2月8日に私立恵比寿中学の松野莉奈さんが亡くなられました。
謹んで哀悼の意を表します。
18歳という若さで旅立ったこと、周囲の方々の心情を思うと言葉を失います。
そして松野さんの希望に満ちた未来を思うと・・・
自分は私立恵比寿中学と松野さんのことをよく知っているわけではありません。
時たま歌番組で得た知識がすべてといってもいいでしょう。
それでもこの訃報を聞いて苦しくなるほどに心が締め付けられたのは今から18年前に亡くなったあの子のことを思い出さずにはいられなかったからです。
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1999年7月16日。
北海道の中札内村で一人の女の子が旅立った。
彼女の名は柳原尋美。
カントリー娘。というユニットでCDデビューを1週間後に控えていた時の突然の事故だった。
カントリー娘。は尋美さんと小林梓さん・戸田鈴音(りんね)さんの3人組で、1999年の春に北海道中札内村にある花畑牧場で行われたオーディションで結成されたグループだ。
マネジメントはモーニング娘。(当時は『LOVEマシーン』での大ブレイク前で福田明日香さんが脱退の頃)が所属していたアップフロントグループで、プロデューサーも同事務所所属の田中義剛氏とされていた。
当時の花畑牧場も生キャラメルで全国的なブームを起こす前の借金にあえいでいた頃で、まだまだ牧歌的な雰囲気を残す牧場だった。
尋美さんはカントリー娘。になる以前にはデビューしたばかりの頃のモーニング娘。とたびたび共演。ドラマや映画の撮影で数多く行動を共にした。
中には1998年の春先の2週間あまり合宿しながら撮影したドラマ『太陽娘と海』のような例もあり、同世代だった当時のモーニング娘。のメンバーたちとは打ち解けて話すことも多かったようだ。
また同年には花畑牧場を舞台にしたドラマ『風の娘たち』にも出演しており、カントリー娘。結成以前から尋美さんは花畑牧場に出入りしていた。
カントリー娘。が結成されて以降、3人は花畑牧場に隣接する宿泊施設フェーリエンドルフにあるコテージを1棟借り共同生活をしていた。
時にはレッスンを行い、時には花畑牧場で牧場仕事の手伝いをし、時にはフェーリエンドルフ内にあるレストランでアルバイトをしながらの共同生活。時として喧嘩もあっただろうし、たくさんの試練があったに違いない。
一緒に暮らした濃密な3カ月余り。
そう、たった3カ月ほどのことだったのだが、その生活は突然の終止符によって(あえて言うならば)かけがえのないものとなった。
モーニング娘。のメンバーたちが先に述べた『太陽娘と海』での2週間あまりの合宿の出来事を後々まで覚えていたように、カントリー娘。に残された2人にとって尋美さんと過ごした3カ月は心の中でとても大きいものになったのだと思う。
訃報の後、1999年夏に予定されていたモーニング娘。とカントリー娘。の合同コンサート*1、尋美さんの御両親の意向によりパンフレットにはそのまま彼女の写真が掲載されていた。
ドラマで共演していたモーニング娘。のメンバーたちと同じステージで歌えることを尋美さんはそれは楽しみにしていたという。
しかしそれは叶わぬ思いとなった。
事故直後には心労で小林さんが抜け、ステージには数々の思いを背負ったりんねがただ一人残った。
りんねは(あえて親しみを込めて敬称略で書かせていただく)当時18歳で札幌出身。
騎乗ライセンスを持ち、子供の頃はミュージカル劇団に所属してポーランド公演に出演したこともある。
またキリスト教系の学校に学び高校時代は広島で寮生活、海外青年協力隊としてマレーシアに行ったこともあった。父親が40歳を過ぎてからのお子さんで、その父親は北海道と石垣島を行ったり来たりしているような方だったという。りんねの言葉によれば半自給自足の生活をしているような方だとか。
そうした環境に育ってきたりんねが尋美さんの旅立ちをどう受け止めたか。
それはもちろん彼女自身にしか分からないことではあるが、ある時期を超えて事務所から尋美さんの発言を止められたこと、また彼女が一つの決心をしたと思われる2002年の言動・行動から察するに、とても重きを置いていたのではないかと思う。
2002年10月にりんねは花畑牧場からもカントリー娘。からも去る。
その夏の発表でカントリー娘。は活動拠点を北海道から東京に移すと決まっていた。
りんねが1999年から一人で守り通し見せてきたものは、そこで終わったのだと思う。
それから先は彼女と彼女の気持ちを汲んだ周囲の人たちの中で思い出が生き続けたのだと思う。
その後。
尋美さんの誕生日にはバースデーカードがご両親の元へ石垣島から届いた。
尋美さんの命日近くには安倍さん(なっち)の元へ石垣島から野菜が届けられた。*2
尋美さんの誕生日の頃、小林さんが沖縄まで行ってかつての旧交を温めた。
歌を歌いたいと言っていた尋美さんの思い出とその活動の記憶、それらをずっと大事に胸にしまって生きている方たちが18年経った今でもいる。
そして自分はおそらくそうした思いを汲める範囲では拾えてきたのではないかと思う。*3
『太陽娘と海』や『風の娘たち』の太田監督からもたくさんの話と知らないことを伺えたし、時に思わぬ出会いがあったりもした。
そんな18年積み重ねたいろんなことが思い出されて、最近の訃報を聞いた時に胸がキュッとなったのですよ・・・
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*1 他には平家みちよ・太陽とシスコムーン・ココナッツ娘らが出演
*2 りんねと安倍さんはりんねが辞める頃とてもプライベートで親しくしていた。その後も安倍さんからりんねの話を聞くことが度々あった。
*3 とんだ勘違い野郎なのかもしれないが。
謹んで哀悼の意を表します。
18歳という若さで旅立ったこと、周囲の方々の心情を思うと言葉を失います。
そして松野さんの希望に満ちた未来を思うと・・・
自分は私立恵比寿中学と松野さんのことをよく知っているわけではありません。
時たま歌番組で得た知識がすべてといってもいいでしょう。
それでもこの訃報を聞いて苦しくなるほどに心が締め付けられたのは今から18年前に亡くなったあの子のことを思い出さずにはいられなかったからです。
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1999年7月16日。
北海道の中札内村で一人の女の子が旅立った。
彼女の名は柳原尋美。
カントリー娘。というユニットでCDデビューを1週間後に控えていた時の突然の事故だった。
カントリー娘。は尋美さんと小林梓さん・戸田鈴音(りんね)さんの3人組で、1999年の春に北海道中札内村にある花畑牧場で行われたオーディションで結成されたグループだ。
マネジメントはモーニング娘。(当時は『LOVEマシーン』での大ブレイク前で福田明日香さんが脱退の頃)が所属していたアップフロントグループで、プロデューサーも同事務所所属の田中義剛氏とされていた。
当時の花畑牧場も生キャラメルで全国的なブームを起こす前の借金にあえいでいた頃で、まだまだ牧歌的な雰囲気を残す牧場だった。
尋美さんはカントリー娘。になる以前にはデビューしたばかりの頃のモーニング娘。とたびたび共演。ドラマや映画の撮影で数多く行動を共にした。
中には1998年の春先の2週間あまり合宿しながら撮影したドラマ『太陽娘と海』のような例もあり、同世代だった当時のモーニング娘。のメンバーたちとは打ち解けて話すことも多かったようだ。
また同年には花畑牧場を舞台にしたドラマ『風の娘たち』にも出演しており、カントリー娘。結成以前から尋美さんは花畑牧場に出入りしていた。
カントリー娘。が結成されて以降、3人は花畑牧場に隣接する宿泊施設フェーリエンドルフにあるコテージを1棟借り共同生活をしていた。
時にはレッスンを行い、時には花畑牧場で牧場仕事の手伝いをし、時にはフェーリエンドルフ内にあるレストランでアルバイトをしながらの共同生活。時として喧嘩もあっただろうし、たくさんの試練があったに違いない。
一緒に暮らした濃密な3カ月余り。
そう、たった3カ月ほどのことだったのだが、その生活は突然の終止符によって(あえて言うならば)かけがえのないものとなった。
モーニング娘。のメンバーたちが先に述べた『太陽娘と海』での2週間あまりの合宿の出来事を後々まで覚えていたように、カントリー娘。に残された2人にとって尋美さんと過ごした3カ月は心の中でとても大きいものになったのだと思う。
訃報の後、1999年夏に予定されていたモーニング娘。とカントリー娘。の合同コンサート*1、尋美さんの御両親の意向によりパンフレットにはそのまま彼女の写真が掲載されていた。
ドラマで共演していたモーニング娘。のメンバーたちと同じステージで歌えることを尋美さんはそれは楽しみにしていたという。
しかしそれは叶わぬ思いとなった。
事故直後には心労で小林さんが抜け、ステージには数々の思いを背負ったりんねがただ一人残った。
りんねは(あえて親しみを込めて敬称略で書かせていただく)当時18歳で札幌出身。
騎乗ライセンスを持ち、子供の頃はミュージカル劇団に所属してポーランド公演に出演したこともある。
またキリスト教系の学校に学び高校時代は広島で寮生活、海外青年協力隊としてマレーシアに行ったこともあった。父親が40歳を過ぎてからのお子さんで、その父親は北海道と石垣島を行ったり来たりしているような方だったという。りんねの言葉によれば半自給自足の生活をしているような方だとか。
そうした環境に育ってきたりんねが尋美さんの旅立ちをどう受け止めたか。
それはもちろん彼女自身にしか分からないことではあるが、ある時期を超えて事務所から尋美さんの発言を止められたこと、また彼女が一つの決心をしたと思われる2002年の言動・行動から察するに、とても重きを置いていたのではないかと思う。
2002年10月にりんねは花畑牧場からもカントリー娘。からも去る。
その夏の発表でカントリー娘。は活動拠点を北海道から東京に移すと決まっていた。
りんねが1999年から一人で守り通し見せてきたものは、そこで終わったのだと思う。
それから先は彼女と彼女の気持ちを汲んだ周囲の人たちの中で思い出が生き続けたのだと思う。
その後。
尋美さんの誕生日にはバースデーカードがご両親の元へ石垣島から届いた。
尋美さんの命日近くには安倍さん(なっち)の元へ石垣島から野菜が届けられた。*2
尋美さんの誕生日の頃、小林さんが沖縄まで行ってかつての旧交を温めた。
歌を歌いたいと言っていた尋美さんの思い出とその活動の記憶、それらをずっと大事に胸にしまって生きている方たちが18年経った今でもいる。
そして自分はおそらくそうした思いを汲める範囲では拾えてきたのではないかと思う。*3
『太陽娘と海』や『風の娘たち』の太田監督からもたくさんの話と知らないことを伺えたし、時に思わぬ出会いがあったりもした。
そんな18年積み重ねたいろんなことが思い出されて、最近の訃報を聞いた時に胸がキュッとなったのですよ・・・
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*1 他には平家みちよ・太陽とシスコムーン・ココナッツ娘らが出演
*2 りんねと安倍さんはりんねが辞める頃とてもプライベートで親しくしていた。その後も安倍さんからりんねの話を聞くことが度々あった。
*3 とんだ勘違い野郎なのかもしれないが。
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