いつか来た道


<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話



    < 7 >                (敬称略)


上京して世田谷区砧のTMCでスタジオ審査を受ける札幌組。
安倍は早々に「即キープ」として最終予選へ駒を進め、石黒と飯田も追加審査を経て勝ち進んだ。

最終審査まで残ったオーディション参加者は合計11名。
ここでオーディション優勝者を決めるために全員を集めて合宿を行うことがシャ乱Qから発表される。

当時ASAYANでは敗者復活の3人組・Say a Little Prayer(第1回参照)が手売りで1万枚を売るという企画に挑戦しており、そのために合宿する様子も放送され、それが好評だったこともあるのだろう。一旦それぞれの地元に戻っていた11人は再び東京に呼ばれることになった。ただし、この時点では「スニーカーとジャージと着替えを持って」としか知らされておらず、全員で合宿をやることは参加者には知らされていなかった。

安倍は上京直前に開催された「むろらん港まつり」に繰り出しひと時の息抜きをし(結果としてこれが安倍の最後の地元のお祭りへの参加となった)、中澤と平家は再会を喜び、飯田は再び現れた鼻ピアスの石黒にビビり、他の多くの参加者たちもそれぞれの思いを胸に集まってきていた。





1997年7月28日。
赤坂の東京吉本(現在は新宿に移転)の前に停められたマイクロバスに上京してきた11人の参加者たちは乗せられる。行き先は告げられなかったのでまだ笑顔を見せる余裕のある子もいた。

ちなみに東京吉本に集められた理由。
『ASAYAN』は吉本興行の制作番組でたびたび収録も赤坂の吉本社内で行われていたからなのだ。社内にASAYANのスタッフルームもあった。パーテーションの仕切りが見える会議室のような場所でのロックボーカリストオーディションの映像は、ほぼほぼ当時の吉本社内の映像だと思って良い。

番組プロデューサーの泉正隆も吉本の社員だった。
泉正隆といえばモーニング娘。のメンバーたちが『愛の種』を手売りしていた頃に強烈なダメ出しをしたことで知られる人物で、逆にそれで後々までメンバーからの信頼を得ている。各メンバーたちの卒業公演にも顔を出していた。

泉正隆は吉本印天然素材(ナインティナインら吉本の若手芸人たちのユニット)の立ち上げを行った人物でもあり、その縁もあってかナインティナインや夏まゆみ(吉本印天然素材のダンスレッスンをしていた)らが『ASAYAN』に関わることになった。

吉本の反主流派と言われていた時期もあったがグループ内事務所・吉本SSM社長を経て、後にはよしもとクリエーティブ・エージェンシーの取締役副社長まで務めた。

また『ASAYAN』はエイベックスをメインスポンサーとし、その関係で小室哲哉やMAX松浦らの影響力が強い番組でもあった。

そのため、ここに割り込んでメイン企画を作り上げたアップフロントエージェンシーとシャ乱Q、というか和田マネは敏腕であったといえるだろう。

とはいえ前年に行われた三井のリハウスCMのオーディションにおいて、オーディション前のCMはアップフロントエージェンシーの建みさと(後にドラマ『太陽娘と海』でモーニング娘。らと共演)が担当しており、オーディション後には吉本SSMに所属することになった池脇千鶴に変更されたので、その頃からアップフロントの入り込む下地は出来ていたのかもしれない。ロックボーカリストオーディションの開催も96年末には決まっていたとされている。

この他『ASAYAN』には電通も制作で関わっており、またタカハタ秀太ら制作陣も精力的に仕事を進めていて、その中にアップフロント(というか和田マネ)も入り込むことになっていくので、まさに複雑怪奇な状況であった。


話を元に戻そう。

バスが着いたのは東京練馬区のとあるお寺。後に後藤真希が参加したモーニング娘。第2次追加オーディションや石川梨華や吉澤ひとみが参加した第3次追加オーディションでも合宿に使われた縁あるお寺だ。石神井公園に囲まれた閑静な場所にあるこのお寺で11人は3泊4日の合宿をすることになった。



合宿初日にカセットテープが配られ「この曲がデビュー曲になる」と告げられる。
そこにはデビューしたいのなら自分の力で掴み取れという強烈なメッセージが込められていた。4日間通して彼女たちはこの曲を課題曲としてレッスンを積むことになる。

朝は5時に起床、読経や境内の掃除もこなしつつ本来の合宿目的であるボイストレーニングとダンスレッスンが3、4時間ずつ、さらに朝昼晩の三食すべて自炊な上にお風呂は1キロ歩いたところにある銭湯、そして10時には就寝と過酷なスケジュールが課せられた。

ボイストレーニングには笠木新一、ダンスレッスンには夏まゆみと、厳しい言葉も厭わない講師が招聘され合宿参加者たちを指導した。それは細かい技術指導というよりも芸能界で生きていくことへの基本的な心構えの指導だったかもしれない。これから数年経った卒業時に、安倍はテレビの企画で当時を振り返って見ていたASAYANの笠木先生の言葉に大きくうなずくことになる。







合宿時、中澤は受かる可能性を考えていなかったという。11人の中に選ばれたのも一人だけ年いった人がいた方がテレビ的に面白いからだろうとさえ思っていた。

中澤はそれならばまわりに気を遣わずに自分のやりたいよう思いっきりやろうと決めていたそうだ。これからの人生のために何か意味のあるものを掴み取りたい…
それが中澤の決意だった。

そんな中澤と目立たないながらも合宿を引っ張っていた石黒に家事で怒られていたのが安倍と飯田だ。北海道から共に上京し同い年の二人はこの合宿でいよいよ仲良くなり、いつも行動を共にしていたが、まわりの参加者から見ると二人がふざけているように見えたこともあったらしい。中澤に「あんたらちゃんとしぃや!」と怒られることもたびたびあったとか。

一方福田は完全にマイペースを貫き通す。そもそも中学生の参加者は福田ただ一人、しかも12歳でその上は飯田と安倍の15歳、同じ東京出身の河村も16歳だったので、仲良くなりようもなかった。福田は「なんかね、私の目にはみんなが珍しい人に見えたんです。いっぱい喋るんですよ。でも私は、なんでそんなに喋ることがあるんだろう?と思ってて…。必要以上には話さなかったですね」と部屋の片隅で一人で課題曲をウォークマンでずっと聴いていた。

安倍が途中で写真のアルバムを持って福田のところに話しかけに来たが、福田は上記のような気持でいたので話がかみ合うはずもなく、安倍は「東京の子はクールだなぁ」、福田は「北海道の人はよく話すなあ」と、そんな印象しかこの時は持たなかった。

そして怒涛の合宿は終わり、8月3日に再び東京TMCに集められた11人は最終審査に臨むことになる。