<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選


    < 4 >                (敬称略)


中澤裕子がロックボーカリストオーディションの大阪予選に参加したのは1997年5月24日のこと。

テレビで福岡予選の映像を見ている時に流れた大阪予選の告知に心を鷲掴みにされてオーディションへの参加を決意する。京都の福知山から上阪して6年、同じことの繰り返しのOL生活に息苦しさを覚え、ちょっと前に始めた北新地での夜のバイトに精神的な開放を感じていた頃の出来事だった。

しかし23歳という年齢でオーディションを受けることに戸惑いを覚え、本当に受けていいものかどうか迷い、彼女はオーディション当日に一つの賭けをする。

それは方向音痴である彼女が時間に余裕を持たずに出発し、オーディションの集合時間までに着けたら参加しようというものだった。住んでいる京橋のマンションからオーディション会場の大阪ビジネスパークまでは歩いて20分の距離。もし迷わずに時間通りに着けたなら「神様がオーディションを受けなさいと言っているのだ」と思うことにしたという。

そして中澤は時間通りに着く、いや自らの思いに反して着いてしまったのかもしれない。
会場には3000人の参加者が集っていた。

中学生や高校生に混じって並ぶこと数時間。
気持ち悪くなるほどの緊張感の中、1次審査はたったの数秒で終了。
99パーセント受かる自信はなかったという。
しかし…中澤は1パーセントの可能性をものにする。大阪予選ではその日のうちに会場で予選通過者が発表されたのだが、中澤はその中に残っていた。

翌日に行われた2次の歌審査。
一番良い恰好でとスタッフに言われ、後につんくから「サイズが合ってない」と揶揄された大きめの黒いスーツ姿で審査に臨む。
この時と東京スタジオ審査に進んでから歌ったのが大黒摩季の『ら・ら・ら』である。東京の審査にはスーツの失敗を反省し慎重に衣装を選んで行った。





その後『ら・ら・ら』は中澤にとってとても大事な曲となり、節目というときには必ずといっていいほど自分のライブなどで歌っている。2010年には大黒摩季と対面、感激のあまり泣いてしまったという(→中澤ブログ2010年10月16日)。

時にはメンバーが中澤のために歌ったこともあった。


スタジオ審査が終わった後には「東京に来た記念に」とスタッフがお台場のフジテレビに連れて行ってくれた。1997年、フジテレビ本社屋はこの年にお台場に移転してきたばかり。お台場はドラマ『踊る大捜査線』(1997.1〜1997.3放送)でも分かるようにまだまだ空地の目立つ時代だった。しかしフジテレビ社屋に代表されるように近未来感が漂い若者が集う流行りのスポットでもあった。翌年にはお台場を舞台として『モーニングコーヒー』のプロモーションビデオも撮影される。

中澤が大阪に戻って数日、「説得力のあるバラードで」と番組から要望が出され、さらに中澤のオーディションは続いた。大阪予選に参加した3000人はすでにこのとき3人になっていた。

会社の有給を使い上京する中澤。こっそり誰にも言わずに受けたオーディションだったが、日に日に周囲からはそういう目で見られるようになり、中澤にはそれもプレッシャーになっていった。

この日のオーディションの後、大阪から来た3人は用意されたホテルに泊まった。
ホテルに入った3人は夜遅くまで語り合ったという。

それは中澤裕子と平家充代の初めての語らい。このときは二人ともこれで会うのが最後だと思っていた。しかしこの二人の関係は後々まで続いた。

一緒にバラエティ番組のMCをしたり、ハロープロジェクトの年長者としてみんなを共に引っ張っる立場になっていく。2002年には中澤がラジオでハロープロジェクトからの平家の卒業の話をしていて落涙してしまうこともあった。

このホテルでの語らいはその二人の関わり合いの原点となるものだった。

中澤はその後大阪に戻り、友人や会社の人たちに応援されながら、最終予選を待つことになる。

オーディションが進むものの自分に自信を持てずにいた中澤は、地元・大阪の友人たちと飲むたびに涙を流していたという…