●『恋の記憶』

姐さんがソロデビュー10周年ライブで『恋の記憶』を歌ったそうだ。
しかもラストで。

もうこれだけでたまらない気持ちになる。
当時のあの曲にこめられていた思いが蘇ってきてね…

ずっと思うところがあって封印していたというこの曲。
引退する時が来るまで歌わないと決めていたと。

姐さんがこの曲をどれだけ大事にしてきたか伝わってくる。
…こんな風に一曲にたくさんの思い出があってそこに思いが込められている。
そういう気持ちを姐さんが変わらず持ってくれているのがうれしいね。


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●記憶の錯誤

『愛の種』から10年以上が経ち自分の記憶とは違うあの頃の話をときたま見かけるが、一度自分も記憶を記して当時を再確認してみようと思う。

○5人のメンバーたちは完売したからと言ってメジャーデビューが保障されていたわけでもないし、つんくプロデュースが決まっていたわけでもない。5万枚売ったら何かが動くかもよってことだけ。(5人再召集の『ASAYAN』より)

○『愛の種』を完売した翌日の夜に東京のとある会議室に集められたメンバーたち。和田氏から彼女たちにメジャーデビュー候補曲のデモテープが手渡された。3曲すべて歌詞が入った状態で。完売した日の夜に和田氏がつんく氏に話をしてプロデュースが決定したことになっているが、それには時間の無理がある。(12月7日O.A『ASAYAN』より)
もしその話が本当だとするとたった半日あまりで3曲のメロディーと歌詞を作り、仮歌を歌う女性を招いてデモテープを作ったことになってしまう。

○つんく氏の楽曲提供はモーニング娘。が最初ではない。1995年に坂井美唯子に提供、1996年から1997年にかけてはナベプロ系の鈴里真帆(後にSomething ELseの伊藤大介と結婚)に複数楽曲提供している。

○ロックボーカリストオーディションの粗選りにはタカハタ氏、桜井鉄太郎氏、和田氏らが携わっている。

○ロックボーカリストオーディション時の5人。シャ乱Q、和田氏、それぞれが推していたメンバーは違う。全員がつんく選抜というわけではない。(『ASAYAN』やオーディション時の資料より)

○『ASAYAN』の中でキャンペーン中のメンバーに強くダメ出ししたり、中澤裕子に対して説教していたのは吉本SSMの泉正隆氏(当時の番組プロデューサー)。

○『愛の種』や『モーニングコーヒー』の頃に歌唱指導やレコーディングディレクターを担当していたのは桜井鉄太郎氏や橋本慎氏。『サマーナイトタウン』で新メンバー3人に強くダメ出ししていたのも橋本氏。

○モーニング娘。初期の頃は和田氏、ASAYANスタッフ、つんくの三者がああでもないこうでもない言いながらプロデュースを進めていた。『ふるさと』の頃につんく氏にあまり口を出さないように言われて和田氏は少し身を引いた。つんく曰く「和田さんが何か言うと回りのスタッフが物を言えなくなる」そうだ。(和田さんのラジオより)

○『愛の種』作詞:サエキけんぞう氏「本来だったら僕らがアルバムに曲書いたりできるはずだったんだけど、いつの間にかその話は消えちゃってた(笑)。

○『愛の種』作曲・プロデュース、『モーニングコーヒー』編曲:桜井鉄太郎氏「(モーニングコーヒーの)レコーディングの際、つんくがスタジオワークをきちんと学びたいというんで、いろいろ現場でレコーディングの手順を見てもらったんですよ。リズム録りの指図や現場の雰囲気作りとか。」

桜井「つんくちゃんは自ら夜遊び禁止令まで課してストイックな作曲家生活に入ったらしいからね(笑)。それから、アップフロントやゼティマのスタッフが優秀だったことも大きいと思う。つんくちゃんのデモテープって、僕は何度か聞いてますけど、リズムボックスと簡単なシンセサイザーと彼の鼻唄だけなんです。それでもう世界が見える。ただそれだけでは楽器のアンサンブルが作れないので、森高千里も担当しているディレクターの橋本(慎)くんがいっぺん膨らませてアレンジャーに渡すんだと思う。彼は楽器も弾けるしサウンド構築もできる優れた人材ですよ。」
サエキ「モーニングコーヒーを編曲するときは、橋本くんからホリーズ(60年代に活躍した英国のバンド)っぽい感じでってアイデアが出たんでしたっけ?」
桜井「そう。『I can't let go』という曲を参考にした。その曲聴いたつんくちゃんも『これ最高!』みたいな感じで乗ってくれて。(中略)まあ、そういう風に洋楽アーティストに関する知識のやり取りの中からコンセプトを固めていく手法は、彼(つんく)にとってすごく参考になったんじゃないかな」
サエキ「一般リスナーのレベルで元ネタを指摘できるようになるのはダンス☆マンが編曲した『LOVEマシーン』以降の話。」
桜井「一方、あのスコーンと抜けた発想は合議制というより誰かの巨大な頭脳の閃きだという気もするんだよね。最高指揮者はいったい誰なんでしょうか(笑)。」
(桜井氏とサエキ氏のコメントは2001年9月29日発行 別冊宝島『モーニング娘。バイブル』より抜粋)

○サエキ氏が『愛の種』に最初につけていたタイトルは『シーズ・オブ・ラブ』。しかしスタッフに「『愛の種』でいい!」と言われ決定した(スタッフ名は明記なし)。「『面白い方がいい』という精神が感じられた」とのこと。

上記のタイトルの話は「ほぼ日刊イトイ新聞」のサエキけんぞう氏・総武線猿紀行に載っているが、以下の3回は当時の事情が分かるので興味がある人にはお薦め。モーニング娘。を吉本の企画として捉えていることや、当時のメンバー観も読める。
総武線猿紀行「我が愛しのモーむす」その1
総武線猿紀行「我が愛しのモーむす」その2
総武線猿紀行「我が愛しのモーむす」その3

○つんく氏は『抱いてHOLD ON ME!』完成後、「やりたかったことがすべて出来た」と感想をもらす。

○つんく氏が『LOVEマシーン』を作る際ダンス☆マンを編曲候補者に選んでいたが、ダンス☆マン側は本気で考えていなかった。橋本氏がダンス☆マンのライブ会場に直接足を運んで仕事の調整をつける。(2000年12月18日『つんくちゃん。』より)

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自分が記憶している情報はこんな感じ。
アサヤンを見て、和田さんや桜井氏、サエキ氏の発言を知っていると、「『愛の種』や『モーニングコーヒー』当時からつんくは彼女たちの才能を見抜いて熱心に指導していた」のような見方にどうしても違和感を感じるんだな。

その後つんく氏が経験を積んで数々の楽曲を世に送り出し、常人では考えられないような仕事量をこなしてきたことは間違いないことで、それに対しては賞賛を惜しまない。たまーに彼女たちの意思を汲んだ歌詞も書いてくれて、「おぉ」と思うこともある。

でも当時はまだまだ不慣れな状況で、プロデュースという仕事にも懐疑的な見方をしていたつんく氏。また、資料名と機材名を失念してしまったが、自分好みの機材を導入して楽曲量産体制を整えられたのが1999年。

メンバーと和田さん、メンバーとつんく氏。現在に至ってからの人間関係の距離の違い。
矢口と圭ちゃんの10周年ライブに橋本さんがコメントを寄せていたことや、今年になってのタカハタ氏の矢口評。

いろんな要素を考えていくと、1997〜1998、1999年くらいまでは「モーニング娘。とつんく」と考えるよりも「モーニング娘。とつんく、和田さん、タカハタ氏らASAYAN演出陣、泉さんら吉本のASAYAN制作陣、資金提供のUFのY氏、楽曲制作のバックアップに回った森高関連のミュージシャンたち(瀬戸さんの人脈?)の複合体」と考えないといろんなことが矛盾してくると思う。(この辺をうまく説明できなくて申し訳ない)

現在における「ハロプロとプロデューサー・つんく♂」という関係の絶対的な見方には疑問はあるが、少なくとも「そういう体」でありたいというあちらの意図は見える。でも1997年頃や1998年頃はそういう絶対的な見方は不可能じゃないかなと自分は考えている(矛盾が多すぎてね)。

姐さんの演歌デビューにしたって、「社長の方から話があって…」とつんく氏がASAYANで言っていた。そういうことが分かった上で当時のつんく氏を絶対的なプロデューサーとして見る考えは自分には無理だなと。

まあこんな話は現在のハロプロとは関係ないことだし、大半の人にとって興味の範囲外のことだとは思うが(笑

当時を知るみなさんの記憶とは一致してる? それとも乖離してる?(笑


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●いいとも

いいともの夏川さんは安田美沙子に回したそうだ。
矢口、残念。またの機会に。


●明日香の検索

が増えていた理由。
なんか変わった携帯小説が流行していてそれが先月出版されたそうだ。

アホくさっと思うけど、一応明日明後日にでも確かめてみる。
ま、梨元氏が絡んでる時点で胡散臭いんだけどさ。