住所は帯広市だが中札内村にはほど近い。18000坪の花畑が広がる。1989年にプライベートガーデンとしてオープン。観光スポットとして順調に伸び現在も同場所で営業中。2013年には13万人の観光客が訪れた。
以上、ざっと観光スポットを取り上げてきたが、中札内村周辺の観光施設の整備は1990年代の前半に集中している。これにはバブルの影響が見え隠れし、建設優先で資金回収の不透明な施設と思えるものも多々あった。
1992年にはグリュック王国と十勝インターナショナルスピードウェイという2大観光スポットが揃ったことによって、十勝地方への日帰り観光客、年間宿泊客数とも1985年に比べて2倍近い伸びを示していた。
同年には開基110年・帯広市制施行60年を記念する「十勝・緑の地球博 みどりいむ'92」が開催され、十勝地方への観光需要はピークを迎える。
そんな中の1992年末、田中義剛氏が初めて事業目的でこの地を視察に訪れている。伝えられている一説によれば、事務所の紹介でぜんりんの西惇夫社長と出会い、それがきっかけでこの地に牧場を開くことになったという(あくまでも一説、真相は不明)。国道から入ってフェーリエンドルフを過ぎた一区画に牧場の地は選ばれた。
牧場の土地取得は1994年3月で、オープンは同年の11月7日。
牧場ではオープンパーティーが開かれ地元の農業関係者の他、多数の人がつめかけた。アップフロントの社長や、有賀さつきさん、その後宮崎県知事になったそのまんま東氏ら多くの芸能関係者も訪れていたという。また、同牧場の花畑工事を手がけた紫竹ガーデンの社長や中札内村の村長も訪れていた。
翌1995年には「花畑牧場コンサート」を開催、堀内孝雄氏、森高千里さんらアップフロント(以下UF)の歌手を呼んで村民800人を集め、中札内村への花畑牧場のアピールを行った。
上記の通り中札内村への田中義剛氏の関わりは一番早い時点をとっても1992年の末、土地取得が決まったのは1994年の春である。しかし、花畑牧場の会社概要によれば「株式会社 花畑牧場」の設立年月日は1992年5月7日となっている。そして当時の田中氏は株式会社 花畑牧場の社長ではない。この時系列をどう整理していくか。
(東京に存在していたレストラン「花畑牧場」との絡みの可能性もあるが、詳しい情報がないので今回は考慮しない)
個人的な憶測をするならば、十勝地方の有力者と親交のあったUFサイドが1980年代末から始まった十勝地方の観光バブルを見て「何かやろう」と思ったことが始まりだったのではないだろうか(あくまでも憶測)。
花畑牧場でやろうとしていたことは1988年に中札内村で出された観光開発計画での意見そのものに見える。しかも社長が命名し、ニュージーランドにその名を求めたということになっている「花畑牧場」という名前さえもが、実際は村の観光開発計画の内容から取ったのではと穿った目で見てしまう。
そして農業経験もあり牧場経営が夢だったUF所属の田中氏に広告塔としての役割も期待して牧場を任せたというのが1992年末の田中氏の十勝視察に繋がるのではないだろうか。
もちろん田中氏自身も元から牧場経営を望むところがあったので、これはどちらが先に言い出した等は論ずる部分ではなく両者の思惑が一致していたということなのだろう。そうでなければ3億も4億もお金を出すまい。
その田中氏であるが、かつてwebで連載していた花畑通信でも分かるように、牧場開始当初から地元の農協関係者や古参の酪農家たちとはうまくいっていなかった(と書いてある)。それは端から見ればお互いさまの言葉の応酬であったりするのだが、その根底にあるものが田中氏の地元の既存勢力への反発だったのではないかと思う。それが一時期話題になっていた六花亭との対立に繋がるのではないだろうか。田中氏の六花亭への敵意は10年を超える歴史の中で育まれたものではないだろうか。
先述したように六花亭は帯広市に本社を置き、中札内村の観光開発計画が決定される前から、村への進出を計画していた。早い段階で現在も運営している数々の施設を村に作ってコミットしている。同じく帯広に本社を置くぜんりんも進出したのだが、タレントを使ったPR等、海外をテーマにした大きな箱ものなど、今から考えればバブルな拡大路線を取っていた。花畑牧場は後発組でここと近い距離(心情的な)で十勝に進出してきたから(推定)、六花亭と相容れない構図はなにも今に始まったことではないのだろう。
1990年代半ば以降、十勝地方への観光需要が一気に減りぜんりんの思惑は外れるのだが(ぜんりんだけではないが)、同様に進出していた花畑牧場も苦しくなる。「株式会社 花畑牧場」はUFの人間が代表取締役を務め100%UFグループ出資の子会社だった。当時の田中氏はその会社の中の取締役で現場の牧場長である。田中氏が同地に居を構えUFからお金を借り、引くに引けない状況で進退極まっていたというのが、1990年代後半の情勢だったのではないだろうか。記憶が確かならば、この頃は牧場の存続を危ぶんだような報道がされていた記憶もある。
そのような情勢の中、六花亭が1997年に中札内村に工場を作る計画が持ち上がった。この計画に村は素早い認可を降ろす。そして雪解け後の翌98年4月には着工、11月に完成、12月には早くも操業を開始している。前述の「相原求一朗美術館」のオープンや「花六花」の福井県からの移築と合わせ、この時期の六花亭は開発を広げていた。
これに対して花畑牧場は1998年の4月からトムチーズの販売を開始。チーズとソフトクリームという現在も花畑牧場製品の主力を担う自家製品の開発と営業・販売はこの年から始まった。この当時からジャージー牛に重点を置いて商品開発していたことは、先見の明があったといってもいいだろう。
当時の花畑牧場と六花亭がどの程度対立していたかは知る由もないが、花畑牧場は後発組であり、その存在は北海道土産菓子3大メーカーの一つである六花亭とは比べ物にならなかった。だからこそ必死になってPRする必要もあったし、タレント的な特権を使ったのだろう。借金がある状況では致し方ない部分ではある。
1998年の6月、UFの北海道事業にとって一つの転機が訪れた。それがドラマ『風の娘たち』の北海道での撮影である。
1998年4月期の『太陽娘と海』に続いて製作されたこのドラマはモーニング娘。こそ出演していなかったが、前作に引き続き建みさとさんと柳原尋美さんが出演していた。そしてこのドラマが放送されている最中の1998年9月、モーニング娘。は『抱いてHOLD ON ME!』でオリコン1位を取り、ASAYANと共にブームを巻き起こす。
さてここで、モーニング娘。のマネジメントに関して当時は主たる権限をUF側が持っていないという問題がある。
これはそのオーディション過程から来るものだが、プロデュース面ではタカハタ氏らASAYAN演出・制作陣、和田薫氏、それにつんく氏、この三者が「あーだこーだ言いながら」進めていた。またASAYANそのものは吉本興行の企画であり(番組プロデューサーの泉正隆氏は吉本興行所属)、そこに広告会社も絡んでくる。また番組出身の都合上テレビ局との関係も出てくる。その上でメンバー育成の資金面はUF持ちで進んでいた。
お金を出しているのにその育成したタレントを自由に使えないもどかしさ。(これが当時CMに出なかったり、他局へのレギュラー出演のネックになっていたといわれている)
つまり何が言いたいかというと、花畑牧場の広告塔としてどんなに利用価値があってもモーニング娘。は使えなかったということである。
またこの考察シリーズで書いている通り当時はそれまでUFの芸能事業の稼ぎ頭として主力を担ってきた森高千里さんや谷村有美さん、加藤紀子さんらが活動を縮小している時期であり、その次を担う人材を探していたように思う。
上記の理由…モーニング娘。という名前の利用価値、当時の花畑牧場の窮状、次世代タレントの育成…それらが関係者の中で合わさって方向性を生み、翌年のカントリー娘。誕生に繋がっていったのではないだろうか。
また、1998年1月10日の十勝毎日新聞の記事によると、グリュック王国の敷地内にハワイをイメージしたプール中心の大規模レジャー施設を建設する計画が持ち上がっている。
施設の仮名は「ブルー・ハワイアン」で、ハワイからスタッフを呼び、ハワイアンダンスなどをイベントとして予定していたという。オープンは「1999年の7月」を目指していた。また、経営難に陥っていたグリュック王国への経営支援も行われる予定だったという。
このグリュック王国へ乗り出してきた企業がジェイ・ウェイ(本社・東京千代田区)というインターネット関連のベンチャー企業で、時を同じくして帯広と富良野の中間に位置する新得町で大規模なLEDの研究・製造施設を作ろうとしていた。計画通り完成していれば1999年4月から工場が稼動する予定だったという。(1997年10月の十勝毎日新聞より)
しかし結局このジェイ・ウェイの計画は頓挫する(何をどう調べても完成記事や情報が出てこなかった)。グリュック王国(ドイツのテーマパーク)へのハワイ関連施設の投入など、常識からずれた感覚は最初から結果が見えていたように思う。このずれた感覚というのが、どうも気になっていた。
このグリュック王国へのハワイをテーマにした大規模施設がオープンする予定だったのが1999年7月。カントリー娘。とココナッツ娘がデビューしたのも同月。これは偶然なのだろうか? キャシー中島さんのキルト教室・フラダンス教室、ハワイでのコーヒー園の事業、そして田中氏曰く「会長はハワイに入り浸っている」発言、一つの方向性を示しているように見えるが、ここではそれを直接的に言うべきではないだろう。
下記にここまでのことをざっと年表にまとめておく。
1987.02. 国鉄広尾線廃止
1987〜88 六花亭、中札内村に土地を取得
1988. 中札内村観光開発計画
1989. グリュック王国オープン
紫竹ガーデンオープン
1990.11. 一本山展望タワー完成
1991.04. 日高山脈山岳センターオープン
1991.12. 六花亭、坂本直行記念館完成
1992.05. (株)花畑牧場設立
1992. グリュック王国、ビュッケブルグ城オープン
フェーリエンドルフオープン
1992.10. 十勝インターナショナルスピードウェイオープン
1992.12. 田中義剛氏、十勝初視察
1994.03. (株)花畑牧場、中札内村に土地を取得
1994.11. 花畑牧場オープン
1995. 花畑牧場コンサート
(十勝地方への観光需要の大幅低下、注目度の減少)
1997. 六花亭、中札内村工場新設計画
1998.01. グリュック王国に経営支援計画と、ハワイをテーマにした施設の建設計画
1998.04. 花畑牧場、トムチーズ販売開始
1998.06〜 北海道で『風の娘たち』撮影開始
1998.08. 六花亭、相原求一朗美術館開館
六花亭、福井県から民家を移築、「花六花」オープン
1998.12. 六花亭、中札内村工場操業開始
1999.03. カントリー娘。オーディション開始(柳原尋美・戸田鈴音・小林梓が選出)
1999.06. モーニング娘。、北海道美瑛でプロモーションビデオ撮影
1999.07. グリュック王国でハワイをテーマにした施設がオープン予定だった
1999.07.16 柳原尋美さん、中札内村で交通事故、還らぬ人に
1999.07.23 カントリー娘。・ココナッツ娘デビュー
1999.08.01 モーニング娘。北海道上ノ国でコンサート(カントリー娘。もりんね一人で出演)
1999.08. スターダストレビュー(UF所属)の新曲が新富良野プリンスホテルCMのテーマソングに
グリュック王国と経営を同じくするフェーリエンドルフ。
1999年、花畑牧場から3キロほどのところにあるこの休暇村にカントリー娘。のオリジナルメンバーたちは住んでいた。施設内にあるコテージ1棟を借りて3人で生活していたのだ。
また、尋美さんはフェーリエンドルフ内にあった花畑牧場が経営するレストランでも仕事をこなしていた(現在は「ミュンヒ・ハウゼン」というレストランに変わっている)。メンバーたちはこのコテージで寝起きを共にし、毎日花畑牧場まで通い、ダンスレッスンや歌のレッスンをこなしながら、デビューの日を夢見ていたのである。
たった3、4ヶ月のことではあるが、この日々のことを思わなければりんねが後々までカントリー娘。を愛し牧場にこだわっていたかを理解するのは難しい。また小林さんが毎年変わらず尋美さんのお墓参りに行っていることも、この頃を知らない人には理解されないだろう。
わずか2週間一緒に暮らしたモーニング娘。のオリジナルメンバー5人ですらその時の思い出は深く残ったのだから、カントリー娘。3人の3、4ヶ月の共同生活はそれはそれは深く思い出に残ったに違いない。ましてやああいう形でその生活は終わりを遂げたのだから…
1999年10月。新曲『雪景色』が発売される1か月ほど前の話。
一人活動を続けていたりんねが語っている。
「カントリー娘。のオーディションの時は明るいひろみの性格のおかげですぐに打ち解けることができた。
でもメンバー決定後にはすぐに仲が悪くなってしまった。
そんな中でも忙しい日々が過ぎていくうちにそれぞれの役割が分かってきて、デビューが決まり、レコーディングやプロモーションビデオの撮影が行われ、いつしかお互いに励まし合い頑張っていこうという雰囲気のグループになっていった…」
この時の思いが後々まで続く。
そしてあれから15年が経った今でもりんねと小林さんが会い笑顔で話している。
あの頃の思い出話に花を咲かせている。
いろんなしがらみや思惑から完全に離れたところで彼女たちは自分たちの思いを胸にしまい強く生きている。
それが彼女たちが選んだ道。
90年代前半から中札内村での事業計画に携わってきたUFだったが、バブル期の他社の計画の相次ぐ失敗を見てか観光事業への見切りをつけていったように思う。田中氏の考え方も観光牧場としてより商売の方に重点を置いた発言が多くなっていったような気がする。ラーメン屋をプロデュースし牧場産のチーズを卸し始めたりしたのも90年代末〜00年代初め頃だったと記憶している。
その後、2001年に経営難の続いたグリュック王国は方針を大転換、「十勝幸福街道/21世紀のエコ・ミュージアム」をテーマに、国道236号・国道241号をドイツの「ロマンチック街道」や「メルヘン街道」に模して十勝地方全体を利用しての観光客増員を目指し、紫竹ガーデンや中札内美術館・六花亭との共通パスポートを作ろうとしていた。(詳細:http://www.fantastics.co.jp/glucks_3.htm)
この広域化計画に花畑牧場の名前を見ることができないが、これはたまたまなのだろうか? 推測するに、グリュック王国側の計画にそれまで協力体制になかったと思われる六花亭の名前が見えることから、逆にUFサイドとは縁が遠くなったという証明にならないだろうか。地元の大企業である六花亭との提携を模索したというのが、グリュック王国2001年の動きだったのだと思う。また、2002年には再び方針転換、「食」をテーマにし今度は地元農業関係者との関係を再構築をしようとした。(詳細:http://www.fantastics.co.jp/glucks_4.htm)
こうした動きは六花亭や地元既存勢力と争ってきた田中氏の言動とは相反するものである。つまり、この時期にはUFとぜんりんの関係は薄くなっていたと考えるのが自然だ。記憶が確かならば2001年の末くらいにりんねが「来年はカントリー娘。は変革の年になる」とUF会長(2001年の組織改編によりグループ会長に就任)から言い渡されている。この<変革>が行われる理由の一つに、この北海道での勢力図の変化があったのではないだろうか。
つまりこの2001年末の段階で、ユニット発足の足掛かりとなった施設との縁は完全に切れ、また花畑牧場も観光地としては十勝では独立した存在を歩み始め、これ以降は自社製品の開発と販売・営業に重点を置くようになり、牧場で働く「半農」アイドルは花畑牧場もUFも必要としなくなった。東京で宣伝してくれれば十分な存在になった。これが2002年秋のカントリー娘。の牧場からの撤退なのではないかと思う。
そしてりんね。りんねは99年にフェーリエンドルフで暮らし、働き、その思い出を強く残しているメンバーである。現地にも友人がいただろうし、あの事故から、いやその前からずっと応援してきてくれた知り合いもいっぱいいたはずだ。そうした思いを背負っていたりんねと、そこを離れるという方針は当然相入れるわけがない。
2002年の最初に「『アイさが』のカメラが入って撮影していた頃の牧場の生活VTRを見直したい」とりんねが言っていたのは、やはり中札内村での状況変化にりんねは気付いていたからなのだろう。そして自分の去就をどうするか悩み続けていたのだろう。それが別れに繋がっていった。
2002年10月13日にりんねは牧場から去った。
彼女が残した思い出、1999年に起きた忘れられない出来事、色褪せずに心に深く残る。
この考察シリーズからはちょっと外れるのかもしれないが、1999年を語るからにはこの件は外せない。
ちまたで言われているようにただ単にりんねは解雇されたわけでもなく、そこには強い意思が見え隠れしていた。そして小林さんにも強い思いがあり、今でもそれは変わらない。
亡くなった尋美さんもきっとそんな2人のカントリー娘。を暖かく見守ってくれていたに違いない。
そこには深く強い絆が存在していたのだということを、これから先も忘れてはならないと思う。
いわゆる「大人の事情」に振り回され続けたカントリー娘。だったが、本気でそれに賭けていた女の子たちがいたのだ…
そしてそんな事情とは別の世界で「思い」を続けた彼女たちにとてつもない優しさを感じるのだ。
何があっても彼女たちはその思いだけは今後もずっと変わらないだろうな…