Submarine Dog

カテゴリ: Never Forget×Memory 青春の光

第4回となります。ようやく終わります。
これまでは曲の成立過程の謎に全然触れられなかったけど、ようやく到達しました。

また、この『Never Forget』話に興味ない方も、気が向いたら今日の更新の最後の方にある和田さんからの手紙には目を通してみてください。ずっと以前に聴いたことがある方も、聴いたことがない方も何か思うことが出来るのではないでしょうか。芸能人とスタッフとの関係…今いろいろ何かと話題になっているだけに、たまには過去を振り返って参考にしてみれば何かいいことが見つかるかもしれません。

さ、次はどうすんべかね。

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Never Forget×Memory 青春の光 再考(1)
Never Forget×Memory 青春の光 再考(2)
Never Forget×Memory 青春の光 再考(3)

上記3回の続き。



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さて。
10月下旬以降のモーニング娘。は週末にライブや学園祭をこなし、11月に入るとタンポポの活動が忙しくなり、それ以外のメンバーたちは『新春かくし芸大会』の「ハイパーちんどん」の練習に入っている。この「ハイパーちんどん」は実質的に篠原ともえがリーダー格だった。なっちと明日香は篠原ともえとのセッションが多く分け与えられており、それが99年お正月の『LOVE LOVEあいしてる』での3人で歌う『守ってあげたい』に繋がっていく。ただし、なっちと篠原ともえの仲はこの時に深まったわけではなく、ずっと後のことである。

4th発売のアナウンスは当初の12月発売予定から大幅に延期され、11月末頃に「99年2月10日発売」とタイトルは未定ながらも「1,020円」であることが流れる。この11月末の時点でモーニング娘。の活動存続は公式に決まって、現場のスタッフたちも含め各関係機関が動き出していたことになる。遅れに遅れた4thのレコーディングは11月の下旬になってようやく始まった。

12月8日の『お願いモーニングコール』の中でリスナーから「笑っていいともで『モーニング娘。』を答えにしたクイズが出されていた」という投稿があり、なっちと明日香は二人でその笑っていいともをレコーディングスタジオで見ていたという。「(二人のユニット)『銀杏』で笑っていいともに出たいね」なんて話をしていたのだが、このモーニング娘。がクイズの答えになった笑っていいともは11月24日のオンエア。しかし、この日は紅白出場が決定した日で、メンバーたちは午前中から事務所に待機状態。NHKから連絡が来たのが11時半過ぎ、歓喜の様子をASAYANのカメラが追いかけた後、NHKに向かって紅白初出場の記者会見を行ったので、レコーディングスタジオにいたのはどう考えてもこの日ではない。つまり二人がレコーディングしていたのは『笑っていいとも増刊号』を見ていた11月29日となる。ちなみに、この紅白の初出場の記者会見時の写真が、その後『BS中澤SP』で圭ちゃんから姐さんにプレゼントされた写真の内の一枚である。



ここで分かりやすいように、この時期の判明しているスケジュールをあげておく。


98.11.22 娘。・平家 京都・立命館大学学園祭ライブ
98.11.23 娘。・平家 福岡・第一経済大学学園祭ライブ
98.11.24 紅白出場が決定 会社の10階で聞かされる。紅白記者会見。
98.11.29 安倍・福田 4thのレコーディング中
98.11.末頃 4thは99年2月10日発売、1,020円と情報が流れる

98.12.03 フジ『98FNS歌謡祭』
98.12.05 中澤 池袋で『お台場ムーンライトセレナーデ』発売イベント
98.12.06 フジ『かくし芸大会』の本番収録
98.12.08 テレ東新番組『アイドルをさがせ』初収録 司会に平家・中澤
98.12.11 中国・上海入り? 4thのジャケット撮影
98.12.14 アジアライブドリームin上海
98.12.15 『うたばん』収録(99.01.12 OA)
     つんくwith 7HOUSE TMCで『LOVE LOVEあいしてる』の収録

98.12.16 しゅう(謹慎中)が女子大生に暴行したことが発覚し脱退、シャ乱Q活動自粛
98.12.17 神宮前スタジオで『ASAYAN』収録
     午後からテレ東『SUPER LIVE '98』収録
98.12.20前後 4thシングルの価格を1,121円に変更
98.12.21 『HEY!HEY!HEY!』生中継 寒風吹きすさぶ中、フジの大階段で歌う
98.12.24 『Memory青春の光』のレコーディング中
98.12.25 ベイNKホールから『MステSP SUPER LIVE 98』の公開生放送
98.12.31 日本レコード大賞にて最優秀新人賞受賞
     NHK紅白歌合戦に初出場
     つんく、徹夜で4thシングルのTD作業

99.01.02 『Hello!ハッピーニューイヤー'99』中野サンプラザ
99.01.03 『Hello!ハッピーニューイヤー'99』中野サンプラザ
99.01.04 ハローのメンバー一週間のオフ
      平家みちよ、グァム旅行
      安倍なつみ、室蘭に帰省
99.01.05 テレ東『アイドルをさがせ』放送開始
99.01.08 安倍 帰省中の室蘭で市長を訪問 市長から白鳥大橋開通記念帽子をプレゼントされる
99.01.13 メンバーに福田の脱退を発表(中澤は「最後」と聞いて解散の話をされると思っていた)

99.01.17 福田脱退が『ASAYAN』で放映される
99.01.20 タンポポ『誕生日の朝』レコーディング
     ゆずのANNで福田引退に関する感想を送るようリスナーに要請
99.01.21 TMCで『ASAYAN』収録 福田脱退特集
99.01.24 22時からTMCで『HEY!HEY!HEY!』の収録(99.02.08 OA)
99.01.28 『うたばん』収録(99.02.16 OA)飯田、初めてジョンソンと呼ばれる


この他に12月の『カウントダウンTV』と年明け放送の『さんまのまんま特番』『LOVE LOVEあいしてる』の収録があって、『CDTV』はわからないが、フジの2番組は12月初旬頃だと思われる。12月3日から6日あたりまではフジの番組の収録にかかりっきりだったのではないかな。だいたいきくちさんとの仕事は集中するので。



上記のスケジュールとは別に、4thに関するなっちと明日香のラジオ発言を拾って、これも一覧にしておく。以下。

『お願いモーニングコール』はTOKYO FM『ミリオンナイツ』内で98年10月から翌99年3月まで続いた安倍なつみと福田明日香、二人のラジオ。モーニング娘。で初めてのレギュラーラジオ番組である。放送時間は毎週月曜から木曜の22時半過ぎから約10分間の番組。
ラジオの収録日は判明してないが、話す内容とスケジュールを照らし合わせると一週間か二週間分の録りだめ。収録は水曜だと思っていたのだが、年が明けると違うみたいで、明日香脱退情報の漏洩を防ぐために月曜日録りの録って出しの可能性があるようだ。以下、収録日は推定。


12.03 [11.18収録]
明日香の「別れ」の推薦曲 ウルフルズ『ある日の事』

12.08 [12.02収録]
二人でレコーディング(11月29日と判明)

12.14 [12.02収録]
新曲の発売が来年2月上旬に決まったと言って、二人で『Never Forget』のサビの部分をホンのちょっとハミングして紹介する。レコーディングはまだ終わっていない。

12.17 [12.02収録]
明日香14歳の誕生日としてのオンエア。ブルーハーツ『TRAIN TRAIN』。リスナーからのハガキで小学生時の音楽の先生の話が出て涙ぐむ明日香。なっち「福ちゃんへのプレゼントは溢れる愛だよ、溢れる愛」

12.21 [12.16収録]
明日香、『抱いてHOLD ON ME!』発売前のダンスレッスンのときに自分に自信をなくして、帰りのタクシーの中で泣いてしまった話。「今まで言わなかったけど」

12.23 [12.16収録]
8人でオールナイトニッポンに出演したときに和田さんから手紙をもらって8人とも号泣してしまった話

01.07 [12.16収録]
自分が男だとしてモーニング娘。だったら誰を彼女にする? 「なっちは福ちゃんです。大好きです」

01.11 [01.11収録]
4thタイトルは『Memory 青春の光』に決定と告知。別れの曲で大人っぽいと紹介。そして二人で『Memory 青春の光』のサビ部分をハミング

01.12 [01.11収録]
『メモ青』の歌入れは年末にした。今までで一番難しかった。新曲は間奏明けのサビがぐっと盛り上がる。正月コンサートの後につんくがニューヨークに行って仕上げを行った。外人のラップやスクラッチが入っている。ジャケットは上海のいろんなところで撮った。衣装は2パターンあってどちらが使われているかわからない。再来週のラジオで新曲をかける予定

01.21 [01.18収録]
リスナーからの「新曲は今井美樹の『Pride』に似ていませんか?」というコメントを読み、明日香が『Never Forget』のサビを口ずさむ。実はこの曲はカップリングみたいな扱いで入っている曲だと明かす。新曲は来週の月曜にかける予定

01.25 [01.25収録]
『Memory 青春の光』初OA。いろいろと曲解説。この後のミリオンナイツで『Happy Night』もかかる

01.26 [01.25収録]
『Never Forget』初オンエア。明日香「レコーディングのときに『東京で見る星も、ふるさとでの星も、同じだと教えてくれた』『今度出会うときは必然』の歌詞がすごい好き


スケジュールとラジオの発言、さらっと並べてみたが、ここから読み取れることを検証してみよう。

まず、4thのレコーディングは11月の下旬から12月の頭にかけて『Never Forget』を、12月の下旬に『Memory 青春の光』と時期を分けて行われている。そして、そのレコーディングの合間に上海でCDジャケットの撮影を行っている。さらに『Memory 青春の光』のレコーディングに入る直前にはCDの値段が1,121円に値上げされることが発表された。

12月15日収録のつんくが出演した『LOVE LOVEあいしてる』で、つんくが篠原ともえに楽屋に突撃された際、『Memory 青春の光』の歌詞の断片をバラされるという事件があった。篠原ともえがつんくの手帳を盗み見たのだが、「メモリー私のメモリー」とそこには書いてあり、状況から考えるとまだその時点では『Memory 青春の光』の歌詞は完全には完成していなかったようだ。

ここまでで疑問なのが、『Memory 青春の光』がレコーディングもしておらず、曲すら未完成だったのに、上海でCDのジャケット撮影をしている点。100%とは言えないが、通常はレコーディングが済んでからジャケット撮影があり、プロモーションビデオの撮影に入っていくはずである。

また、12月14日のラジオでなっちと明日香、二人で『Never Forget』をハミングした際には、二人ともこの曲がシングルの表題曲であるかのような捉え方で紹介していた。しかし翌年の1月21日の放送では明日香一人がサビを口ずさみ、なっちが「この曲はカップリングみたいな感じ」で入っていると微妙な表現で紹介している。

さてこれがどういうことなのか。
4thの成立過程は、明日香卒業を聞いたつんくが明日香卒業のために『Never Forget』を付け足したというのが公式に言われていることであるが、スケジュールや言動を見ると本当の成立過程は実は違ったものだったのではないのだろうか? 公式な成立過程が本当ならば、値上げ発表の後にレコーディングされているのは『Never Forget』でなければならないはずである。

つまり、この4thの本当の発売予定は以下の通りだったといえるのではないだろうか。

12月始めの段階…
・明日香の脱退は家族の説得を除いて決定している
・4thはなっちと明日香がメイン。レコーディングは二人が先行
・ジャケット撮影はレコーディング終了後に上海で
CDの順番
1.『Never Forget』
2.『Happy Night』


12月中旬になると…
・上旬に明日香の家族の説得。Y社長「辞めちまえ。福田の卒業は伝説になる」
・『Never Forget』を明日香ソロ曲にまわすことになる
・つんくに急遽もう一曲発注。シングルの値段変更
CDの順番
1.『Memory 青春の光』
2.『Happy Night』
3.『Never Forget』

後から増えたのは『Never Forget』ではなく、『Memory 青春の光』であったというのは間違いなさそうである。何回もこの謎には取り組んできたが、今回の調査で自分はこれで大決定を下した。


また、曲のタイトルに関しても現在『Never Forget』と呼ばれている曲が本来は『Memory 青春の光』であったこともかなりの確立でありそうである。

明日香脱退を発表した1月17日放送のASAYANで4thのCDジャケット(表)が公開されており、画面を見る限り文字、色見ともに発売されたジャケットと相違点は見られず、この時点で表ジャケットは完全に完成していた。メンバーへ明日香の脱退が報告されたのが1月13日であり、編集の都合を考えると同日にはVTR編集スタッフにジャケットの画像が渡っていないとおかしい。つんくが4thの表題曲を『Memory 青春の光』と決めたのは大晦日だと言われているが、これだと年明け発注から印刷が上がってくるまで不可能ではないがギリギリのスケジュールである。

ここは素直に、ジャケット撮影が終わって使う写真を選び終わった12月20日あたりがジャケットを発注した時期だと考える方が自然ではないだろうか? そして、もしこの時点で当初の予定のまま発注していたとしたら『Never Forget』が表題曲となってしまい、公式にアナウンスしていたこと(『Never Forget』があとから付け足されたこと)と相違点が出てきてしまう。これつまりは元々『Never Forget』が『Memory 青春の光』だったということの証にならないだろうか?

また単純に現『Memory 青春の光』の仮タイトルが『ゾンビ』と呼ばれていたことや、歌詞の内容から考えても『Memory 青春の光』がタイトルになるのはおかしいと思う。歌詞の内容を考えればどちらが『Memory 青春の光』に相応しいかは一目瞭然である。つんくは12月中旬に急遽作っていた大人っぽい曲に「メモリー」という言葉をどうしても取り込まなければならなかったのである。

この曲が実はタンポポ用に作っていた曲という説もあるが、確かにそれはあり得る。99年1月20日、矢口の誕生日にタンポポ『誕生日の朝』をレコーディングしていたという有名な話があるが、それを考えれば12月の後半はつんくは本来タンポポのアルバムの準備をしていたはずなのである。その当時は狂ったような楽曲の量産はしていなかったので、時系列を考えれば充分あり得るが、この件についてはこれ以上掘り下げても何も出なさそうなのでやめておく。メンバーたちの気持ちともまったく関係のない話だ。

ただ、つんく自身も『Memory 青春の光』のデキには相当満足していたみたいなので、最初はタンポポで予定していたけど、「8人のコーラスで作ってみたかった」というのも案外一曲増えた理由かもしれない。明日香の声があるうちに8人のハーモニーを完璧に作ってみせたかったというのなら考えられるな。声フェチのつんくだけに。

ちなみに、つんくは大晦日に紅白を見ながら徹夜で『Memory 青春の光』のトラックダウン作業をしているが、その完成の喜び様はかなりのものがあったようである。

お笑い芸人 アンバランスの日記
ttp://www006.upp.so-net.ne.jp/kurokin/thunku-watching010.htm

徹夜明けのつんくが取り巻きの芸人たちを電話でかき集め、さんざん酔っぱらったあげく完成したばかりの『Memory 青春の光』を聴かせちゃうあたりなんか、普段のハロプロ仕様のつんくには見られない感情の出しっぷりで、なかなか楽しいし、暖かい気持ちになった。よほど『Memory 青春の光』の完成がうれしかったのだろうなと。つんくはこの後娘。たちの新春コンサートが終わるとニューヨークへ飛び『Memory 青春の光』を仕上げた。


その後の娘。たちは『Memory 青春の光』でテレビに出つつ初の全国ツアーを回っていく。明日香卒業を取り上げたあちこちの番組で涙を流し、『Never Forget』を歌い、かけがえのない時間を過ごしたモーニング娘。のメンバーたち。

一番涙を流していたのは姐さんだっただろう。
明日香のことを『もう知らん』とまで言って怒ったクロワッサン事件。それから一年が経ち年齢差も気にならないほど明日香のことを理解できるようになった。姐さんがリーダーらしさを発揮してきたのはこの頃からじゃなかったかな。自分の立ち位置を見つけメンバー全体を見渡すようになっていったのは…

紗耶香は明日香と「ビックになる」ことを約束してた。…そういえばもうすぐ紗耶香がモーニング娘。を去ってから7年が経つ。彼女は今幸せなのだろうか。反骨精神たっぷりだった紗耶香、今はビックなママになっているのだろうか…

歌う心を大事にしていた明日香を愛したなっち。「強くなる」って約束は明日香と交わしたものだった。数々のいろんな波に翻弄され、流され続け、今に至る。でも決して芯にあるものは曲げなかった。それが今のポジションに繋がる…強くなった彼女が次に求めるものは何なのだろう。去っていた者たちのココロを知る彼女が、次に起こすことは何なのだろう。

彩っぺも、カオリも、圭ちゃんも、矢口も、

何がこの先起こっても「永遠の8人」は変わらない。
あのとき、あそこに立っていた8人は自分の心の中でずっと輝いています。




ここまで『Never Forget』と『Memory 青春の光』の成立過程の謎を紐解いてきたけど、メンバーたちが現在ある『ネバフォゲ』と『メモ青』を愛していることには変わりはなく、また自分がこの曲たちに特別な思い入れを抱いていることにも変わりはなく、この先一生付き合っていくのだろうなという意識はずっと変わらないと思う。

それなら掘り下げることに何の意味もないじゃないかと思われるかもしれないけど、自分は知りたいんだよね。当時のメンバーたちが何を考え、何に立ち向かって生きていたのかを。必死になって走っていた「永遠の8人」がずっと好きなんでね。どうしようもない懐古主義者だということもわかっているのだけど。




最後に余談を二つばかり。
『お願いモーニングコール』の放送内容表のところでこっそり入れておいた、12月3日
放送の明日香の「別れ」の推薦曲として流したウルフルズ『ある日の事』という曲。収録は『Never Forget』レコーディング前なのだけど、当時の明日香の心象風景をこの曲は表していたのではないかと思った。
ttp://www.utamap.com/showkasi.php?surl=T00122
「ポッカリ穴があいた心」で『Never Forget』を聞き、明日香が肩をふるわせる姿が想像できた、、、

もう一つ。98年9月11日にモーニング娘。8人がパーソナリティーを務めたオールナイトニッポンで放送の最後に和田さんから貰った手紙。これを聴いて8人は号泣してしまうのだけど、これを書き起こして終わりにしたい。本編とは関係ないラジオだが和田さんと旧メンたちとの深いつながりがわかるのではないだろうか。いい機会なので書き起こしてみた。


和田さんからの手紙 1998.09.11
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モーニング娘。のみんな約2時間の放送おつかれさま。マネージャーの和田です。初めての、それもオールナイトニッポンでのDJ、どうでしたか?

僕が5人のメンバーに会ってから早いものでもう一年以上が過ぎますね。はじめは一人一人別々でASAYANのオーディションを受け、グランプリを目指し、頑張っていましたよね。その後グランプリを取り逃がし、一度は夢破れ、その頃はみんなきっと普通の平穏な生活に戻ると思っていたはずです。しかしその後つんくや僕たちスタッフたちの思いつきで5人のメンバーが集められ、モーニング娘。が誕生しました。そして大変な思いをして5万枚を完売させ、見事にデビューをしましたね。

でも、その頃5人はきっと、自分の夢の理想と現実とのギャップにたぶん相当苦しんでいたはずです。その上セカンドシングルでは追加メンバーが加わることになり、きっと僕はまったく信用されてなかったんじゃないかと思います。そして追加メンバーに加わった3人も先輩のメンバーへの気遣いや歌・ダンスでのチカラの差に、言葉にこそは出さなかったけれども「追加メンバーにならなければよかったのに」その頃はそう思ったことがあるはずです。

そんなモーニング娘。も8人になってからサマーナイトタウンも順調に売れ、昨日3rdシングルを発売することができましたね。今回のシングル、出だしは好調です。みんな頑張った甲斐がありましたね。本当にうれしいです。

僕は以前ある番組で一度シャ乱Qに手紙を書いたことがあります。そのとき書いた言葉で、君たちにぜひ伝えたい言葉があります。

それは「売れてからが本当のスタートライン」という言葉です。
これは曲が一曲売れたということではなく、世の中がちゃんと認めてからがスタートという意味です。僕から君たちを見ていると今まさにそのスタートラインにつこうとしているところだと思います。
これから長いマラソンになるのか、短距離走で終わるのかは君たち一人一人が決めることです。でもこれからの道も決して平坦ではないことは確かです。でもそんな中、自分の夢をかなえ、人に感動と勇気と安らぎを与えられるアーティストに一人一人が成長することを僕は望みます。

そして、この芸能界はとても厳しい世界だと僕は思います。一枚のシングルを出したきり二度と出せない人。最初はチカラをいれてもらっていたのに売れないと途中から全然チカラをいれてもらえなくなる人、決してすべてがアーティストの責任でもないのに、一番アーティストが責任をかぶります。そんな厳しい世界に君たちを引き込んだ一人として、常日頃責任感を感じています。時たま君たちに厳しい言葉を吐いたりもしますが、それも君たちに対する責任感のあらわれだと思って許してください。

たぶん君たちに僕が何のアドバイスもすることがなくなるくらい君たちが成長する時期が、いつかはやってくると思います。そのときは僕が森高やシャ乱Qの側を離れたときと同じように、僕が君たちの側を離れるときです。そのときが来るまで目一杯頑張りましょう。

つっぱっているときより素直な時の方が素敵な 中澤
もっと自分自身に自信を持った方がいい 石黒
いろんなことをどんどん吸収してほしい 安倍
夢中になるとまわりが見えなくなる 飯田
子供なのにいろんなことを考えすぎる 福田
いつもおどおどしている 保田
出たとこ勝負の 矢口
もう少し喋る前に考えた方がいい 市井

僕はこんな楽しいみんなと仕事が出来て幸せです。
それではこれからもよろしくお願いします。

                       和田 薫

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さて、今回で3回目の『Never Forget×Memory 青春の光』となる。今さらこんなことを書いていても、もはや需要がないとも思うが、これはまあ自己満足の部分もあるしね。もし読んでくれた方が、当時のことを思い出して、当時の物語を懐かしんでくれたりしたら、それはそれでうれしいです、はい。あ、あと左の画像には意味がないので(笑

今回は時間的な説明が多すぎて非常に分かりにくいかもしれないので、もし娘。年表とか持っている方がいたら見つつ読んだ方が分かるかも。なにしろ自分も年表とにらめっこしつつの更新作業なので。

それと…案の定3回で終わらなかった(汗


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Never Forget×Memory 青春の光 再考(1)
Never Forget×Memory 青春の光 再考(2)

上記2回の続き。



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つんくの元には4thシングルはモーニング娘。解散時にも使える曲として企画および発注が来ていたはずだ(9月頃)。普通に考えるとこの時期は3rd『抱いてHOLD ON ME!』がオリコン1位を取りその後の売り上げも順調に推移していたので解散という想定はほとんどしなくてもいい。ただ、『モーニング娘。×つんく♂』において「98年の紅白に出て解散する予定だった」とつんくが言っているので(真偽のほどは定かでないが、嘘ならわざわざ言及する必要性がないので、自分はこの説を信じる)、まだこの時点では確定していなかったといえる。なぜならモーニング娘。が紅白に出場するには『抱いてHOLD ON ME!』によるヒットと、それによる世間への浸透がまだ必要な時期だったからである。現在のように名前で出場できるようになるのはまだまだ先のことだ。4th企画段階の9月では解散を含んだ状況であったが、『抱いてHOLD ON ME!』のヒットが長続きして10月を迎え、ヒットによる紅白出場が見えてきた…10月下旬あたりが解散するかしないかの、事務所側の確定の時期だろう。つんくは紅白出場は解散への道と聞かされていたのかもしれないが、すでにこの10月下旬では事務所側にとって紅白出場が存続への道だったのかもしれない。

その理由として、事務所側がASAYANや関係各所との調整が終わったのが10月下旬頃だと捉えて考えてみる。ASAYANはタンポポの3人目のメンバーを選ぶというつなぎ企画が行われていた時期であり、UFAとしてはその後に太陽とシスコムーンのオーディションに入る。太シスのオーディションはDDIポケットのCMソングを歌うグループの募集だったが、これはASAYAN絡みの電通サイドが持ってきた企画だった(推定)。徐々に「つんくプロデュース」という名目が浸透し始め、それが商品価値を生みつつあった時代である。出る杭は叩かれないように、あるいは得た利益を分配してさらに利益を出せるように、そういった各所との関係の再構築をこの時期UFAは行っていたのではないか。もっといえば、どうにかしてモーニング娘。の主導権をUFAに取り戻そうとしていたとも言える。

調べていて非常に分かりやすいことを見つけた。
つんくプロデュースのモーニング娘。の楽曲の版権は、作詞作曲者であるつんく、それとアップフロント音楽出版、それからテレビ東京ミュージックの三者が持ってることがほとんどである。これがほぼ確定したのが『ハッピーサマーウェディング』以降のこと。例えば面白いことに『愛の種』や『モーニングコーヒー』はアップフロント音楽出版が版権を持っていないし、初期のイベント等で歌われた佳曲『未来の扉』も同様で東京エフエム音楽出版が持っていたりする。それでもほとんどの曲は先のつんく・UFA・テレ東で分け合っているし、シングルに関していえば2nd、3rd、5thも同様である。

さてそれ以外はどうだったのか、この時期のソロ活動への準備かもしれなかった楽曲たちを振り返ってみる。

中澤裕子『カラスの女房』
作詞 荒木とよひさ
作曲 堀内孝雄
公編 川村栄二
出版者 テレビ朝日ミュージック

タンポポ『ラスト・キッス』
作詞 つんく
作曲 つんく
出版者 日音

4th『Memory 青春の光』
作詞 つんく
作曲 つんく
出版者 アップフロント音楽出版
出版者 電通ミュージック・アンド・エンタテインメント

タンポポ『MOTTO』
作詞 つんく
作曲 つんく
出版者 アップフロント音楽出版
出版者 東京エフエム音楽出版 株式会社

98年後半に作られた楽曲だけ通常のパターンで版権が分けられていないものが多い。このあと99年の後半にも吉本音楽出版が絡んでくるパターンが出てくるのだが、JASRACで版権を調べていると、ちょうどいろいろと噂のある時期と版権が通常パターンにならない時期とがかぶるので、やはり何かあるのかなと想像せずにはいられない。『ラストキッス』の日音というのは100%TBSの子会社で、とすると、うまくテレビ局で分けたものだなと。ただ、フジは元々コネクションがあるから問題ないとしても日テレは?という疑問は残る。その辺は電通と日テレの微妙な関係があるらしいが、自分は業界人ではないので深く掘り下げられない。どちらにせよ、この時期に各所と調整を行っていたというのは間違いなさそうだ。


話を戻して。
つんくが明日香のところに連絡した10月16日、つんくは自分のところに来ていない情報を探ろうとして電話したのではないか?そんな考えがふっと浮かんでしまった。その日のミュージックステーションのパフォーマンスを誉めるというのはたまたまであって、現場のスタッフの様子、メンバーの様子を探って、何か動いていないかを聞きだそうとしたのではないのだろうか。「一番冷静にモーニング娘。を見ていた」とつんく自身が語ったように、しかし13歳の女の子とあって与し易いと考えたのでは。

これはもう本当に妄想の範囲でしかないが、楽曲プロデューサーとはいえなぜ13歳の女の子のところに29の男がこんな時間に電話したかがずっと疑問だっただけに、その理由が気になっていたのである。事務所で会う機会はいくらでもあるだろうし、メンバーには手を出さないと言っているつんくがなぜこうした行動をとったのか? ましてや10月の始めにはシャ乱Qのメンバーが女子高生と問題を起こして謹慎処分になっているのである。そんな中、電話で直接連絡するというのは、つんくに余程の理由があったのだろう。解散するかしないのか、どう4thを作ればいいのか、情報が少なくやきもきしていたつんく像が自分の中では浮かび上がってきた。

この時点での電話が嘘だという憶測も成り立つが、それだとやはり嘘をつく必要性が見つけられないので、それはないように思う。細かくなるので詳しくは書かないが、この日に電話があったと考えなければ、その後の明日香やつんくや和田さんの言動すべてがおかしくなってくるし、メンバーがこの曲を愛した意味も分からなくなってきてしまう。そういう意味では、内容はともかくつんくから明日香への連絡はあったと捉えて間違いなさそうである。


事務所やASAYAN側、つんく、和田さん、メンバーたちの置かれた状況をここまでざっと振り返ってきたが、いよいよ4thの制作段階に突入する。旧メンたちがこだわり続けた4th『Memory 青春の光』である。ここでは以前から支持している4thシングルは本当は『Never Forget』で、本来はその曲のタイトルが『Memory 青春の光』だったという説に基づいて話を進めていく、ただし以前と微妙に自分の解釈は変わった。大筋では変わらないけど、微妙な時系列の間違い等があったことに気付いたもので。

改めてここまでの4thシングル作成開始(10月中旬)頃までの過程をまとめると、
・9月企画段階では、可能性としてモーニング娘。解散含み
・本体の歌に関してはなっちと明日香が中心(彩っぺの発言や姐さんの回顧録による)
・カオリ・彩っぺはユニット、姐さんはソロ、UFAは4th後の展開をすでに模索している
・つんくの元へは4thは解散含みの曲で企画提案(以上9月)
・つんくが4th制作に入ろうとした段階で、すでに明日香の脱退意志をつんくは知っている
・事務所を通した明日香脱退の正式決定は12月上旬(ASAYANの和田さん発言による。ただし『5+3-1』を読むと11月にほぼ決まっていたのは確かなようだ。明日香脱退を反対していた明日香の家族への説得は事務所が行っている)なので、現場関係のスタッフたちは10月中旬の段階では9月に決定した計画で動いていると思われる
といったところだろうか。


さて、明日香は1999年4月18日の最後のコンサートの時に「つんくさんが、卒業する私と、卒業を見届けるメンバーの気持ちを詞とメロディーにのせて作ってくれた」と言って『Never Forget』を紹介している。『もうひとりの明日香』の中では「わたしにとっては特別な、大事な歌なんですよ。ここまで、自分の置かれている状況とか気持ちにピッタリの曲は初めてだし。モーニング娘。にとっても、そうじゃないかと思うんですよね」と語っている。

つんくが10月下旬あたりから作り始めたこの曲は、つんくの中では解散を想定した曲ではなかった。求められていたのは解散に使える曲であったが、つんくはそれをうまく利用して明日香脱退のための卒業曲を作ったのである。逆に曲作りのアイデアとして明日香の脱退を使ったともいえる。これはどちらが先ということでもなく、方向性が一致したのだから問題はないだろう。自分が以前書いた説では、この時点でつんくは解散用の曲を作っただけだと書いたが、それだとこの曲を明日香が愛し、メンバーたちが大切にしていた気持ちに対して、曲の応える気持ちが弱いなという気がしていた。解散向けの曲という体裁を取りつつも、明日香の脱退のために言葉を選んで作ったからこそ、歌われたときにメンバーたちもみんな気持ちがこめて歌うことができたのではないだろうか。矢口や姐さんはこの曲のイントロが流れ始めただけで泣いていたっけ…

この曲でずっと気になっている歌詞がある。

「東京で見る星も
 ふるさとでの星も
 同じだと教えてくれた」

これを書いている時点でつんくは明日香の辞める意志を知っている。でもこの曲が明日香のソロになる予定は制作段階ではない。しかしこの部分の歌詞は間違いなく明日香個人へ向けて書かれたものである。東京に暮らしていた明日香と地方から出てきたメンバーたちの交流を描いているのだ。

この時点での4thはなっちと明日香がメインになる予定だったことは何回も書いた。姐さんの『ずっと後ろから見てきた』では「いつもと雰囲気が違う感じがする。どうも『一斉スタート』ではないような……。“あれ、あの子もしかしたら先に音もらってた? 先に別の日に歌入れした?”みたいな」と4thレコーディングを振り返っている。また、タンポポがASAYANに初めて登場した時にも彩っぺが「モーニング娘。のメインは、なっちと明日香」と言っているので、モーニング娘。本体の音作りの基本部分というのはこの4thでは「なっちと明日香である」と制作前から衆目の一致するところであった。

つんくはビジュアル的な想像もしながら曲を作っていたはずだ。この歌詞を明日香が歌っているときに横に立って歌っている人影も想像しながら書いているはずである。当然そこにはなっちの姿があるのだが、調べていると10月8日のラジオ『お願いモーニングコール』の中でなっちは明日香に「室蘭は星とか月がきれいなんだよ〜」と話しかけていたことがあった。これを聞いて、この部分の歌詞が明日香からなっちへ向けた言葉として書かれたものなんだと改めて思った。明日香が辞めるにあたってなっちに『Never Forget』を今後はなっちに譲ると言ったことも、ずっと後になって2001年のベストアルバムに『Never Forget』が収録された際、この曲の歌詞カードのページになっちと明日香二人の顔写真が飾られたことも、さらに圭ちゃんが卒業するときに最初この曲を歌うことを躊躇ったのも、コンサートでなっちから圭ちゃんに「圭ちゃん頼んだよ」と託されたことも、すべて曲が作られた時の背景があったからなのだ。

ちなみに、1999年4月18日のコンサートが終わったあと、抜け殻のようになってしまったなっちを見たからなのか「ふるさとに帰してあげたい」と6thの制作に繋がっていくのはまた別の話。また、なっちがその後「星」や「月」に特別な意味を持たせていくのも、それもまたずっと後の話。









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今回はここまで。
次回ようやく4thレコーディングに入れます。
日をおいて、また。

今日は5月5日からの続きなので、前回の更新を知りたい方はこちらからどうぞ。

今日も相変わらず脱線ばかりで本編になかなか入れず終わらない。
自分的には新しい発見もあったりして、ゆっくりとしながらも楽しい作業になっているのだけど。

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この時期からモーニング娘。はソロ活動も多くなっていくのだが、これが解散に向けての準備だったのかは想像の範囲でしかない。姐さんは演歌活動があり、カオリは8月下旬にユニットデビューを伝えられ、一人で『ラストキッス』のレコーディングも行っている。明日香はなぜか名古屋ローカルのテレビ番組にソロで出演したりしていた。9月に入ると明日香のCDでーたへの連載、なっちと明日香のラジオ、タンポポのユニット活動等の仕事が続々と決まってもいる。12月に4thシングルを出すことも同時期の決定と思われるので、これが解散(かもしれない)のためのシングルだったという可能性は充分にある。

現在はまだ検討中and調査中なのだが1998年9月でもってASAYANの打ち切りという可能性もあった。これと解散との連動性を考えているのだが、これはまだ頭の中でまとまっていない。 この年の10月から12月末まで、それまでASAYANのアシスタント務めていた永作博美に代わって中澤・安倍・福田・矢口が交替交替でアシスタントを務めていくのだが、これがどうも腑に落ちない。永作博美の降番理由が「10月以降の予定が入っていたから」というが、これは番組終了が決まっていたからスケジュールを押さえられなかったのか、それともモーニング娘。のメンバーにアシスタント活動させるために永作博美に降りてもらったのか、そこいら辺が時期が時期だけに微妙なところだ。ただ、その後ASAYANで娘。たちがアシスタントを務めたのは岡村が番組収録中に骨折した時だけだから(姐さんと市井)、ASAYAN側が無理して娘。メンバーをアシスタントとして使いたかったというわけではないのだろう。となると1999年から中山エミリが登板するまでの3ヶ月間のアシスタントをきちんと決めなかったという疑問はどうしても残る。

「いいんですか!?…いいんです!」でお馴染みの川平慈英がナレーターを努めたのは1998年の春までで、その後松尾貴史にバトンタッチする。松尾氏が登用されたのは、前年にシャ乱Qが主演した映画『演歌の花道』に出演したこと、ASAYANの構成作家・鮫肌文殊氏との関係があるからだと思われる(鮫肌文殊は松尾貴史に勧められて1990年に上京している)。小室哲哉との関係も含め、1998年のASAYANの内情は微妙な時期であった。元来が寄り合い所帯で、電通や吉本との関係も不明瞭なASAYANである。吉本興行(製作)―小室哲哉―AVEX(スポンサー)というラインとモーニング娘。に本格的に関わっていきたいアップフロントとは微妙な駆け引きがあったはずである。元々が小室哲哉の休養期間の代替企画として行われたロックボーカリストオーディションであるから、ブームを巻き起こしたモーニング娘。の商品価値が高まるにつれ、関係各所同士の調整は複雑さを増していった。先のことを書いておくと、1999年中頃からモーニング娘。を取り巻くUFA、ASAYAN、吉本、電通の関係は急速に悪化していき、2000年3月に破綻をおこすというのが定説となっている。また、石黒・市井の脱退やなっちのソロ活動計画中止はこの件との因果関係があると今となっては思われる。

スタッフのことを調べていて一つ思い出したことがあったのでさらに脱線する。
ASAYANのディレクターを務め、その独特なテロップの入れ方で強い印象を残したタカハタ秀太氏。『LOVEマシーン』のPVのディレクターを務めたり、姐さん卒業時の名番組『BS中澤SP』を作ったことでも有名だが、このタカハタ秀太氏、結婚相手は元C.C.ガールズの藤原理恵だった。藤原理恵といえばASAYANでは『文句があるなら来なさい!』でお馴染みのRie ScrAmbleである。そんなに大ヒットしたわけでもなかったのに、ASAYANでこの曲が多用されたのは、ここいらへんの男女関係があるのかもしれない。この曲は彩っぺが札幌のオーディションで歌い、スタジオ審査の第二段階では青木朗子、高口梓、平家充代の3名が歌っている。

1997年ロックボーカリストオーディション時の選曲についてもう少し。先のRie ScrAmbleの他に頻繁にあらわれるのが工藤静香の曲である。これは当時シャ乱Qのはたけが工藤静香に楽曲提供を行っていたからだと思われる。スタジオ審査の第一段階では彩っぺがはたけ作曲で発売されたばかりの『Blue Velvet』を歌っている。また、はたけ作曲ではないもののスタジオ審査第二段階で明日香が『激情』を、姐さんが『めちゃくちゃに泣いてしまいたい』を歌っている。ただ元々明日香の得意な曲として『激情』が入っていたので、これは偶然で思惑が一致したのであろう。姐さんはスタジオで歌いたい曲、得意としている曲をアンケートで複数回答しているが、唯一と言っていいほどそれらの楽曲を歌わされていない。松たかこの『明日、春が来たら』を唄いたいと書いたのは姐さんであるのに、実際にスタジオで唄ったのはカオリだった。

1997年の8月30日にシャ乱Qが主演する映画『演歌の花道』が公開されるが、この制作はフジテレビであった。この時分のシャ乱Qの活動は当然、フジ絡みのものが多くなるのだが、この映画がクレイジーーキャッツの映画を連想させる作品であるのは、前述のナベプロとの関係が何かあるのだろうか。また、オーディション進行時にはこの映画の撮影期間でもあったが、同時期のフジテレビは『ひとつ屋根の下2』の高視聴率にわいていた。このドラマの挿入歌『ひだまりの詩』は彩っぺがスタジオ審査の第二段階で歌い、主題歌の『サボテンの花』は99年の7月にメンバー全員で歌っている。

その昔、自分が尊敬している方が書いた妄想小説の中に、彩っぺが裏でASAYANスタッフの指示を受けつつモーニング娘。の流れを作り出す役柄を演じていたものがあったが、オーディション時に歌った彩っぺの楽曲を考えると、どうもASAYANの裏の意向が見えかくれして、その妄想小説の設定も強ちあり得ない話ではないと思った。ASAYANで始まりASAYANで終わると晴れ晴れとした顔で言った彩っぺの真意はどこにあったのであろうか。先述のASAYAN内部での混迷が極まっていた時期だけに、彩っぺとASAYAN、その後のUFAと彩っぺの関係を考えると面白いものがある。

フジテレビの一部スタッフとの関係は和田さんとのつながりがあったとはいえ、菊地さんが『LOVEマシーン』のPVに出たりするほどまでのASAYANとの蜜月理由がいまいちわからなかった。が、いたって単純なことに気がつく。ASAYANとフジの主だった音楽番組の収録はスタジオが一緒だったのだ。東京都世田谷区砧にある東京メディアシティでASAYAN―K-1スタジオ、フジテレビ―A-1スタジオという違いはあるものの、スタッフ同士が情報を交換しあったり、食事を一緒にしたりする機会は多々あったはずだ。ましてやHEY!HEY!HEY!の制作には吉本も関わっている。初期の頃のフジとモーニング娘。の友好関係の謎がようやく解けた気がする。ちょっと考えればわかることだった…


話は戻って。
1998年10月中旬、4thシングルは年末だと情報が流れる中、10月16日を迎える。この日の明日香とつんくは2時間近く話していたという。Mステ終了後のことだから、明日香が自宅に帰ってからの電話だとすると12時は超えたであろう。「社会科の勉強がしたい」ということだけがクローズアップされて一人歩きしてしまっているけれど、このとき明日香はけっこうきついことをつんくに言ったのではないか。もちろんつんくはある程度の大人であるから受け流すことは出来ただろうが、このときのことを思い出して話すつんくの言葉の歯切れがいまいち悪いのは、明日香との会話にかなり言いづらいことも含まれていたからではないかと思う。ASAYANの中でこのときの会話の中に「音楽とはなんぞや」という内容があったことをつんくが証しているが、明日香の数々の発言を考えると相当原理主義的なことを言いそうなので、つんくにとっては耳の痛いことだったのではないだろうか。

「オーディションを受けてたときの気持ちを、忘れてるような気がしたんですよ。デビューを前にして5人で頑張ってたこととか音楽を好きだっていう気持ちが、なんだか全部なくなっているような気がして」

『愛の種』の手売りに入る直前、不安を抱えながら毎週末に活動していた5人がつんくに呼び出されたことがあった。プロデュースの約束をしておきながら、レコーディングには一切顔も見せず、名目だけのプロデューサーだったつんくであるのに、その時コトもあろうにメンバーたちに説教を始めたのである。髪を切ったことを「それがなに?」と言われ、全部ASAYANのため、モーニング娘。のために捨てる覚悟で臨んでいた姐さんは内心ぶちきれいてたと随分後になって明かしている。それまで素人の自分たちのために必死になって動いている大人たちを見てきて、罪悪感や不安感を抱えていたメンバーたち。目の前で大仰に足を組み片ひじをつき、それまでのいきさつを一切知りもせずに偉そうに説教をしている人間を見て、普通の人間はどう思うだろう? VTRを見返してみるとメンバーたちの表情がすべてを物語っている。

つんくはつんくで自分から説教をしたかったわけではなく、番組の演出上仕方なかったのだろう。適当に喋っていただけあって、今改めてあのシーンを見返してもつんくの言っていることは半分も理解出来ないし納得もできない。泉正隆氏のダメ出しとは言葉の重さが違うのだ。ただ、つんくの説教の後半部分には自分の言葉で喋っているなと思える部分があった。

「流されていく。流れにのっていく。自分を捨てる。様子を伺う。(これらは)つい自分の意志が出てしまうから難しい」

これは生き方の一つとしてはやり通せれば充分尊敬できるし、実際つんくは現在までそうしてきていて、それはそれでケチをつける気もない。人間は社会で生きていくために妥協は必要だ。ただ、先のような考えを持っていた明日香に、つんくは説得できるだけの言葉を持ち合わせていたのだろうか? 明日香の求めていたことは理想論に過ぎない。が、その理想を求めていた13歳の女のコに彼は何と答えたのだろうか。明日香は社会科の勉強を求めていたわけではない。理想と現実のギャップの大きさに精神的な限界を覚え、普通の13歳のコが学ぶ普通の社会生活の勉強をしたくなったのだ。辞めた後に忙しいメンバーたちに会って、自分は逃げた人間だからと罪悪感を感じたのも、こういった背景があったからだと思う。

つんくは『もうひとりの明日香』の中でこう語っている。

「福田はほめられてもあまり喜ばないし、怒られたからといってガックリへこむわけでもない。確かに、これは当たり前の反応ではないかもしれない。でも、あいつは『自分の中の満足感はどこにあるのか』ということを突き止めていたのだ。だから、自分が満足していないのに誉められてもそれは喜びではないし、怒られたとしても自分が納得して出来ならば決して動じることはない。福田はそういう自分を好きだし、そういう自分でしか生きられない。俺は途中からあいつにあまり口を出すことをしなくなった」

この発言が10月16日の二人の会話を現しているように見える。仕事ではなく、生き方が決して理解し合えないことを二人は分かっていた。しかしその関係を二人は好きだった。「音楽を一緒にやる仲なんだから、普段の会話で盛り上がらなくってもいいじゃん」という考え方の持ち主だった明日香だから、つんくはそれなら従来通り音楽プロデューサーとしての期待に応えるのが自分の果たすべき役割なのだと考えたのではないか。それが明日香への最良の返事である、と思い4thシングルの制作に取りかかっていくことになる。









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今回はここまでで。
2回で終わらせる予定だったのにどんどん伸びてく(笑
次回はようやく4thに入れるな。

ここのところ時間が空いた時にはのんびりと過去を整理する作業をしているわけだけど、そんな風な覚悟でのぞんでいるので遅々として作業は進まず…

ちょっとづつ検討していかなきゃならないこともあるので、思いつくままに書いてみる。資料を見てるだけだと話がまとまらないもんでね。

今回は、ずーっと謎を追っている『Never Forget』を再び。これはもう書くことないと思っていたけど最近ちょっとした疑問を感じたことがあって。1998年の10月16日に明日香がつんくに引退を申し出た際の会話に腑におちないものを感じたのだな。
途中で話が脱線を繰り返すけど、自分メモ的なものなので気になさらずに。


先日も書いた通り自分のつんく観というのは、「娘。たちを愛する」というよりも「娘。たちが歌う楽曲を愛する」気持ちの方が強い人物なのではないかと思っている。比較するものでもないのだが、《自分の楽曲を歌う娘。たちを愛する》のであって、《娘。たちを愛するから楽曲も愛する》では決してないと思うのだ。些細なことではあるのだが、つんくと娘。旧メンバーたちと間に時々感じる微妙な距離感というのは、これが原因なのではないかと思う。ただ、つんくは自分の作った楽曲を愛してほしいから要所要所に娘。たちの思うであろう感情をのせてきていることがある。代表的なところに『Do it! Now』や『愛あらば〜』があるが、これによってつんくとメンバーたちとの気持ちのつながりが保たれていることも忘れてはならないのだろう。

もう一人、初期に密接な関係を持っていた和田さんを例に取ってみよう。(また和田信者と叩かれるかもしれないが)和田さんと親しい関係であったメンバーというと、明日香、カオリ、圭ちゃん、紗耶香といった面々であり、姐さんやなっちはモーニング娘。立ち上げ時の和田さんの強引な手法に反発している面も見受けられたので、距離は遠いと思われていた。が、2001年4月の横浜アリーナが満杯になったとき、当時残っていたオリメン3人が3人とも和田さんに「3年前の約束を果たした」とメールを送ったことや、なっちの卒業時に訪れていること、旧メンバーたちから絶大な信頼を寄せられている夏先生とセットで登場することが多いことなど、旧メンバーたちが抱いているモーニング娘。の根幹の部分をこの人は一緒に持っているのだと思う。もちろん一癖も二癖もある和田さんなので素直に「はい、そうですか」とは言えないが、フジのきくちさんの言葉を借りれば旧メンバーたちと和田さんは《戦友》であったのだと思う。その意識は2000年の初頭に和田さんがマネジメントから外れたことによって、双方がより分かったことではないだろうか。また、姐さん卒業時に明日香を大阪まで連れていったり、平家のみっちゃんを引き取りたいと言ったり、紗耶香復帰時には相談を受けていることなど、つんくより精神的に深い部分で繋がりがあったのだと思っている。


1998年の10月16日に戻る。
この日娘。たちはミュージックステーションに『抱いてHOLD ON ME!』で2回目(トータルでは5回目)の出演をしている。トークは明日香メインの温泉話でなっち・明日香・タモリの3ショットが多用された回。この頃はタモリの横の席は明日香の指定席だったのでトークも多くなるのだが、その扱いをみても分かるように事務所側から相当期待されてそのポジションにいたことになる。その回の歌収録時に明日香は『抱いてHOLD ON ME!』のラップ部分でアドリブでカメラを揺らすというパフォーマンスをするのだが、それを見ていたつんくがそのパフォーマンスを誉めるために明日香に電話したというのが、引退話を切り出されるまでのその日の流れである。

これ以前に映画イベントツアーをやっていた夏頃、おそらく8月下旬に明日香は辞めたいことを和田さんに打ち明けている。このときは明日香の気持ちもまだ固まっておらず、和田さんにも「今やめるのは、もったいない」と説得されて引き下がった。さらにこれ以前にも圭ちゃんと紗耶香には「辞めようかなー」とぼやかして言ったこともある(ハワイの頃か?)。明日香の辞めたいと思った真相というのは色んな説があるし、週刊誌が脚色して広めてしまった部分もあるので、実際のところわからない。イジメという線は100%ないとして、ただ単にツラかったから辞めたかったというのはあるだろう。某所の書き込みでそれらしきことを吐露したこともあった。
『もうひとりの明日香』の内容は信憑性云々を言う人もいるが、本人も後日語りおろしと言っているのである程度は信用して良いと自分は思っている。その中で明日香は「オーディションを受けてた時の気持ちを忘れてるような気がしたんですよ。デビューを前にして5人で頑張ってきたこととか音楽を好きだって気持ちが、なんだか全部なくなっているような気がして。自分に自信もなくなっちゃったんです」と語っている。オーディション時から自分に自信がなく、落ちて当然という気持ちが逆に堂々とした態度につながりそれが評価されてしまったり、自分の写真を「見ちゃいけないもん見ちゃった」と言ったりと、周囲の評価と自分自身の自分の評価のギャップに悩み続けた明日香。毎日が超特急で進んでいく中で、先が見えなくなってしまった不安というのが明日香にはあったのだろう。

この1998年の夏というのはメンバーたちにとってとてもつらい夏で、表に見える単純なスケジュール的には2001年や2002年の方が厳しいのだが、なにしろ初めてづくしのことばかりでスタッフも不慣れな中動いているので、メンバーたちには相当精神的負担もかかっていたと思う。過去にこういう大所帯のアイドルグループを動かしたことのある事務所ではないのだ。また、地方出身のオリメン4人はこの年の初夏頃からホテル住まいをやめ姐さんと彩っぺは一人暮らしに、なっちとカオリは二人暮らしを始めるのだが、彩っぺなどはこの時期体調を崩し体重30キロ代に突入という危機的状況を迎えていた。なっちもこの時期は一番痩せていたが、こういった過酷な環境が影響していたのだろう。初のハローのコンサートや姐さんの演歌リリース、『抱いてHOLD ON ME!』の歌入れなどもこの時期行っている。彩っぺはレコーディングで声が出ず不本意な結果に終わり、カオリはレコーディングスタジオから逃げ出した。スタジオから飛び出し近くの保育園に入り込み、遊び場の滑り台に上って夜空を見上げ涙したのはこの時だ。

もう10年も前なので時代的なことも念頭におかなければならない。現在は18歳未満は21時までの労働と自主的な規制によって芸能界は仕事をストップさせているが、当時はまだまだ曖昧だった。モーニング刑事撮影時にはほとんど徹夜続きの撮影だったというし、翌年タンポポがサンフランシスコにPVロケに行った時には平均で1、2時間くらいしか寝る時間がなかったという。また、今では携帯電話とメールは当たり前のように使っている物だが、その頃はまだまだ普及の途上だった。メンバー同士で夜な夜なファックスをしあったり、99年頃からようやくポケットボードを使ってのメール交換に移行するような時期だった。仕事は深夜に及ぶため実家には電話出来ず、ちょっとの空いた時間は睡眠にあてるという毎日で、メンバーとの行動が生活のすべてといった感じだったのだ。

そんな中で明日香は一人実家暮らしを続けることが出来た。これが幸なのか不幸なことだったのか。仕事のストレスを家族にぶつけてしまうことがイヤだったと明日香は振り返っている。これがもし一人暮らしないし二人暮らしだったらどうだろう。なっちにおける姐さんのような、カオリにおける彩っぺのような存在ができたのかもしれない。実家に暮らし学校生活もしていた分だけ彼女は周囲の環境が見えた。それだけに逆にいろんな不安や焦りが広がっていったのではないだろうか。


さて、この時期の「モーニング娘。」の事務所の方向性を振り返っておきたい。

97年のモーニング娘。立ち上げ時においてはつんく・和田さん・ASAYAN側、すべてが一発企画のつもりでコトにあたっていた。もちろん当時は事務所が表立って出てくるとうこともない。ただ、サエキけんぞう氏によればその時点ですでになっちのソロ企画はあったというから、もし一発企画で終わればソロ企画は早々に動き出していたのかもしれない。また、ロックボーカリストオーディションで落選したあとになっちのところには複数の事務所から誘いの連絡があったというが、自分はこの中にナベプロがあったと思っている。和田さんが他の事務所の誘いを断るように言っているのだが、安倍家、和田さん、ナベプロ、この辺の関係性を考えるとどうも何かあったように思えてならない。

安倍家の三女・麻美がナベプロに2001年頃から所属しているのは周知の事実だが、これだけをもって97年当時の誘いがナベプロであったといっているわけではない。まず当時のマネージャー・企画発案者の一人でもある和田さんだが、ナベプロとは非常に強いパイプを持っている。現在ワタナベエンターテインメントの社長渡辺ミキ氏(創業者渡辺晋氏の長女)の結婚式の司会を務めたのが和田さんである(断定出来ず。調査中。きくちさんとのW司会だったかも記憶が定かでない)。その渡辺ミキ氏の結婚相手というのが現在フジテレビバラエティ制作センター所属プロデューサーの吉田正樹氏。かつては「めちゃ2イケてるッ!」や「LOVE LOVEあいしてる」の編成を担当していた人。また、娘。がかくし芸大会にオープニング演目で出演した時の企画や総合監修をしていた人でもある。

この吉田正樹氏というのがネプチューンと仕事をする機会が非常に多く(当然ネプチューンはナベプロ所属)、初期の頃に娘。との絡みが多かったのはこういう人脈があったからではないか。(振り返ると矢口はナベプロとのタレント絡み多いな、志村けんのイザワオフィスはワタナベグループだし) ネプチューンの番組の中に「力の限りゴーゴゴー!!」があるがその中の人気コーナー「ハモネプ」(2001.05〜2002.09)でデビューしたアカペラバンドRAG FAIRたちがTBSうたばんに出演する際に、そのスタジオ見学に安倍麻美が来ていたなんてこともあった(2001年10月30日)。なっちと安倍麻美が出演した『ザ・ヒットパレード〜渡辺晋物語〜』の制作に携わった人でもある。

フジテレビのバラエティ制作センターの最大派閥が吉田正樹班であり、かつては片岡飛鳥や栗原美和子も所属していた。片岡飛鳥は言うまでもなく『めちゃイケ』の総監督であり、『サルティンバンコにつれてって!!緊急中澤スペシャル』や『13人がかりのクリスマス』『キダムの国から2002、冬』を手がけた人物である。栗原美和子はバラエティ班からドラマ制作部門に移り娘。関係では『「おっはー」は世界を救う!』『天使の歌声〜小児病棟の奇跡〜』の他、前述の『ザ・ヒットパレード〜渡辺晋物語〜』のプロデュースも手がけている。フジと和田さんのつながりでは音組の戦友きくち伸氏,悪友の事業部・佐久間氏などもいる。
また、和田-きくちラインにつながる戦友として榊マネージャーなる人物がいるが、この人物が手がけているのが篠原ともえと松本英子。篠原ともえは説明不要かもしれないがなっちの友人である。また松本英子は去年2006年にSomething ELseの今井千尋と結婚したそうだ。来週5月13日、神戸で小湊美和をゲストに迎えライブをやるらしい。篠原ともえが2005年から活動しているユニット・PANIKARAQS(パニカラックス)はかつてなっちのFACTORY出演時にタイコを叩いたスティーヴ・エトウも参加している。参考までに。

なっちがソロ活動するにあたってはアップフロント内でハチャマというレーベルを立ち上げてここからCDを出しているのだが、これの販売元にはポニーキャニオンがクレジットされている。言うまでもなくポニーキャニオンはフジサンケイグループである。このレーベルの第1弾は藤本のソロであったのだが、その後の経緯を見るとどうもなっちのソロをにらんで立ち上げられたっぽい印象がある。これが意味するところは何なのか。

和田さんとフジテレビの一部グループ、そしてナベプロのつながりは、ある程度つかめたと思う。『ザ・ヒットパレード〜渡辺晋物語〜』を見ていればわかるのだが、フジとナベプロは昔からごく近しいところで芸能界を生きてきている。そのフジとナベプロとなっちと和田さん…まあ後者2人には親しいつながりはないけれども、芸能界を生きていくにあたっていろいろと複雑に絡み合っていることは確かなようだ。ちなみに明日香が和田さんに紹介したより子(高野頼子)、現在はナベプロに所属してRAG FAIRたちと同様のアーティスト部門に籍を置いているが、確かハーモニーからナベプロに移る前から渡辺ミキ社長とは面識があった話があったような…


思いっきりずれた話を元に戻す。
97年当時のなっちソロ計画というのは、モーニング娘。ブームが思ったよりも大きかったため延期になった。今となっては思い出話のカオリからなっちへの『モーニングコーヒー』のメインパートの変更もおそらくはソロ計画の名残りであったのだろう。
初期の頃にあったと明かされている計画といえば98年末解散であるが、これはおそらく97年の11月30日に名古屋球場で『愛の種』を完売して12月に入ってから検討していたことだと思われる。この段階になってもまだつんくはやる気にならず、ASAYAN側の主導が続いていた。『モーニングコーヒー』発売の後、解散含みで2期の追加オーディションが始まるのだが、この《解散含み》というのが謎の多いこの時のオーディションを解きあかしてくれるかもしれない。

2期のメンバー選考には諸説いろいろあるが、一番普及した説というのは、保田…元々アップフロントのお抱え、市井…以前の小室オーディション時にASAYANスタッフにキープされていてASAYANが和田さんに紹介した、矢口…彼女のみがガチンコ、であった。当然これの真偽のほどは分からない。ただ、当時の市井の容姿や実力からするとそんなに強引な推しがあったとは思えず、何か他の要素があったのではないかと思える。矢口に関しては、あれだけボロを出す矢口がオーディション時のことは不可解なことを言っていないので、本当に歌手をやるつもりでオーディションを受けに来ていたのだと思う。圭ちゃんは情報が少ないから分からない、オーディション時のことはほとんど喋らないのでね。

年末に解散という計画があったとすると、2期増員はなぜ急いで行う必要があったのかという謎が残る。解散する予定ならば、わざわざ嫌がられる増員を行う必要がない。1998年の2月頃に増員計画が決定されているのだが、写真集撮影のサイパンから帰国したメンバーたちはスタッフの不穏な動きから解散を予感していたという。それくらい危うい立場にいることはメンバーたちも充分理解していた。
自分は一つの説として、解散予定を変更するために増員を行ったのではないかと考えてみた。もちろんそれを行ったからといって解散が覆るかどうかは不明だったのだろうが。この時期になると海とも山ともつかなかった「モーニング娘。」が実は宝の山になりそうだと感じている人が増え、そういった人間が「モーニング娘。」に接近してきていることが容易に予想できる。芸能界の荒波にのみ込まれる第一波といった感じだろうか。増員に関しては当時のメンバーとファンには多大な苦痛を与えたものの、ASAYANや事務所的にはメリットこそあれ、損害というものは微塵もなかった。あれによって視聴者の興味を長続きさせることができたし、知名度を広げる意味つまりはエサをばらまく意味でも効果があった。出たとこ勝負の部分はあったろうが、増員計画は結果として解散というシナリオに向かわないことにつながったのではなかろうか。増員メンバー3人も東京近郊の人間に絞り、経費も最少限度に押さえようとしているのが興味深い。このオーディションに落選した椛田早紀がもしも大分出身でなかったら、増員メンバーは4人になっていたかもしれない。

さて、芸能界における大人の事情の増員はともかく、この時期にメンバー間では一つの問題を抱えていた。それは明日香の孤立である。もちろん週刊誌が書くようなイジメはなかっただろうが、自分が浮いているという意識は明日香も強烈に抱いていた。

「つんくさんは『グループなんだから仲が大切だ』って言うんですけど、わたしはね『音楽を一緒にやる仲なんだから、普段の会話で盛り上がらなくってもいいじゃん』って、そう考えてて。普段からあんまりベタベタしないでそれぞれが独立しているんだけど、仕事になるとメンバーが結束できるっていう、そういう関係ができるんであれば。
 でもわたしのそういう考え方は、やっぱり、こう、ひとりだけ違う空気をつくっちゃったみたいで」

愛想を振りまくことが苦手で、テンションを上げることも苦手だった明日香は、自分でもそのことを回りが嫌がっているだろうなあということを分かっていた。古参のファンはよく知っているだろうが、当時のモーニング娘。を「5+3-1」と現す時、《「5」が「4+4」になりやがて「8」になった》とエピソードを補完することがあった。明日香にとって年の近い、しかも東京近郊に暮らす紗耶香が入ってきたことは大きかったはずだ。しかも明日香と同じように紗耶香もどちらかといえば陰にこもりがちな、ちょっとオタクの入った少女であった。市井ファンは怒るかもしれないが、紗耶香の選出理由にはこういった背景もあったのかもしれない。実際にその後明日香と紗耶香は非常に仲が良くなっている。

「新しく入った3人だけじゃなくて、もとからいた4人ともしゃべれるようになって。もう、そこからすごい楽になりましたよね。人数が多くなったっていうことは、人間関係が複雑に見えるけど、実は『仲良くしなきゃ』『みんなとうまくやらなくちゃ』っていう負担が軽くなるんですよ」

こうした解散含みの流動的な増員を行い、モーニング娘。は2nd発売、映画『モーニング刑事』撮影と仕事が続き、冒頭の過酷な夏に突入していく。






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長くなるので、また次回。
脱線しまくりでどんどん長くなっていく(笑 全然本題に届かないや。
まだ書いている途中なのですぐには更新しません。
あ、あと、すべて妄想ですので。妄想っていったら妄想。

『NEVER FORGET』についてもう少し書いてみようと思う。

98年10月の中旬。その時点では『Memory 青春の光』というタイトルだった『NEVER FORGET』をメンバー8人それぞれレコーディング。
歌詞の内容からメンバーは漠然と「モーニング娘。」解散ということを意識し始める。
「これは自分たちの解散を歌った曲じゃないのか? 別れの曲じゃないのか?」と。
その後のタンポポデビュー、なっち明日香の本体と離れた別活動、姐さんの演歌活動等でその意識は徐々に強まり、、、
そして年末進行、年明けのハロプロライブの中、メンバーたちは「モーニング娘。」という存在を分からなくなっていく。

「一瞬、本当にみんながバーっとばらけちゃった時期があったんですよ。一緒に歌ったり、楽屋でも仲良く話とかしてるんだけど、どっかでもう『繋がり』がなくなりかけてるのかな…みたいな不安をどこかで感じて。それぞれが自分を見失いかけているような、そういう時期があったんですよ。…明日香が辞める直前くらいかな。モーニング娘。が2年目に入ったころ。自分たちの中で団結力とか決断力みたいなものが弱まっている……という感じで」(「モーニング娘。×つんく♂」中澤裕子インタビューより)

明日香卒業発表の頃のモーニング娘。はそんな状態だった。
そして、明日香の卒業を聞かされる。

「明日香が卒業するとき彼女に『みんな頑張ってほしい』みたいなことを言われたんです。明日香は卒業して離れていく人間だけど、そういう危機感を感じていたと思うんですよ。(中略)一番年下だった明日香が、いちばん最初に卒業していって……。そのときの変化は大きかったと思う。みんな気持ちが切り替わったというか。あれで一気にギュッと、メンバー間の結束が固まった気がしますね」(同じく「モーニング娘。×つんく♂」中澤裕子インタビューより)

みんなの気持ちが切り替わった、、、
「モーニング娘。」としての結束を作った、、、
それを置き土産として明日香は卒業していく。
本来は解散のために作られた曲だった『NEVER FORGET』をリードで歌って。
本当は「解散」のためだったのに、その曲で得られたものは「結束」だった。
旧メンたちが「モーニング娘。」というものを考えるときに、旧8人時代を引き合いに出すのにはそういう背景がある。旧メンたちが強い結束を保っているのにはそういう背景がある。
明日香がどうこうって言いたいわけじゃない。99年の年が明けてからたった数カ月の時間を旧メンたちが大切にしているのにはそういう過去があるからなんだよと、、、それは分かってもらいたいなと。

さて、本来は『Memory 青春の光』という曲名だった『NEVER FORGET』を明日香が歌うことになって、中ぶらりんになった『Memory 青春の光』という曲名。98年の年末頃にレコーディングされたものが今残っている『Memory 青春の光』。歌詞を読めばわかるけど、どう考えても「青春の光」と表現されるような内容ではない。それがこの曲が『Memory 青春の光』ではなかった証の一つ。

昔の娘。の曲には仮タイトルがついていたらしくて、『ラブマ』なんかは『DYNAMITE』と呼ばれていた。では現在残っている『メモ青』の仮タイトルが何だったかというと、、、『ZOMBIE』だった。確かにあの曲で歌われている女性はちと恐いかもしれないけど、それだけでこの曲に『ZOMBIE』って付けたのかな、、、
「甦り」とかそんな意味も込められてるんじゃないのかなと。

本当は解散するはずだったモーニング娘。が一転して存続することを象徴したのかもしれない。
あるいはそれ以降変わっていくモーニング娘。に対して、「いつか甦ってやる」なんて気概を現したかったのかもしれない。
さらにいえば明日香の復活だったり、各メンバーのソロ活動だったり、封印されたソロ活動を暗示していたのかもしれない。

『Memory 青春の光』と『NEVER FORGET』。
この2曲にはまだまだ隠されてることがいっぱいあるのかもしれないな。
圭ちゃんが歌ったこともさらに謎を深めることに拍車をかけたような、、、

で、昨日書いた『ガタメキラ』。
あの曲って、時期的に考えて、あれがタンポポの曲になってたり、娘。が歌ってたことも考えられる。
あれを今矢口が歌うってことは、本当にそうだったんじゃないかとちょっと勘ぐってみたくなった。
『NEVER FORGET』を歌って解散後に歌う予定だった矢口の曲。あるいはタンポポの曲。
つんくはたしか曲先のはずだから、もしタンポポの曲だったら歌詞は違ったものになっていたのかもしれないし、、、
それを今再び『NEVER FORGET』を歌った後に矢口が歌う。

今の旧メンたちの活動は、98年末の解散後に予定されていた道筋をなぞっているんじゃないだろうか。なっちのソロ活動もカオリも矢口も、、、もしそうだったら市井やす合流は確定なんだけどなあ。
どうなんだろねえ、、、
なにかが起こる期待感みたなものはヒシヒシと感じているんだけど。

どんなニュースが飛び込んでくるか、楽しみでしょうがない毎日。

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