Submarine Dog

カテゴリ: ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ

(2014年11月7日 加筆・修正)

93635e60.jpg第8回目。

『LOVEマシーン』をレコーディングする8月以降のスケジュールを追っていく予定でしたが、一旦北海道方面の資料を整理してしまおうということで、今回は花畑牧場・カントリー娘。のことについて少し書きます。
調べていたらココナッツ娘。結成の遠因と思えるものも発見してしまいました。
最後の方、1999年を超えて2002年頃まで言及してますが、話の流れと言うことでご了承を。それと、内容は憶測・妄想で語っていることも多々あり、事実とは違う場合もありますので…予め御断りしておきます。これを未来に読むときは新たな情報が出ている可能性もあるのでよく調べてください。

終わりはちょっと急ぎすぎたかなという気もしますが、2001〜2002年のカントリー娘。についてはまた機会があるときに改めて書きます。

調べてて分かったことは今回かなりありました。興味のない人には「なんのこっちゃ」って話ばかりなのですが…

ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(1)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(2)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(3)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(4)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(5)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(6)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(7)
の続き。



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まず花畑牧場の所在地である中札内村、十勝地方のことから入っていこうと思う。
なぜここで牧場を開くことになるのか、アイドル事業をすることになるのか、分かる範囲で記しておく。
何年か経ったときに調べ物として役に立つときが来るかもしれない。


まずは昭和の時代までさかのぼる。

十勝地方で有名な「幸福駅」「愛国駅」のある国鉄広尾線が廃止されたのは1987年(昭和62年)2月1日のこと。
鉄道はバス転換され、村の中心部にあった中札内駅もその歴史に幕を閉じた。元々観光資源に乏しかったこの地方は鉄道廃止により観光重要はますます減ることが予想された。

鉄道が廃止された翌年の1988年、村は早くも観光開発計画に着手している。
その中には90年代にこの地方に現れた数々の施設の原計画と思えるような記述が多々あった。また、この年の6月に村で行われた観光開発シンポジウムには六花亭(帯広市)の副社長が参加しており、村への関わりをこの当時からすでに持っていたことが分かる。

このシンポジウムのディスカッションで、

1. 「観光開発」は地域住民の共通した考え方の中から発展していく。例えば花いっぱいとか、美しい並木道など。
2. 誰でも気軽に利用できる丸太小屋がある村というような親しみやすいイメージを作ったらと思う。
3. 豊富な農畜産物を生かした優れた地場産品を恒久的に供給できる生産性の確立と消費者の獲得が長い目での観光に結びつくと考える。

といった意見が出されていた。
(引用元:http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/nakasatsunai_koutuu_kankou.html)

この計画・方針の元で建設されたと思われる施設をいくつか紹介していこう。


●日高山脈山岳センター
1990年12月完成、1991年4月28日オープン。日高山脈に関する自然や最新情報の提供、資料の展示や登山研修などを目的として建設される。
先述の1988年の「観光開発計画」の報告書を作成した会社が設計を担当。村の西部、ピョウタンの滝近くの札内川園地内にある。ピョウタンの滝には自分も行ったことがあるが、「時間をかけて遠くまできたわりには…」という印象。
(参考:http://www.vill.nakasatsunai.hokkaido.jp/kankou/spot/%E6%97%A5%E9%AB%98%E5%B1%B1%E8%84%88%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC/)

●一本山展望タワー
1990年8月建設開始、同年11月完成。一本山(標高355メートル)の頂上にある高さ24メートルの展望タワー。中札内村から日高山脈まで、十勝の自然を一望できる。
(参考:http://www.vill.nakasatsunai.hokkaido.jp/kankou/spot/%E4%B8%80%E6%9C%AC%E5%B1%B1%E5%B1%95%E6%9C%9B%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC/)

●フェーリエンドルフ
ドイツの休暇村を模した中期滞在型農村リゾート。
1991年に花畑牧場の一区画北(当時はまだ花畑牧場はない)の村有地に、帯広の不動産デベロッパー・ぜんりん地所建設の西惇夫社長(当時)がドイツ型農村休暇村を建設提案。ぜんりん地所はこれにグリュック王国(後述)との連係構想を掲げ、中札内村の観光開発計画ともその内容が合致したので、村は受け入れることを決定した。
基本計画では50ヘクタールの敷地に350棟の休暇ハウス、レストランや各種ショップ、スポーツ施設、研修施設、厩舎、教会、野外ステージ、風車小屋等、農村リゾートとしての多数の施設を整える予定だった(その後規模を縮小)。
1992年に着工、同年度中に100戸あまりが完成したが、その後のバブル崩壊の影響を受けて当初の計画通りには進展しなかった。現在ものどかなドイツの田舎風の生活を過ごせる貸別荘として健在。
(詳細:http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/nakasatsunai_koutuu_kankou.html
 参考:http://www.vill.nakasatsunai.hokkaido.jp/kankou/?s=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95
 HP:http://www.zenrin.ne.jp/index.html)

●中札内美術村
六花亭(帯広市)資本の芸術村。「有機農業の村」を宣言している中札内村と良質な原料提供で手を結べることなどから進出を計画した(引用:http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/nakasatsunai_koutuu_kankou.html)。1987年88年に22ヘクタールの土地を取得、坂本直行記念館を皮切りに複数の施設を建設、現在に至る(詳しくは六花亭ホームページへ)。

●坂本直行記念館(中札内美術村)
1990年計画発表、1991年4月着工、12月完成。六花亭の花柄包装紙にも使われている画家・坂本直行の作品を展示した記念館。同時にレストラン「ポロシリ」や売店「柏林」も建設された。1992年4月オープン。館内にはコンサートも出来るホールが建設されている。クラシック系コンサートも多数開かれ、芸術系のイベントホールとしての存在を確立している。

●相原求一朗美術館(中札内美術村)
1997年8月8日開館。中札内村と姉妹提携を結ぶ埼玉県川越市生まれの画家・相原求一朗の作品を展示した美術館。同氏は北海道の風景を30数年描き続け、「幸福駅2月1日」が六花亭社長・小田豊氏などから評価されて美術館の建設に至った。同館は永久保存の運動があった帯広市の築70年の銭湯「帯広湯」を移築、復元することで建設されている。

●花六花(中札内美術村)
1998年に福井県から築200年のかやぶき屋根の民家を移築。現在はうどん・甘味処として営業。ちなみに中札内村は明治時代に福井県から多くの開拓者が殖民している。アップフロントと福井県の繋がりの一端として記憶に留めておいてもいいかもしれない。


以上が中札内村の施設。以下にごく近郊に展開された観光施設を紹介する。


●グリュック王国
1989年に帯広市にオープンしたテーマパーク。
場所は幸福駅からすぐ近く。事業主はぜんりん地所建設(建物はぜんりんレジャーランドが所有)。施設のコンセプトはフェーリエンドルフと同様に「ドイツ」、長崎のハウステンボスに刺激されたのか、建造物による雰囲気作りは徹底していて豪勢なものがあった。
1992年夏にはテーマパークのシンボル「ビュッケブルグ城」が完成、城の中に67室の「シュロスホテル」をオープンさせた。オープン当初は70万人を超える入場者を集めそれなりの集客力があったが、バブル崩壊後から急速に経営が悪化、1997年以降は建物のメンテナンスもままならず、従業員の教育すら行き届かないことがあった。来場者は2000年で20万人を切ったという。

経営が傾いた2001年、再建を期し「十勝エコ・ヒーリングガーデンフェスト花大祭」を開催、施設のテーマを「十勝幸福街道・21世紀のエコ・ミュージアム」に大転換したが、業績回復には繋がらなかった。2002年以降段階的に施設の閉鎖をおこない、2003年には休園に追い込まれた。長らく休園が続いていたが2007年2月に競売にかけられ、再出発の見込みはなくなった。しかも競売への入札は一件もなかったという。
(参考・詳細:http://www.fantastics.co.jp/glucks_1.htm)

2012年10月7日川崎の東急東横線元住吉駅前に同王国に飾られていた「ブレーメン音楽隊像」がフェーリエンドルフの西オーナーより寄贈された。

●十勝インターナショナルスピードウェイ
中札内村の南、更別村にある国際規格のサーキット。1992年10月にオープン。有名なところでは全日本GT選手権などを開催していた。十勝で行われる国際ラリー選手権の「ラリージャパン」にもスタッフを派遣。東京から最も近い(時間的に)サーキットと言われている。
2009年に自己破産を申請。現在は携帯電話サイトなどを運営するMSF株式会社が買収し営業を継続している。

●紫竹ガーデン
国道236号、幸福駅から西に入ったところにある花の庭園。住所は帯広市だが中札内村にはほど近い。18000坪の花畑が広がる。1989年にプライベートガーデンとしてオープン。観光スポットとして順調に伸び現在も同場所で営業中。2013年には13万人の観光客が訪れた。


以上、ざっと観光スポットを取り上げてきたが、中札内村周辺の観光施設の整備は1990年代の前半に集中している。これにはバブルの影響が見え隠れし、建設優先で資金回収の不透明な施設と思えるものも多々あった。

1992年にはグリュック王国と十勝インターナショナルスピードウェイという2大観光スポットが揃ったことによって、十勝地方への日帰り観光客、年間宿泊客数とも1985年に比べて2倍近い伸びを示していた。
同年には開基110年・帯広市制施行60年を記念する「十勝・緑の地球博 みどりいむ'92」が開催され、十勝地方への観光需要はピークを迎える。

そんな中の1992年末、田中義剛氏が初めて事業目的でこの地を視察に訪れている。伝えられている一説によれば、事務所の紹介でぜんりんの西惇夫社長と出会い、それがきっかけでこの地に牧場を開くことになったという(あくまでも一説、真相は不明)。国道から入ってフェーリエンドルフを過ぎた一区画に牧場の地は選ばれた。

牧場の土地取得は1994年3月で、オープンは同年の11月7日。
牧場ではオープンパーティーが開かれ地元の農業関係者の他、多数の人がつめかけた。アップフロントの社長や、有賀さつきさん、その後宮崎県知事になったそのまんま東氏ら多くの芸能関係者も訪れていたという。また、同牧場の花畑工事を手がけた紫竹ガーデンの社長や中札内村の村長も訪れていた。

翌1995年には「花畑牧場コンサート」を開催、堀内孝雄氏、森高千里さんらアップフロント(以下UF)の歌手を呼んで村民800人を集め、中札内村への花畑牧場のアピールを行った。

上記の通り中札内村への田中義剛氏の関わりは一番早い時点をとっても1992年の末、土地取得が決まったのは1994年の春である。しかし、花畑牧場の会社概要によれば「株式会社 花畑牧場」の設立年月日は1992年5月7日となっている。そして当時の田中氏は株式会社 花畑牧場の社長ではない。この時系列をどう整理していくか。
(東京に存在していたレストラン「花畑牧場」との絡みの可能性もあるが、詳しい情報がないので今回は考慮しない)

個人的な憶測をするならば、十勝地方の有力者と親交のあったUFサイドが1980年代末から始まった十勝地方の観光バブルを見て「何かやろう」と思ったことが始まりだったのではないだろうか(あくまでも憶測)。
花畑牧場でやろうとしていたことは1988年に中札内村で出された観光開発計画での意見そのものに見える。しかも社長が命名し、ニュージーランドにその名を求めたということになっている「花畑牧場」という名前さえもが、実際は村の観光開発計画の内容から取ったのではと穿った目で見てしまう。

そして農業経験もあり牧場経営が夢だったUF所属の田中氏に広告塔としての役割も期待して牧場を任せたというのが1992年末の田中氏の十勝視察に繋がるのではないだろうか。
もちろん田中氏自身も元から牧場経営を望むところがあったので、これはどちらが先に言い出した等は論ずる部分ではなく両者の思惑が一致していたということなのだろう。そうでなければ3億も4億もお金を出すまい。


その田中氏であるが、かつてwebで連載していた花畑通信でも分かるように、牧場開始当初から地元の農協関係者や古参の酪農家たちとはうまくいっていなかった(と書いてある)。それは端から見ればお互いさまの言葉の応酬であったりするのだが、その根底にあるものが田中氏の地元の既存勢力への反発だったのではないかと思う。それが一時期話題になっていた六花亭との対立に繋がるのではないだろうか。田中氏の六花亭への敵意は10年を超える歴史の中で育まれたものではないだろうか。

先述したように六花亭は帯広市に本社を置き、中札内村の観光開発計画が決定される前から、村への進出を計画していた。早い段階で現在も運営している数々の施設を村に作ってコミットしている。同じく帯広に本社を置くぜんりんも進出したのだが、タレントを使ったPR等、海外をテーマにした大きな箱ものなど、今から考えればバブルな拡大路線を取っていた。花畑牧場は後発組でここと近い距離(心情的な)で十勝に進出してきたから(推定)、六花亭と相容れない構図はなにも今に始まったことではないのだろう。

1990年代半ば以降、十勝地方への観光需要が一気に減りぜんりんの思惑は外れるのだが(ぜんりんだけではないが)、同様に進出していた花畑牧場も苦しくなる。「株式会社 花畑牧場」はUFの人間が代表取締役を務め100%UFグループ出資の子会社だった。当時の田中氏はその会社の中の取締役で現場の牧場長である。田中氏が同地に居を構えUFからお金を借り、引くに引けない状況で進退極まっていたというのが、1990年代後半の情勢だったのではないだろうか。記憶が確かならば、この頃は牧場の存続を危ぶんだような報道がされていた記憶もある。

そのような情勢の中、六花亭が1997年に中札内村に工場を作る計画が持ち上がった。この計画に村は素早い認可を降ろす。そして雪解け後の翌98年4月には着工、11月に完成、12月には早くも操業を開始している。前述の「相原求一朗美術館」のオープンや「花六花」の福井県からの移築と合わせ、この時期の六花亭は開発を広げていた。

これに対して花畑牧場は1998年の4月からトムチーズの販売を開始。チーズとソフトクリームという現在も花畑牧場製品の主力を担う自家製品の開発と営業・販売はこの年から始まった。この当時からジャージー牛に重点を置いて商品開発していたことは、先見の明があったといってもいいだろう。

当時の花畑牧場と六花亭がどの程度対立していたかは知る由もないが、花畑牧場は後発組であり、その存在は北海道土産菓子3大メーカーの一つである六花亭とは比べ物にならなかった。だからこそ必死になってPRする必要もあったし、タレント的な特権を使ったのだろう。借金がある状況では致し方ない部分ではある。


1998年の6月、UFの北海道事業にとって一つの転機が訪れた。それがドラマ『風の娘たち』の北海道での撮影である。
1998年4月期の『太陽娘と海』に続いて製作されたこのドラマはモーニング娘。こそ出演していなかったが、前作に引き続き建みさとさんと柳原尋美さんが出演していた。そしてこのドラマが放送されている最中の1998年9月、モーニング娘。は『抱いてHOLD ON ME!』でオリコン1位を取り、ASAYANと共にブームを巻き起こす。

さてここで、モーニング娘。のマネジメントに関して当時は主たる権限をUF側が持っていないという問題がある。
これはそのオーディション過程から来るものだが、プロデュース面ではタカハタ氏らASAYAN演出・制作陣、和田薫氏、それにつんく氏、この三者が「あーだこーだ言いながら」進めていた。またASAYANそのものは吉本興行の企画であり(番組プロデューサーの泉正隆氏は吉本興行所属)、そこに広告会社も絡んでくる。また番組出身の都合上テレビ局との関係も出てくる。その上でメンバー育成の資金面はUF持ちで進んでいた。

お金を出しているのにその育成したタレントを自由に使えないもどかしさ。(これが当時CMに出なかったり、他局へのレギュラー出演のネックになっていたといわれている)
つまり何が言いたいかというと、花畑牧場の広告塔としてどんなに利用価値があってもモーニング娘。は使えなかったということである。

またこの考察シリーズで書いている通り当時はそれまでUFの芸能事業の稼ぎ頭として主力を担ってきた森高千里さんや谷村有美さん、加藤紀子さんらが活動を縮小している時期であり、その次を担う人材を探していたように思う。

上記の理由…モーニング娘。という名前の利用価値、当時の花畑牧場の窮状、次世代タレントの育成…それらが関係者の中で合わさって方向性を生み、翌年のカントリー娘。誕生に繋がっていったのではないだろうか。

また、1998年1月10日の十勝毎日新聞の記事によると、グリュック王国の敷地内にハワイをイメージしたプール中心の大規模レジャー施設を建設する計画が持ち上がっている。
施設の仮名は「ブルー・ハワイアン」で、ハワイからスタッフを呼び、ハワイアンダンスなどをイベントとして予定していたという。オープンは「1999年の7月」を目指していた。また、経営難に陥っていたグリュック王国への経営支援も行われる予定だったという。

このグリュック王国へ乗り出してきた企業がジェイ・ウェイ(本社・東京千代田区)というインターネット関連のベンチャー企業で、時を同じくして帯広と富良野の中間に位置する新得町で大規模なLEDの研究・製造施設を作ろうとしていた。計画通り完成していれば1999年4月から工場が稼動する予定だったという。(1997年10月の十勝毎日新聞より)

しかし結局このジェイ・ウェイの計画は頓挫する(何をどう調べても完成記事や情報が出てこなかった)。グリュック王国(ドイツのテーマパーク)へのハワイ関連施設の投入など、常識からずれた感覚は最初から結果が見えていたように思う。このずれた感覚というのが、どうも気になっていた。

このグリュック王国へのハワイをテーマにした大規模施設がオープンする予定だったのが1999年7月。カントリー娘。とココナッツ娘がデビューしたのも同月。これは偶然なのだろうか? キャシー中島さんのキルト教室・フラダンス教室、ハワイでのコーヒー園の事業、そして田中氏曰く「会長はハワイに入り浸っている」発言、一つの方向性を示しているように見えるが、ここではそれを直接的に言うべきではないだろう。


下記にここまでのことをざっと年表にまとめておく。

1987.02. 国鉄広尾線廃止
1987〜88 六花亭、中札内村に土地を取得
1988.   中札内村観光開発計画
1989.   グリュック王国オープン
       紫竹ガーデンオープン
1990.11. 一本山展望タワー完成
1991.04. 日高山脈山岳センターオープン
1991.12. 六花亭、坂本直行記念館完成
1992.05. (株)花畑牧場設立
1992.   グリュック王国、ビュッケブルグ城オープン
       フェーリエンドルフオープン
1992.10. 十勝インターナショナルスピードウェイオープン
1992.12. 田中義剛氏、十勝初視察
1994.03. (株)花畑牧場、中札内村に土地を取得
1994.11. 花畑牧場オープン
1995.   花畑牧場コンサート

(十勝地方への観光需要の大幅低下、注目度の減少)

1997.   六花亭、中札内村工場新設計画
1998.01. グリュック王国に経営支援計画と、ハワイをテーマにした施設の建設計画
1998.04. 花畑牧場、トムチーズ販売開始
1998.06〜 北海道で『風の娘たち』撮影開始
1998.08. 六花亭、相原求一朗美術館開館
     六花亭、福井県から民家を移築、「花六花」オープン
1998.12. 六花亭、中札内村工場操業開始
1999.03. カントリー娘。オーディション開始(柳原尋美・戸田鈴音・小林梓が選出)
1999.06. モーニング娘。、北海道美瑛でプロモーションビデオ撮影
1999.07. グリュック王国でハワイをテーマにした施設がオープン予定だった
1999.07.16 柳原尋美さん、中札内村で交通事故、還らぬ人に
1999.07.23 カントリー娘。・ココナッツ娘デビュー
1999.08.01 モーニング娘。北海道上ノ国でコンサート(カントリー娘。もりんね一人で出演)
1999.08. スターダストレビュー(UF所属)の新曲が新富良野プリンスホテルCMのテーマソングに



グリュック王国と経営を同じくするフェーリエンドルフ。
1999年、花畑牧場から3キロほどのところにあるこの休暇村にカントリー娘。のオリジナルメンバーたちは住んでいた。施設内にあるコテージ1棟を借りて3人で生活していたのだ。

また、尋美さんはフェーリエンドルフ内にあった花畑牧場が経営するレストランでも仕事をこなしていた(現在は「ミュンヒ・ハウゼン」というレストランに変わっている)。メンバーたちはこのコテージで寝起きを共にし、毎日花畑牧場まで通い、ダンスレッスンや歌のレッスンをこなしながら、デビューの日を夢見ていたのである。

たった3、4ヶ月のことではあるが、この日々のことを思わなければりんねが後々までカントリー娘。を愛し牧場にこだわっていたかを理解するのは難しい。また小林さんが毎年変わらず尋美さんのお墓参りに行っていることも、この頃を知らない人には理解されないだろう。

わずか2週間一緒に暮らしたモーニング娘。のオリジナルメンバー5人ですらその時の思い出は深く残ったのだから、カントリー娘。3人の3、4ヶ月の共同生活はそれはそれは深く思い出に残ったに違いない。ましてやああいう形でその生活は終わりを遂げたのだから…

1999年10月。新曲『雪景色』が発売される1か月ほど前の話。
一人活動を続けていたりんねが語っている。

「カントリー娘。のオーディションの時は明るいひろみの性格のおかげですぐに打ち解けることができた。
でもメンバー決定後にはすぐに仲が悪くなってしまった。
そんな中でも忙しい日々が過ぎていくうちにそれぞれの役割が分かってきて、デビューが決まり、レコーディングやプロモーションビデオの撮影が行われ、いつしかお互いに励まし合い頑張っていこうという雰囲気のグループになっていった…」

この時の思いが後々まで続く。
そしてあれから15年が経った今でもりんねと小林さんが会い笑顔で話している。
あの頃の思い出話に花を咲かせている。

いろんなしがらみや思惑から完全に離れたところで彼女たちは自分たちの思いを胸にしまい強く生きている。
それが彼女たちが選んだ道。




90年代前半から中札内村での事業計画に携わってきたUFだったが、バブル期の他社の計画の相次ぐ失敗を見てか観光事業への見切りをつけていったように思う。田中氏の考え方も観光牧場としてより商売の方に重点を置いた発言が多くなっていったような気がする。ラーメン屋をプロデュースし牧場産のチーズを卸し始めたりしたのも90年代末〜00年代初め頃だったと記憶している。

その後、2001年に経営難の続いたグリュック王国は方針を大転換、「十勝幸福街道/21世紀のエコ・ミュージアム」をテーマに、国道236号・国道241号をドイツの「ロマンチック街道」や「メルヘン街道」に模して十勝地方全体を利用しての観光客増員を目指し、紫竹ガーデンや中札内美術館・六花亭との共通パスポートを作ろうとしていた。(詳細:http://www.fantastics.co.jp/glucks_3.htm)

この広域化計画に花畑牧場の名前を見ることができないが、これはたまたまなのだろうか? 推測するに、グリュック王国側の計画にそれまで協力体制になかったと思われる六花亭の名前が見えることから、逆にUFサイドとは縁が遠くなったという証明にならないだろうか。地元の大企業である六花亭との提携を模索したというのが、グリュック王国2001年の動きだったのだと思う。また、2002年には再び方針転換、「食」をテーマにし今度は地元農業関係者との関係を再構築をしようとした。(詳細:http://www.fantastics.co.jp/glucks_4.htm)

こうした動きは六花亭や地元既存勢力と争ってきた田中氏の言動とは相反するものである。つまり、この時期にはUFとぜんりんの関係は薄くなっていたと考えるのが自然だ。記憶が確かならば2001年の末くらいにりんねが「来年はカントリー娘。は変革の年になる」とUF会長(2001年の組織改編によりグループ会長に就任)から言い渡されている。この<変革>が行われる理由の一つに、この北海道での勢力図の変化があったのではないだろうか。

つまりこの2001年末の段階で、ユニット発足の足掛かりとなった施設との縁は完全に切れ、また花畑牧場も観光地としては十勝では独立した存在を歩み始め、これ以降は自社製品の開発と販売・営業に重点を置くようになり、牧場で働く「半農」アイドルは花畑牧場もUFも必要としなくなった。東京で宣伝してくれれば十分な存在になった。これが2002年秋のカントリー娘。の牧場からの撤退なのではないかと思う。

そしてりんね。りんねは99年にフェーリエンドルフで暮らし、働き、その思い出を強く残しているメンバーである。現地にも友人がいただろうし、あの事故から、いやその前からずっと応援してきてくれた知り合いもいっぱいいたはずだ。そうした思いを背負っていたりんねと、そこを離れるという方針は当然相入れるわけがない。

2002年の最初に「『アイさが』のカメラが入って撮影していた頃の牧場の生活VTRを見直したい」とりんねが言っていたのは、やはり中札内村での状況変化にりんねは気付いていたからなのだろう。そして自分の去就をどうするか悩み続けていたのだろう。それが別れに繋がっていった。


2002年10月13日にりんねは牧場から去った。
彼女が残した思い出、1999年に起きた忘れられない出来事、色褪せずに心に深く残る。

この考察シリーズからはちょっと外れるのかもしれないが、1999年を語るからにはこの件は外せない。
ちまたで言われているようにただ単にりんねは解雇されたわけでもなく、そこには強い意思が見え隠れしていた。そして小林さんにも強い思いがあり、今でもそれは変わらない。
亡くなった尋美さんもきっとそんな2人のカントリー娘。を暖かく見守ってくれていたに違いない。
そこには深く強い絆が存在していたのだということを、これから先も忘れてはならないと思う。

いわゆる「大人の事情」に振り回され続けたカントリー娘。だったが、本気でそれに賭けていた女の子たちがいたのだ…
そしてそんな事情とは別の世界で「思い」を続けた彼女たちにとてつもない優しさを感じるのだ。

何があっても彼女たちはその思いだけは今後もずっと変わらないだろうな…

第7回目。
1999年のオーディションと後藤の加入までを探っていきます。非常に今回は苦労しました。推論が多くて分かりにくい部分もありますが、この時期のことはいろんな説が飛び交っているので、これもまた一つの説として軽く流してください。

ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(1)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(2)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(3)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(4)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(5)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(6)
の続き。



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「Never Forgrt×Memory 青春の光 再考」で1998年9月でASAYANが終了するかもしれなかったと書いたが、その疑問を解決するかもしれない糸口を見つけた。

それまでASAYANのアシスタントを務めていた永作博美が降りることになり、99年1月に中山エミリが起用されるまでの3ヶ月間、中澤姐さん・なっち・明日香・矢口が交代しつつ臨時のアシスタントを担当した。
永作博美が次の番組の予定を入れてしまったため代わりにアシスタントをすることになったのだが、番組が続くにもかかわらず永作博美が次の予定を入れていたことから、ASAYANは終わる予定だったのではないかと憶測が飛ぶことになった。永作博美は『コムロギャルソン』時代(95.10〜)から長くアシスタントを務めてきており、後任を決めないで降番したのはどうにもおかしかった。

またASAYANもオーディション企画が途切れていて、タンポポのメンバー選定でお茶を濁していた時期であり、「小室哲哉オーディション1999」が始まるまでのつなぎ企画でしかなかった。

これらのことから考えるにASAYANは確かに1998年9月に終わる可能性はあったと思う。元々が「シャ乱Qロックボーカリストオーディション」すら小室哲哉の休養期間の代替企画だったし、「小室哲哉オーディション1999」を行うかどうかも最初は不透明だったのだろう。

もしASAYANの存続が急遽決まったのだとしたら、その代わりに始まる番組が用意されていたはずであり、何か手がかりはないものかと探っていたら、ある一つの番組にぶちあたった。

98年10月から毎週火曜日の22時に始まったテレ東『スキヤキ!!ロンドンブーツ大作戦』である。制作は吉本興業が携わっていて、それも泉さんたちのSSMの流れじゃなくてS氏率いるワイズビジョンが企画の番組だ。

このワイズビジョンがSSMと対立していたのかよく分からないが、2000年頃からASAYANの制作に関与、2001年春にASAYANの主導権を握り、泉さんやタカハタさんたちSSMが撤収してしまう。

その秋にワイズビジョンに東京国税局から査察が入って、S氏が裏金問題で解雇されるのが翌02年の3月8日(ASAYANもその月で終了)。同氏は6月に脱税容疑で逮捕。(同氏はその後映画制作に携わるようになり最近では『大日本人』の制作総指揮も担当) 『スキヤキ!!ロンブー』もヤラセが発覚し01年の9月に打ち切り。なんともまあ醜聞が続いて胡散臭くはあった。

ワイズビジョンは『ダウンタウンDX』などダウンタウンが出演する数多くの番組を企画制作。一時期「なぜ娘。たちは『HEY!HEY!HEY!』に出ないの?」と言われた時期があったが、その理由としてこのワイズビジョン--ダウンタウンの関係に影響されたとも噂されていた。

ただ、実際には対立というほど仲が悪いわけではないと思う。また、ダウンタウンとも親密だった小室哲哉は同じ吉本でもSSM系よりワイズビジョンとの方が関わりが深かった。これがワイズビジョンがASAYANで主導権を取ろうとした理由だったのではないだろうか。

先の話になるが、同じテレビ東京の『MUSIX!』は2000年末にスタート。放送時間は『ASAYAN』の後の夜10時から。『ASAYAN』が終了した02年4月に火曜夜10時に枠移動。前出の通りその火曜夜10時台が『スキヤキ!!ロンブー』の枠だった。

分かりやすいように表にしてみる。

     日曜21時        日曜22時      火曜22時
98年10月 アサヤン(SSM)     演歌の花道     スキヤキロンブー(ワイズ)
00年03月 アサヤン(SSM)     演歌の花道     スキヤキロンブー(ワイズ)
00年04月 アサヤン(SSM+ワイズ) 演歌の花道     スキヤキロンブー(ワイズ)
00年10月 アサヤン(SSM+ワイズ) ピカピカ天王洲LIVE スキヤキロンブー(ワイズ)
00年12月 アサヤン(SSM+ワイズ) MUSIX!       スキヤキロンブー(ワイズ)
01年03月 アサヤン(SSM+ワイズ) MUSIX!       スキヤキロンブー(ワイズ)
01年04月 アサヤン(ワイズ)   MUSIX!       スキヤキロンブー(ワイズ)
01年09月 アサヤン(ワイズ)   MUSIX!       スキヤキロンブー(ワイズ)
01年10月 アサヤン(ワイズ)   MUSIX!       倫敦音楽館(吉本@小室)
02年04月 ハマラジャ(ワイズ)  ガイアの夜明け   MUSIX!


『スキヤキ!!ロンドンブーツ大作戦』は『ASAYAN』と同じくエイベックスがスポンサーについて吉本興行制作、そして小室哲哉の影響があることも共通している。モーニング娘。色が強くなり過ぎたASAYANを終了してスポンサーや吉本の色を出せる番組を作ろうとした意図があって『スキヤキ!!ロンブー』が始まったのだと思う。

あるいはモーニング娘。が98年に解散していればあっさりとASAYANにワイズビジョンが乗り込んできていたのかもしれない。ここいらへんはすべて憶測に過ぎないが、両番組がたどった経緯を見るとどうしてもそこに駆け引きがあったように見えてならない。

また、『スキヤキ!!ロンブー』はエイベックスが1999年におこなったエイベックス主催「avex dream 2000」オーディションの密着情報を伝えており、このこともASAYANとの共通点がうかがえる。もしASAYANからモーニング娘。が撤退(もしくは解散)していれば、その枠で「avex dream 2000」が放送されていた可能性は充分にあった。エイベックスのMAX松浦氏は「シャ乱Qロックボーカリスト」の直前に「乱発」企画でASAYANでオーディションをおこなっており、ASAYANスタッフや和田さんとも顔なじみの関係だ。それに加え1999年当時のエイベックスとUFは200メートルの至近距離に本拠地を置く御近所さんでもあった。


さて、ここからが本題。
「avex dream 2000」と「モーニング娘。第2回追加オーディション」はほとんど同時期に開催されていたオーディションである。

先に「avex dream 2000」の方から説明しておくと、1999年6月から1次選考を始め応募総数は12万人。8月10日に最終選考が行われ松室麻衣、長谷部優、橘佳奈の3人がグランプリ(後のdream)を受賞。準グランプリには神田來未子(倖田來未)。グランプリの権利は2000年1月1日のデビュー権で、準グランプリは各種レッスンの無料講習とエイベックスと専属契約を結べることだった。

「モーニング娘。第2回追加オーディション」は6月27日放送の『ASAYAN』で募集開始。応募総数約1万1千人。正式には8月4日に後藤真希の合格が決まって、モーニング娘。に合流した。募集開始から合流までわずか1ヶ月強、この期間の短さは2期オーディション並であって、どうも釈然としないものがあった。

この両方のオーディションに参加している人は多く、また前年からの各オーディションに参加していた「オーディション常連組」の名前もちらほら見えていた。「avex dream 2000」の最終選考進出者には合格者の他になかなか興味深い人たちが登場している。ここで数名取り上げておく。

藤本美貴…「モーニング娘。第3回追加オーディション」に参加。落選するも事務所にキープされ後にデビュー。彼女はモーニング娘。に憧れていたわけではなく、芸能界に憧れて各オーディションを受けていた。

浅見優子…「第1回平家みちよとモーニング娘。の妹分オーディション」に参加。「avex dream 2000」を経てYeLLOW Generationとしてデビュー。YeLLOW Generationは放送作家・おちまさとがプロデュース。

浜田春菜…元グラビアアイドル。ポップバンドHΛLのボーカルのHΛLNAとしてデビュー。元々グループ・HΛLの実体は浜崎あゆみの楽曲を中心としたサウンドクリエイターチーム。HΛLNA個人としては2002年に小室哲哉プロデュースでソロ曲をリリースしている。

畠山紗香…落選後ASAYANの「超歌姫」企画(2001年下半期)に参加。最終選考進出も再び敗退。

渡辺奏子…「モーニング娘。第1回追加オーディション」に参加、最終選考16人に残る。その後ゆうちょのCMで加藤あいのスタンドインを務めたり、モーニング娘。が『Mステ』に『LOVEマシーン』で出演した際のエキストラとしても収録に参加。TBS『ランク王国』や日テレ『恋のから騒ぎ』出演を経て2004年、星野奏子としてソロデビュー。

また両オーディションには元大阪パフォーマンスドール(吉本興行所属、以下OPD)のメンバーも何人か参加している。河本奈津子は「avex dream 2000」の最終選考に進出、その後2000年4月にソロデビュー。
大山恵理乃はモーニング娘。のオーディションに落選した後、「avex dream 2000」の最終選考進出者たち多数で作ったグループ・キーヤキッスに姉の大山ルミ(元OPD)と共に参加。

太シスの稲葉さんも元OPDで、太シス解散までは吉本に籍を置いたまま活動していた。ここいらへん、エイベックス--吉本--OPD、それとUFの関係が気になるところである。おぼろげながら繋がっている線が見えてきてしまって、太シスの中で稲葉さんが厚遇されてたのも何か理由があったのかと勘繰ってしまう(もちろんそれで稲葉さんをあれこれ言う気はさらさらないが)。ただ、太シス解散後、ASAYANに新ユニットオーディションをやってもらったり、新たにUFに抱えてもらったのは稲葉さんだけなので特別性は感じてしまう。


「avex dream 2000」で準グランプリをとった倖田來未だが、実は後藤と同様に平尾ミュージックスクールの出身だった。倖田來未は両オーディションに参加していて「avex dream 2000」で最終選考に残ったため娘。オーディションは辞退した。

納得し難いのはつんくが「今回のオーディションはレベルが高い」と言っていたにもかかわらず、2人予定のところを1人しか合格させなかったことである。必ずしも倖田來未を例にとって「レベルが高い」と言っているわけではないが、「avex dream 2000」で最終選考に残ったメンバーの方が圧倒的にCDデビュー率が高いのだ。それと比べるといささか娘。3期オーデは寂しい感じを受ける。

これはまず考えの一つとして、娘。オーディションが「avex dream 2000」の草狩り場になってしまったのではないかということがある。ラジオ『和田薫のオールナイトニッポンR』(1999年9月9日放送)にこんな内容のエピソードがあった。

「モーニング娘。に新メンバー後藤真希ちゃんが入りましたが、どうもあのMAX松浦が彼女を見て『彼女は良い、うちでソロやりたい』と言ってたみたいです。どうも真希ちゃんはあのMAX松浦も大のお気に入りみたいです。そこで質問です、MAX松浦に後藤真希をくれと言われたら渡しますか?それとも断固拒否しますか?

…というお葉書なんですけど、これね、面白い話あんのよ。実はね、ASAYANで後藤を発表する時、8月の22日かな? 僕たまたまね、そのときニッポン放送いたんですよ。タンポポの収録を見に来てて…あっ、ASAYANやってんなと思いながら、あの〜…ASAYAN始まった訳ですよね。

それで、まだ番組のスタッフなんかにも誰が決まるってのは言わないでモニターで、スタジオの中にあるテレビで見てたんですよ。したらね、始まったらパッて電話がかかって携帯が鳴ってプルルルルル…って。パッて見たら、MAX松浦って書いてあんですよ。

で、ASAYANやってるしな、MAX……と、とりあえずでて『もしもし〜?』『あっ、こんちわ!』ってでて『今でてる1番の子…』後藤のことなのね。『1番の子…あれ……落ちるかな?』って。まだ発表になってないから俺も『いや、受かる』ともちょっと言いにくい。まぁでも後10分、20分だなと思いながらも『うん、まぁ、あのぉ〜……松浦さんの予想通りですよ〜』って言ったら、あっ、まぁ受かるんだろうなって思って、それで、あ〜…『もしね、落ちるんだったら、うちで欲しいなって思って』って。で、プチッて切って。

それでもう1回、電話がかかってきて、今度決まってからですよ。『ソロはやらないんですか?』って。ここで書いてある通りね、この葉書の通り『ソロはやらないんですか?』って聞かれて、とりあえずまだモーニング娘。のメンバーにも会ってないのに、ソロやらないんですかって言われてもと思いながら…っていうのがね、あったりして。まっ、そういった意味では確かにこのね、MAX松浦?名プロデューサーも、えー、その彼女の何ていうのかな、えー…独特の、断トツに違うっていうことは認めているっていうことですよね、はい。」

このことから考えて両方のオーディションを受けていた有力候補者はオーディションの途中で娘。オーディションを辞退した場合も多いのではないだろうか。その餌(と言っては失礼だが)がCDデビュー権だったのではないだろうか?

キーヤキッスを始め「avex dream 2000」の最終選考進出者がエイベックスからCDデビューしたパターンは非常に多い。またグランプリを撮った長谷部優が何年か経ったときに「人生やりなおしたい」と嘆いていたのを見たことがあるが、実はこのときに彼女も「avex dream 2000」を優先させた一人だったのではないかなとも思ったりした。妄想の範囲でしかないが、浅見優子や藤本美貴など、娘。オーディションを辞退したと疑わしき人は幾人もいる。後藤はともかくとして、娘。オーデの方に人が残らなかったのは、こういう理由もあったのかなと思えた。

それとは逆に「娘。オーディション」側から人材を流していた可能性もある。後藤の採用が決まっていたから有力な候補者は「avex dream 2000」に回ってもらっていた可能性はないだろうか。上記のラジオの話を見ても分かるとおり、和田さんとエイベックスのMAX松浦氏はよく連絡を取り合い、なおかつ以前からオーディションについて意見を交わしあっていた様子がうかがえる。「この子どうですか?」「この子欲しいんですが」といったやりとりは頻繁におこなっていたのだと思う。また『LOVEマシーン』以降、プロモーションビデオの監督がエイベックス関係の人ばかりになったというのも、その密接ぶりの表れだろう。やはり何かしら作為的なものを感じてしまう「avex dream 2000」と「娘。オーディション」の関係なのであった。



さて、後藤の合格決定に対する裏というのは、1999年3月の段階で和田さんと会っていた可能性と上記のオーディション背景くらいしか材料がないので、その真相というのは分かりようもない。いろいろと加入の裏に噂があたがどれも確証できるほどの材料はない。ただ、ASAYANを細かく見ていくと理屈に合わない部分が出てくるのは確かだ。


まず初対面の日付け。ASAYANではこの日を「合格発表の翌日」とアナウンスしたのでそれだと8月5日(1〜3日が寺合宿、4日がつんくと面談後合格決定)。テロップにも「8月5日」と入っていた。

ASAYANの映像には新曲のジャケット撮影と来年のカレンダーを撮影している合間に時計がたまたま映りこみ、針は2時55分を指していた。しかし娘。たちはこの日、兵庫県稲美町で2回公演のコンサートを行っておりどうしても辻褄が合わないのだ。従って初対面の日は間違いなく8月5日ではない。

8月22日オンエアのASAYANでは「一方こちらは羽田空港。ここにモーニング娘の姿が。前日の大阪でのコンサートを終え東京へ戻ってきたんです。」とアナウンスが入ってジャケット撮影のスタジオに向かっているので、これを兵庫のコンサートだったと考えると8月6日がジャケ写の日だったということに落ち着く。ジャケット撮影の日がモーニング娘。と後藤の初対面というのは間違いないだろう。メンバーたちと後藤の初対面の反応をみれば演技ではないように見える。ただし本当にこの日は8月6日だったのだろうか? 一応可能性は探っておく。

一つ目安となるのが矢口の髪型である。矢口はこの時期『ふるさと』でのストレートからメンバーたちに「焼きそば」と揶揄されたちりちり頭にチェンジしている。7月16日の『Mステ』にはストレートで出演していて7月19日収録の『POPJAM』では「焼きそば」に変わっているので、美容院に行ったのは17日か18日。

それ以降、8月6日までに朝に羽田に戻ってくる可能性があるのは7月25日(鳥取帰り)、7月28日(秋田帰り)、8月4日(釧路帰り)の3回。8月4日は合格決定andつんくとの面談日だから除外。7月25日と28日の可能性はあるが、28日に生ラジオ『ANN.com』があるから、それ以前にコトを起こしたとは考えにくいと思う。7月中の後藤合流の目撃談もあったが、ここは素直に合流したのは8月6日だと捉える方が自然ではないだろうか。寺合宿の日取りやつんくとの面談日まで操作されていたらまったく無駄な推論だが、さすがにそこまではしないだろう。箝口令を敷くにも限度がある。



ここで第2次追加オーディションの日程をざっと振り返っておこう。
99.06.27 募集開始
99.07.24 第2次歌審査
99.07.29 第3次歌審査
99.08.01 寺合宿(3日まで)
99.08.04 歌審査後つんくと面談、その後合格発表
99.08.06 娘。たちと後藤初対面 ジャケット・カレンダー撮影

まず問題なのが、8月6日のジャケット撮影とカレンダー撮影の際に、後藤の衣装や<8人>での立ち位置の絵コンテなどすべてが用意されていたことである。もし8月4日に決まったのだとしたら、到底準備は間に合うわけがない。8月6日に後藤が着ていた7thシングルの衣装はサイズもピッタリと合っていて1日で準備されたものと考えることは不可能だ。また、翌年のカレンダーにしても<8人>ということが分かっていなければ構図を考え、立ち位置を決めることすら出来ない。

つまり後藤が合格し8人になることが決まったのは8月4日ではないということになる。つんくが8月4日にコメントしていたことは「嘘」ではないにせよ、まったくその場しのぎのコメントでしかなかった。またこの8月4日に合格決定が出るまでの間に最終候補者5名がモーニング娘。のイベント場所へと連れていかれている。

「番組スタッフに連れられて某テレビ局へとやって来ました。そこではあるイベントが行われていたんです。そう、モーニング娘。のイベントです。今は遠く離れたステージにいるモーニング娘。しかし、この後見事合格すれば同じステージに立つことになるんです」

とアナウンスが入っていたが、実はこれ『LIVE SUMMER NIGHT TOWN '99』というフジテレビ開局40周年記念の企画だった(http://www.fujitv.co.jp/BANGPARK/summer_night.html)。アップフロント所属のアーティストたちが多数参加していて、なおかつteam KIKCHY(現在の音組)の制作である。きっと和田さんがきくちさんに後藤を見せるためにこの場に連れていったのだろう。その後『LOVEマシーン』のプロモーションビデオにきくちさんが登場することになるのも何かこの頃からの和田さんときくちさんの悪巧みがあるような気がしてならない。

募集を開始したときにすでに後藤の合格は決まっていたと個人的には思う。後藤の「ASAYANは新メンバーの募集が始まった日に初めて見た」という発言や、7月18日オンエアのASAYANでつんくが歌審査すら終わっていないのに「ま、前回ん時はあの…『wow wow』『for you』『I want you』だけやったけど、今回このレベルやったら、いきなり一線張れるんじゃないですかねえ」と発言していることから、合格者を具体的に意識していると考えざるを得なかった。また、決まっていればこそ、なっちメインの『ふるさと』や『セカンドモーニング』を、それまでの「アーティスト・モーニング娘。」の集大成としてつんくは仕上げたかったのだろう。

後藤の「ASAYANは新メンバーの募集が始まった日に初めて見た」という発言は、なぜその時に限って見たのか?ということを考えてしまう。モーニング娘。にまったく興味もない、知識もない後藤がなぜかこの日に限ってASAYANを見ているのである。しかもこの日のオンエアは鈴木あみとの対決・ココナッツ娘登場・新メンバー募集、とモーニング娘。の重大発表に絞られていた回だった。これは平尾ミュージックスクールからか、あるいは和田さんから「この回のASAYANを見て募集しなさい」と言われていたからだと考えてもいいのではないだろうか。

ただし、後藤が自分が合格することを知っていたかといえば、それはなかったように思う。以前は知っていたのではないかと疑っていたが、調べていくうちにそれはないと思うようになった。おそらく言われたことは「推薦するから試しにオーディションを受けて精一杯頑張ってきなさい」「教えたことを実践してくれば合格する可能性がある」程度だったのではないだろうか。オーディションに対して予備知識も先入観もない後藤だったから、オーディションの最中は余計なことを考えることなく目の前のことだけに取り組んでいたように思う。「自分なりに頑張ってきたんで…それを認めてもらえてすごいうれしいです」と言って流した涙は嘘ではあるまい。

後藤は2次審査と3次審査の間に髪の色を茶色から金色に変更している。たぶん審査の段階で「次は金色で」ということだったと思うのだが、おそらくここが7thジャケット写真やカレンダーの内容が決まったときだろう。倖田來未の辞退もこのときだが、もしかしたらこの時点までは9人の可能性はあったのかもしれない(倖田來未が合格するということではなく、ガチンコでもう一人加えるかどうかの判断)。とにかく8人でいくことが確定したのがこのときだったと捉えていいだろう。

3次審査から先、合宿までは後藤が合流してくるための下準備ともいえるような内容だった。3次合格者5名にはそれまでの6枚のシングルとそのビデオクリップを手渡し覚えてくるように指示。合宿では「サマーナイトタウンのAメロBメロは福田の部分を徹底的に練習してもらう」と、まるでなっちの横にメインで立つことを前提としているかのような課題を出す。ダンスレッスンでは基本ステップの反復練習。7thシングルまで時間がない中、うまく合宿を利用して後藤のスキルアップをはかっていたことが分かる。このしたたかさ、手際の良さは『ふるさと』に関わらずにフリーハンドで動いていた和田さんの面目躍如といったとこだろう。スケジュールコントロールといい、ASAYANとの綿密な打ち合わせの上での進行といい、7thに賭けていた気持ちが伝わってくる。

「僕はテレビを作る側にいたことがあるので、バラエティのディレクターの方でも話せば分かり合える部分があるんです。でも多くのプロダクションの方々は、アーティストをカッコ良く撮って欲しい、こんなことは聞かないでくれ、といった感じで一方通行になっているんじゃないでしょうか。僕はうちのタレントによく言うんです、『テレビというのはテレビ局のものだからな』と。テレビ局のプロデューサーは視聴率という数字を背負ってるんです。数字が悪ければ番組が終わる。もしくは人事異動させられるわけです。毎回勝負しているんですよ。だからまずお互いに理解して、いかにうまく見せられるかということを考えるのが大事なことだと思うんです」 とは和田さんの弁。

こういった様々な事情を経て後藤はモーニング娘。に合流してきた。それまでの7人が挫折を味わい決意を新たに立ち直ろうとしていたことといい、スタッフたちが『ふるさと』失敗を受けて背水の陣を敷き大逆転を狙っていたことといい、絶好のタイミングで後藤はモーニング娘。に加入した。実力もさることながら、エースと呼ぶに相応しい存在になったのはその絶好のチャンスを掴んだ運の強さがあったからだと自分は思う。時代の流れに乗った後藤は一気にスターダムに伸し上がっていくことになる。

後藤合流後、娘。たちはついに運命の『LOVEマシーン』のレコーディングに突入することになる。このときはメンバーたちの誰もが自分たちの運命が変わっていくことになるとは思っていなかった。「次のシングルで最後にしよう」「そろそろ引き際かもしれない」、そんなことすら思い、熱い夏は過ぎていった。





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次回は8月以降のスケジュールを追っていく予定。
ただし、自分の資料集めというのは99年の前半に集中していたので、若干の不安はあります。ちょっと資料不足かなあという部分もあって…流れの構築がまだ出来てなくてぼんやりとした感じで…
また多少間隔が開くかもしれません。

第6回目。
今回は『ふるさと』発売から7月の末まで。
娘。たちへの試練がピークとなった時期のこと。
カオリファンにはちょっと厳しいなあという内容もあるけど、なにとぞ御理解のほどを。


ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(1)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(2)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(3)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(4)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(5)
の続き。



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1999年7月14日。『ふるさと』の発売日である。同日発売のシングルは前々回のリリース表を見てもらうとして、ここで気にとめておきたいのはダンス☆マンがアルバム『MIRRORBALLISM 2』をこの日リリースしたことである。

つんくは自分でCDを買いに行かずに、雑誌を見て適当に「これとこれ買ってきて」と人に頼むらしいが、7月14日発売のCDを頼んだ時にこのダンス☆マンのアルバムが引っかかった。買ってきてもらったCDを聴き「これはおもしろい」と気に入り、急遽スタッフにダンス☆マンのことを調べてもらったのが『LOVEマシーン』でダンス☆マンが編曲することになったきっかけである。その後つんくの要請を受けたレコーディングディレクターの橋本慎氏がダンス☆マンに会いに行って編曲参加が確定した。

15日。この日もASAYANの収録。この日は『ふるさと』のプロモーションと共に3期オーディションの続報が入ってきた回だった。オーディションのことについてはまた後に詳しく書くが、つんくの発言にはすでに合格者を想定していた節があった。カオリは相変わらずで、この日になってもなっちへの対抗心を隠そうとはしていなかった。この時期のカオリの言動を調べていると疲れてきてしまうのだが、娘。内でもメンバーたちのなっちへの気持ちがいくぶん和らいだため、逆にカオリの言動を煙たく感じているような雰囲気も出てきてしまっていた。

16日。『ふるさと』で一度きりの『ミュージックステーション』への出演である。この日の共演者は鈴木あみ・浜崎あゆみ・Dir en greyと同日発売のアーティストでいっぱいだった。縁浅からぬスガシカオもこの日共演している。トークはバリ島に行った時の思い出話で紗耶香の「三段腹」話やなっちと紗耶香の「スモールニョニョ」話で、特に同期対決に触れることはなかった。また、この日の番組内のランキングで『ふるさと』が4位ということが発表され、鈴木あみにも浜崎あゆみにも負けたことがメンバーたちには分かった。そんな中でもこの日の娘。たちの歌のパフォーマンスは良かったように思う。セットは星空を意識して作られたもので、まるでなっち卒業時の横浜アリーナの星空の様な中でモーニング娘。たちは切なそうに歌っていた。

そして、ミュージックステーションを終えた娘。たちの元に一本の凶報が入る。以前『太陽娘と海』や映画『モーニング刑事』で共演したこともあるカントリー娘。・柳原尋美さんの事故死であった。精神的につらい日々を送っていたモーニング娘。であったからマネージャーがわざとこの日は伝えなかった可能性もある。が、それはすぐに知れるところであり、平家のみっちゃんと共に最古のハロー(という名前すら生まれる前)の一人だった尋美さんを失ったことは娘。たちにとって計りしれぬダメージとなっただろう。

19日はNHK『ポップジャム』の収録。この日は娘。たちが『ふるさと』を歌ったあとのトークにポケットビスケッツが参加。千秋が『ふるさと』に対して「いいうた」とコメントしている。また内村とウド鈴木が『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』のネタの「モーニング息子。」を披露。このあたり何かしらの連係があったのだろうなと感じられる。


ついにオリコンの順位が出る20日。順位が出る前の一部メンバーたちの気持ちをちょっと振り返っておく。

紗耶香
「モーニング娘。ってこういう歌も歌えるんだよって部分も分かってほしい」

圭ちゃん
「あみちゃんとモーニング娘。、どっちが売れてるのかなっていう…そういう気持ちではなくて、娘。の歌をどれぐらいたくさんの人に聴いてもらえてるかなっていうのが心配です。」

彩っぺ
「(鈴木あみと)曲調とか違うから、どーんと売れなくても長く売れてくれればいいなっていうのが本音なんですけど…」

姐さん
「あみちゃんと比べて結果がどうとかっていうのも気になりますけど、自分達が今まで出してきた曲の中での順位というのはやっぱり残ってるから、それに対して今回はどうとか、良かった悪かったっていうのはすごく気になります」

ASAYANの中ではモーニング娘。が鈴木あみに対抗意識を燃やしていたことになっているが、実際の娘。たちはそうでもなかった。当時の娘。たちは「明日香が抜けたことによってパワーダウンしたと言われたくない」と意識していたし、「売れなければ解散」ということもちゃんと分かっていた。相手がどうこうではなく「自分たちがどうあるべきか」ということを、追い込まれた状況になって一部のメンバーたちは再度考え始めていたのである。


そして発表。
その日の発表で娘。たちは負けた。鈴木あみに負け、ASAYANに負け、自分たちにも負けたのだった。『ミュージックステーション』で4位だったので、もしや3位くらいまでは希望を持っていたのかもしれないが、結果はそれよりも悪かった。

しかし順位は5位でも10万2700枚売り上げ、これはもし前週七夕の日に発売していれば3位の数字だった。PVすら完成していない状態でのプロモーション活動や、たった2週間後に発売されるアルバムからのシングルカットということを考えれば、よく売れた方だと言ってもいいだろう。ましてや売れ線ではないスローテンポの純朴な歌である。

結果が出る中で、メンバーたちは「負けた」ことよりも、モーニング娘。に勢いがなくなっていることがはっきりと分かったことが重要だった。姐さんの発言を拾ってみよう。

「今回は、あみちゃんと、同日発売でっていうので、競争っていう形になって、こういう結果が出たんですけど、あたしはそういう結果よりも…あみちゃんに負けたというよりも、自分たちが出した今回の結果にすごく悔しいなって。だからまさに今、モーニング娘。の現状が危ない状態にあるんだなっていうのは、前から感じてたけどここで明確になってきたんで。だから次、自分達で納得できる結果を出すために何をやっていけばいいか。どうやっていけばいいか…」

この順位発表のあとメンバーたちはその日ダンスレッスンをしていたスタジオで、討論をすることになった。ASAYANでのナレーションでは「しかし、その話し合いは今後についてではなく、この日行われていたダンスレッスンに関することだけに終始してしまったのです」と入れられてしまっていたが、内容はそうではなかった。メンバー間で抱えていた根本的な問題にもかなり突っ込んでこの時に話されている。

映像がない方にあらかじめ注釈を入れておくと、話はなっちが他のメンバーにダンスの注意している姿が気に入らなかったカオリが、遠回しにそのことを責めることから始まっているらしい。以下ASAYANより書き起こし。(分かりやすくするために、若干整理済)


飯田「ま、カオリ的には――なんつうんだろう、カオリは結構もう、自分ひとりで考えたいタイプだから、人に『ああしろ』『こうしろ』って言われて、『あ、そっかあ』って思うけど、でも、やっぱ自分の中の考えもあるから、そういうので変えられたくないから――」
中澤「でもなあ? カオリの、その――カオリは、人に、いろいろ言われて、言われたくないから、自分の考えを変えたくないって――そんなのみんなそうやで」
飯田「あっ、それはわかるよ」
中澤「だけど、あたしらはグループでやってるから――」
飯田「そ……カオリは、そういうことは言ってない。今裕ちゃんが、考えてることは言ってない。だけど、もうちょっと、なんつうの、自分の意志も大事でしょ? 流されちゃうよりも、自分ひとりひとりが頑張っていかなきゃいけないことだから」
中澤「なんで注意されることが流されることなの?」
飯田「ま、そういうわけじゃないけど、でも、今日彩っぺも言われてたけど、『なっちのことよりも先にしなさい」って――」
中澤「ああ『自分のことを先しなさい』ってな。」
飯田「『他人のことをやるよりも、自分のことをちゃんとしなさい』って。それはカオリ、もっともだなあと思うのね」
中澤「うん、それはそうや」
飯田「それを、言いたかったの」
保田「だけどさあ、みんな完璧な人なんていないからさあ――」
飯田「あっ、それはわかるよ」
保田「それをさあ、全部(出来ることを)待ってたらやっぱり、誰も注意できなくなるわけじゃん」
飯田「注意するなとは言ってないって、カオリ」
保田「うん。だから――」
安倍「でもさあ、注意し合えるほうが、いいと思わない?」
保田「うん、そう思う」
飯田「でも、それ、注意は、していいと思うよ。思うけど――」
安倍「だから自分が――」
飯田「もうちょっとなんつうんだろう、広い心で、注意したほうがいいと思うの」
中澤「だから結局あたしらが今話してることは、明日香が辞める前に話をしてたこととなんにも変わってないわけよ。そっから何も進んでないってことやんか、今言ってることって。多少意見は言えるようになってるし、あたしも『ここはああなんじゃない?』とか『どうやってやんの?』って聞けるようになってるし、言ってもらえるようになってるからいいけど、今こういうことで話し合ってること自体もう、全然よくなってないやん? 『広い心で』って、だってカオリ、前からそれ言ってるやん」
飯田「どういうこと?」
中澤「『みんな広い心を持とう』って。カオリが言ってることは、何ヶ月も前に、言ってたことと一緒やんか。それを言わせてるということは、状況は変わってないってことやから――
安倍「他人の意見っていうか、言ってくれたことを聞き入れて、それで自分の考えを、ちゃんと考えて探して…ダンスじゃなくても、他のことでもそうだと思うんだよね。聞き入れて、そういうふうに考えて出すのが、なっちいいと思うんだ」
石黒「…なんか、この辺で(話が)立ち止まってんのはおかしいかなあと思うんだけど」
安倍「なんかさあ、ほんとに大事なことっていうか、なっちもほんとにまだまだ出来てないけどさあ、ちょっとしたことだよほんとに。なんか、『ダンスのここが違ったんじゃないかなあ』とかさ、『あれってああだったっけ』っていうことは、ほんとに、注意しあってさ、刺激しあって、上がっていくのはいいことだと思うから――」
石黒「そう、あたしなんか今日すごいなっちがすごい言ってくれるでしょ。そばでダンスやってて――」
安倍「『こうじゃない?』って。」
石黒「『こうじゃない?』ってすっごいいっぱい言ってくれるでしょ。あたしすっごいうれしかったんだ。ていうかなんかやっぱり自分で、失敗したとこって気づくんだけど、なんとなく、やっぱ自分にはちょっと甘いのね。で、間違ったのを分かってることになんか納得しようとすんのよ。それをあたしは、外から何か言われることで、『ああ、そうだよなあ。どう考えても人から見て間違ってんだったら、大勢に見せるもんじゃない』と思って、あたしはなっちに言われて、『あ、やんなきゃ!』とすっごい思ったんだ。だからあたしにとって、みんなから言われたことが、今日よかったから、だからあたしはなんでも言ってほしいなって今日すっごい思ったんだ」

矢口「あんまり解決しないんじゃない?」
飯田「うん、話して解決はしないよ」
安倍「それはそうだよ。だけどさあ――」
中澤「話して解決しないけど、何ヶ月か前に、話して、じゃあ、今日まで成長してきたか? やってきたか?」
矢口「いや、でも注意できなかった部分……裕ちゃんとかも、やっぱり、最初は注意したら機嫌悪くなるのかなっていうのがあって、うちら3人とかも、注意できなかった部分はあったけど――」
中澤「うん、(今は)言ってくれるよね」
矢口「話し合いをして、注意できるようになったし、圭織とかも、なんか、そうやって言ってるけど、なんか、うちらも注意できるようになったというか、そういう部分では……なんだろう――」
中澤「じゃ後は、聞き入れる側の問題ってことやな。言えるようになってるんやから、言われたことを、どう解釈するか? 『わかってるのに』と思うか、『あ、そうなんや』と思うか――」
矢口「こっちも悪気があって言ってるわけじゃないから――」


以上がASAYANで流されたメンバー討論だ。先に断っておくがASAYANで流された討論はほんの一部に過ぎない(3時間に及んだらしいので)。

この日の『ふるさと』敗北での討論で、なっちに鉾先がいくかと思いきや、そうはならずカオリが話題の中心となってしまっていた。さすがに姐さんも彩っぺもカオリへの苛立ちは隠せなくなってきていた。人のことは散々言い散らして自分ことを言われると耳を貸さないカオリに、姐さんや彩っぺが苦労して諭している様子がよく分かる。どう考えても姐さんの「聞き入れる側の問題」というのは、聞き入れない人に「広い心」を持ちなさいと言ってるようにしか聞こえなかった。

姐さんと彩っぺはなっちとカオリに対しては中立でいたかっただろうから、今まで二人の関係に対して口を出してこなかった。カオリには「なっちのことを必要以上に意識するな」、なっちには「カオリから言われても気にするな」くらいは言っていたのかもしれないが、なるたけなら深くかかわりたくない問題だっただろう。

しかしこの日、『ふるさと』の結果が出たことによって、「こんなことじゃいけない」「モーニング娘。にとって今すべきことは何なのか」ということが分かったのだ。カオリには「なっちの肩をもっている」と思われるのを承知で、娘。内での切磋琢磨と話し合いを阻害しているのはカオリだということを分かってもらいたかったのだ。

明日香は辞める時に「メンバー内で話し合っていかなきゃダメだよ」「競い合ってほしい」と言い残して去っていった。Memory青春の光ツアーのときに(メンバーたちが思う)素晴らしいコンサートが出来たのも、ツアー中によく話し合っていたからだった。あれから進歩することなく「明日香が辞める前に話をしてたこととなんにも変わってない」と姐さんは思っていた。だからこそ変わらなきゃダメだと思い、「モーニング娘。の現状が危ない状態にある」から、カオリに嫌われることを承知できついことを言ったのである。

カオリはこの時のことをどう思っていたのだろうか。ちょうどその頃に書いた連載「パラノイアダイアリー」がある。

「おいしいオレンジジュースが欲しい日」
○月×日、きょう考え込んだ。 最近ずっと考え事をしている。 本当にもう少しで18歳になっていいのか…18歳といえば車の免許がとれたりパチンコができたり今までできなかった事ができるようになる。 今よりも自由になる。 昔は学校や親に縛られる生活が嫌で大人=自由だと思っていたから、誕生日が来て1つ年をとるだけで大人になった気がしてうれしかったけど、今は年をとるのが怖い。いろんな人と接して大人とは年ではなく中身だと知ったから夢ばかり見ている自分が現実を知らされた気がしてすごく怖い。大人はつぶつぶオレンジジュース。 大人はたくさん経験して優しさや厳しさを持って言う。大人の心にあるたくさんのおいしい人生の果実がみんなに好かれる。 子どものかおりはすっぱい誰からも好かれないオレンジジュース。
最近嫌な事があって何事も嫌になっていた時、年上の人が心配してくれて相談したら“自分の感情を表に出すな”と注意された。その人はいつも元気そうに見えるから悩み事なんてないと思っていたけど、かおりよりも深刻な悩みをたくさん持っていた。全然気づかなかった。大人だと思った。その人がみんなに信頼されている理由を納得したあと客観的に自分を見たら、やっぱり自分の事しか考えてない誰からも好まれないまずいオレンジジュースみたいだった。
昔から“自分勝手”と陰口を言われる理由がこの事だと気がついてまた落ち込んだけど、また同じ事のくり返しだとも気がついた。世の中にはいろんな人がいるけど心の果実が腐ってしまった大人にはなりたくない。ゆっくり時間をかけていろんな経験をして果実を増やし大切にしていこうと強く決心した。時間は誰にも止められないし1日はあっという間に過ぎてゆくけど、自分に意味のある時間をどう過ごすか心のオレンジジュースがおいしくなるかは自分次第。生まれて初めての難しい課題ができたけどもう何も怖くない。誕生日が来るのも怖くない。かおりの心はおいしいオレンジジュースになれるから。


「心のオレンジジュースがおいしくなるかは自分次第」と書いているところが甚だ疑問であり、確かにちっともカオリの言動は改まらなかったが、彩っぺ卒業を経ると徐々に自我を押さえ込めるようになっていく。また、ロボットダンスがちっとも治らなかったところを見ると、ダンスレッスンで注意されるのは最後まで嫌いだったんだろうなと思う。しかしそれはもう時が経つにつれて「カオリらしさ」を作っていっていたから構わないだろう。

この時期のカオリはグループ行動という点では非常に場をかき回す存在であったが、芸能界的にみればその存在は貴重だった。『うたばん』に頻繁に出れたのもカオリがいればこそだし、ASAYANでも鈴木あみに対する感情むき出しでコメントする姿は、演出上非常に重宝した。それが視聴率にも貢献してたのは確かで、メンバーのことを思えばやりづらいカオリの存在だったが、テレビ的には得難いキャラクターだったのも確かである。しかしそれによってカオリから徐々に人の心が遠ざかっていき、孤独な99年後半となってしまったことは残念だった。なっちとカオリの対立はモーニング娘。には苦悩しかもたらさなかったが、しかしそれは後の旧メンバーたちの結束力を作り上げた要因でもあり、モーニング娘。史において貴重な時代である。なっちとカオリの対立を含め、この時の苦難がなければモーニング娘。の再ブレイクはなかったのだ。


さて、この『ふるさと』での失敗についてだが、和田さんは「痛い目を見るのもいい」と思っていたから、あえてプロモーション不足の説明はメンバーたちにしなかった。なにも和田さんはメンバーが憎くてそうしたわけではない。「Never Forget×Memory 青春の光 再考」に載せた和田さんからメンバーへの手紙のことを思い出してみよう。

「この芸能界はとても厳しい世界だと僕は思います。一枚のシングルを出したきり二度と出せない人。最初はチカラをいれてもらっていたのに売れないと途中から全然チカラをいれてもらえなくなる人、決してすべてがアーティストの責任でもないのに、一番アーティストが責任をかぶります。そんな厳しい世界に君たちを引き込んだ一人として、常日頃責任感を感じています。時たま君たちに厳しい言葉を吐いたりもしますが、それも君たちに対する責任感のあらわれだと思って許してください。」

和田さんは責任所在がどこにあろうとも「一番アーティストが責任をかぶる」ということをメンバーたちに分からせたかったのだ。しかしそうは言っても責任をなすりつけることはしていない。失敗を予期していた和田さんは、早くも動き出していた。次のシングル、新しいメンバー、新しいユニット…着々と手を打っていくこととなる。この時期に和田さんが勝負に出たのもまた『ふるさと』の失敗があればこそであった。

そんな中の7月28日、アルバムのプロモーションも兼ねて「7人最後のモーニング娘。」と銘打ったラジオ『ANN.com』にパーソナリティとして出演する。和田さんも横で聞いている中でのラジオ放送だった。(紗耶香は年齢の都合上、電話出演という形)

この番組は合間合間にメンバーたちが「私達はおもちゃじゃない」と叫び訴えていて、これはデビュー当時の横浜アリーナの「叫び」と同じく、おそらく和田さんが言わせたものなのだろう。また、かなり突っ込んだ内容にも踏み込んでおり、当時のメンバーたちが芸能活動に対してどう思っていたかよく知ることができた。
ASAYANで放送された討論から数日が経っており、若干メンバー間の関係が再構築されたせいもあって、『ふるさと』のことについてリスナーから質問が来ても、なっちは「自分一人のせいではない」と言い切ることが出来ていたし、他のメンバーも「なっちのせいではない」と言い切ることが出来ていた(一人を除いて)。

矢口「『私は26歳の主婦です。ASAYANで私と一つしか歳の違わない中澤さんが夢に向かって頑張っている姿を見てモーニング娘。のファンになりました。私の希望としてはモーニング娘。はアイドル路線に走ってもらいたくなかったんだけど…特に石黒さんや中澤さんにはロックを歌ってもらいたいなあ。最近モーニング娘。を見ていて思うこと。みんなホントに好きな歌を歌っていますか? みんなほんとにやりたいことをやっていますか? なんだかメンバーを増やすだとか、ランキングのこととか、誰がメインをとるとかばっかり気にしてて、すごく窮屈そうに見えてしまうのは私だけでしょうか? みんな歌がうまいし、個性的なんだから大丈夫。今のしかかっている重荷みたいなものがふわっと浮いたとき、もっと素敵なグループになるんじゃないかな。これからも応援するからみなさんも頑張ってください。それでは』こういうお便りなんですけど」
中澤「私、今回の意見の中で一番痛いとこつかれた」
飯田「好きな歌を歌ってることはね、すごく幸せなことだけどさ、でも歌うためにいろんな努力をしなきゃいけないじゃん。その努力はさ楽しいばかりじゃなくてつらいこともあるわけじゃん? やっぱつらいことをやってるときはさ、不安に陥る時はある」
安倍「いろんな壁とか与えられるじゃん? それはでもさスタッフとか回りの大人の人たちがモーニング娘。一人一人のことを考えてやってくれてることで、うちらもすごい悩んだり考えたりするけど、やっぱりそういうのがなくちゃさあ、自分のしたいことだけしてっても絶対成長しないと思うしさ。なんか楽ばっかりしててもさ…」
保田「窮屈だなって思う部分と、ここは歌わしてもらえて幸せだなって思える両方があるからやっていられると思う」
矢口「歌を好きって気持ちはみんな同じことじゃん。だからこういうお仕事をしてる上で、歌を好きであればいろんなことを乗り越えていけるって感じがする」
中澤「私はね…『アイドルになってほしくなかった』だっけ?……別に私たちはアイドルをやっているつもりはない。そういうふうに呼ばれてることに対してイヤな思いもしていない。だからアイドルって呼ぶ人がいれば、そう呼ばない人もいると思うんだけども…私たちが目指してるのは<アーティスト>でしょ?」
一同「うん」
中澤「だから、○○さん、私たちはアーティストを目指しているから大丈夫です」


このあたりのラジオで話している内容が、歌に対するメンバーたちの姿勢をよく表していた。そして『ふるさと』での挫折にめげず、徐々にメンバーたちが立ち上がろうとしていることが分かる。歌に対する思いというものも、もう一度メンバーたちは考え直していた。番組のラスト間近には今後に向けた決意もそれぞれ発表している。


安倍「これからもいろんな試練とか乗り越えなきゃいけない壁やハードルとか出てくると思うんですけど、自分というものをしっかり持っていろんなことに対して勝っていける強い力を日々努力してつけていけたらいいなと思っています。頑張るぞ」

飯田「正々堂々ぶつかる。カオリはね昔から…女の子ってグループとかあるじゃん? そういう人が悪口とか言ってると、こっちのグループで『あの人たち悪口言ってんのやだねー』とか言うんじゃなくて、悪口言うなら正々堂々言いなよーみたいな、そういうタイプなの。そいでまあ、カオリはそれでいいと思うんだ。この先つらいことがあって逃げ出したりしたいこともあると思うんだけど、それに逃げないで正々堂々とぶつかっていきたいの、何事に対しても。だから人に対してもそうだし、夢に向かってもそうだし、何に向かっても正々堂々とぶつかって素直な人間でいたいです」

石黒「私はすごい弱い所があって、すぐ逃げたくなっちゃうんですよ。だから人のこととかも、仲のいいコとかいても『こんなこと言ったら嫌われちゃうんじゃないか』とかそういうことばっかり考えて、後先を考え過ぎて失敗しちゃうんで…いろんなことを考え過ぎないでチャレンジしてくってことが私には大切だと思います。だからこれからはみんなにぶつかっていって、何があってもうちら7人の心の中は繋がっているから、みんなでいっぱい討論して、もっと私は自分を磨きたいです」

保田「今までけっこう尻込みするところが私にはあったので、これからはもっともっと自分を伸ばしてって負けない。自分自身でいろんなことに、自分に対して葛藤していきたいなと思ってます」

矢口「矢口はしょっちゅう悔し泣きするんで、この悔し泣きをなくしたいと思います。そしていつまでも自分らしく汚れない大人になりたいです」

市井「何回もラジオとかで言ってるんだけど…ビッグになりたいってことかな、やっぱり」

中澤「私はモーニング娘。に誇りを持っています。ホントに私たちはおもちゃじゃない。人生悔いなく生きます」


みんなそれぞれ気になっていることを言っていたが、注目は彩っぺだ。彩っぺのこの決意こそ『LOVEマシーン』でのはっちゃけぶりに繋がったのであり、また、カオリが孤独から救われてタンポポが特別なものになっていくきっかけになったものだった。そのカオリはまだまだで、彩っぺが本気でぶつかってくるまでは、勘違いした正々堂々さが続いてしまう。それでも、メンバーたちはこのラジオで本音を言い合って徐々に理解を深めあった。一ヶ月前のバリ島に行く直前と比べれば、メンバーたちの気持ちはかなり前を向くようになっていたのである。

そんな状態のメンバーたちに一つのレコーディングが待っていた。おそらく7月30日・31日頃、メンバーたちは今までにない形式でレコーディングに臨むこととなる。今までのように一人一人でもなく、誰がメイン誰がコーラスということもなく、メンバー全員で一本のマイクを囲んでレコーディングを行ったのだ。

『21世紀』

後藤が加入する前の7人での最後のレコーディングである。一つのマイクの前に立ち、みんなで息を合わせ手拍子をしユニゾンで歌う。つんくは「今までやりたかったんだけど、できなかった。やっとできるようになった」と言っていた。それが「メンバーの関係がこの形で歌うのに相応しくなかった」と言いたかったのか、それとも「自分の意見が通らなかったかったから出来なかった」のか「こういう形で歌うのに相応しい曲がなかなか作れなかった」のか、その辺は分からないが、『ふるさと』前の完全にバラバラなままの気持ちだったらこの歌を歌うことはなかっただろう。モーニング娘。に対して気持ちが一つの方向に向いてきたからこの曲を歌うことになったのである。また、カオリですら「この曲を全員で歌っている時、このメンバーで21世紀を迎えられたらいいね!っていう気持ちになったんです」と言っているように、この曲を歌ってより結束が強まった感があった。タイミングとしてはベストな時期に、この切なく夕暮れ感漂う『21世紀』はレコーディングされたのである。記憶が確かならばこの形式でレコーディングしたのは『21世紀』と『でっかい宇宙に愛がある』だけのはずだ。どちらも組織改革前の夏の頃のレコーディングだった…


その後娘。たちは再び北海道に行き、傷心のりんねと会い、加入してきた後藤と会い、そして『LOVEマシーン』でのブレイクに突入していく。
99年後半の大躍進は『ふるさと』の敗北から始まったと言ってもいい。このときのモーニング娘。・つんく・和田さん・ASAYAN、その他関係者多くの挫折がこの後のエネルギーとなっていくのだ。それは「爽快」と言えるほどのサクセスストーリーであったが、逆に再び娘。たちに苦悩をもたらすことにも繋がっていった。

最後に『21世紀』のメンバーたちの夢を振り返って終わりにしよう。(後藤は別録りなので割愛)

中澤「私の夢は、幸せになること」
市井「私の夢は、ビッグになってやる」
飯田「私の夢、きれいな言葉を持った大人になること」
保田「私の夢は、思いを伝えること」
矢口「私の夢は、笑いの絶えない生活」
石黒「私の夢は、巨乳になること」
安倍「私の夢、それは強くなること」

『ふるさと』の後にメンバーたちが話し合ったが、『21世紀』で語った自らの夢とそれとが結びついてくることが分かる。彩っぺはすでにこの時点で「辞めること」ことを意識していたのだろうし、矢口は気遣いばかりする生活に疲れているとも言えるだろう。それぞれのメンバーが『ふるさと』からどう立ち直るか、それが『21世紀』の夢に込められていた思いだった。そしてこの『21世紀』は娘。たちがブレイクするにしたがって封印されていくことなる…







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今回はここまで。
ようやく7月末まで終わり『ふるさと』については一段落。
次回はちょっと時間を遡って、オーディションのことを振り返る予定。

意見・感想等あればお願いいたします。
また情報提供も大歓迎です。

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第5回目。
今回はいよいよ『ふるさと』の発売がせまる6月下旬から7月上旬のことを。


ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(1)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(2)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(3)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(4)
の続き。



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前回の更新において『ふるさと』の発売時期が7月7日から14日に延期された理由を検証した。では、最初は「間に合わなかっただけ」の延期が、なぜ鈴木あみとの対決というかたちになってしまったのだろう。

まず、7月7日から14日に延期が決定された時期。ショップに出回った資料等を発見出来なかったので正確なことは言えないが、6月11日につんくがASAYANへ向けて『ふるさと』のコメントと「9月9日に9人でシングルを出すから2名増員」ということを収録しているので(O.A.は27日)、おそらく6月上旬くらいが延期が決定した時期だろう。7月7日に7人で出す計画が狂ったので、今度は「9月9日に9人で出す」としたのだ。この時点で8人にする気だったか、本当に9人にする気だったかは分からないが、「9月9日」というのは前年に『抱いてHOLD ON ME!』を発売した日でもある。この曲によってブレイクを果たしたから、ゲンをかつぐ意味もあったのだろう。

『ふるさと』のレコーディングはつんくコメント時には終了していると思われるので、実は7月7日に出そうと思えば出せた。それは前回記述の事務所内のごたごたなどが原因で延ばさざるを得なくなるのだが、それとは別にモーニング娘。のスケジュールが混み合い過ぎてて7月7日には出せなかったという理由もある。

ただでさえ『真夏の光線』からのリリース間隔が狭いというのに、6月は『たんぽぽ』の発売があってテレビの収録を含めたプロモーション活動がけっこう入っていた。さらに、6月の下旬にはライブと写真集の撮影が入っていたので、『ふるさと』のプロモーションビデオを撮る時間すら取れないでいた。『ふるさと』までのPVはロケが基本だったし、複数日をかけてじっくり撮ることもしていたので、まとまったスケジュールを押さえなければPVが作れなかったである。実際『ふるさと』のPV撮影に北海道・美瑛に向かったのは7月の3日過ぎのことであり、もし7日発売のままだったらプロモーション活動には到底間に合わなかったことになる。繰り返すが、『ふるさと』時に言われるプロモーション活動の不足はわざとではなく、物理的に不可能だったのだ。もちろんそういうスケジュールを組んでしまったことに非難される部分はあるが。



さて、モーニング娘。と事務所を同じくするSomething ELseだが、この年の初めに日テレ『雷波少年』の企画において『ラストチャンス』でミリオンヒットをとばした後も、日テレとのタイアップは続いていた。4月にはその年の巨人戦でずっと流れ続けることになる『さよならじゃない』を発売し、7月には再び『雷波少年』の企画「雷波少年系遊園地『後ろ楽しいガーデン』」とタイアップした『あいのうた/花火が消えるまで』を発売している。

当時はテレビの企画と連動した音楽展開が非常に流行っていた。96年から00年くらいのことだったろうか。もちろん『ASAYAN』もその流れにのった番組の一つであり、日テレ『雷波少年』もそうだった。これらの番組は流行っていたからというよりも、構成作家が重複していたから似たような企画が増えていったとも考えられる。タカハタ秀太氏と共に『ASAYAN』らしさを作っていた構成作家・都築浩氏は『雷波少年』の親番組『電波少年』のタイトルを生み出すきっかけを作った人物でもあった。その都築浩氏や鮫肌文殊氏が『ASAYAN』と『電波少年』双方を手がけていた構成作家であったが、それにそーたに氏やおちまさと氏といった有名どころを加えた構成作家グループが手がけていた有名な番組がもう一つある。

90年代後半に日テレの黄金時代の一翼を担っていた『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』である。この番組は1998年からポケットビスケッツvsブラックビスケッツの対決企画を始めると視聴率が急激に上昇。毎週20%前後を記録し、時には20%後半にいくこともあった。番組内で対決を煽り視聴者の興味を惹き付けたおかげで、両グループが出すシングルCDがミリオンヒットになることもめずらしくなかった。ブラックビスケッツは「アジア進出」を標榜しており、娘。たちも行った98年12月14日の「アジアライブドリームin上海」にも参加している。またこの番組内では「モーニング息子。」というモーニング娘。をネタにしたコントも作っていて、やはり構成作家が一緒だとこうなるのだなと思う。(記憶が確かならば明日香をキャイーン天野が演じていて、そりゃないよーと思ったものだ)

1999年になってもポケビvsブラビの対決は続き、それは7月まで続く。やはりCD発売権やCD売り上げ枚数での対決だったのだが、これと同じことをしようとしたのが「モーニング娘。vs鈴木あみ」だったのではないだろうか。この対決はUF側から仕掛けたものではなく、あくまでもASAYAN側が番組の視聴率アップを目指すために仕掛けたものだったのだ。もしUFが本気でやるならばアルバムからのシングルカット曲はありえないし、タイアップも一つも取らないわけがない。

たまたまモーニング娘。と鈴木あみの発売日がかぶってしまったところに、ASAYANがのっかったというのが真相だろう。和田さんの発言によれば、鈴木あみのマネージャーとは仲が良く、それまでの発売日もよく相談しあっていた。しかし、モーニング娘。のスケジュールの都合上、今回はずらしようもなくなった。それを聞き付けたASAYANが滅多にない機会を利用してしまおうと考えたことが、対決に至る経緯だったのだと思う。もちろん対決条件はイーブンでないのを承知の上で。

しかし、「ASAYANでの対決」によるうま味を想定していた人たちは今回ばかりは甘過ぎた。『ASAYAN』スポンサーであるエイベックスが自社アーティスト以外ばかりをとりあげることに業を煮やして(推定)、人気急上昇中だった浜崎あゆみ、それにV6を同日発売にぶつけてきたのである。「業を煮やして」というよりも「自分たちも『対決』にのっかってしまおう』という意図だったのかもしれないが、『ASAYAN』が予定していた「対決」の軸は世間的には早々にぼやけてしまうことになった。

当時のASAYANファンやモーニング娘。ファンは「モーニング娘。vs鈴木あみ」という印象しか残っていないだろうが、世間の興味は「浜崎あゆみvs鈴木あみ」の方に向いてしまったのである。アイドル系女性ソロシンガーとして当時最大のライバルと言われていた二人(当時の宇多田ヒカルのライバルは倉木麻衣だった)の対決の方がメジャーになってしまったのである。莫大な宣伝費を使うエイベックスと、小室哲哉のお声掛かりで作ったTRUE KiSS DiSCの対決だ。こうなってしまうのは仕方ないことだった。またASAYANとUFには大きな誤算でもあった。

数々の気持ちのすれ違い、利用、無理、そして誤算、いろんな要素が絡み合って『ふるさと』は「負けたこと」になった。モーニング娘。のメンバーのみならず、関わる人たちすべての気持ちがあっちこっちにいってしまっていた。しかし、このどん底の時代を乗り切ったメンバーたちは強くなっていく。そして後の時代に大きな意味を持つことになるのである。



スケジュールを少し追っていこう。

セカンドアルバムのレコーディングは6月になっても続く。そんな中、『Memory青春の光』や『真夏の光線』を経て『好きで×5』や『パパに似ている彼』をレコーディングをするにいたって、矢口や圭ちゃんといった面々は徐々にハモリ役としての自分のポジションを見つけていく。ハモることにプライドを見い出し始めたのだ。なっちや紗耶香と共に暇な時間を見つけては遊びがてらハモったりすることもめずらしくなくなった。いろいろとごたごたしている中、歌に対する情熱を失わなかったことが彼女たちが仕事を続けられる理由でもあった。

その歌に対する情熱を失わなかったことが報われたこともあった。それがフジ『ハッピーバースデー!』で歌った『ら・ら・ら』であり、『LOVE LOVEあいしてる』で歌った『サボテンの花』である。『ハッピーバースデー!』は3人だった頃のEE JUMPが出演していた『笑う犬の冒険』の前番組で、フジテレビバラエティ制作センター作。『LOVE LOVEあいしてる』は言わずと知れたきくちさんの番組である。

『ら・ら・ら』は中澤姐さんの誕生日を祝うために6人で番組内で歌った(O.A.6月13日)。きちんと自分たちでコーラスワークとハモリをこなし、モーニング娘。が歌手であることを見せつけてくれた。また、『サボテンの花』ではなっちを真ん中にして圭ちゃんがサックスを紗耶香がトランペットを吹き、アーティスティックな一面をも見せてくれた(O.A.7月31日)。

6月20日の大阪ライブではちょっとしたどっきりを姐さんは仕掛けられた。姐さんの誕生日を会場で祝うために仕掛けたのだが、これのためにステージの段取りに不合理な部分ができてしまい姐さん激昂。舞台監督とけんかをしてしまうのだが、それがすべて自分のために行われたものだと分かったときには今度は号泣だった。「粋なことするよねぇ」とは姐さんの弁。ちなみに『ふるさと』はこの日のライブで初披露された。


『ふるさと』での『うたばん』出演はかなり早めで、6月22日に収録を行っている(O.A.7月15日)。この回は前回の席決めゲームが高視聴率だったことを受けて、ドッヂボールで席決めをした。この回もカオリと姐さんを徹底的にイジる演出であり、またそれにカオリがムキになって対抗することに面白さがあった。また「モーニング娘。の懺悔」というコーナーがあり、これもまたメンバー同士の対立を煽る内容だった。

なっちの「タンポポのアルバムは聴いていない」というのはこの時の発言である。『うたばん』がねじ曲げて広げてる部分があるので改めて振り返っておくが、このコーナーはあくまでも「匿名での懺悔」ということが企画の表向きの主旨であった。「悔しかったから聞いてなくてゴメンなさい」という懺悔は最初正体が分かっていなかったのである。が、なっちが司会の二人とカオリに責められた末、正直に認めたというのが話の流れである。今となっては笑い話だが、当時はこんな些細なことで揉めていた。今から考えれば「なぜ悔しかったのか」ということの方がよほど気になることである。

『うたばん』や『ASAYAN』の演出でかなりの誤解が広まってしまっているが、当時のタンポポのテレビへの露出は本体を上回るものがあった。明日香の卒業があったため話題はそっちにいってしまっていたが、新曲のリリースは本体とほぼ一緒のペースだったし、それに伴う音楽番組への出演も本体となんら遜色なかった。『うたばん』を含むTBSにおいてはデビュー曲『ラスト・キッス』の版権を日音(100%TBS子会社)が持っていることから、かなり優遇された出演の仕方をしていた。また、タンポポはオリジナルアルバムを出し、メンバー一人一人がソロ曲を与えられ(なっちのソロ曲はまだない)、サンフランシスコ行きや、単独のイベントを多数こなしていた。なっちはそういった個人に近い形で活動しているタンポポに対して「悔しかった」のである。さらに、そういうタンポポの状況を顧みないで自分だけを責めてくるカオリを快く思えなかったのである。

この「聴いていない」という懺悔が読まれたとき、実はタンポポの3人以外の全員が聴いてない節があった。彩っぺも「案外と全員聴いてなかったりするかもね」と言って矢口も同意していたが、アルバムが発売された当時のことを考えればそれは分かる。3月末頃は明日香卒業のメモ青ツアー真っ最中であり、テレビ出演も連日続き、一日3公演もあったりと、ほとんど寝る間もなかった頃である。ちゃんと聴いていないのは全員に共通することであったのだ。

司会者2人にのせられたカオリがさっそくなっちに「だって、じゃあさあ、タンポポが仕事してるときに、『がんばってね、辛いけど』ってさあ、言うけどさあ、ほんとは心から応援してくれてないってことじゃないの?」と噛みついたときに、それを「そんなこと思ってない」と弁護したのは紗耶香と姐さんであった。矢口と彩っぺもなっちが正直に認めたことで「でもこれは、懺悔として出してくれたから」とそれを執拗に責めることはなかった。

なっちとカオリの対立ばかりが浮き彫りになってしまったこの回の『うたばん』だが、実はもっとタンポポに対してきついことを言っているメンバーもいた。

「タンポポは普通の歌番組に出られるけど、私は○○だから『うたばん』にも出られない。『なんで私だけ○○なの』と、タンポポを呪って大泣きしたことがある。ごめんなさい」

もちろんこれは姐さんの懺悔である。ある意味「アルバム聴いていない」発言より酷いことを言っているのだが、これにはなぜかカオリは噛み付くことなく、彩っぺが「でもいいじゃん。裕ちゃんだってさ、演歌でしか出れない番組いっぱい出てんじゃん」と返すだけで終わっている。

この回の「懺悔」についてだが、メンバーにはおそらく「タンポポに対して」「なっちに対して」「うたばんに対して」「モーニング娘。に対して」とある程度の指定をして<懺悔用紙>に記入してもらったのだろう。それによるメンバーの対立を煽るトークは最後まで続いた。この回も好視聴率であったが、メンバーたちの心は傷付く一方であった。



6月24日。ついにメンバーたちに鈴木あみとの対決とメンバーの増員が発表される。この日のASAYAN収録において1.鈴木あみとの対決、2.ココナッツ娘のデビュー曲が『サマーナイトタウン』であること、3.メンバーを増員して9月9日に9人でシングルを出すこと、の3点が発表されたのだ。メンバーたちも会場に来た観客と一緒につんくが6月11日に収録したVTRを見て驚いていた。番組では最初からなっちと他のメンバーの対立をナインティナインの二人が煽り、見ていてあまり気持ちのいいものではなかった。

つんくのコメントは鈴木あみとの対決とココナッツ娘の件については言及がなく、やはりこの2点はASAYAN側が演出して、娘。たちを追い込もうとしていたのだなと分かる。つんくの『ふるさと』へのコメントはめずらしく真面目に語っており真剣さが伝わってきた。それとは逆に増員へのコメントはいつものニヤついた顔とふざけた口調に終始しており、つんくの意見ではないなということが想像できる。

増員に関しては石橋貴明やダウンタウンに言われたこともあり、周囲にもそういう予測をする人がいたから娘。たちは驚くことはなかっただろう。ただし、彼女たちはモーニング娘。は「8人」であると思っていたし、7人になっても「7人と1人」という意識は変わらなかったから、増員に抵抗はあった。ハロープロジェクトの新しいグループを含め「まだ増えるのかよ」と思ったことだろう。

後に中澤姐さんが「この時期あらゆる人たちが『そこはあたしの席だ、俺の席だ』といって乗っかってくる」というニュアンスのことを発言しているが、これは
・モーニング娘。と類似したユニットの連発
・テレビ番組におけるメンバー間の不和を煽る演出
・ASAYANが自分たちを対決の道具にして利用したこと
・その対決すら、関係ない人たちに乗っかられたこと
・自分たちの意思を無視した増員計画
こういったことが、その理由だったと考えられる。よくバー○ングだなんだとおっしゃっている方を見かけるが、娘。たちにとってはそんなことは関係なく、身の回りに起きた直接的なごたごたが「一生忘れない」(姐さん談)ことだったのだ。


娘。たちは26日の小倉競馬場オープニングフェスティバルを経て、27日には2nd写真集の撮影にむけて芸能・芸術の島バリ島へ出発した。同日には上記のASAYANの重大発表放送があり、これに合わせてちょうど日本を離れるあたりはメンバーのことを精神的にフォローをしていると言えるだろう。バリ島には7月1日まで滞在し(タンポポの3人は6月30日まで)、心がささくれていたメンバーたちにとって久しぶりの柔らかな仕事となり、心の休息ともなった。写真集の撮影テーマは「ナチュラル」。これだけでも無理をさせなかったことがうかがえる。

以下、写真集に同梱された日記から抜粋。

中澤
27日 今気持ちがとても開放的になってる。今夜はよく眠れそう。波の音が心地良い…。
28日 のんびりしてていいなあ。ゆっくり時間が流れていく。こういう感じ久しぶりだよ。夕食食べて幸せと思った。「幸せ」っていろんなところにあるんだね。そういえば今日久しぶりに笑った。それも「幸せ」だ。
29日 午前中、撮影が始まるまでの間海を眺めてた。海は好き。嬉しくなったり悲しくなったり気持ちに変化が起きる。何も考えないで好きな景色を見てるのもいいもんだよ。(中略)町で大好きなお香をたくさん買った。部屋でもずっとお香焚いてた。落ち着くんだよね。
30日 今回の仕事はゆとりをもってできたな。夜、また海を見に行った。星がねキレイだったよ。明日は東京に帰る日。もう少しだけのんびりしたいな。

矢口
バリは時間がすごくゆっくりと流れていて、自然が多くて、人がみんな温かく、笑顔の多い場所だった。そんな所バリは、つかれていた心がたくさんたくさん癒された気がした。だから、1日目にして東京に帰るのがちょっとイヤになった。帰ればまたものすごいスケジュールが待っているし、こうやってのんびりと過ごすことはめったになくなる。そんなことを考えながら次の日の朝をむかえた。(中略)夢見る少女矢口は(笑)みんなから、いつも元気で悩みがなさそうとか、なーんにも考えてないとか言われるけど、矢口だってみんなと一緒で、淋しい日もつらい日も泣きたい日も逃げ出したい日だってある。だけどこんな日は元気にしてるだけで、自分もどんどん元気になれるし、みんなも笑ってくれる。それが矢口の楽しいうれしい生き方です。
最後に…歌が大好きなメンバーとこれからも強くそして大きくなっていきたいと思っているので、いつまでも娘。達をどうぞ温かい心で見守ってやって下さい! なんかバリに来て、いっぱいいっぱいだったものが落ち着いた気がします。

安倍
JUNE 30 空は地元の空の様に一面星で感動だった。少し淋しい気持ちになった。
JULY 1 バリに行って、つくづくいろんな人がこの世の中にはいるんだなあって思って…「安倍なつみ」っていう人も1人しかいない。だからこそ伸び伸びと生きようと思った。皆もねっ。でも1人なんかじゃないから大丈夫。なっちは唄というもので自分を表現して沢山の人を元気づけたりしていきたい。そのためには、もっともーっと自分自身を磨くね。そして自然にナチュラルにいこう。

姐さんの「久しぶりに笑った」という言葉がその当時置かれていた状況を如実に表しているし、弱音をあまりはかない矢口が「いっぱいいっぱいだったものが落ち着いた」と言っているあたり、バリに来るまで相当過酷な精神状態にいたことが分かる。このバリでは少しイヤなことを忘れられ、一部メンバー達は自分たちが「歌手」であることを分かってもらうために現地の人に向かってハモってみせたり、また好きな時間に泳ぎにいったりと、自由な時間が多く精神的な休息を得ることができた。

しかし、なっちは現地の人と仲良くなって喋りまくったり、紗耶香と一緒にマッサージに行ったりしてバリ島でのゆっくりとした時間は楽しめたものの、なっちの抱える問題の根本的な解決にはならなかった。

「どんどん自分で殻に閉じこもっていったから(中略)自分の弱い部分を絶対見せたくなかったんだよね。(中略)みんなで、「ゴハン食べに行きまぁーす」とか誘われても、昔だったらわぁいわぁい!って素直に一緒につれてってもらったりしてたのに、もう……自分ひとりでプレッシャー抱えてずーっと気が張ってる状態をオフにできなくなって、みんなといるのがつらくなっちゃってた。 フッ…と戻れないから、ひとに囲まれてると疲れるの。それが、自分でよぉく、痛いほどわかってるもんだから、どんどんみんなから距離をとって、ひとりになろうとするの。ひとりでいるほうが、ラクだったから……。(中略)こんななっちがいつまで続くんだろう? いつまで持ちこたえられるんだろう?って、はてなのオンパレードなの。仕事場でもそうだけど、おうちに帰っても仕事モードがぜんぜん抜けなくって。「自分」がうすくなっていった。(中略)あのころはね、「あっ、なっちだ」とか言われたりするのがいけないことっていうか、ばれちゃいけないんだぁ……ってものすごく自意識が過剰になっちゃってたの」(『ALBUM 1998-2003』より)

バリ島では一人一部屋で宿割りが決められていたが、広すぎたこともあってメンバーたちは怖くなり望んで相部屋に移ったコもいた。矢口は紗耶香の部屋に移り、圭ちゃんはカオリの部屋に移動した。姐さんは元々一人でいたい派だし、なっちは上記のような精神状態だったから、彩っぺも含めて夜は一人で過ごしていた。圭ちゃんはカオリが先に帰った夜(30日)には一人で出かけて泳ぎまくったそうで、すっかりバリの生活に慣れてしまった様子がうかがえる。

なっちが現地の人と喋りまくっていたというのは、現地の人たちがなっちのことを知らない安心感があったからであり、気を遣わないで素の自分でいられたからだろう。また、一人で夜空を見上げ「少し淋しい気持ち」というのも当時の彼女の孤独感を現しているように感じる。まさに『ふるさと』そのまんまのなっちの心であった。しかし、ここで現地の人たちと話すなっちを見て微笑ましく思っていたメンバーがいたのも事実で(後日談)、カオリを除けばメンバー間の確執が深刻なところから徐々に和らいでいっていたのも確かであった。



7月2日。タンポポの3人は『ミュージックステーション』に生出演する。このスケジュールに合わせるためにタンポポの3人はバリ島を一日早く引き払ったのだ。実はこのタンポポの『Mステ』の出演が『ふるさと』で1回しか出演できなくなった理由であると自分は考えている。スケジュール的にきつかったから、もしモーニング娘。が2回出演するとしたらこの日と、16日しかなかったのだ。本来であれば6月いっぱいで切り上げていいはず(スケジュールから考えてもキリが良い)の『たんぽぽ』のプロモーションをなぜこの日にまでやる必要があったのか? 6月6日に札幌から始めたプロモーション活動は6月25日に鹿児島まで行って一段落つけているのである。その間に各局の音楽番組出演も一通りこなしている。

確かに『Mステ』には発売してから1ヶ月後でも出演することがあるので不思議ではないのだが、『ふるさと』の発売が7月14日にせまっている中で、この出演は微妙であり疑問が残った。タンポポの3人と同様にバリからの帰国を一日早めればモーニング娘。はMステに間に合ったのだ。バリ島でのんびりとしないで、撮影を優先すれば帰ることは可能だった。しかも鈴木あみと対決を煽ってる最中にもかかわらずタンポポの出演を優先したのである。

これは後から見れば誤算の結果だったのだろう。UFは「対決」の効果を期待していたのだ。前述のように当時は「ポケビvsブラビ」のようなテレビ番組主導の企画もののCDが発売されていて、その番組自体がプロモーションを兼ねていた。それでミリオンに達することもあったので、つまりUFはその「対決」企画に過信してしまったのだ。メンバーたちには良い休息となったバリ島行きだが、芸能活動の上でのプロモーションという点では明らかに失策だった。「解散」の可能性も意識していたから、タンポポの売り込みに躍起になっていて、それに気を取られてしまったというのもあるだろう。中途半端な、どっちつかずな<甘さ>が失敗を招いた。

バリ島で行った2nd写真集だが、これは和田さんの関わらない仕事であった。つんくとの溝のせいか分からないが、1st写真集や『もう一人の明日香』、そして後の『ナッチ』にはきちんとクレジットされている「和田薫」の名がこの写真集にはなかった。おそらくバリ島にも同行していない。和田さんは写真集の撮影を優先させたことに国内でやきもきしていた。また、和田さんの言う<負ける予感>はこんなところからも来ていたのだろう。当時UF側で事態の危うさに気付いてたのは和田さんだけだった。それに、事務所内の数々のごたごたで細かい戦略を立てている時間と人がいなかったことも、娘。たちには不幸であった。



写真集撮影から帰ってきて、いよいよモーニング娘。たちは『ふるさと』のPV撮影に入る。モーニング娘。最後のロケとなるPVである。ついに「5+3-1」の時代が終わる瞬間が近付いてきていた。「彼女たちを一度ふるさとに帰してあげたかった」というつんくの言葉通り、「モーニング娘。」は自分たちを見つめ直す場所に帰ったのである。この先何が起こっても忘れないために、彷徨っても帰ってくる場所があるように……
本当の母親と一緒に撮影を行い、美瑛の名所『親子の木』を曲の象徴的な場所として用い…美しい美瑛の景色と共に『ふるさと』はメンバーたちの思い出として深く心に残っていくのであった。

かわって7月8日。この日はASAYANで鈴木あみと同時収録の日だった。なっちは不安からなのか朝5時半に目がさめてしまったという(スタジオ入りは10時15分)。ASAYANの演出は相変わらずベクトルがかかっていて、ナイナイの二人もモーニング娘。を煽るトークにもっていくことしかしなかった。当時のモーニング娘。たちには「番組が仕掛けてくれたことに対して頑張らなきゃ」という意識は常にあったから一応は対決の舞台に乗っていたものの、実際に鈴木あみにライバル心を抱いているメンバーはカオリくらいしかいなかった。

鈴木あみの方もモーニング娘。とは仲が良かったし(親密ではないが)、現実的には浜崎あゆみとの対決が優先し、『ふるさと』も急場しのぎの発売ということが分かっていたから、モーニング娘。をライバル視することはなかった。ちなみに鈴木あみはこの時なんとか初登場オリコン1位を取ったが、翌週には逆転され浜崎あゆみは3週連続1位を取っている。

対決はASAYANの演出に過ぎないということは双方が分かった上での進行だったのである。なっちが「負けてらんない」と言ったのは一人で頑張っている鈴木あみの姿勢に対する自分の気持ちであり、鈴木あみに向けて発したものではなかった。なっちのこの時期の発言は内を向いた(メンバーたちや周囲からのプレッシャーに対して)ものであった。しかしASAYANにはそれをうまく編集されて対決を煽る構図に使われてしまう。そういった強引な対決のさせ方はきっとメンバーたちを傷つけていっただろう。しかし、序々にではあったがお互いの傷付く心を理解し、このままではまずいという気持ちが芽生え始めた時期でもあった。不和になりつつあったメンバーたちだったが、バリ島や美瑛に行って自然な時間を過ごしたこともあり、少しだけ自分を見つめ直す機会が得られていたのである。


ちなみに『ふるさと』PVの収録時期だが、正確な日にちまでは判明していない。しかしちょうどこの時期に紗耶香が髪を切っていて、それから推測していくことが出来た。20日のZepp大阪でのライブでは髪が長いことが確認出来ているので、『ふるさと』の収録はそのあと。27日バリ島の時点ですでに髪は切っているが、その間にまとまったスケジュールが取れる日はない。つまりバリ島から帰国後の3日過ぎ、家族の都合もあるから土日に合わせた7月3〜5日あたりが収録した日だったのではないだろうか。

その後、娘。たちは『HEY!HEY!HEY!』『LOVELOVEあいしてる』と、きくちさんとの仕事を立続けにこなし、運命の7月14日、『ふるさと』の発売日を迎えることになる。





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今回はここまで。
次回は『ふるさと』敗北とその後のことを少し。
上手くいけば3期オーディションについても入っていくかも。
…ちょっと厳しいかな。

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ようやく第4回目。




ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(1)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(2)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(3)
の続き。



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1999年4月18日に明日香が脱退し、あるメンバーは泣きあかして19日を迎え、またあるメンバーは思い出しては泣くことを繰り返し、ほんの束の間の永遠の時間を愛おしんでいた。

娘。たちは19日から短いオフをもらい、4月下旬からは『真夏の光線』のプロモーションビデオの撮影のためにグアムに向かった。明るさの中にも切なさの入り交じったこの時のメンバーたちの表情が、その時の心境を物語っている。この頃の娘。たちは2人で1部屋に泊まることが常だったので、中澤姐さんはメンバーたちとの相部屋から溢れマネージャーと泊まることになった。明日香がいなくなったことの影響がこんなところにも出ていたのである。

現地ではめずらしく丸一日のオフがあり、中澤姐さんはカオリとショッピングに出かけ、あれもこれもと片っ端から買っていく姐さんにカオリは呆れていたという。この日は事前に2人1組で行動することが決められていたみたいで、姐さんも今までカオリとこうして出かけることがなかったのでびっくりしたらしい。他の組み合わせも気になるところだが、それは分からなかった。

その日の夜は飯田・保田・矢口・市井の4人でマジックショーを見に行っている。残った3人は何をしていたのだろう。『真夏の光線』のPVの中には、「なっちは泣いた後じゃないの?」と思えるような目をしているときがあって(メモ青ツアー最終公演が終わった後の楽屋の目と一緒)、それがずっと気になっている。そのシーンの収録がこのオフの日の翌日だったのではないかと疑念を抱いているのだが、確証はなく妄想に過ぎない。

グアムのPV撮影では中澤姐さんが運転したり有名な「カオリ熱射病で昏倒」事件なども起こり、なかなかメンバーたちには印象深い思い出を残して終了した。最終日にはスタッフたちを含めた全員でプールサイドで大騒ぎ。メンバーたちも次々とプールに落とされ、飛び込まされ、カオリは不用意にプールの深くなったところに行ってしまい溺れそうになる。これを確か和田さんが飛び込んで助けたように記憶しているのだが、おかげで和田さんをプールに落とそうとしていた他のメンバーの企みは頓挫してしまった。


5月に入ると娘。たちは『真夏の光線』のプロモーション活動に入る。脱退した明日香もミュージックステーションの本番前に電話をかけてきてメンバーを励ましたりしていた。しかし、テレビやラジオ出演は順調にこなしていた(岡村骨折事件等は発生)が、モーニング娘。は明日香が抜けたことによってなっちメインの色合いが強まり、それへの反発に端を発していると思われるメンバー同士の対立が目立つようになってくる。

5月の中旬に『うたばん』の収録を行っていて、これがメンバー同士の決定的な不協和音の始まりだったのではないだろうか。メンバー同士というよりもなっちとカオリの冷戦激化といってもよい。前年の二人暮らしの際の「ゴミを捨てない」だの「皿を洗わない」だの些細なことに始まった二人のケンカは、明日香がいた頃すでに根深いものになっていたが、明日香が辞めてさらに深刻化した。

思い込みの激しいカオリだったせいかは分からないが、とかくなっちが誉められたり厚遇されると、それに反発し生の感情むきだしで突っ走っていた。明日香がいた際はメンバーからも認められていた歌の実力と独特の存在感、それに最年少にも拘わらずメインを張っていたことから、「モーニング娘。の顔」ということに対し、カオリはそんなに敵愾心を燃やさないでいられた。そのため明日香が抜けると、一人でメインを張るなっちに我慢できなくなった。「自分よりも歌が下手なのに。贔屓されてるからなのに」とカオリが思っていたかは分からないが、とにかく自分のモーニング娘。の立ち位置に不満を持っていたのは間違いない。

この日の『うたばん』の収録は後に伝説化する「席決めゲーム」が初めて実施された回だった(コトの発端は明日香最後の出演の回にあるが)。視聴者的には面白く、視聴率も良かったためこの企画はずっと続いていくことになる。しかし、カオリの見せる表情はこちらが心配になるほど尖っていて、「それは演技なの?」と疑いたくなるほどだった。席決め企画は露骨な姐さんとカオリのイジリシフトであり、しかもそれをカオリが理解していないことが視聴者的には「笑い」だった。なっちへの贔屓もそれがあるからこそ成り立った「笑い」なのだが、カオリは理解しなかった。当時のカオリはいかんせん若かったし直情的に過ぎたから、その感情を番組内で終わらす事すらできず普段のモーニング娘。へも引きずっていった。(カオリはモーニング娘。からは距離をおいて友人を作り始め、それが今現在も関係が続く女優・田中麗奈である)

中澤姐さんは一緒にいじられる立場といっても、自分のモーニング娘。内でのポジションは分かっていたし、上から「最初に喋るな」「あんまり出しゃばるな」と言われていたから、怒りの鉾先はどちらかといえば事務所に向いていた。彩っぺはすでに「いじられるコが可愛がられている」と理解していたので、カオリや姐さんの立場をうらやましく思っていた。またその「おいしさ」を理解していなかったカオリには歯がゆい思いもあっただろう。年上メンバー二人は現状は容認し難いものの、それはやむを得ないということは分かっていたと思う。それらの微妙な感情がモーニング娘。から(メンバー自身が感じる)一体感を奪ってしまう原因の一つでもあったのだが…

カオリが明日香の後を引き継いで『CDでーた』に連載を始めた「パラノイアダイアリー」には、当時の負の感情が満載で、読んでいるこちらがつらくなってくることもあった。まるで後のつだ☆まさごろ(2003〜05年頃ハーモニープロモーションに在籍したアーティスト)の日記を読むようなつらさであった。「きょうのかおりはうさぎです」とか「みみずになりたい」とかカオリワールド炸裂な世界観である。

カオリはタンポポで出演したラジオでも、「緊張している」といった彩っぺに「帰れよ」と言い放ちケンカを始めている。これは矢口にたしなめられて事無きを得たが、生放送の冒頭での出来事にスタッフには緊張が走ったという。カオリ的には「緊張してたらラジオの仕事にならないんだから帰れよ」と言いたかったのだろうが、さすがにこれは理解を超えていた。この頃カオリはマネージャーから「LOVE&PEACE」とあだ名を付けられたが、おそらくこれはマネージャーがカオリの直情的・好戦的なところを注意しようとして付けたものだろう。また、人に相談すると「自分の感情を表に出すな」と注意されることがあったともカオリは書き残している。

カオリの直情的なところは『うたばん』においては格好のいじりの種であり、それを企画の柱にできるほどであったが、当時のカオリにはそれを受け入れるだけの感情の器がなかった。圭ちゃんが主役を張るようになった頃、カオリもその「おいしさ」を理解し受け入れたが、それはまた同時にカオリのいじりが終わったことを意味する瞬間でもあった。カオリが理解していないことこそ「おいしさ」だったのだから仕方ないが、自分が理解したことによって自分の時代が終わるというのはなんとも悲しい話ではないだろうか…

ちなみにこの日の『うたばん』は目安箱企画(なっちとカオリ・姐さんがやりあった)と合わせて5月27日に放送され視聴率18%をマークしている。



さてここでCDの発売の流れを振り返っておこう。

03.31 タンポポ     『TANPOPO 1』アルバム
04.09 Something ELse  『さよならじゃない』
04.21 太陽&シスコムーン『月と太陽』
05.12 モーニング娘。  『真夏の光線』
05.19 森高千里     『まひるの星』
06.09 中澤ゆう子    『純情行進曲』
06.16 タンポポ     『たんぽぽ』
06.23 太陽&シスコムーン『ガタメキラ』
07.14 モーニング娘。  『ふるさと』
    鈴木あみ     『BE TOGETHER』(モスバーガー「夏のキャンペーン」CM曲)
    浜崎あゆみ    『Boys&Girls』(リミックス曲を大量収録、初の試み)
    V6        『太陽のあたる場所』(日テレドラマ 「新・俺たちの旅Ver.1999」主題歌・関西セルラー電話CM曲)
    Dir en grey    『予感』(日テレドラマ「女医」EDテーマ)
    ダンス☆マン   『MIRRORBALLISM 2』アルバム
07.23 カントリー娘。  『二人の北海道』
    ココナッツ娘   『ハレーションサマー/サマーナイトタウン』
07.28 モーニング娘。  『セカンドモーニング』アルバム
    平家みちよ    『scene』
    太陽&シスコムーン『宇宙でLa Ta Ta』
    Something ELse  『あいのうた/花火が消えるまで』
08.04 三佳千夏     『Unchain My Heart』


カントリー娘。の3人、柳原尋美・小林梓・戸田鈴音は4月27日の『アイさが』で、「モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション」の三佳千夏(千木留美子)は5月11日の『アイさが』で合格を発表されている。また前年11月のハワイでのオーディションを経て3月にココナッツ娘が5人で結成されており、娘。と平家みちよ、それに太陽&シスコムーンを合わせ総勢21人の「Hello! Project」がここに発足した。21人のうち、Hello! Project内に現在(07年6月)では7人しか残っておらず、時代の波の激しさを感じさせられる。

5月11日の三佳千夏の合格発表と入れ替わりに、12日発売の『真夏の光線』には「第2回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション」の募集告知が同封された。いまいち内容がハッキリとしないこのオーディションは後のエッグオーディションにも通じるものがあって、つまりはアップフロントの直轄下にあると言える。余計なしがらみに影響されずにオーディションを実施できたから第3回のように「該当者なし」で終わることもできたし、第4回合格者の松浦のように惜し気もなく娘。で得た資金を投入できたりもした。

発売スケジュールの7月下旬のリリースラッシュを見れば分かるように、Hello! Projectの体制作りは急ピッチで進められている。チェキッ娘に対してすら好意を持てなかった娘。たちが、自分達に類似したユニットが身内に多数できてどう思っただろう。次から次へと「モーニング娘。」にのりかかるそれらのユニットを娘たちが好意的に受け止めたとは到底考えられない。ゼロから作り出してきた「モーニング娘。」が大人たちの勝手な都合でどんどん利用されていくのである。98年の段階ですでに「わたしたちは人形じゃない」と言ってなっち(カオリも一緒?)がホテルに立てこもったりしたこともあったが、このときのユニット乱発に対して同じように思ったことは想像に難くない。


モーニング娘。の第6弾シングルは、今までのリリース間隔からいえばありえない発売時期だった。98年を例に取れば2nd『サマーナイトタウン』の発売が5月27日だったのに対して3rd『抱いてHOLD ON ME!』は9月9日である。モーニング娘。に限らずそれなりの売り上げを持つアーティストたちは3〜4ヶ月周期でシングルを出すのが普通だったから、モーニング娘。でいえば『LOVEマシーン』の頃が本来の6thの発売時期である。

なぜ急ぐ必要があったのだろう? それが上記のHello! Projectの体制作りとの兼ね合いだったと自分は考えている。夏のHello! Projectのコンサートに間に合わせるために、太シスは立続けにシングルを発売していたし(3ヶ月連続リリース企画)、新しく入ってきた人たちもモーニング娘。との対面を済ませ矢継ぎ早にシングルをリリースしている。その流れに合わせるように、夏のハロコンに向けて『真夏の光線』ともう一曲というのが、6thが急がされた理由だったのではないだろうか。

モーニング娘。たちは5月頃からセカンドアルバムのレコーディングに入っていると思われるが、この企画段階でつんくと和田さんの間にモーニング娘。のプロデュースを巡ってわずかな溝ができていた。つんくから「和田さんが何かを言うと、みんなが反対意見を言えなくなるんです」「僕が考えている方向をつぶさないでくださいよ」とはっきりと言われ、和田さんは「このことで後身を育てる重要性に気付きつんくに感謝した」と振り返っているが、実際にはやりきれない思いもあっただろう。それまで娘。に対して衣装決めやジャケット決め、それにメディア戦略等、現場プロモーションの実権を握ってきた和田さんである。つんくにこう切り出されて面白いわけがない。一歩引いた和田さんは6thにまつわる事態の展開には危うさを感じながらも、一度痛い目にあうのもいいとさえ思い、不安定な体制のままその制作に突き進んでいってしまう。

『真夏の光線』が発売された直後に「モーニング娘。新譜 7月7日発売」という情報が流れた。7人のモーニング娘。が7月7日に出すシングルで、どこぞで聞いたような数字の用い方である。また、『ふるさと』の仮タイトルも『七夕』と付けられていた(断定できず)。もしかすると『せんこう花火』が『七夕(仮)』だった可能性はあるが、今回はそれに関する情報は得られなかったし、納得のいく妄想資料もなかったので「可能性」というかたちにしておく。

当初7月7日に発売を予定していた『ふるさと』がなぜ7月14日になったのか? 最初はそこに意図なんてなかったのだろう。ムック『GiRLPOP Hello! Project Special』においてつんくが「間に合わなかった」と言っている通り、スケジュール的な厳しさが理由だった。前述したように、この時期はハロー系のレコーディングが立て混んでいた。現在の異常ともいえるつんくの楽曲量産体制を見慣れてしまった目にはたいしたこともないように見えるが、まだこの年は量産体制が整う前の話である。新たな機材を導入してレコーディング作業の時間短縮をはかり始める第一段階であった。良曲ではあるが、『たんぽぽ』をアルバムからシングルカットしたり、『恋の始発列車』をアレンジ変更でアルバムに収録したり、ココナッツ娘で『サマーナイトタウン』を使い回したりと、「時間がなかったのかな?」と疑う要素は多々ある。

またマネジメントにおいても、急速に膨れ上がった大所帯のHello!を維持する体制はまったく確立されていなかった。98年には芸能界にいなかった素人さんたちが大量に入ってきて、しかもこの夏には全員新曲を発売し、コンサートを行うのである。『ふるさと』不振の理由によくプロモーション不足が言われるが、実際のところそこまで手が回らなかったというのが真相ではないだろうか。ましてや和田さんは鼻っから「失敗を予測」していたのだから、プロデュース的な発言は控え、本来のマネージャーの役割に徹していた。ミュージックステーションには1回しか出演しなかったにせよ、歌番組には他のシングルと同様に各局色々と出演しているから、Mステだけを取り上げてそんなに強調しなくてもいいように思う(調べていくうちに以前と自分の見解は変わりました)。和田さんは音楽番組におけるプロモーションは従来通りやっていたのだ。

マネジメントにおいてこの時期一つ打撃だったのは、5月末に森高千里が急性腸炎で緊急入院し妊娠が発覚、6月3日に江口洋介と入籍会見したことである。森高千里は5月19日に『まひるの星』を発売したばかりで、新曲プロモーション活動中での突発的な「事件」だった。以前から交際は報じられていたものの、相手は「月9」の主役クラスの俳優である。関係各所との調整、歌番組収録のキャンセルや、その後の新曲展開、ライブスケジュールの見直し、もっと根本的には森高千里のアーティスト像の再構築といった、頭を悩ます問題が山積していた。もしかしたら本当はハロー系タレントのマネジメントにヘルプに回る予定だったスタッフも、何人かは森高問題で足留めをくらってしまったかもしれない。

これらの事情によって7月7日に7人で出す予定だったシングルは一週間延期され7月14日となった。また上記のリリース予定から見れば分かる通り、翌週にはカントリー娘。とココナッツ娘、翌々週(7月最終週)には『セカンドモーニング』と平家・太シス(3ヶ月連続リリース企画中の2月目)・サムエルのシングルリリースが控えており、またモーニング娘。のツアーも7月下旬から始まることになっていたので、出すタイミングとしては7月14日しかあり得なかった。逆を言えばモーニング娘。のツアースケジュール、ハローのメンバーたちのリリースラッシュ、それらを考えると7月14日が最終ラインだったのである。和田さんが8月13日のラジオ『和田薫のANN-r』で発売日を「今更もう動かせない」と言っていたのは、こういった事情もあったのだろう。

メンバーたちがこの時期を振り返って「ごたごたしていた」というニュアンスで伝えるものの中には当然上記の事情が絡んでいた。モーニング娘。の名に乗りかかって急速にHello!が膨れ、事務所内は慌ただしく、レコーディングスケジュールはぎっちぎちで遅れ気味、和田さんはどこかよそよそしく…こういったことが、この時期にモーニング娘。に影を落としていた一つの原因だと考えられる。


話を5月からの『ふるさと』『セカンドモーニング』のレコーディングの時期に戻す。前述の通り、この頃のメンバー関係はしっくりいっていなかった。6thシングルのレコーディングに際してマネージャーから「安倍メイン他はコーラス」という主旨を聞かされた時、それに納得出来ず意見をしたメンバーもいたという(中澤裕子『ずっと後ろから見てきた』より)。これは後の発言によりカオリでほぼ確定なのだが、中澤姐さんやその他のメンバーも少なからず不満はあっただろう。

ただし姐さんのこの頃の不満というのは、演歌活動に対しての疑問だったり、リーダーとしての役割への疑問だったり、モーニング娘。を取り巻く環境への不満だったりと、大人だった分カオリとは違って怒りの鉾先を一つに絞ることができず、あらゆることが上手くいかないように思えそれがストレスになっていった。マネージャーに「まとめろ」「話し合え」と言われてメンバー間で話し合いを繰り返したものの、そんな雰囲気だったから逆に関係は悪化することになる。

『純情行進曲』のキャンペーンでは太シスの稲葉さんが同行することになり、それもまた姐さんにとってはストレスだった。「好きでやっているわけでもない自分の演歌が太シスの売り出し企画にまで利用されている」と思っていたかは分からないが、当時キャンペーンの一環も兼ねて単独パーソナリティを務めたラジオ『ANN-C』からは演歌活動に対する不満がひしひしと伝わってきた。また「黙ってたら怖い、喋ったらうるさい言われて、どーしたらいいのわたし?」とはっきりと現状の行き詰まり感、閉塞感への不満を口にしている。姐さんの頭には10円ハゲができた。

「やることやらないと先に進めない世界。そんな中で知らない間に我慢したり、無理したり……きっとその積み重ねがあの10円ハゲを生んだんだ」(『ずっと後ろから見てきた』より)


カオリと姐さん以外のメンバーはどうだっただろう。
彩っぺはこの頃すでに「タンポポはアーティストだから」と強い意識を持ってことにあたっていたし、明日香との約束の「マイペースでいく」ことを実践していたからそんなには尖っていなかった。真矢との交際がいつから始まっていたのかは分からないが、明日香の脱退によって再び自分の道について考え始めていたのは間違いないだろう。『LOVEマシーン』のPV撮影時にはすでに辞めることを決めていたので、ちょうどこの頃が進退について悩んでいた時期だと思われる。自宅の冷蔵庫を黄色のペンキで塗りたくったというエピソードが残っているが、これはシングル『タンポポ』を意識してのことだったのだろうか。

圭ちゃんは明日香のパートを引き継ぐことになり、それが重圧になっていた。明日香は歌唱力もさることながら、リズム感において歌を引っぱっていたから、いきなりそれを継いで前に立つことになった圭ちゃんはプレッシャーも強く感じたことだろう。(余談だが明日香は父親の影響もあって小学生の頃にドラムをいじっていた。またリズム感については『DHM』のラップ部分や『未来の扉』のライブ映像を見てもらえれば分かると思う) しかし、元から明日香パートの継承を強く意識していた圭ちゃんであったから、それなりの満足感は得ていたと思う、現状のパート割りには不満があったにせよ。

紗耶香は「ビッグになる」約束を果たすべく、徐々に一皮剥けだしている最中だった。『真夏の光線』においてその片鱗を見せ始め、徐々にその存在も周囲に認知されていく。ASAYAN収録中に岡村が骨折して急遽アシスタントを娘。からたてることになったが、選ばれたのは中澤姐さんと紗耶香だった。また、表情も以前に比べて明るくなり、この時期に一番前を向いていたのは紗耶香だったと、自分は思っている。困難を自ら切り開こうとしていた紗耶香だった。

矢口は正直なところ一番分からない。後の時代の回想を調べてみても言動に統一性がなく、時系列が混乱してしまっている部分も見受けられるので、なんとも言い難い。ただ、カオリの暴走を食い止める役割をこなし、それで逆になっちとの関係が深まっていった部分もあり、調整役という点では後の時代の中間管理職をすでにこの頃から担っていたと言ってもいいだろう。彼女の「場の雰囲気に合わせる」能力はこのときに培われた、と言っては言い過ぎか…

最後になっちである。明日香が抜けたことによって一人っきりのメインとなり周囲からのプレッシャーは強くなった。メンバーからの風当たりの強さも増し、ストレスは増える一方だった。この時期には明日香と紗耶香と一緒に遊びにいっていたという話も残っているが、「他の人には言えないことも相談できた」という明日香が抜けてしまったことは、彼女にとって大きな精神的な打撃になった。ポジションを同じくしていた明日香だからこそ、分かりあえることも多々あったのである。年下だけど妙に大人びていて一歩引いた感じがあり、また原理主義的な部分も合わせ持ち、聞き役に回れるだけの冷静さを持つ明日香はなっちには貴重な存在だった。けっきょくその存在はりんねと仲良くなるまで埋められることはないのだが。


前年なくなったかに思われたモーニング娘。の解散話はいまだくすぶっていた。くすぶっていたというよりもASAYANとの密接な関係が続く限り、それは逃れられない運命だったのである。ASAYANにおけるモーニング娘。の企画の全権をUFが握っていたわけではないのだ。ASAYANスタッフ、吉本SSM、電通、それにスポンサーであるエイベックス、いろんなしがらみの中にモーニング娘。は存在している。有象無象に翻弄され、出ては消え、売れれば即解散していったグループはASAYANには山ほどあった。ましてや企画としての「解散」にも魅力がある状況である。人気が下降線に向かうことで、「解散」はASAYANに関わる人たちが必ず脳裏に思い浮かべるものであったのだ。

6thシングルは解散後のなっちのソロ活動を意識してのものだったのだろうか? すでにこの時分、なっちの仕事にはソロ活動が入ってきていた。代表的なものとしてテレビ雑誌B.L.T.のグラビア仕事がある(5月下旬発売だから撮影は5月上旬頃か)。単独で表紙を飾ったこの雑誌を始め「安倍なつみ」の「個」が売れだしてきていたのである。その流れの中でつんくの元に「次のシングルは安倍だけをメインで歌わせるかたちで」という発注がいったのではないかと思う。解散するかしないかはともかく、どっちに転んでもいいように保険をかけたのだ。すでになっちのソロ活動に関してはエーダッシュプロモーションが扱うことが決まっていたし、保田・市井コンビにはハーモニープロモーションの影がちらついている。それなりの「手」は徐々に打ち始めていたのだ。

つんくはそれらの事情を分かった上で楽曲制作のプロデューサーとしてなっちをイメージした曲を作る。なっちのメンバー内での微妙なポジションも、娘。たちのおかれている複雑な環境も分かった上で、しかも和田さんに「口を出すな」と言いきった上での制作である。つんくの出した答えは「娘。たち、特に初期から頑張ってきた安倍を一度ふるさとに帰してあげたかった」だった。つんくの言う「ふるさと」とは何だったのだろう。もちろん単純に「出身地」の意味合いの「ふるさと」もある。しかしここでつんくが言いたかった「ふるさと」とは「モーニング娘。の出発点」「モーニング娘。そのもの」ということだったのではないだろうか。

歌への姿勢、芸能界で頑張る意味、家族たちに支えられて活動ができ、そして挫折を繰り返し、それでもまた頑張っていくという、メンバーたちが培ってきたモーニング娘。の原点こそ「ふるさと」なのだ。そして歌詞の中の「Mother」こそ「モーニング娘。」だったのだ。だから、この曲があったからこそ後々なっちはモーニング娘。の「Mother ship」たりえたのだ。これは周囲に翻弄され続ける娘。メンバーたちへのつんくからのメッセージだったのだと、今となっては思う。もし和田さんが口を出せる立場であったなら、こういう情に流された形でのビジネスは許さないだろうし、あるいはそういう形でいくならじっくりとプロモーション活動の時間をとれる余裕のある時にしか許さなかっただろう。つんくが和田さんに対立覚悟で外れてもらったのは、どうしてもここでそのメッセージを伝えておきたかったからだと、自分はそう解釈するようになった。

また、この曲は『Never Forget』のアンサーソング的な意味合いも込められていたと思う。この頃に娘。たち等身大の心象風景を描いていた曲はわずかしかなく、『Never Forget』も『ふるさと』もそのわずかな曲の中の一つだった。「東京で見る星も、ふるさとでの星も、同じだと教えてくれた」の部分の歌詞がとても好きだと言っていた明日香。そしてそれを教えてくれたのはメンバーたち(特になっち)だった。さらに『ふるさと』では、今度は「楽しい日があった あいつがいたから」「涙が止まらない」そして「流れ星を見たら何を祈ろうかな…」となっちが一人歌うのである。明日香から『Never Forget』を譲ると言われていたなっちがである。

ここに込められていた意味を思うと、旧メンたちがその後この曲にも特別な感情を持っていったことが良く分かる。そして紗耶香が復帰してきたときや、なっちが娘。から卒業していくとき、『ふるさと』が歌われたことは必然だったのだと、思いを馳せることができるのである…





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今日はここまで。
後半は妄想炸裂になってしまいましたが、どうだったでしょう?
なんとか『ふるさと』レコーディングに至るまでの背景や、そこまでの娘。の活動は振り返れたので、次回はそれ以降のスケジュールを追うと共に、なぜ『ふるさと』が対決の道具に使われてしまうことになったのか、それを探っていきたいと思う。

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ちょっと疲れ中。

膨大な量の資料と乱れ飛ぶ諸説に頭がパンクしそうになる。特に市井脱退とASAYAN撤退は決定的な根拠がない中、妄想家さんたち各々が断片的に語るものだから全然話の筋が見えなくなってくる。調べていく過程で全体的な流れの中であの頃を捉えている説ってのは結局見当たらなかった。あまりにも断片的に語り過ぎて、逆に謎を深めてしまっている感すらあった。

そんなこともあり、ちょっと頭の中をリセットするために今回からは1999年のモーニング娘。の歩みをちょっとずつ振り返っていこうと思う。『Never Forget×Memory 青春の光 再考』では99年の年明けくらいのことまで詳しく書いたので、今回はそれ以降、『Memory 青春の光』が発売される頃からのことを振り返ってみる。『ふるさと』発売日より随分前からのことになってしまうが、「Memory 青春の光ツアー」の頃のメンバーたちの心情をわかっておかないと『ふるさと』で繋がらない部分があると思うので、以前書いたことと重複もあるけどおつき合いくださいませ。





ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(1)
ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(2)
の続き。




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1999年1月17日放送のASAYANにおいて福田明日香のモーニング娘。からの脱退が発表され、翌月の2月10日に新曲『Memory 青春の光』が発売されると、娘。たちのスケジュールはTV出演で埋めつくされる。その合間には「Memory青春の光ツアー」のレッスン、5thシングル『真夏の光線』のレコーディングも入っており、メンバーたちは明日香の脱退を現実的に悲しんでいる暇もなく毎日が過ぎていってしまったのではないだろうか。明日香もツアー最後の日までに『Never Forget』をギターの弾き語りで歌うつもりだったが、練習時間がなく断念している(未完成のものはASAYANでちょっとだけ披露された)。

さらにタンポポの3人はアルバム『TANPOPO 1』のレコーディング作業も並行して行い(2月末終了)、3月発売の新曲『Motto』のPV撮影のためにサンフランシスコまで2泊3日の弾丸ツアーを組んで出かけていっている(実質的には0泊3日。睡眠時間はほとんどなし)。これには和田さんも同行していて、当時サンフランシスコで合宿を行っていた太シス企画の後始末の意味もあるのかなと思う。

2月17日深夜(2月18日)にはゆずのオールナイトニッポンにゲスト出演していた中澤・石黒・保田の3人がゆずの岩沢と共に大田区の一リスナー・福田明日香さん宅に突撃訪問するということがあった。その時間なんと午前2時。突撃された方の明日香が労働基準法を気にしてしまうという滑稽さであった。これはゆずっ子・明日香に向けたささやかなプレゼント企画である。なお、明日香はゆずの他、エレファントカシマシ、グレープバインといったなかなか個性的な音楽的嗜好があったが、オーディション当時尊敬するアーティストにJUDY AND MARYのYUKIを挙げていたことはあまり知られていない。なっちとの関係性はこんなところから深まったのかもしれない。「ほかのメンバーに話せないことも、話せたりしたんだと思う。」(安倍なつみ『ALBUM 1998-2003』より)というなっちと明日香の関係であった。

その明日香だが、本体以外のスケジュールはなっちとのラジオの他に、『もう一人の明日香』の制作作業があった。あえて「制作」と書いたのはこの本は明日香の「語りおろし」であって、実際に執筆しているわけではないからだ。しかしその「語りおろし」した内容と、掲載された地元で撮りおろした写真の量を考えるとかなりの時間が使われたことは疑いようもない。地元の撮影場所選考には明日香の意向が強く反映されていたらしく、巻末のスタッフクレジットにも「Location Co-ordinator 福田明日香」の文字が見える。また、採用された写真も他の写真集に使われたカットとは一線を画しており、独特の雰囲気を漂わせた写真が多く使われている。このことからもスタッフたちはかなりの気合いを入れて、この本を作っていたのではないだろうか。

中澤姐さんは平家のみっちゃんと共に1月から『アイドルをさがせ!』のMCを務めている。その『アイさが』では2月23日放送にて「第1回平家みちよとモーニング娘。の妹分オーディション」を、3月2日放送にて「田中義剛プロデュースユニット」の募集を開始した。「Hello!」の第一次拡張期であり、ASAYANに頼らないオーディションの一発目である。後々のことになるが、このASAYANに頼らなかったおかげで「妹分オーディション」出身者とカントリー娘。は翌年のシャッフルユニット企画から外されてしまった。つまり逆を言えば2000年の色シャッフルユニットは「テレ東」ではなくASAYAN側の主導で行われていたものだと言える。この話は回を改めて詳しく。


この頃のメンバー同士の付き合いはどうだったかといえば<安倍-福田-市井><中澤-安倍><石黒-飯田><保田-市井><矢口-市井>といった線が親密だったように思う。なっちのところに明日香が泊まりにいったり、矢口と紗耶香が空き時間に浅草の花やしきに遊びに行ったのはこの頃だと記憶している。カオリはパラノイア・ダイアリーの連載を見るまでもなく情緒不安定で、タンポポのメンバーを始め、しょっちゅういざこざの引き金を引いていた。当時のVTRを今見直してもカオリのギスギス感はすごいものがある。

前年のなっちとカオリの二人暮らしは先にカオリが出ていったことで終わっていたが、なっちも99年初めにはその思い出の二人暮らしの部屋を後にしている(いずれも推定)。年が明けてからなっちがアイロンやストーブといった家電製品を新しく買い直しているのは引っ越しをしたからではないかと思う。その部屋に次に入ってきたのが圭ちゃんで、なっちが天井に星の蛍光シールを貼りっぱなしで出ていってしまったので、自分が出るときに不動産屋に「剥がしていってください」と言われたらしい。引っ越しするまでなっちの貼ったシールをそのままに圭ちゃんが寝ていたかと思うと、なんだか可笑しい。

また、この話から考えるに初期のメンバーたちは自分たちで部屋を借りずに、事務所が借りた部屋に住んでいたことが分かる。Y崎会長が語るところによれば、オリメンの5人の頃で月に500万は経費がかかったそうだから(ダンスレッスン料やボイトレ料を含む)、その投資分を少しあざとい手段で回収しようとするのは仕方ないと…多少の同情の余地はあるなと思った。


モーニング娘。初の全国ツアー「Memory青春の光ツアー」、初日は3月21日、北海道のZepp札幌で行われた。飛行機嫌いの姐さんはこの日の行きの飛行機の中で気を紛らわせるために、なっちにひたすら『だんご3兄弟』を歌わせていたそうだ。コンサートは初日ということで慣れない部分が多く、姐さんと圭ちゃんはステージのセンターで思いっきり正面衝突したりしてしまっている。

明日香が辞める直前に「よく8人で集まっていろんな話をした」という話が残っているが、この日の夜がその第1回目だった。この年は年が明けてからゴタゴタしていてソロ活動も多く、この日初めて8人だけの長い時間が作れたのである。最初になっちと明日香が圭ちゃんと紗耶香の部屋に集まって、そこにみんなが便乗(部屋割りは推定)。後から自分の部屋に戻ってきたらみんなが集まっていて圭ちゃんはびっくりしたそうな。

なっちと紗耶香は『大相撲ダイジェスト』を見て全く分からないのに論評しあって大笑い、カオリと明日香は詩の交換をしあって号泣、姐さんはそれらを見ながら一人ビールを傾ける…と、午前4時半頃までみんな好き勝手なことをしていたらしい。差し詰め8人版「ケンタのクリスマス」(当サイト「好きな空をめざすために」参照)といったところだろうか。たわいもない会話を交わしただけだが、それでも8人の絆を深めた夜であった。 明日香が辞めた時に「みんな集まっていろんな話をしてほしい」と言い残したのは、何も真面目な話ばかりではなく、こういった自然な絆の深まりの大切さを伝えたかった面もあったんじゃないのかな。



さて、その2日後、3月23日には後藤が初めて公の場に姿を現している。平尾ミュージックスクール主催の「ミュージックフェスティバル」に、同スクールの練習生だった後藤が参加して、安室奈美恵の『I HAVE NEVER SEEN』を歌ったのだ。この日に和田さんと初めて対面したとされているが、それは定かではない。

前年の12月に発売した姐さんと高山厳のデュエット曲『お台場ムーンライトセレナーデ』、この曲の作曲者が平尾ミュージックスクール主宰の平尾昌晃氏であったことから、後藤の加入にはいろいろと憶測が飛ぶことになった。しかし、これ以前からASAYANのオーディションに平尾ミュージックスクールのレッスン生が送り込まれていたということはあまり知られていない。

1996-1997年にデビュー予備軍AISで活躍した石井ゆき(紗耶香と同い年)もその一人だし、シャ乱Qロックボーカリストオーディションに出ていた高木裕希(当時中2)もそうである。予選でナインティナインの二人が大爆笑していた変なアフリカンダンスを踊るコといえば思い出す方もいるだろうか? 高木裕希は1998年末から始まった「小室哲哉オーディション1999」にも参加、しかしあえなく落選している。平尾MS出身だからといって必ずしも合格するとは限らないのである。

それらから考えても、後藤の採用の理由が『お台場ムーンライトセレナーデ』に端を発しているとは思えず、それ以前からのASAYAN、UF、平尾MSの関係の延長線上にあるものと考えた方がいいのではないだろうか。また、平尾昌晃-五木ひろし-堀内孝雄の仕事・交友関係もあるし、元々がUFと平尾昌晃は結びつきがあったのだ。ちなみに、先日の『歌ドキッ!』(2007.06.11放送)で矢口と堀内孝雄が歌っていた『カナダからの手紙』も平尾昌晃が作った曲である。滅多にこの番組に登場しなかった堀内孝雄が出てきてこの曲を歌ったことに、その関係の深さを感じるのである。

「付き合いのある芸能スクールからたまたま誘われて見に行った和田さんが後藤を発見して気になり、平尾MSにキープしてもらっていた」というあたりがオーディションに至るまでのいきさつだったのではないかと思う。和田さんもこの時点では後藤をモーニング娘。に入れるつもりではなく、自分の事務所(ハーモニープロモーション)のために唾をつけておいたのだろう。後藤がモーニング娘。に加入した後に、和田さんがメンバーたちに向かって「モーニング娘。の色に染めたくない」「後藤には何も言うな」と言っていたのは、99年末の解散の後、自分の事務所の持ち駒として期待していたからだったんじゃないかと思う。けっきょく後藤はUF本社に取られてしまうこととなり、それは後の梅田えりかや鈴木愛理の経緯と似ていて、和田さんの歯軋りが聞こえてきそうだ。



4月1日。中澤姐さんが「つんくが結婚する」と嘘をつかれて泣いた日である。今では思い出としてしれっと言ってしまうが、これは大変なスケジュールの中での出来事だった。娘。たちは前日の3月31日とこの日、中野サンプラザで「Memory青春の光ツアー」を行っていて、両日共に3公演、合計6公演をこなしている真っ最中だった。後のハロコンやユニット細分化した公演と違って、ほとんどを娘。たちがこなさなければならないから、メンバーたちはこの2日間を乗り切れるかどうかとても心配していた。しかもこの日は翌日のミュージックステーションに向けて深夜の2時まで練習を行っており、終わる頃にはみんな倒れそうにしていたという。明日香までも完全に壊れていたとか(矢口談)。

ちなみに翌日のMステは『Memory 青春の光』と『Never Forget』の二本立てで、しかもセットが曲ごとで2パターン用意されるという異例ともいえる厚遇の中での出演だった。メンバーたちはメドレー形式で歌う中セット間を移動しなければならず慌ただしかったが、それを逆手にとって2曲目の『Never Forget』ではメンバーたちが明日香に挨拶をしながら出だしのフォーメーションを組むという心憎い演出を見せてくれた。前日の練習の賜物である。また、その翌々日の4日にはHEY!HEY!HEY!収録でも『Never Forget』(歌ったのは『Never Forget』のみ)を歌っており、Mステと合わせて1日に練習していたのではないだろうか。

エイプリルフールの「つんくが結婚する」という「嘘」はマネージャーがメンバーたちをだまそうとしたのがコトの始まりだった。しかも娘。たちの女性マネージャーと結婚するという嘘である。嘘をついたマネージャーが和田さんかどうかは確認出来ないが、おそらく間違いないと思う。この日につんくがコンサート会場に足を運ぶことになっており、それをメンバーたちに報告するときについた嘘ではないだろうか。つんくの来場はASAYANとのVTR撮りの絡みもあるので、和田さんのようなASAYANスタッフと企画を練りあっているチーフマネージャークラスが現場を管理しているはずだと思うので。また、つんくを嘘のネタに使うことが出来るのも和田さんクラスのマネージャーでなければ怖くて出来まい。「今日、この場につんくが結婚の報告に来るぞ」という感じで言ったのではないかな。

この嘘には続きがあって、騙された娘。たちは、今度は会場に来るつんくを騙そうとしたらしい。「明日香が辞めるのをやめます」という嘘を計画していたらしいが、事情により断念したそうだ。この事情というのもちょっと気になることである。

たびたび書いていることなのだが、この時期に「つんくからメンバーたちに渡した秘密のプレゼント」というエピソードがある。つんくが「これはオマエたち8人とオレだけの秘密の品物だ」と言って当時の8人にあるプレゼントを渡したのである。つんくは「自分も仲間に入れて欲しい」と色違いの同じものを9つ用意して、一人一人に渡していった。そしてそれは今もなお公の場では語られることはなく、<永遠の8人>とつんくの約束は守り通されている。

このプレゼントを渡すシーンがASAYANの中であったはずなのだが、VTRをなくしてしまい、またハッキリと覚えているという方も現れず、自分の中でも時期を特定出来ずに困っていた。つんくとメンバー8人全員が会う機会は滅多にないので、もしかするとこの4月1日がプレゼントを渡した日だったのかもしれない。それだと「明日香が辞めるのをやめます」なんて嘘をついている場合じゃないはずだから…(ただし、Mステでシャ乱Qと共演した2月26日、ツアー最終日4月18日も候補)。


4月15日、モーニング娘。はTOKYO-FMのラジアンリミテッドにゲスト出演する。その中で「Song for 明日香」と題して卒業する明日香にメンバー7人がそれぞれの想いをこめて歌を贈っている。

安倍なつみ‥‥『M』プリンセスプリンセス
飯田圭織‥‥‥『Rainning』Cocco
石黒 彩‥‥‥『宝物』古内東子
矢口真里‥‥‥『青春の輝き』カーペンターズ
保田 圭‥‥‥『終わりなき旅』Mr.Children
市井紗耶香‥‥『想い出がいっぱい』H2O
中澤裕子‥‥‥『My Revolution』渡辺美里   (以上登場順)

この中にはカオリや矢口のように自分が大切にしている曲を贈っているメンバーもいた。旧メンバーたちはモーニング娘。の曲とは別に自分の中での<代表曲>みたいなものを持っていて(なっちだったらJUDY AND MARY『小さな頃から』だし、中澤姐さんだったら『ら・ら・ら』)、カオリと矢口の贈った曲はまさにこれだった。なっちは「いつも一緒にいたかった。隣で
笑ってたかった」と『M』の歌詞を言って思いを伝えている。彩っぺは明日香のことが『宝物』なんだといい、中澤姐さんは「これからの明日香にピッタリの曲だと思った」と『My Revolution』を選んでいる。紗耶香が贈った『想い出がいっぱい』は3月の紗耶香の中学の卒業式で歌ったそうで、後にこの曲は『FOLK SONG 5』でなっちがカバーしている。

また、番組の最後には娘。たちが明日香に「私達も負けないでがんばる」とそれぞれの約束をして「約束の扉」と名付けたスタジオのドアをくぐって退出した。(BGM『A MEMORY OF SUMMER '98』『さみしい日』)

矢口真里‥‥‥次に明日香と会うまでに明日香の身長を越す
市井紗耶香‥‥どんな山とかあってもくじけずに、ビッグになる
保田 圭‥‥‥スニーカーを履くときは靴下を履く
石黒 彩‥‥‥明日香の思い当たる1位を全部やってやる、見てろよ!
飯田圭織‥‥‥人に元気とか勇気とかを与えられる歌手に絶対なってやる
中澤裕子‥‥‥約束は嫌いだけど…モーニング娘。もやりつつ演歌を極めて目標である天童よしみに近づいていく。そのために、まず、腹筋をしていこうかなと。
安倍なつみ‥‥大きなシンガーになれるように、いろんなことに対して強くなれるようにがんばっていく
最後に
福田明日香‥‥大人になってもタバコは吸わない  (以上退出順)

中にはウケ狙いの約束もあったが、この中には後々まで守られていくことになる約束も含まれている。それが紗耶香の「ビッグになること」であり、なっちの「強くなること」である。紗耶香がモーニング娘。を辞めた後は圭ちゃんがその約束を引き継ぎ、『うたばん』でもそのことでいじられている。紗耶香が復帰してきてからは自分の記憶の限り「ビッグになる」発言は聞いたことがないが、封印していたのだろうか。

ラジオの翌日4月16日には再びミュージックステーションに出演し、今度は『Never Forget』だけを歌い、最後にタモリさんから花束をもらう。この日がASAYAN以外で明日香最後のTV収録となった。4thシングルの『Memory 青春の光』と『Never Forget』でMステに出演した回数、なんと4回。キムタクもラジオでMステでの明日香に言及するなど、出演者にも大きな印象を残して明日香は去っていった。ただし、この明日香最後のMステに共演していた明石家さんまの場のTPOを考えない態度は今見ても腹立たしいことを明記しておく。何年経っても「あの日の放送にさんまさえいなければ」と悔しい思いがあるのだ…

ツアー最終日、明日香最後の4月18日のことは発売されているDVDを見てもらえればわかると思う。泉正隆氏やタカハタ秀太氏が作ったこの日のライブビデオは時が経った今もなお色褪せることなく当時の感動を伝えてくれている。コンサートが終わった後、帰り際のメンバーたちの「最高のライブをやりきった」という達成感と、明日香の最後の日という切なさが入り交じった表情がものすごく良い。特に「今日の日はこれから先なっちが、しわしわのおばあちゃんになったって忘れません。ほんとに妹のように福ちゃんのことを愛しています」と言ったあとのなっちの表情、これがすべてを物語っているように思う。

この4月18日のライブを含め脱退する明日香にメンバーがコメントをする機会は多々あった。『MUSIC HAMMER』といったあまり知られていない番組にまで出て涙しているのだからびっくりする。まあ『MUSIC HAMMER』はフジのきくちさんの番組であるのだが。テレビ以外にも雑誌のインタビュー等でコメントを求められることがあったが、以下にファンクラブの会報に寄せられたメンバーから明日香への手紙を載せておく。


中澤裕子
「明日香との出逢いは今から思えば本当に不思議な出来事でした。
明日香を初めて知ったのはASAYANのシャ乱Qオーディション東京組がスタジオ登場した時で、明日香は黒い服を着て安室さんの歌をうたってました。私その時一般視聴者だったんですよ。TVの明日香を見て「この12歳すごいなあ」と思ってました。まさか、モーニング娘。として一緒に活動するようになるなんてねえ…。
そのオーディションで合宿した時はとにかく気になる存在でした。一番気になってた事はやはり年の差だったんですけど、それだけじゃないんですよ。なんなんだろ…かもしだしてる雰囲気というか、人とは違うオーラが出てた。
その当時ほとんど会話してないんですけど、1つだけめっちゃおもしろかった言葉があって、突然「中澤さん、一緒にレッツダンシングしましょう」って言ってきた時は私の頭の中は「?」マークでいっぱいになりました。
そういえばメンバーの中で私の事を“ゆうちゃん”と呼ぶようになるまで一番時間かかったのは明日香だった。だから“ゆうちゃん”と呼ばれた時は嬉しかった。最近は“リーダー”って呼ばれる事が多かったのもウケる。やっぱり思い出はいっぱい出てくるもんですね。
クロワッサンで私が明日香にめちゃギレした事、仮住まい状態になっていたホテルでクリスマスパーティーした事、イベント先の福岡空港で1人でラーメン食べて、おまけにかえ玉した事。
あっ!大変!!明日香にかりてたエヴァンゲリオンのビデオ返してない。それもまだ観てないっ! ごめん明日香ちゃんと返すからね。
あー思い出はつきません。
思い出はつきることはありません。これからも思い出はできていくものだから。
最後に明日香へのメッセージを書かせてください。

親愛なる明日香へ
明日香、ゆうちゃんは明日香の事だいすきだよ。
明日香がモーニング娘。を卒業した日の夜から、ずっとゆうちゃんの夢の中に明日香が出てくるんだ。夢の中でもゆうちゃんは泣いたりしてるよ。ダメなリーダーだね。
家で1人でボーっとしてる時、明日香の笑顔を思い出す。明日香の笑顔いいよね。ビー玉みたいなキラキラした目でニコッとしてる顔、本当にいい。そのきれいな目でまっすぐ前を向いて、楽しい子供時代をおくってかっこいい大人になってくれ。
また会おうね。                 ゆうちゃんより」

市井紗耶香
「Dear 明日香
Hello!!明日香 久しぶり、元気にしてた?モーニング娘。は相変わらず元気モリモリです。そうそう、勉強進んでますか? ちゃんと勉強すれば後は楽だヨ。
明日香がやめて少したつケド、今 思い出すといろーんなコトが頭にうかぶんだ。明日香と一緒に渋谷に行ったコト。明日香は東京人だから「渋谷ならまかせて!!」みたいな感じで案内してもらったよね。あとイベント先で一緒にゴジラを見に行ったコト。ちょうど面白い所にきた所で明日香が眠ってることもあったし…。
ホント、今 この手紙を書いていても明日香の笑顔が目に浮かびます。ハワイで一緒にこわれた日もあったね。明日香がどれだけ大きな存在だったかって思う。この仕事ってマジでメチャクチャ大変でくじけそうな時もあるけど、でも私、明日香に約束したよね。
「いつか1人立ちして<ビッグ>な人になってやる」って。
だから負けないよ。どんな大きな山があったって。

だから明日香、見守っててね。私には「ガンバレ」って応援してくれるみんながいるから。そして明日香にも、負けずにガンバレって応援してくれてる人がいるから、そのことを忘れないでね。
“サヨナラ”は言わない。だってまたいつか会えるじゃない。電話だってケータイもってるし、いつでも話せるもんね。
私はいつだって明日香の味方だよ。また今度、音楽について語ろうね。
                 大好きな明日香へ
                      From さやか」

矢口真里
「DEAR ASUKAへ
矢口が追加メンバーで入って5人との初対面のとき、みんな芸能人って感じで近づけなくてすごく怖くて緊張しているところに明日香が話しかけてくれたのを今でもよく覚えています! 何を話したかは舞い上がってて、あんまり覚えてないんだけど、本当にその日は明日香に助けられました。
そして、やっぱり新メンバーとはやく仲よくなってくれたのは明日香で、ホテルとかでよく語り合いました。ときには夜食べすぎて朝まで起きてたり、一緒にラジオ体操したりしました(笑) もー懐かしいです。あと、カラオケやゲーセンなんかも一緒にいったりして、本当に自分の妹みたいな存在でした!
そんな明日香でもたまに大人びたことを言って、矢口もちょっとムッとしたこともありました。でも今考え直したらあの時明日香の言ってたことは、正しかったんだなーと思いました。すごく大人っぽくて歌と踊り、話し上手な明日香だったけど、たまにみせる14才がすごくかわいくて、たまらんかったです(笑)
毎日会えないと思うとやっぱりさみしいけど、矢口は明日香がいつまでも大好きです。
これからもずーーっと!!
いつかまたどこかで遊ぼうね、あすか!!
                    FROM→MARIより」

飯田圭織
「明日香へ
元気かい? かおりは相変わらず元気娘だよ。明日香が今「お勉強してるんだ」って思ったら、かおりもがんばれるよ。本当に心から応援しているから、がんばりまっしょい!ネっ。いつも言ってるけど、モーニング娘。は永遠に8人だし、ずーっと仲間だからね。
明日香と初めて会った日から、もう1年半以上たったよネ。長いようで短かったナ。ほとんど毎日一緒にいたから、今はちょっとさみしいです。
明日香のいい所をおしえてあげるネ。まず前向きな事。何に対しても前向きでうらやましいよ。マイナス思考のかおりとしては本当うらやましいことなのだ。前向きは絶対大切っ! 何事にも後ろばっかり見てたらはじまんないもんネ。歌にもあるじゃない!“1日1歩3日で3歩”その言葉大好き。1日で少しでも前にすすめたらOKなの。で、気がつくといつのまにとっても成長してるんだよ。お勉強でも1日1コ英単語を覚えたら、1年で365コも覚えられるんだよ。とりあえず、あせらずマイペースにが一番大事だね。明日香はマイペースだし、頭の良い娘だから大丈夫だと思うけど、勉強だけじゃなくて、人生もそうだよネ。
かおりも今年18才だけど、マイペースに大人になろうと思ってる。マイペースにgoodなアーティストになるよ。明日香の書いた詞、すごく感動した。圭織も頑張るからね。それと、どっちが早くギター上手になるか勝負だね。今のところ明日香がリードだけどね。
まぁー会う機会は少なくなるけど、ずっと仲間だから、これからもよろしく。ちゃんと勉強しろよ。
I love you forever...           飯田圭織より」

保田圭
「Dear 明日香
明日香は初めて会った時すぐ話しかけてくれたね! カチコチの私に1番初めにうちとけてくれたのは、明日香だった。ホテルで朝方まで語ったり、一緒にラジオ体操したり、銭湯に行ったり…。明日香とは本当思い出がありすぎるね。1年しか一緒に仕事するコトが出来なかったケド、明日香から学んだことは、すごーーーーーーく沢山あります。
明日香は、大人の様な不思議な中学生だった。仕事してる時の明日香は、メンバーの中で一番大人だったのかもしれない。かと思えば、ふと中学生にもどって。そんな明日香が私は大好きだよ。これからもずっと…。
明日香!ずっと変わらずに、そのままマイペースな明日香でいてね。
また銭湯に行こう!!!               保田圭」

石黒彩
「DEAR 大好きなあすか
あすかとはじめて逢ったのは、シャ乱Qロックボーカリストオーディションの合宿バスの中だったね。ぱっと見てカワイくてやっぱ12才だった。けど、モーニング娘。の活動が始まってからは、マイペースなあすかにイライラしてばっかだったなあ…。私は自分のペースじゃなくて、5人組として行動する事ばかり考えてたから、なかなか仲良くなれなかったね。でもしばらくたって仲良くなれたのは、多分私もマイペースになってきたからかなっ!
あすかは大人ぶってるけどメチャ子供で、時々見せる子供あすか大スキだよ(笑)
あすかはいっぱい物を考える子。だからあんま考えすぎんなよ! でも悩んでてもマジで次の日忘れてるからナ…(笑) 私もそんな風になりたいわっ
あと、明日香と歌ってて、よく覚えてんのは、けっこう2人で歌ってたり、背中合わせの“キメ”があったり、コンサートとかもバシッっと決まると楽しかったよ。
まっ あすかーーー!
これからもがんばれよっっ! わたしたちももちろんがんばるよ。
でも私 あすかに逢えて良かった!
あすかもあやっぺに逢えて良かった?
返事まってるわ。じゃ、イイ人生送れよ。
                    FROM あやっぺ」

安倍なつみ
「初めて会ったのは合宿に行くバスの中で、第一印象は、『なんだか落ち着いた子だなぁ…。』でした。一緒にラジオの仕事をしていくうちに本当の意味で明日香はどんな子なのか分かっていった気がします。根はとってもまじめで自分の考えをしっかりともっている心優しい子。なっちが言うのも変だけど『子供だな…』って思うカワイイ部分も沢山あって、とってもマイペースで・・・おっちょこちょいな部分もあって・・・うん。全部ひっくるめて、明日香の事、大好きです。そんな明日香になっちは沢山沢山支えられてきました。

仕事での悩み、プライベートでの悩みを聞いてくれたり、一緒に映画見た事、家に泊まりに来て語り合って沢山笑った事。忘れないよ。ありがとね。 福ちゃん、これから先、沢山の人に出会ったり起こったりするけど…あなたはそのステキな心を持ち続けていてね。そして、1人じゃないからね。7人や全国のファンの人、今までお世話になったスタッフの方々本当に本当に沢山の人が福ちゃんの事、心から愛してるからね。安心して勉強・青春してね。じゃ、またメール送るね。おたがい頑張っていきまっしょい!

P.S.イモ言うでない!!わかったかナ?
from ライダーなっちんぐ。

こんど福ちゃんのスキなアイスクリーム
なっちが作ったげるネ。
               娘。 安倍なつみでした。」


中澤姐さんからクロワッサン事件の話が出てくるのはごく当たり前なのだが、「ケンタのクリスマス」まで出していて、やはり5人にとって大事な思い出なのだなあと再確認できる。また、明日香の「目」の話は、後にモーニング娘。のベストアルバムが出た時に姐さんが『Never Foget』と合わせて振り返っている。明日香の「アーモンドのような瞳」が好きだったと。
また、カオリも「永遠の8人」の話を出していて、メンバーの増員は「ない」と認識していることが分かる。あるいは、これ以降の増員が嫌で抑止力として言っていた可能性もあるが、それは斜に物を見過ぎだろうなと思う。ただただ純粋にこの時のメンバーたちはモーニング娘。は「8人」であると思っていたのだ。誰一人として欠けることのない「永遠の8人」として。

それは後の時代の「○○の○人」といった呼び方とは意味が違って、ファンの側からの呼称ではなく、「明日香が抜けた後もモーニング娘。は永遠に8人だから」というメンバーたち自身の「モーニング娘。」の捉え方だった。当時は「モーニング娘。は増減を繰り返すグループ」などという定説はなかったし、メンバーたちも解散はあってもこれ以上の増員は「ない」と踏んでいたからこそ、「永遠の8人」という捉え方が有り得たのだ。

もう一つ『もうひとりの明日香』より明日香へのメッセージを抜粋。


「明日香、あなたは悪い子です。裕ちゃんにこんな淋しい思いをさせるなんて。これからもっともっと8人で素敵な思い出作っていこうと思ってたのにさ。なーんて、イジワル言ってごめんね。
 若干13歳にして自分の夢を叶えて、14歳で自分の意思で新しい道に進んでいく明日香を尊敬するよ。明日香、約1年半お疲れ様。そして、ありがとう。
P.S. 8人のモーニング娘。は、私たちの心の中でずっと生き続けるんだからね。
  忘れんなよっ。           中澤裕子」

「妹 明日香へ
福ちゃん。これから先、沢山の事が起こったり、出会ったりすると思うけど、真っすぐに音楽を愛する心と<娘。>になって学んだ常に何かに向かって頑張る姿勢、そして皆で過ごした日々と思い出、感動の心を忘れないでね。そして七人はいつでも明日香の心の中にいる。絶対に一人じゃない。大丈夫だよ。安心して色んな事を学んでね。こんな事書いてる自分も、まだまだ弱い部分が沢山あって・・・。でもさっ前向きに頑張っていきましょいっ。ねっ。今は自分の子供を嫁に出す様な気持ちだよ(笑)また家に泊まりに来てちょ。語ろね
                 姉なっちより愛をこめて・・・」

そう。「8人のモーニング娘。」は彼女たちの心に生き続け、数々の試練と共に乗り切ったこの「5+3-1」の時代は彼女たちにとって特別な時代となっていく。やがて『Memory 青春の光』が特別な曲となり、『Never Forget』が旧メンたちの卒業に花をそえていくことになる。また、この時期に残した楽曲たちを「8人のモーニング娘。」たちは愛し続け、それぞれが一人立ちした今日に至って、楽曲は再び活躍する機会を与えられた。

明日香は辞めたあと、決して自分のいた時代のモーニング娘。の曲をカラオケ等で歌わないという。明日香は「つらかったボイストレーニングを思い出したくないから」と濁しているが、(明日香には自虐性、偽悪癖があるから)本当はそうではあるまい。曲を大切にし、メンバーたちとの思い出を大切にしているから、自分の中だけに封印しているのだろう。でなければ和田さんにつれてこられた中澤姐さんの娘。卒業コンサートで大泣きした明日香像は成り立つまい…


さて、その明日香卒業後、4月19日から娘。たちはポッカリとあいてしまった心の空洞を埋めることに苦心していくこととなる。メンバー間に芽生える不信感、ふるさとへの帰郷、そして挫折と永遠の別れ……「永遠の8人」の絆が早くも綻び始めてしまう。メンバーたちはもがいていた、そして苦悩していた。
それでもモーニング娘。は前に進んでいくしかなかった。「走り続ける」モーニング娘。はここから始まっている。


別れと挫折と苦悩、これをどう経験し、いかにして乗り切っていったのか、それはまた次回更新時にて。

連載2回目です。
前回分はふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察(1)
随分と時間がかかってしまいました…



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多くの伝説と謎を残す99年の「モーニング娘。」。

様々な憶測が飛び、色々な噂が流されてきたが、それを論じるときに事務所全体の流れはお座なりにされてきたように感じられてならない。
松浦や藤本がデビューするときにはモーニング娘。で稼いだ資産が大量に使われたと言われている(単純な資金面のことからテレビへのバーター出演まで多岐に渡る)。また、五木ひろし氏や堀内孝雄氏のマネジメントでは娘。人気に便乗した策をいくつも取った。00年以降はそういったことがファンに知れ渡っているにもかかわらず、99年に関してはあまり振り返ってこなかった。そこで今回はあの頃のUFA所属のタレントたちはどういった芸能活動を歩んでいたいたのか、それを振り返ってみようと思う。


まず振り返るにあたって、当時のUFAにどういった人たちが所属していたのか一覧にしてみた。資料は97年くらいのものから引用しているが、99年の所属メンバーはそう変わってないと思う(知名度と話の関係で一部の方は除外)。ただし細かいところで99年とは事務所の名前が違う。芸能事務所としてのアップフロントエージェンシーの所属者がはっきりとしないのだが、おそらくモーニング娘。と相田翔子が所属していたくらいだと思う。100%正確ではなく推測も含まれているので資料として使う場合は御注意をいただきたい。自分が持っている資料は97年のものでその次は2001年の初めに飛んでしまうのでその間は推測するしかなくて…



1999年アップフロントエージェンシー所属タレント一覧(推定も含む)


エーダッシュプロモーション(A'Promotion)
KAN・シャ乱Q

ベータプロモーション(Beta Promotion)
堀内孝雄・高山厳・ばんばひろふみ・平山みき
松下里美・杉田二朗・斉藤慶子・因幡晃・京壮亮 (加川明)

クーリープロモーション(Coolie Promotion)
森高千里・加藤紀子・田中義剛・小俣雅子
有賀さつき・林マヤ・篠田潤子・あいざわ元気
建みさと・柳原尋美・平家みちよ

デニムプロモーション(Denim Promotion)
スターダスト☆レビュー・谷村有美
デュアルドリーム・TAMTAM

エンデバープロモーション(Endever Promotion)
羽野晶紀・長江健次・兵藤ゆき
円谷憂子・田仲玲子

ファブプロモーション(Fub Promotion)
古内東子

グリーンミュージックプロモーション(Green Music Promotion)
Something Else

ハーモニープロモーション(Harmony Promotion)
98年設立 所属者なし

インディゴハウス(Indigo Promotion)
吉村真貴子(マキ凛子)

アップフロントエージェンシー
相田翔子・モーニング娘。



これを見ると一目瞭然なのだが、当時のアップフロント(UF)内のマネジメント会社はアルファベットを頭文字にしてAから順番に並んでいた。1998年に「H」が欠番になっていたのでモーニング娘。のマネージャーをやっていた和田さんが「H」となるハーモニープロモーションを作ることをY社長(当時)から命じられる(推定)。その前の「H」は白井貴子・渡辺美里・谷村有美といった90年代前半のガールポップの全盛期を担った人たちが所属していたハートランドという事務所(ヤングジャパン系)。つんく氏のために2004年に作られた事務所もJ.P ROOMという「I」に続く「J」が頭文字の事務所であるし、それに続きUFのお笑い芸人たちが所属するケーアップも「K」である。

99年の後もアップフロント内の事務所の名前はころころと変わり、デニムがなくなった後にはデフプロモーション、グリーンがなくなった後にはギャラクシープロモーション、インディゴがなくなった後にはイッツプロモーションと変遷していき2004年の4月の芸能事業統合までその流れが続く。

和田さんがモーニング娘。の初期に深く関わるようになったのは、シャ乱Qの直接の担当を外れた直後にグループ内起業を求められたものの、そこで扱うタレントがいなくて手が空いていたからだとも考えられる。ハーモニープロモーションのアーティストとして初めて名前が見られるのは「プッチモニ」が最初であり、その翌年からEE JUMPや高野頼子、新堂敦士らが加わってくる。

つまり和田さんは97年末から99年末頃までは、グループ内にせよ依託というかたちでモーニング娘。のマネジメントを引き受けていた。また、99年のプッチモニのヒットが翌年からのハーモニープロモーションの活動資金になっていた可能性もあるわけで、和田さんがモーニング娘。の担当を外されたことを一概に「更迭」というようなニュアンスで扱うことは避けた方がいいように思う。和田さんが外れたことは、外した方・外された方、お互いのためであったとも言える。

これ以上の事務所の役職人事や統合の系譜などは詳しく書いている方が他にいらっしゃるので、そちらを参考に。


余談ながら、ハロプロ内のユニット名でもアルファベットの法則はあるらしく、

P-プッチモニ
Q-(シャ乱Q)
R-ROMANS
S-シェキドル
T-タンポポ
U-(UP-FRONT AGENCY)
V-美勇伝(v-u-den)
W-W(ダブルユー)
XYZ-ZYX
A-あぁ!
B-Berryz工房
C-℃-ute
DEF-DEF.DIVA
G-ガッタス・GAM
H-(Hello! Project)

と、こじつけに過ぎないが一応はアルファベットを埋めようとしているのではないかと考えられる。きら☆ぴかで「K」は埋まったので、近い内に「I」や「J」を頭文字にしたユニットが発表されたりして。


さて、ちょっとUF所属の方たちの補足説明をしておく(演歌・歌謡系の大御所は除く)。自分の頭の中を整理するのにも役立つので…

相田翔子…一時代を築いた笑わないアイドルWink。Wink解散後の96年からUFに所属。相方の鈴木早智子はASAYANの企画に参加。

加藤紀子…テレビ朝日の企画「桜っ子クラブさくら組」のアイドル。桜っ子クラブには菅野美穂や中谷美紀、ASAYANのL☆ISでも活躍した胡桃沢ひろ子が所属。90年代半ばに日テレ『マジカル頭脳パワー!!』で人気を得る。ハロプロのメンバーたちがヤンタンに登用される前のレギュラー。

建みさと…7代目リハウスガール(8代目池脇千鶴はASAYANのオーディションで選ばれる。加藤あいも同オーディション出身)。モーニング娘。とは『太陽娘と海』で共演。2001年に日テレの『進ぬ!電波少年<電波少年的15少女漂流記>』に参加するも途中リタイヤ。

羽野晶紀…劇団☆新感線の元看板女優。関西のCMクイーン「浪花の小泉今日子」の異名をとる。テレビ東京の深夜で富澤一誠(『Mの黙示録』でミカらハロメンと共演)と共に97年10月〜00年9月までの3年間『音楽通信TOP30』のMCを担当。現在は狂言師・和泉元彌と結婚し二児の母。ヤンタンの元レギュラー。

KAN…1990年に「愛は勝つ」が200万枚を超える大ヒット。1991年に日本レコード大賞を受賞。その後は地道な音楽活動を行いaikoや平井堅などミュージシャンにもファンは多い。つんくはシャ乱Qの事務所をKANがいるからという理由でUFに決めた。w-indsの橘慶太とは出身小学、中学が一緒。

Something Else…伊藤大介、大久保伸隆、今井千尋の3人で結成。千葉県柏市を本拠地にストリートライブを行い経験を積む(ちなみに、柏市の隣の流山市がY崎会長の出身であると言われている)。モーニング娘。とは『太陽娘と海』で共演するもCDは鳴かず飛ばず。が、日テレ『雷波少年』の企画で歌った『ラストチャンス』が大ヒット、一躍ヒットチャート上位の常連となる。伊藤大介はナベプロ傘下マニア・マニア(ハーモニーから移籍した高野頼子も在籍)所属の歌手・鈴里真帆と結婚。今井千尋は和田マネの盟友・榊マネージャーが手掛けた歌手・松本英子と結婚、最近はハロプロの楽曲制作にも参加している。Something Else自体は2005年1月にUFより独立、その後2006年8月に解散。




前置きはこれくらいにしてそろそろ本題に入ろう。

今ではアップフロントといえばモーニング娘。を始めとするハロプロの事務所として有名だが、当時はまだまだそんなことはなかった。モーニング娘。は売れたとはいえ駆け出しであり、他の人たちの活躍も馬鹿にできないものがあった。

98年〜99年頃まではガールポップブームの牽引者であった森高千里や谷村有美、それに大人の女性をターゲットにして独自の地位を築いた古内東子など、音楽面で主力を担う人材がまだ活躍しており、事務所がモーニング娘。に全力を注いでいたかといえば、実はそうでもない。

ドラマ『太陽娘と海』でモーニング娘。と共演したSomething ELseは98年の下半期から日テレのバラエティ番組『雷波少年』で「ラストチャンス」企画に入っており、98年末に発売したシングルは大ヒット、99年には早々にミリオンに達し、モーニング娘。以上のブレイクを果たしていた。

先日の『Never Forget×Memory 青春の光 再考』の中で、98年末から99年にかけての娘。関係のシングルがなぜか日テレ系にだけ版権を分けていないと書いたが、その理由は単純で、サムエルの『ラストチャンス』があったからではないかなと。

その後99年中はサムエルと日テレのタイアップ企画はずっと続き、娘。の版権に当時日テレが絡んでこなかったのはそういう事情があったのかなと。 『ラストチャンス』の後に出したシングル『さよならじゃない』は日テレ『'99劇空間プロ野球』のイメージソングとなり巨人戦の中継で毎日のように流されていたし、後の『お願いモーニング』や『モー。たいへんでした』と続く日テレとのコネクションはこの時に築かれたものだったのではないだろうか。


ここでわかりやすく振り返ってみるために、当時のことを年表にしてみる。


1994.01.25 森高千里 20th『ロックン・オムレツ』発売
        カバーイラストをリリー・フランキーが担当
        森高のファンクラブ会報にイラストを描いていたことがきっかけ
1996.05.21 古内東子 シングル『誰より好きなのに』発売
          同曲は後にソニンが『あすなろ銀河』のc/wでカバー (2005/1/13)
1996.11.  KAN 中国・広州で「広東国際広播音楽博覧会」に出場
        『愛は勝つ』を日本語と北京語で熱唱
1996-1997  円谷憂子 この時期に活躍。1999年に円谷プロ関係者と結婚

1997.02.21 古内東子 シングル『宝物』発売(石黒が福田卒業時に贈った曲)
1997夏   KAN ASKAの上海公演を観るために上海へ
1997.08.21 古内東子 アルバム『恋』発売。
        ダブルプラチナ、レコード大賞アルバム賞受賞

1998.01.01 KAN 上海で新春特別番組「我們共同的亜細亜'98亜州風」に出演
        『愛は勝つ』と『まゆみ』が中国全土に生放送される
1998.02.14 古内東子 アルバム『TOKO〜best selection』発売。ダブルプラチナ
1998.05.21 スタレビ 37th『ワイン恋物語』発売
       (テレ東ドラマ『ワイン娘恋物語』主題歌)
1998.08.19 古内東子 アルバム『魔法の手』発売。オリコン初登場第1位
1998.09.09 森高千里 アルバム『Sava Sava』発売

1998.09.14 Something ELse 日テレ「雷波少年」にて次のシングルがオリコンの初登場20位以内に入らなければバンドは解散、音楽業界から去らなければならないことを条件に「ラストチャンス」の合宿生活スタート
1998.09.  KAN 9年間担当した大阪FM802の『ミュージック・ガンボ』を降番
1998.10.01 森高千里 36th『冷たい月』発売
1998.12.02 中澤ゆうこ&高山厳『お台場ムーンライトセレナーデ』発売
1998.12.12 谷村有美 ベストアルバム『with III』リリース後、活動を休業
        自分を見つめ直す為に約2年間活動を休止
1998.12.23 Something ELse 6th『ラストチャンス』発売。
        翌年のオリコンで初登場2位、翌週には1位となりミリオンヒットを記録。
        99年には「紅白」や「レコード大賞」に出演



94年の事はリリー・フランキー氏との接点を覚えておきたかったので入れてみた。当時森高さんを担当していた和田さんとの接点はこの時からあるんだろうなと。10年以上も経ってから安めぐみさんとのコラボでその関係がクローズアップされると。
96年から98年で目立つことといえば、まずKAN氏が中国に何度も行っていること。中国での活動というとUFには谷村新司・堀内孝雄ラインがあって、古くはUFになる前のヤングジャパン時代の1981年から、向こうでの活動を行ってきている。2004年からは谷村新司氏が上海音楽学院で教授を務めたりしていて、いろいろとUFとの関係も探ってみたくなるのだが、それはまあ別の機会ということで。KAN氏が中国に行ったことには特別な意味は見出せなかった。KAN氏はその後ロシアに行ったりフランスに行ったりとなかなか自由な活動をさせてもらっているみたいである。

森高千里さんの活動は若干停滞気味といったところだろうか。もちろんそれまでの八面六臂の活躍と比べるからであって、それなりの売り上げは確保している。江口洋介氏との交際はすでに報じられており、一部には事務所に結婚を反対されてかなり不満が高まっているなどという噂もあった。98年9月9日に発売したアルバム『Sava Sava』(『抱いてHOLD ON ME!』と同日)が最後のオリジナルアルバムとなるのだが、この中にスガシカオ氏が作曲した曲がある。『たんぽぽの種』という曲で、時期的なことを考えるとユニット・タンポポの命名の由来を勘ぐってしまう。

ちなみにスガシカオ氏は1998年末の上海ライブでモーニング娘。と共演。リハーサルをさぼってカニを食べに行くという逸話が残っている。スガシカオ氏となっちは交流があるという話もあったけど、情報が少なすぎて真相かどうかは分からず。

古内東子さんはコンスタントに売り上げを記録しており、今では考えられないダブルプラチナ(50万枚超)を連発している。
同じような90年代非アイドル系ガールポップでスマッシュヒットした歌手に遊佐未森や田村直美、宇徳敬子らがいるが、同事務所の谷村有美さんはその代表的な人物だった。その谷村有美さんが98年末に休業に入っているのは注目どころ。90年代前半からテレビ露出をほとんどしないでライブ活動とラジオだけで売れていったのはUF(旧ヤングジャパン系)の売り方の典型と言えるだろう。LDやビデオでライブ映像を定期的に発売し、それなりの売り上げを誇っていたことも現在のUFの売り方に通じるものがある。

Something ELseは『太陽娘と海』でモーニング娘。と共演した半年後に日テレ『雷波少年』の企画に参加。当時の日テレは『ウリナリ』のポケットビスケッツ・ブラックビスケッツを始め、番組と連動したCD発売企画を繰り返していた時期。ASAYANも含めそういった企画がTV業界で流行していた時期だけにSomething ELseはモーニング娘。とよく似た道を歩んだといえよう。そもそもが都築浩氏やおちまさと氏、そーたに氏など、放送作家がほとんどかぶっているわけで、局が違っても似たような企画が増えるのは過去も現在も一緒。



1999.02.05 KAN シングル『Happy Time Happy Song』発売
1999.03.  カントリー娘。募集開始
1999.03.10 高山厳『海ほたる』発売
1999.03.16 つんく フジ系ドラマ『セミダブル』の制作発表
        栗原美和子がプロデュース
        つんく・浜崎あゆみのデュエットがテーマ曲に
        (シングルはゼティマ・avex別個にリリース)
1999.03.17 Something ELse アルバム『502』発売
1999.03.17 森高千里 37th『私のように』発売
        (キリンビバレッジCMソング。c/w『SPACE』)
1999.04.  KAN 97年のツアーに参加したバイオリニストの早稲田桜子と結婚
1999.04.  相田翔子 前年の旅レポートが好評でTBS『世界ウルルン滞在記』の司会に起用される(〜2006年4月2日)
1999.04.09 Something ELse 7th『さよならじゃない』発売
        日テレ系「'99劇空間プロ野球」イメージソングとしてシーズン終了までオンエア
1999.04.21 KAN アルバム『KREMLINMAN』発売
1999.05.19 森高千里 38th『まひるの星』発売(作曲:スガシカオ)
1999.05.31 森高千里 急性腸炎で緊急入院
1999.06.03 森高千里 江口洋介と共に入籍会見。妊娠2週間とも発表
1999.06.13 森高千里 TMCで『HEY!×3』の収録(5月30日収録分の振替、OAは28日)
1999.07.16 柳原尋美 交通事故により急逝
1999.07.28 Something ELse 8th『あいのうた/花火が消えるまで』発売
      「ルナパーク'99 雷波少年系遊園地 後ろ楽しいガーデン」イメージソング

1999.08.04 『team KIKCHY presents 帰ってきたLIVE CLAMPs III ライブ!! サマーナイトタウン99』(フジテレビ開局40周年記念『BANG PARK』、フジテレビ721で生中継 地上波OAは10日)7HOUSE・太シス・中澤・ココナッツ・三佳千夏・カントリー・タンポポ・サムエル・モーニング娘。ほか出演
1999.08.21 スタレビ 38th『どうして』発売
        (新富良野プリンスホテルCMソング)
1999.09.16 加藤紀子 日テレ『マジカル頭脳パワー!!』のレギュラー終了
        その後フランスへ語学留学
1999.09.  KAN 11年間担当した札幌STVラジオの『アタックヤング』を降番
       同局で新たなレギュラー番組『KANのスーパーミュージック』をスタート
1999.10.01 森高千里 39th『一度遊びに来てよ'99』発売
        (以降森高千里は新曲リリースなし)
1999.11.25 KAN シングル『今年もこうして二人でクリスマスを祝う』発売
        (以降KANは2001年になるまで楽曲リリースなし)
1999.12.01 古内東子 セルフプロデュースアルバム『winter star』発売
1999.12.31 Something ELse 「日本レコード大賞優秀作品賞」受賞



さて問題の99年である。

4月からのつんく氏のドラマは栗原美和子プロデュースで栗原美和子とはそれ以降も長い付き合いがある(男女の関係という意味ではない)。つんく氏が浜崎あゆみと組んだのはASAYANでavexとの折り合いが悪くなったことへの対策なのか?とも思う。ASAYANのスポンサーたるavexが番組内で自社アーティストが取り上げられないことについては不満があったはずであり、そのことへの対応の一環としてこのシングルが企画された可能性はある。これが後の『ふるさと』の謎とも関わってきそうなのだが、この話は次回以降。

5月に入ると娘。たちは『真夏の光線』のプロモーション活動をしていた時期であるが、UFでは月末に一大事件が発生していた。それが森高千里さんの妊娠発覚&結婚である。今となってはこれがUF側発信なのか、それとも結婚許可を出さないUFに森高さんが切れたのか(4年交際していたと言われている)、真相はさっぱり解らないが、事務所が仕掛けた発表時期ではないと思う。
妊娠2週間ということは、本人たちも入院してから妊娠に気付いた可能性が大であり、この件は本人も事務所にも突発的な出来事だったのではないだろうか。辻の時みたく9週間というのと訳が違う。相手もゴールデンの連ドラの主役を張る大物だった。事務所も対応に追われたことは想像に難くない。

Something ELseは『ラストチャンス』の後、日テレと組んで急速に露出を増やしていったが、それが急すぎたために飽きられたのも早かった。モーニング娘。はASAYANから第一次撤退(2000年春)した後、サムエルと交代するかのように日テレに進出した。そして現在日テレとのパイプは松浦が担っていて、そこは順次情勢に応じて対応しているらしい。

1999年7月には悲しい事故があったが、今回はそれには触れたくない。それもまた別の回で改めて。

年表を見るとわかるが1999年末にUF所属の芸能人たちが大きな転換点を迎えているのがわかる。1998年の谷村有美さんに続き森高千里さんが休業に入る。また加藤紀子さんもフランス留学という形で休業に入っている。古内東子さんは年末発売のアルバムでそれまでと異なりセルフプロデュースに移行している。

いったいこの時期に何があったというのだろうか? 自分はUFの芸能部門がそれまでのニューミュージック・ガールポップ路線からモーニング娘。を中心としたアイドル路線に大きく舵をきったのがこの頃だったと考えている。

だから加藤紀子さんや古内東子さんに自由が許されたわけだし、森高さんの休業も問題なくなった。そしてモーニング娘。の99年末解散もなくなった。また、モーニング娘。がUFの「主流」になったわけだから、依託されてマネジメントをしていた和田さんは外れることになった。それに伴いハーモニーがプッチモニのマネジメントを継続するのも難しくなった。

また「主流」になった以上、テレビ企画でモーニング娘。をすり減らすわけにもいかなくなり、それがASAYANで舞台裏を映すことを拒絶した理由でもあり、またASAYANとの関係が多少こじれていった原因であると思う。モーニング娘。の4期オーディションは「主流」になるべくして行われたといっても過言ではあるまい。2期までが傍流の「企画もの」だったのに対して、その印象は大きく変わっている。3期オーディションについては、実施当時から今日まで、どうしても自分はスッキリとした印象を持っていない。実施時期が非常に中途半端だったこともあるのだろう。これもまた機会をあらためて。

さて、2000年以降であるが、この際ざっと振り返ってしまいたい。これも流れをつかむ上で重要。



2000.01.  KAN 関テレ深夜の音楽番組『free beat』でなぜかハワイロケに行く
2000.03.08 Something ELse アルバム『ギターマン』発売
      シングル『ウソツキ』のヒット直後でプロモーション活動はこれがピーク。
2000.03.24 加藤紀子 フライデーにリリー・フランキーとの交際を報じられる
2000.05.17 スタレビ 39th『今夜だけきっと』発売
        c/w『ナチュラル〜抱きしめてこのままで〜』は映画『ピンチランナー』主題歌
        まこと・つんくが作詞、相田翔子がコーラスで参加
2000.07.16 谷村有美 大阪城ホールで行われた『Pacific Heaven 2000』に特別参加
        スタレビ、KAN、サムエル、相田翔子、田村直美らと共演
2000.08.27 T&Cボンバーの解散をASAYANで発表
2000.10.09 T&Cボンバー解散ライブ
        この後、稲葉貴子が大阪吉本からアップフロントに移籍
        ASAYANで稲葉貴子新ユニットメンバー募集開始(自然消滅)
2000.10.12 谷村有美 ゼティマに移籍し復帰第1弾シングル『A・RA・WA』発売
        本格的に活動を再開(作詞作曲はシャ乱Qまこととたいせー)

2001.09.26 アップフロントエージェンシー組織改編
        マネジメント部門を完全分離
        株式会社アップフロントグループに社名変更の上グループ統括本社となる
        分離したマネジメント部門は新たなUFAとして新会社設立
        ハチャマとピッコロタウンの新レーベルを立ち上げ
        一部所属タレントたちのグループ内事務所移動(カントリー娘。等)
        市井、再起への動き
2001末   加藤紀子 日テレ『マジカル頭脳パワー!!復活スペシャル』出演のためフランス留学から途中帰国

2002.01.01 スタレビ アルバム『Style』発売。アップフロントを離れてインディーズ展開
2002.01.  羽野晶紀 狂言師和泉元彌とデキ婚。芸能界を引退
2002.02.28 KAN フランス人になりたいと言う夢の実現の為住居をパリに移す
2002.03.  有賀さつきフジ解説委員の和田圭とデキ婚。月末をもってUFAとの契約を終了
2002春   加藤紀子 2002年春に芸能界復帰
2002.04.  谷村有美 原田泳幸(現・日本マクドナルド代表取締役会長CEO)と結婚
2002.08.08 Something ELseの伊藤大介と歌手の鈴里真帆がデキ婚
2002.08頃  UFの新たな本拠地、高栄麻布ビル完成
2002.09.09 28年ぶりのバンバン復活コンサート
2002.09.26 Something ELse 12th『国道16』発売
2002.10.07 アップフロントグループ、新築ビルに引っ越し
2003上半期 古内東子 レコード会社をポニーキャニオンへ移籍

2004.04.01 アップフロント組織改編 マネジメント・レコード・興行部門をそれぞれ1社に統一 
2004.07.20 KAN フランスより帰国。音楽活動再開
2004.10.  KAN 札幌STVラジオ『KANのロックボンソワ』スタート
2005.01.01 Something ELse UFAから独立
2005.01.  ばんばひろふみ、平山みきと協議離婚
2006.02.22 KAN 5年振りのニューシングル『カレーライス』を発表
2006.05.  KAN 初の中国公演を上海・新天地ARKにて行う
2006.07.06 Something ELseの今井千尋と歌手の松本英子が結婚
2006.10.22 Something ELse デビュー10周年の前日にツアー最終日をもって解散
2006.10.25 安めぐみとリリー・フランキーのユニット・リリメグがシングル『おやすみ』でデビュー。『新堂本兄弟』や『Mステ』に出演



自分的メモも兼ねているので一気に羅列してしまったが、2000年4期オーデから2001年の5期オーデの頃までは比較的動きは少ない。同時期がモーニング娘。にとって全盛期であることは異論の挟みようもなく、堂々とアップフロントの「主流」として活動している。流れが変わるのは2001年9月末のUFの組織改編。これが翌年のハロマゲドンの引き金になっていると思う(この話もまた次の機会に)。

この組織改編に原因するものかはわからないが、スタレビや羽野晶紀さん、有賀さつきさんが事務所を去り、KAN氏はフランスへ旅立った。それとは逆に加藤紀子さんがフランスから帰ってきている。
また、結婚・できちゃった結婚も多くUFらしいなあと感じる。谷村有美の結婚相手にはびっくりしたが。

なっち卒業直後の2004年4月の組織改編以降は芸能事務所としては目立った動きはなく、安定した展開をしていると感じる。ムーブメントを起こすことはないけれども、上手く芸能界を立ち回っているように見える。最近になってハローのメンバーたちのテレビ露出が増えてきたのが気になるが、それが継続的なことなのかわからないので、今は様子見といったところ。
ざっとこんなところだろうか。


とうわけで、最後の方は駆け足になってしまったけど、今回は事務所の流れを振り返ってみた。書いていていろいろと思い当たることも出てきてその都度確認する作業になり、予定より大幅に遅れてしまった。自分としては楽しいからいいのだけどね。

次回はもっとモーニング娘。を主とした妄想をする予定。
では。

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