モーニング娘。20周年案件が増えてきたここ最近。

忘れかけているエピソード、いや今となっては遥か昔のエピソードを一つ。


<敬称略>

20年前の1998年2月1日、モーニング娘。の5人は横浜アリーナでメジャーデビューシングル『モーニングコーヒー』の発売イベントを行った。

前年のASAYANでのオーディション、合宿と最終選考そして落選、さらに落選組の再召集と『愛の種』の手売り5万枚の試練と完売、それらを経ての満を持してのデビューだった。

『愛の種』の手売り時に4会場目で5万枚の完売が達成されたため5会場目に予定されていた東京でのイベントは中止、そのため『モーニングコーヒー』でのイベントでは大きい会場でやろうとなった。

手売り時には各地方ごとに1万人を超える人が集まっていたため当然東京でのイベントは1万人を遥かに超える人数を想像していた。

が、実際には集まった人数は6000人(一説には3000人)、会場の規模と比べると明らかに見合わない集客状況だった。

この日のことを当時のマネージャー・和田薫(以下和田マネ)がラジオで話している

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2001年4月14日(土)
「和田薫のLF+Rプロデューサーズタイム」

モーニング娘。のデビューイベントって横浜アリーナでやってるのよ。で、これがね、ずーっと「ASAYAN」で追っかけて、モーニングが「愛の種」を買ってくれる人に対して握手会をやるというので、毎回1万人以上の人が集まってきてて、まあ要は、5万枚すぐ売っちゃって、プロデビューします。ここです。っていうことでやったのが、なにを考えたかちょっと間違えちゃって横浜アリーナを取ってたの。

俺ね、それをレコード会社から提案されたとき――「だってナゴヤ球場いっぱいになってるんですから。これやばいですよ。横浜アリーナぐらいじゃないと」って言われたとき、俺、大丈夫なのかなあとか思いながら「うん、まあ、じゃあそうしようか」って言ったんだけど、実際やったときね、横浜アリーナのアリーナしか埋まらなかったのよ。

でも当の本人達は、それまでもずーっと「ASAYAN」でやってきてたから、「横浜アリーナ満杯だあ!」ぐらいの気持ちで来てるわけよ。で、来たら横浜アリーナの、ほんとのアリーナのね、1階だけ――それも半分ぐらいしか埋まってなかったのよ。スタンドはおろか。
で、俺、来るときも一緒の車で行ってたから、本人達はもう、なんかウキウキで来てるわけよ。それでちょっと調子に乗ってんなあ、なんて思いながら。

で、1回目が終わって「あれ? いつもと違う」みたいな感じになってんのよ。「あれ? なんでこんなに少ないのかなあ」みたいな感じになってて。
で、そのあとやったら、次は100人ぐらいになっちゃったの。で、そのあと係の人間が「次30人ぐらいしかいませんよ。どうします?」「あ、やってやって」って。で、そのあと、最後――5人。

横浜アリーナだよ? 1万人以上入るんだけど。目の前に――最前列に5人だよ、5人。と、メンバー。メンバーとタイ。
それでね、ちょっとみんな、へらへらって――「あれ? なんでこんなんでやるの?」みたいな感じになったのよ。旧メンバーが――旧メンバーっていうか元々いる5人が。
で、俺、終わったあとに、すごい言ったのね。「今日お前らは、ここ満員になると思ってただろ。そんな甘かねえよ。テレビがずっと追っかけてたから満員だったんだ。そうじゃなくて満員になるわけないだろう」と。

「5人の前で歌ったの悔しかったか」「悔しかったです」「でもな、5人のお客さんに、いかに届けれるかだぞ。お前らその時に、どんだけ必死にやったんだ」っていう話をしてて――まあそれは意外と必死にやってたんだけど。5人の前でも。
で、横浜アリーナを出るとき――車に乗ってたんだけど――5人にね、横浜アリーナに「覚えとけ」って言えと。いつかここを金取って満員にしてやるからって。「覚えてろ、横浜アリーナ!」って言いながら、みんなで出てったのよ。

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そして、その後のモーニング娘。はご存知の通り大ブレイクしミリオンヒットも生まれ、テレビでは見かけない日がないほどの人気者となっていく

あの日の横浜アリーナから3年が経った2001年4月8日、モーニング娘。はついに横浜アリーナでコンサートをやることになった。奇しくもこの日は和田マネの誕生日で、当時モーニング娘。に在籍していたオリジナルメンバーの中澤裕子・飯田圭織・安倍なつみの3人はそれぞれおめでとうメールを和田マネに送っていた(和田マネは2000年春にマネージャーを離れている)。

再び同ラジオから抜粋

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こんなおハガキが来ております。

「和田さん、こんばんは。突然ですが、誕生日おめでとうございました。もうすぐ36ですね」

「誕生日おめでとうございました」で「もうすぐ36ですね」――これちょっと違うんだけど。36歳になったんだから。
でね、この前4月8日が僕、誕生日で、結構誕生日はいろんな人に祝ってもらったりとかしてて楽しかったんだけど、この日ね、俺、結構感動したのよ。
それはね、自分の誕生日を感動したわけじゃないのよ。そんなことをラジオで――公共の電波でしゃべるほど偉くないからあれなんだけど。

この日ね、モーニング娘。から結構メールが届いてたのね、朝から。
例えば生歌うたってくれて、メッセージを留守電に残してきてくれる子から、メールで、なんかいっぱい音楽が付いたメールが来たりとか、いろんな、それぞれのキャラクターに合わしたメールが来てたんだけど。

その日4月8日、モーニング娘。って横浜アリーナでコンサートやってたの。でね、もう1回またメールが来るのね、なぜか。
それがね、3人からだけ来たのね。この3人ていうのは、元々モーニングにいた3人なのよ。

「昨日今日、横浜アリーナ4回公演、全て満員でした」っていう――書き方はみんな少しずつ違うんだよ、1人ずつ――中澤、飯田、安倍。

例えば「和田さんとの約束を果たしました」っていう人もいたし、「和田さんがあの時言ったことがすごく悔しかった。悔しかったというか、ほんとに横浜アリーナ覚えてろよ、と思った、その気持ちがあったから今日のライブは最高でした」っていうやつもいたし、「ハッピーでした! 横浜アリーナ、とうとう2days4公演満杯! やりましたよ、和田さん!」みたいな、それぞれのメールが入ってたのね。それが、すっごいうれしくて。
で、そのあと別のスタッフから「お誕生日おめでとうございます」っていうメールが来たときに、「今日の横浜アリーナのモーニング、今までの中で最高でした」って来たのよ。これを聞いて、俺すっごい、あ〜……と思って。

ま、その時は――俺なんかもう忘れてたからね、それ。メール来るまで。メール来て「あぁあぁ、そういえば言ったなあ」ぐらいの気持ちだったんだけど、俺がね、「『覚えてろよ、横浜アリーナ』――そういう気持ちで来いよ。お前ら今まで調子に乗りすぎてんだよ。そんな芸能界甘くないよ」っていうのを言ったあとに――みんなだって、楽屋で泣いてたのよ、その子達。その頃――モーニングがね、終わったあと、くしゅくしゅくしゅくしゅ、5人の前で歌わされて、みたいなさ、どうなんだろう、みたいな感じだったときに、車で横浜アリーナの駐車場を出るときに言ったのがね、すっごい自分の中で思い出して、あ〜、なんかたまには俺もいいこと言うんだなあ、なんて思って。
俺なんかもう、誕生日で全然――友達集めてメシ食ってたからね、休みで。行けよ! お前も横浜アリーナ! みたいな。

でも俺はね、一応、明日――中澤卒業するのよ。これはね、最後大阪まで行きますから、ちゃんと。大阪に行って、最後のその、中澤の卒業を、ひとつ見届けたいな、というふうに思っております。
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中澤はこのツアーで卒業することが決まっていた。
そしてこの横浜アリーナには石黒彩も訪れていた。

ツアーファイナルである翌週の中澤の地元の大阪公演(大阪城ホール)には和田マネに連れられた福田明日香も訪れている。

そう中澤はデビュー当初の雪辱を果たし、最高の形で卒業していったのだった。

中澤はこう書き残している。

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4月7・8日の横浜アリーナのコンサート。
「1998年2月1日にリベンジを誓った場所。
 “モーニング娘。のコンサートでここを超満員にしてやる”
 自分のラストツアーで横浜アリーナが組まれるなんて、もうどこまでもラッキー。単独コンサートでは初めてだった横浜アリーナ。モーニング娘。ってこんなに大きくなってたんだ……。
 『私、本当にもう思い残すことないな』
 自分が実現させたいと思ったことはすべて現実となった。
 あんた、最高の人生やな。もう、ええやろ。十分やろ」
                (中澤裕子『ずっと後ろから見てきた』より)
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この日からさらに3年が経った2004年の1月25日、今度は安倍なつみが横浜アリーナで卒業公演を行っていた。モーニング娘。の顔、マザーシップと言われた安倍なつみの卒業コンサートがモーニング娘。の単独コンサートでなくハロプロの合同コンサートであることに疑問はあったが、自分はこれが「横浜アリーナ」という会場としての都合が少なからずあったと思っている。

最終卒業公演、ラストで語りかけた飯田から安倍への言葉。

「覚えてる?
 デビューするときにさ…『ビッグなアーティストになろうね』って…
 横浜アリーナを満杯にできるくらいのビッグなアーティストになろうね』って…
 ねえ、見て、横浜アリーナ…いっぱいだよ」

涙を流して語りかけた飯田と、大きくうなずき涙をこぼす安倍。

二人の涙と思いに会場中も涙した。

今でも思い出すとウルっとくる。6年間の横浜アリーナにまつわる物語。
そして翌年には飯田も横浜アリーナで卒業した。

あれからも10年以上の時が経っているとは信じがたいものの、自分の中ではとっても大切にしているエピソード。



皆さん覚えていますか?

あ、中澤さん卒業時の特番『BS中澤SP』で保田さんが中澤さんに渡したプレゼントの写真、あれを見て中澤さんは泣いてしまったのですが、あの写真の中の1枚もデビューイベント時の横浜アリーナでの5人が映った写真でしたね。