<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話
第7回>寺合宿開始とASAYAN制作裏話
第8回>最終審査と平家みちよのこれまで
第9回>優勝者決定と落選者たち
第10回>落選者たちのその後と5人のメンバーの再招集



    < 11 >                (敬称略)


1997年8月20日。

中澤・石黒・飯田・安倍・福田の5人が東京に呼び集められた。











会議室にはシャ乱Qの5人と和田マネが待ち受けていた。

そこに時間差で呼びこまれるメンバーたち。

福田や中澤の緊張は半端なものではなく、何をやらされるのか不安と期待が入り交じり複雑な表情だった。

北海道組の飯田と安倍はお互いに連絡を取り合っていたが、上京することはお互いに話さず顔を合わせて気まずかったという。また石黒は飯田に上京のことを話していたが、飯田は話さなかったので、会議室で顔を合わせてさらに気まずかった。











5人が集まって告げられた話。

5日間でCDを5万枚売るというチャレンジをしてみませんか?ということだった。

この8月20日の時点では完売したからといってメジャーデビューが確約されていたわけではない。このチャレンジを頑張ってみて、5万枚完売させたら何か動きだすかもしれないよという類のものだった(テロップには「デビュー」と出ていたが、話の内容は「デビューもありうる」というものだった)。

それが5人でのメジャーデビューだったのか、あるいは一部メンバーはどこかの事務所・レコード会社から声がかかるかもしれないといったことだったのか、はたまた一部メンバーだけでのユニットデビューを見据えていたのか、つんくの説明は曖昧なままであくまでも「進行中の話」という域を出なかった。

ただし、ASAYANでは8月5日にSay a Little Prayer(以下セイア)が1万枚を1店舗のみの販売で2日間で完売させてメジャーデビューの道を掴んでおり(第9回参照)、5万枚完売という条件もセイアの結果から出されたものであり、セイアはそれによってデビューに至ったので、再召集の5人も完売でメジャーデビューという路線にはなっていたように思う。


一方、和田マネやシャ乱Qが所属するアップフロントエージェンシーは、6月下旬にグループ内のオーディション業務を再編。前年10月に設立したアーティストオーディション専門のモーニング・グロウ・オーディション社を解散させている。

これは見方によっては、自社オーディションからの選抜を打ち切り、ASAYANからのタレントの卵の供給を期待していたという風にも見ることが出来るだろう。現にオーディション優勝者の平家みちよはアップフロントグループのクーリープロモーションと契約しているし、その後のアップフロントの新人発掘もしばらくはASAYANあるいはテレ東と組んだモーニング娘。関係のオーディションにほぼほぼ限定されている。

この企画は5人にとってのチャレンジであると共に、アップフロントの今後の事務所としてのタレントオーディション・スカウト・育成といった点での試験的運用の意味合いもあったのではないかと思う。

アップフロントのY会長の「事実上のプロデューサーは自分」「(モーニング娘。の立ち上げ時)月に500万かかっていた(育成費用や地方組の滞在費・上京費などかと思われる)」という発言からもそうしたことが伺える(時期的にははっきりとしないが運転資金はASAYAN持ちではなく、アップフロント持ちだったのではないかということ)。


突然の呼び出し、そして上京。
自分たちの置かれた状況は判然としないものがあったが、CD手売りの話を聞かされてその場で5人全員が「やります」と決意を述べた。自分たちがオーディション落選者であり、これが最後のチャンスになるかもしれないということは痛いほど分かっていたのかもしれない。

ただ拭いきれない不安は全員が持っていた。
中澤と石黒、安倍と飯田はその日泊まったそれぞれのホテルの部屋で今後について朝まで話し込んだという。中澤の手元にはビールの缶が転がっていた。