Submarine Dog的モーニング娘。20周年企画『いつか来た道』
〜世紀末のオーディション番組とモーニング娘。を振り返る〜


2008年に書いたシリーズものを加筆修正して再構築。
2017年のモーニング娘。20周年にあたって当時の事を振り返っていこうと思います。

ゆっくり更新。一応『愛の種』完売のところまでを目標としていますが、なにぶん遅筆&面倒くさがりなので叱咤激励してください(笑)

とりあえず活動の始まった1997年4月に合わせて1本目。
ASAYANを中心に振り返る予定なのでまずは97年4月にたどり着くまでの前史です。
ここがないとあのオーディションの本質が見えてこないと思うので・・・

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    < 1 >                (敬称略)


1999年に地球が滅びるというノストラダムスの大予言。

そんな都市伝説が巷で話題になっていた90年代中ごろ、日本はバブル崩壊でお先真っ暗の超就職氷河期の真っ只中。
「地球が滅びるなんて・・・」と思いつつも、どこか終末思想的な考えを少なからず持っていたあの頃。

そんな時代に芸能界という華やかな世界を目指すための一つの番組があった。

世の中の不況はどこ吹く風、音楽業界は毎年のようにCD売り上げを伸ばしミリオンヒット連発、まさに沸騰している状況であった。その活況を呈している音楽業界、引いては芸能界を目指すオーディション番組があったのである。

1995年10月に始まったテレビ東京の『ASAYAN』。

20年が経った現在でもこの番組に携わった人たちが今なお多く活躍している伝説のオーディション番組である。



『ASAYAN』は1992年にスタートした『浅草橋ヤング洋品店』を前身としており、1995年に始まった段階では番組前半部が従来の『浅草橋ヤング洋品店』を受け継いだバラエティー色の強いコーナー、後半部が『コムロギャルソン』という小室哲哉がプロデュースするオーディションコーナーとなっていた。

その『コムロギャルソン』のコーナーを拡大し、1996年4月に「夢のオーディションバラエティー」として1時間番組としてリニューアルしたものが我々のよく知る『ASAYAN』という番組である。

司会にはナインティナインと永作博美を起用。
世田谷区の砧にある東京メディアシティ(TMC)で行われる公開収録には女性を多く観覧に入れ、制服姿の女子高生もかなり見受けられた。

始まった当初は観覧席の中にナレーションブースを設け、当時『ニュースステーション』内のサッカーニュースで人気を博していた川平慈英が「いいんですか?いいんです!」と実況していた。

ナインティナインにしても1996年にフジ『めちゃ2イケてるッ!』が始まったばかり。
永作博美もアイドルグループ終了後の女優活動が軌道にのってきた時期であり、まさに時流に乗った勢いのある布陣だった。

オーディションプロデュースを行う小室哲哉もミリオンヒットを連発していた全盛期で、彼の音楽を耳にしない日はないというほど彼の音楽が流れていた頃である。



最初に行ったオーディションはdosを輩出したオーディションで、このオーディションから他には松澤由美が後に活躍する。

dosはtaeco(元アイドル西野妙子)・asami(ダンスグループL.S.Dより抜擢、後に小室哲哉とユニットTRUE KiSS DESTiNATiONを結成、小室と結婚後離婚)・kaba(振付師、小室哲哉により抜擢、後にカミングアウトしKABA.ちゃんとして活動)の3人で結成されたダンスボーカルユニットでデビュー曲『Baby baby baby』はオリコン初登場4位を記録した。

dos『Baby Baby Baby』



また当時は小室哲哉が多忙で、小室のサウンドチームの一員である久保こーじがオーディションを担当することもあった。

同時並行的にJリーガーオーディションやCM出場権をかけたオーディションも行われており、まさに『ASAYAN』は華やかな世界への「夢のオーディションバラエティ」となりつつあった。

三井のリハウスのCM出場権をかけたオーディションでは池脇千鶴がその座を射止め、その後瞬く間に女優としての階段も駆け登っている。同オーディションにはまだ無名の頃の加藤あいも参加している。




1996年8月にL☆ISという15人グループをデビューさせたことはオーディションの一つの転機となった。

惜しいところまで勝ち抜いてデビューを掴めなかった人たち、ダンスの実力はあるものの・・・という人たちを一つの大所帯のグループとしてデビューさせることにしたのだ。

L☆IS『Running On』



プロデューサーは久保こーじが務め、デビュー曲は小室のヒット曲をメドレーにしたものでオリコン初登場13位を獲得(当時は今と違って10位以下でも5万枚超えが珍しくない時代)、グループとしても個々としてもそれなりの人気を得ていたものの、デビュー後わずか2カ月で解散。

久保氏によれば元々1曲と決まっていたという話だったが、グループとしての統一性のなさ、悪く言えば勝手が過ぎ見放されたという噂もあった。

現にメンバーの二人は某男性グループアイドル二人との写真を報じられており、全員がそうというわけではないのだろうが、グループ内でロリータチーム、アダルトチーム、ダンスチームとはっきりと分けてしまっていたことも方向性の不一致に拍車をかけていたかもしれない。

しかしこのソロデビューの座を掴めなかった人たちに一つの可能性を感じさせたことは後のこの番組にとって重要なファクターとなっていく。


L☆ISの後には「レコード会社争奪オーディション」で12社からの指名を受けた亜波根綾乃がデビューした。彼女は沖縄タレントアカデミー出身で、同時期に所属していた仲間由紀恵以上の逸材と呼ぶ声もあったほどだった。

亜波根綾乃『ひこうき雲の空の下』CM


この「レコード会社争奪オーディション」ではデビュー予備軍・AISが結成される。
AISはそれまでのオーディションでの有力者を小室プロデュースでは無理なので他のレコード会社に選んでもらってデビューしてもらおうというものだった。

そして華原朋美の再来と言われた佐々木祐子や、後にshelaとしてスマッシュヒットを飛ばす大泉めぐみ、太陽とシスコムーンのオーディションにも参加しハロー!プロジェクトの番組にも出演していた小林優美などがソロデビューの栄冠をつかみ取っている。

佐々木ゆう子『恋はセシボン』


このAISに所属していたもののレコード会社からのデビューに至らなかった田口理恵、AISに所属していたものの学校の都合でオーディションを受けなかった片桐華子・そしてオーディションをスタジオ観覧に来ていた女子高生・大櫛江里加の3名で結成したのがSay a Little Prayerである。

彼女たちはインディーズCDを1店舗10日間で1万枚売ったらレコード会社と契約できるという企画に挑み、見事わずか2日間で1万枚の手売りを果たしメジャーデビューに至った。

LUNA SEAの河村隆一のプロデュースを受け、良曲にも恵まれたが1999年に解散している。

ちなみにAISの一部メンバーたちの交流は後々まで続き、時に食事したり、結婚を祝ったりする姿がブログ等で確認できる。

また1996年当時の小室オーディションには後にモーニング娘。のメンバーとなる石黒彩・飯田圭織・市井紗耶香らも参加していたが、デビューに至らず落選している。


これに並行して1996年秋から6カ月に亘ってavexのMAX松浦がプロデュースする「乱発オーディション」も開催。YURIMARIらを輩出し、後にmoveを結成するyuriや瀬戸カトリーヌらも参加していたが、こちらは大きなムーブメントとはならなかった。

これらの経過から『ASAYAN』の作りはオーディションの結果そのものよりも、オーディションを勝ち抜いていく過程を面白く見せる方向にシフトしていったように思う。

多人数を見せておき、グランプリや落選者と共に視聴者が一喜一憂する。
放送初期と比べ参加者への視聴者の思い入れが強くなったのは間違いない。
オーディションとしての番組が始まって約1年半、作りとしてもちょうど円熟期を迎えていたように思う。

そしてSay a Little PrayerがCD手売り企画に挑み始めた最中の1997年4月、『ASAYAN』を伝説の番組へと変えるオーディションが始まるのである。


Say a Little Prayer『a day』1998