ここのところ時間が空いた時にはのんびりと過去を整理する作業をしているわけだけど、そんな風な覚悟でのぞんでいるので遅々として作業は進まず…

ちょっとづつ検討していかなきゃならないこともあるので、思いつくままに書いてみる。資料を見てるだけだと話がまとまらないもんでね。

今回は、ずーっと謎を追っている『Never Forget』を再び。これはもう書くことないと思っていたけど最近ちょっとした疑問を感じたことがあって。1998年の10月16日に明日香がつんくに引退を申し出た際の会話に腑におちないものを感じたのだな。
途中で話が脱線を繰り返すけど、自分メモ的なものなので気になさらずに。


先日も書いた通り自分のつんく観というのは、「娘。たちを愛する」というよりも「娘。たちが歌う楽曲を愛する」気持ちの方が強い人物なのではないかと思っている。比較するものでもないのだが、《自分の楽曲を歌う娘。たちを愛する》のであって、《娘。たちを愛するから楽曲も愛する》では決してないと思うのだ。些細なことではあるのだが、つんくと娘。旧メンバーたちと間に時々感じる微妙な距離感というのは、これが原因なのではないかと思う。ただ、つんくは自分の作った楽曲を愛してほしいから要所要所に娘。たちの思うであろう感情をのせてきていることがある。代表的なところに『Do it! Now』や『愛あらば〜』があるが、これによってつんくとメンバーたちとの気持ちのつながりが保たれていることも忘れてはならないのだろう。

もう一人、初期に密接な関係を持っていた和田さんを例に取ってみよう。(また和田信者と叩かれるかもしれないが)和田さんと親しい関係であったメンバーというと、明日香、カオリ、圭ちゃん、紗耶香といった面々であり、姐さんやなっちはモーニング娘。立ち上げ時の和田さんの強引な手法に反発している面も見受けられたので、距離は遠いと思われていた。が、2001年4月の横浜アリーナが満杯になったとき、当時残っていたオリメン3人が3人とも和田さんに「3年前の約束を果たした」とメールを送ったことや、なっちの卒業時に訪れていること、旧メンバーたちから絶大な信頼を寄せられている夏先生とセットで登場することが多いことなど、旧メンバーたちが抱いているモーニング娘。の根幹の部分をこの人は一緒に持っているのだと思う。もちろん一癖も二癖もある和田さんなので素直に「はい、そうですか」とは言えないが、フジのきくちさんの言葉を借りれば旧メンバーたちと和田さんは《戦友》であったのだと思う。その意識は2000年の初頭に和田さんがマネジメントから外れたことによって、双方がより分かったことではないだろうか。また、姐さん卒業時に明日香を大阪まで連れていったり、平家のみっちゃんを引き取りたいと言ったり、紗耶香復帰時には相談を受けていることなど、つんくより精神的に深い部分で繋がりがあったのだと思っている。


1998年の10月16日に戻る。
この日娘。たちはミュージックステーションに『抱いてHOLD ON ME!』で2回目(トータルでは5回目)の出演をしている。トークは明日香メインの温泉話でなっち・明日香・タモリの3ショットが多用された回。この頃はタモリの横の席は明日香の指定席だったのでトークも多くなるのだが、その扱いをみても分かるように事務所側から相当期待されてそのポジションにいたことになる。その回の歌収録時に明日香は『抱いてHOLD ON ME!』のラップ部分でアドリブでカメラを揺らすというパフォーマンスをするのだが、それを見ていたつんくがそのパフォーマンスを誉めるために明日香に電話したというのが、引退話を切り出されるまでのその日の流れである。

これ以前に映画イベントツアーをやっていた夏頃、おそらく8月下旬に明日香は辞めたいことを和田さんに打ち明けている。このときは明日香の気持ちもまだ固まっておらず、和田さんにも「今やめるのは、もったいない」と説得されて引き下がった。さらにこれ以前にも圭ちゃんと紗耶香には「辞めようかなー」とぼやかして言ったこともある(ハワイの頃か?)。明日香の辞めたいと思った真相というのは色んな説があるし、週刊誌が脚色して広めてしまった部分もあるので、実際のところわからない。イジメという線は100%ないとして、ただ単にツラかったから辞めたかったというのはあるだろう。某所の書き込みでそれらしきことを吐露したこともあった。
『もうひとりの明日香』の内容は信憑性云々を言う人もいるが、本人も後日語りおろしと言っているのである程度は信用して良いと自分は思っている。その中で明日香は「オーディションを受けてた時の気持ちを忘れてるような気がしたんですよ。デビューを前にして5人で頑張ってきたこととか音楽を好きだって気持ちが、なんだか全部なくなっているような気がして。自分に自信もなくなっちゃったんです」と語っている。オーディション時から自分に自信がなく、落ちて当然という気持ちが逆に堂々とした態度につながりそれが評価されてしまったり、自分の写真を「見ちゃいけないもん見ちゃった」と言ったりと、周囲の評価と自分自身の自分の評価のギャップに悩み続けた明日香。毎日が超特急で進んでいく中で、先が見えなくなってしまった不安というのが明日香にはあったのだろう。

この1998年の夏というのはメンバーたちにとってとてもつらい夏で、表に見える単純なスケジュール的には2001年や2002年の方が厳しいのだが、なにしろ初めてづくしのことばかりでスタッフも不慣れな中動いているので、メンバーたちには相当精神的負担もかかっていたと思う。過去にこういう大所帯のアイドルグループを動かしたことのある事務所ではないのだ。また、地方出身のオリメン4人はこの年の初夏頃からホテル住まいをやめ姐さんと彩っぺは一人暮らしに、なっちとカオリは二人暮らしを始めるのだが、彩っぺなどはこの時期体調を崩し体重30キロ代に突入という危機的状況を迎えていた。なっちもこの時期は一番痩せていたが、こういった過酷な環境が影響していたのだろう。初のハローのコンサートや姐さんの演歌リリース、『抱いてHOLD ON ME!』の歌入れなどもこの時期行っている。彩っぺはレコーディングで声が出ず不本意な結果に終わり、カオリはレコーディングスタジオから逃げ出した。スタジオから飛び出し近くの保育園に入り込み、遊び場の滑り台に上って夜空を見上げ涙したのはこの時だ。

もう10年も前なので時代的なことも念頭におかなければならない。現在は18歳未満は21時までの労働と自主的な規制によって芸能界は仕事をストップさせているが、当時はまだまだ曖昧だった。モーニング刑事撮影時にはほとんど徹夜続きの撮影だったというし、翌年タンポポがサンフランシスコにPVロケに行った時には平均で1、2時間くらいしか寝る時間がなかったという。また、今では携帯電話とメールは当たり前のように使っている物だが、その頃はまだまだ普及の途上だった。メンバー同士で夜な夜なファックスをしあったり、99年頃からようやくポケットボードを使ってのメール交換に移行するような時期だった。仕事は深夜に及ぶため実家には電話出来ず、ちょっとの空いた時間は睡眠にあてるという毎日で、メンバーとの行動が生活のすべてといった感じだったのだ。

そんな中で明日香は一人実家暮らしを続けることが出来た。これが幸なのか不幸なことだったのか。仕事のストレスを家族にぶつけてしまうことがイヤだったと明日香は振り返っている。これがもし一人暮らしないし二人暮らしだったらどうだろう。なっちにおける姐さんのような、カオリにおける彩っぺのような存在ができたのかもしれない。実家に暮らし学校生活もしていた分だけ彼女は周囲の環境が見えた。それだけに逆にいろんな不安や焦りが広がっていったのではないだろうか。


さて、この時期の「モーニング娘。」の事務所の方向性を振り返っておきたい。

97年のモーニング娘。立ち上げ時においてはつんく・和田さん・ASAYAN側、すべてが一発企画のつもりでコトにあたっていた。もちろん当時は事務所が表立って出てくるとうこともない。ただ、サエキけんぞう氏によればその時点ですでになっちのソロ企画はあったというから、もし一発企画で終わればソロ企画は早々に動き出していたのかもしれない。また、ロックボーカリストオーディションで落選したあとになっちのところには複数の事務所から誘いの連絡があったというが、自分はこの中にナベプロがあったと思っている。和田さんが他の事務所の誘いを断るように言っているのだが、安倍家、和田さん、ナベプロ、この辺の関係性を考えるとどうも何かあったように思えてならない。

安倍家の三女・麻美がナベプロに2001年頃から所属しているのは周知の事実だが、これだけをもって97年当時の誘いがナベプロであったといっているわけではない。まず当時のマネージャー・企画発案者の一人でもある和田さんだが、ナベプロとは非常に強いパイプを持っている。現在ワタナベエンターテインメントの社長渡辺ミキ氏(創業者渡辺晋氏の長女)の結婚式の司会を務めたのが和田さんである(断定出来ず。調査中。きくちさんとのW司会だったかも記憶が定かでない)。その渡辺ミキ氏の結婚相手というのが現在フジテレビバラエティ制作センター所属プロデューサーの吉田正樹氏。かつては「めちゃ2イケてるッ!」や「LOVE LOVEあいしてる」の編成を担当していた人。また、娘。がかくし芸大会にオープニング演目で出演した時の企画や総合監修をしていた人でもある。

この吉田正樹氏というのがネプチューンと仕事をする機会が非常に多く(当然ネプチューンはナベプロ所属)、初期の頃に娘。との絡みが多かったのはこういう人脈があったからではないか。(振り返ると矢口はナベプロとのタレント絡み多いな、志村けんのイザワオフィスはワタナベグループだし) ネプチューンの番組の中に「力の限りゴーゴゴー!!」があるがその中の人気コーナー「ハモネプ」(2001.05〜2002.09)でデビューしたアカペラバンドRAG FAIRたちがTBSうたばんに出演する際に、そのスタジオ見学に安倍麻美が来ていたなんてこともあった(2001年10月30日)。なっちと安倍麻美が出演した『ザ・ヒットパレード〜渡辺晋物語〜』の制作に携わった人でもある。

フジテレビのバラエティ制作センターの最大派閥が吉田正樹班であり、かつては片岡飛鳥や栗原美和子も所属していた。片岡飛鳥は言うまでもなく『めちゃイケ』の総監督であり、『サルティンバンコにつれてって!!緊急中澤スペシャル』や『13人がかりのクリスマス』『キダムの国から2002、冬』を手がけた人物である。栗原美和子はバラエティ班からドラマ制作部門に移り娘。関係では『「おっはー」は世界を救う!』『天使の歌声〜小児病棟の奇跡〜』の他、前述の『ザ・ヒットパレード〜渡辺晋物語〜』のプロデュースも手がけている。フジと和田さんのつながりでは音組の戦友きくち伸氏,悪友の事業部・佐久間氏などもいる。
また、和田-きくちラインにつながる戦友として榊マネージャーなる人物がいるが、この人物が手がけているのが篠原ともえと松本英子。篠原ともえは説明不要かもしれないがなっちの友人である。また松本英子は去年2006年にSomething ELseの今井千尋と結婚したそうだ。来週5月13日、神戸で小湊美和をゲストに迎えライブをやるらしい。篠原ともえが2005年から活動しているユニット・PANIKARAQS(パニカラックス)はかつてなっちのFACTORY出演時にタイコを叩いたスティーヴ・エトウも参加している。参考までに。

なっちがソロ活動するにあたってはアップフロント内でハチャマというレーベルを立ち上げてここからCDを出しているのだが、これの販売元にはポニーキャニオンがクレジットされている。言うまでもなくポニーキャニオンはフジサンケイグループである。このレーベルの第1弾は藤本のソロであったのだが、その後の経緯を見るとどうもなっちのソロをにらんで立ち上げられたっぽい印象がある。これが意味するところは何なのか。

和田さんとフジテレビの一部グループ、そしてナベプロのつながりは、ある程度つかめたと思う。『ザ・ヒットパレード〜渡辺晋物語〜』を見ていればわかるのだが、フジとナベプロは昔からごく近しいところで芸能界を生きてきている。そのフジとナベプロとなっちと和田さん…まあ後者2人には親しいつながりはないけれども、芸能界を生きていくにあたっていろいろと複雑に絡み合っていることは確かなようだ。ちなみに明日香が和田さんに紹介したより子(高野頼子)、現在はナベプロに所属してRAG FAIRたちと同様のアーティスト部門に籍を置いているが、確かハーモニーからナベプロに移る前から渡辺ミキ社長とは面識があった話があったような…


思いっきりずれた話を元に戻す。
97年当時のなっちソロ計画というのは、モーニング娘。ブームが思ったよりも大きかったため延期になった。今となっては思い出話のカオリからなっちへの『モーニングコーヒー』のメインパートの変更もおそらくはソロ計画の名残りであったのだろう。
初期の頃にあったと明かされている計画といえば98年末解散であるが、これはおそらく97年の11月30日に名古屋球場で『愛の種』を完売して12月に入ってから検討していたことだと思われる。この段階になってもまだつんくはやる気にならず、ASAYAN側の主導が続いていた。『モーニングコーヒー』発売の後、解散含みで2期の追加オーディションが始まるのだが、この《解散含み》というのが謎の多いこの時のオーディションを解きあかしてくれるかもしれない。

2期のメンバー選考には諸説いろいろあるが、一番普及した説というのは、保田…元々アップフロントのお抱え、市井…以前の小室オーディション時にASAYANスタッフにキープされていてASAYANが和田さんに紹介した、矢口…彼女のみがガチンコ、であった。当然これの真偽のほどは分からない。ただ、当時の市井の容姿や実力からするとそんなに強引な推しがあったとは思えず、何か他の要素があったのではないかと思える。矢口に関しては、あれだけボロを出す矢口がオーディション時のことは不可解なことを言っていないので、本当に歌手をやるつもりでオーディションを受けに来ていたのだと思う。圭ちゃんは情報が少ないから分からない、オーディション時のことはほとんど喋らないのでね。

年末に解散という計画があったとすると、2期増員はなぜ急いで行う必要があったのかという謎が残る。解散する予定ならば、わざわざ嫌がられる増員を行う必要がない。1998年の2月頃に増員計画が決定されているのだが、写真集撮影のサイパンから帰国したメンバーたちはスタッフの不穏な動きから解散を予感していたという。それくらい危うい立場にいることはメンバーたちも充分理解していた。
自分は一つの説として、解散予定を変更するために増員を行ったのではないかと考えてみた。もちろんそれを行ったからといって解散が覆るかどうかは不明だったのだろうが。この時期になると海とも山ともつかなかった「モーニング娘。」が実は宝の山になりそうだと感じている人が増え、そういった人間が「モーニング娘。」に接近してきていることが容易に予想できる。芸能界の荒波にのみ込まれる第一波といった感じだろうか。増員に関しては当時のメンバーとファンには多大な苦痛を与えたものの、ASAYANや事務所的にはメリットこそあれ、損害というものは微塵もなかった。あれによって視聴者の興味を長続きさせることができたし、知名度を広げる意味つまりはエサをばらまく意味でも効果があった。出たとこ勝負の部分はあったろうが、増員計画は結果として解散というシナリオに向かわないことにつながったのではなかろうか。増員メンバー3人も東京近郊の人間に絞り、経費も最少限度に押さえようとしているのが興味深い。このオーディションに落選した椛田早紀がもしも大分出身でなかったら、増員メンバーは4人になっていたかもしれない。

さて、芸能界における大人の事情の増員はともかく、この時期にメンバー間では一つの問題を抱えていた。それは明日香の孤立である。もちろん週刊誌が書くようなイジメはなかっただろうが、自分が浮いているという意識は明日香も強烈に抱いていた。

「つんくさんは『グループなんだから仲が大切だ』って言うんですけど、わたしはね『音楽を一緒にやる仲なんだから、普段の会話で盛り上がらなくってもいいじゃん』って、そう考えてて。普段からあんまりベタベタしないでそれぞれが独立しているんだけど、仕事になるとメンバーが結束できるっていう、そういう関係ができるんであれば。
 でもわたしのそういう考え方は、やっぱり、こう、ひとりだけ違う空気をつくっちゃったみたいで」

愛想を振りまくことが苦手で、テンションを上げることも苦手だった明日香は、自分でもそのことを回りが嫌がっているだろうなあということを分かっていた。古参のファンはよく知っているだろうが、当時のモーニング娘。を「5+3-1」と現す時、《「5」が「4+4」になりやがて「8」になった》とエピソードを補完することがあった。明日香にとって年の近い、しかも東京近郊に暮らす紗耶香が入ってきたことは大きかったはずだ。しかも明日香と同じように紗耶香もどちらかといえば陰にこもりがちな、ちょっとオタクの入った少女であった。市井ファンは怒るかもしれないが、紗耶香の選出理由にはこういった背景もあったのかもしれない。実際にその後明日香と紗耶香は非常に仲が良くなっている。

「新しく入った3人だけじゃなくて、もとからいた4人ともしゃべれるようになって。もう、そこからすごい楽になりましたよね。人数が多くなったっていうことは、人間関係が複雑に見えるけど、実は『仲良くしなきゃ』『みんなとうまくやらなくちゃ』っていう負担が軽くなるんですよ」

こうした解散含みの流動的な増員を行い、モーニング娘。は2nd発売、映画『モーニング刑事』撮影と仕事が続き、冒頭の過酷な夏に突入していく。






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長くなるので、また次回。
脱線しまくりでどんどん長くなっていく(笑 全然本題に届かないや。
まだ書いている途中なのですぐには更新しません。
あ、あと、すべて妄想ですので。妄想っていったら妄想。