Submarine Dog

2007年05月

53a85f6f.jpg
さて、今回で3回目の『Never Forget×Memory 青春の光』となる。今さらこんなことを書いていても、もはや需要がないとも思うが、これはまあ自己満足の部分もあるしね。もし読んでくれた方が、当時のことを思い出して、当時の物語を懐かしんでくれたりしたら、それはそれでうれしいです、はい。あ、あと左の画像には意味がないので(笑

今回は時間的な説明が多すぎて非常に分かりにくいかもしれないので、もし娘。年表とか持っている方がいたら見つつ読んだ方が分かるかも。なにしろ自分も年表とにらめっこしつつの更新作業なので。

それと…案の定3回で終わらなかった(汗


------------


Never Forget×Memory 青春の光 再考(1)
Never Forget×Memory 青春の光 再考(2)

上記2回の続き。



--


つんくの元には4thシングルはモーニング娘。解散時にも使える曲として企画および発注が来ていたはずだ(9月頃)。普通に考えるとこの時期は3rd『抱いてHOLD ON ME!』がオリコン1位を取りその後の売り上げも順調に推移していたので解散という想定はほとんどしなくてもいい。ただ、『モーニング娘。×つんく♂』において「98年の紅白に出て解散する予定だった」とつんくが言っているので(真偽のほどは定かでないが、嘘ならわざわざ言及する必要性がないので、自分はこの説を信じる)、まだこの時点では確定していなかったといえる。なぜならモーニング娘。が紅白に出場するには『抱いてHOLD ON ME!』によるヒットと、それによる世間への浸透がまだ必要な時期だったからである。現在のように名前で出場できるようになるのはまだまだ先のことだ。4th企画段階の9月では解散を含んだ状況であったが、『抱いてHOLD ON ME!』のヒットが長続きして10月を迎え、ヒットによる紅白出場が見えてきた…10月下旬あたりが解散するかしないかの、事務所側の確定の時期だろう。つんくは紅白出場は解散への道と聞かされていたのかもしれないが、すでにこの10月下旬では事務所側にとって紅白出場が存続への道だったのかもしれない。

その理由として、事務所側がASAYANや関係各所との調整が終わったのが10月下旬頃だと捉えて考えてみる。ASAYANはタンポポの3人目のメンバーを選ぶというつなぎ企画が行われていた時期であり、UFAとしてはその後に太陽とシスコムーンのオーディションに入る。太シスのオーディションはDDIポケットのCMソングを歌うグループの募集だったが、これはASAYAN絡みの電通サイドが持ってきた企画だった(推定)。徐々に「つんくプロデュース」という名目が浸透し始め、それが商品価値を生みつつあった時代である。出る杭は叩かれないように、あるいは得た利益を分配してさらに利益を出せるように、そういった各所との関係の再構築をこの時期UFAは行っていたのではないか。もっといえば、どうにかしてモーニング娘。の主導権をUFAに取り戻そうとしていたとも言える。

調べていて非常に分かりやすいことを見つけた。
つんくプロデュースのモーニング娘。の楽曲の版権は、作詞作曲者であるつんく、それとアップフロント音楽出版、それからテレビ東京ミュージックの三者が持ってることがほとんどである。これがほぼ確定したのが『ハッピーサマーウェディング』以降のこと。例えば面白いことに『愛の種』や『モーニングコーヒー』はアップフロント音楽出版が版権を持っていないし、初期のイベント等で歌われた佳曲『未来の扉』も同様で東京エフエム音楽出版が持っていたりする。それでもほとんどの曲は先のつんく・UFA・テレ東で分け合っているし、シングルに関していえば2nd、3rd、5thも同様である。

さてそれ以外はどうだったのか、この時期のソロ活動への準備かもしれなかった楽曲たちを振り返ってみる。

中澤裕子『カラスの女房』
作詞 荒木とよひさ
作曲 堀内孝雄
公編 川村栄二
出版者 テレビ朝日ミュージック

タンポポ『ラスト・キッス』
作詞 つんく
作曲 つんく
出版者 日音

4th『Memory 青春の光』
作詞 つんく
作曲 つんく
出版者 アップフロント音楽出版
出版者 電通ミュージック・アンド・エンタテインメント

タンポポ『MOTTO』
作詞 つんく
作曲 つんく
出版者 アップフロント音楽出版
出版者 東京エフエム音楽出版 株式会社

98年後半に作られた楽曲だけ通常のパターンで版権が分けられていないものが多い。このあと99年の後半にも吉本音楽出版が絡んでくるパターンが出てくるのだが、JASRACで版権を調べていると、ちょうどいろいろと噂のある時期と版権が通常パターンにならない時期とがかぶるので、やはり何かあるのかなと想像せずにはいられない。『ラストキッス』の日音というのは100%TBSの子会社で、とすると、うまくテレビ局で分けたものだなと。ただ、フジは元々コネクションがあるから問題ないとしても日テレは?という疑問は残る。その辺は電通と日テレの微妙な関係があるらしいが、自分は業界人ではないので深く掘り下げられない。どちらにせよ、この時期に各所と調整を行っていたというのは間違いなさそうだ。


話を戻して。
つんくが明日香のところに連絡した10月16日、つんくは自分のところに来ていない情報を探ろうとして電話したのではないか?そんな考えがふっと浮かんでしまった。その日のミュージックステーションのパフォーマンスを誉めるというのはたまたまであって、現場のスタッフの様子、メンバーの様子を探って、何か動いていないかを聞きだそうとしたのではないのだろうか。「一番冷静にモーニング娘。を見ていた」とつんく自身が語ったように、しかし13歳の女の子とあって与し易いと考えたのでは。

これはもう本当に妄想の範囲でしかないが、楽曲プロデューサーとはいえなぜ13歳の女の子のところに29の男がこんな時間に電話したかがずっと疑問だっただけに、その理由が気になっていたのである。事務所で会う機会はいくらでもあるだろうし、メンバーには手を出さないと言っているつんくがなぜこうした行動をとったのか? ましてや10月の始めにはシャ乱Qのメンバーが女子高生と問題を起こして謹慎処分になっているのである。そんな中、電話で直接連絡するというのは、つんくに余程の理由があったのだろう。解散するかしないのか、どう4thを作ればいいのか、情報が少なくやきもきしていたつんく像が自分の中では浮かび上がってきた。

この時点での電話が嘘だという憶測も成り立つが、それだとやはり嘘をつく必要性が見つけられないので、それはないように思う。細かくなるので詳しくは書かないが、この日に電話があったと考えなければ、その後の明日香やつんくや和田さんの言動すべてがおかしくなってくるし、メンバーがこの曲を愛した意味も分からなくなってきてしまう。そういう意味では、内容はともかくつんくから明日香への連絡はあったと捉えて間違いなさそうである。


事務所やASAYAN側、つんく、和田さん、メンバーたちの置かれた状況をここまでざっと振り返ってきたが、いよいよ4thの制作段階に突入する。旧メンたちがこだわり続けた4th『Memory 青春の光』である。ここでは以前から支持している4thシングルは本当は『Never Forget』で、本来はその曲のタイトルが『Memory 青春の光』だったという説に基づいて話を進めていく、ただし以前と微妙に自分の解釈は変わった。大筋では変わらないけど、微妙な時系列の間違い等があったことに気付いたもので。

改めてここまでの4thシングル作成開始(10月中旬)頃までの過程をまとめると、
・9月企画段階では、可能性としてモーニング娘。解散含み
・本体の歌に関してはなっちと明日香が中心(彩っぺの発言や姐さんの回顧録による)
・カオリ・彩っぺはユニット、姐さんはソロ、UFAは4th後の展開をすでに模索している
・つんくの元へは4thは解散含みの曲で企画提案(以上9月)
・つんくが4th制作に入ろうとした段階で、すでに明日香の脱退意志をつんくは知っている
・事務所を通した明日香脱退の正式決定は12月上旬(ASAYANの和田さん発言による。ただし『5+3-1』を読むと11月にほぼ決まっていたのは確かなようだ。明日香脱退を反対していた明日香の家族への説得は事務所が行っている)なので、現場関係のスタッフたちは10月中旬の段階では9月に決定した計画で動いていると思われる
といったところだろうか。


さて、明日香は1999年4月18日の最後のコンサートの時に「つんくさんが、卒業する私と、卒業を見届けるメンバーの気持ちを詞とメロディーにのせて作ってくれた」と言って『Never Forget』を紹介している。『もうひとりの明日香』の中では「わたしにとっては特別な、大事な歌なんですよ。ここまで、自分の置かれている状況とか気持ちにピッタリの曲は初めてだし。モーニング娘。にとっても、そうじゃないかと思うんですよね」と語っている。

つんくが10月下旬あたりから作り始めたこの曲は、つんくの中では解散を想定した曲ではなかった。求められていたのは解散に使える曲であったが、つんくはそれをうまく利用して明日香脱退のための卒業曲を作ったのである。逆に曲作りのアイデアとして明日香の脱退を使ったともいえる。これはどちらが先ということでもなく、方向性が一致したのだから問題はないだろう。自分が以前書いた説では、この時点でつんくは解散用の曲を作っただけだと書いたが、それだとこの曲を明日香が愛し、メンバーたちが大切にしていた気持ちに対して、曲の応える気持ちが弱いなという気がしていた。解散向けの曲という体裁を取りつつも、明日香の脱退のために言葉を選んで作ったからこそ、歌われたときにメンバーたちもみんな気持ちがこめて歌うことができたのではないだろうか。矢口や姐さんはこの曲のイントロが流れ始めただけで泣いていたっけ…

この曲でずっと気になっている歌詞がある。

「東京で見る星も
 ふるさとでの星も
 同じだと教えてくれた」

これを書いている時点でつんくは明日香の辞める意志を知っている。でもこの曲が明日香のソロになる予定は制作段階ではない。しかしこの部分の歌詞は間違いなく明日香個人へ向けて書かれたものである。東京に暮らしていた明日香と地方から出てきたメンバーたちの交流を描いているのだ。

この時点での4thはなっちと明日香がメインになる予定だったことは何回も書いた。姐さんの『ずっと後ろから見てきた』では「いつもと雰囲気が違う感じがする。どうも『一斉スタート』ではないような……。“あれ、あの子もしかしたら先に音もらってた? 先に別の日に歌入れした?”みたいな」と4thレコーディングを振り返っている。また、タンポポがASAYANに初めて登場した時にも彩っぺが「モーニング娘。のメインは、なっちと明日香」と言っているので、モーニング娘。本体の音作りの基本部分というのはこの4thでは「なっちと明日香である」と制作前から衆目の一致するところであった。

つんくはビジュアル的な想像もしながら曲を作っていたはずだ。この歌詞を明日香が歌っているときに横に立って歌っている人影も想像しながら書いているはずである。当然そこにはなっちの姿があるのだが、調べていると10月8日のラジオ『お願いモーニングコール』の中でなっちは明日香に「室蘭は星とか月がきれいなんだよ〜」と話しかけていたことがあった。これを聞いて、この部分の歌詞が明日香からなっちへ向けた言葉として書かれたものなんだと改めて思った。明日香が辞めるにあたってなっちに『Never Forget』を今後はなっちに譲ると言ったことも、ずっと後になって2001年のベストアルバムに『Never Forget』が収録された際、この曲の歌詞カードのページになっちと明日香二人の顔写真が飾られたことも、さらに圭ちゃんが卒業するときに最初この曲を歌うことを躊躇ったのも、コンサートでなっちから圭ちゃんに「圭ちゃん頼んだよ」と託されたことも、すべて曲が作られた時の背景があったからなのだ。

ちなみに、1999年4月18日のコンサートが終わったあと、抜け殻のようになってしまったなっちを見たからなのか「ふるさとに帰してあげたい」と6thの制作に繋がっていくのはまた別の話。また、なっちがその後「星」や「月」に特別な意味を持たせていくのも、それもまたずっと後の話。









--------

今回はここまで。
次回ようやく4thレコーディングに入れます。
日をおいて、また。

何か新発見と見落としはないものかと思いなっちと明日香の『お願いモーニングコール』を聞き直している。しかし新発見はあったものの回数多過ぎて聞き終わらず。
それにしてもこのラジオは面白いな。微笑ましいラジオで。生意気明日香とそれに翻弄されるなっちのコンビネーションが懐かしい。回を重ねるごとに息が合っていくのがわかるからそれも楽しい。
それにしても「抱きしめてあげようか」だの「結婚しようっか」だの「家においでよ」だの、なっちの明日香への誘いっぷりが萌える(笑 一時期のなちまりっぷりも真っ青。

ラジオを聞いていて気になったことがあったのだが。
1998年11月24日の『お願いモーニングコール』の中で「感謝状」という企画があって、なっちは矢口への感謝状を読んでいるのだが、明日香はマネージャーの木村さんという人への感謝状を読み上げていた。この木村さん(当時38、9歳。明日香言)の正体は誰だろうなあとアップフロントの人事を調べていたら、木村守利という方にぶちあたる。
アップフロントグループの株式会社ワンボイス(平成16年4月1日株式会社アップフロントプランニングに事業統合)の取締役を務めていた方だが、この人が当時の木村マネージャーなのだろうか? 木村守利氏は市井復帰時のFOLK SONGにもペドラー代表(アップフロントグループのコンサート・イベント制作会社)として名を列ねた人で、俄然興味をおぼえる。さらに調べていくと、この木村氏は昔にスターダストレビューのマネージャーもしていたらしく、98年11月5日に発売されたスタレビのアルバム『Moody Blues』(発売当時スタレビはアップフロントのデニムプロモーション所属)に彩っぺが参加したのはここいらへんの事情も加味して良いのかなと。

スタレビは翌99年8月に『どうして』という曲を発売しているが、これは新富良野プリンスホテルのCMソングだった。CMでこの曲がいつから流れ始めたかは不明だが、発売時期を考えると99年初夏頃だったと考えられ、時期的には『ふるさと』のPVが美瑛の丘で撮影されたときと一致する。あの周辺で芸能関係者が使う宿泊施設はほぼ新富良野プリンスホテルしか考えられないし、99年のあの事故の前のカントリー娘。と花畑牧場、それとぜんりんのグリュック王国・フェーリエンドルフとの関係を見たりすると北海道で何らかの事業展開をアップフロントはしようとしていたのでは?と疑いたくなってきた。ハロー内に北海道出身者が多いのも、それならうなずけることなのではないかと。ハワイでのハローの活動とコーヒー園の事業展開の連動性と同様のことを北海道でやろうとしていたのではないか? カントリー娘。とココナッツ娘。を同時期に立ち上げたのも、芸能活動とは別の事業展開の一環であったのかもしれない。そのあたり、その後の花畑牧場やりんねの去就とも関係がありそうでもう一度探ってみようと思う。2002年にグリュック王国が危機的状況に陥り翌2003年に閉園に追い込まれていること、またぜんりん地所建設と不動産業を営むと言われているりんねの父親との関係、りんねがポーランドを訪れていることがあるからオーディションに受かったのか?など(グリュック王国は隣国ドイツのテーマパーク)、気になることはたくさんある。

そういえば。
里田が帯広出身という情報が最初の頃出回っていて、これの出所がよく分からない。今では札幌出身で落ち着いていると思うのだが、なにしろ里田のカントリー娘。オーディション時の映像は消してしまったので確認しようもなく… あれ?5期オーデの方に里田の映像はあるんだっけか?(4期オーデの映像は見たけど特に気になる点はなし) 会長曰くの「里田は愛人のイメージ」(byヤンタン02.03.23)の真意がいまだわからないので悩む。まあほとんどあの方の言動は自分にはわからないけど。

自分的メモでもう一点。里田を採用したカントリー娘。のオーディションは2001年の10月くらいに始められたものだと記憶しているが、同時期にカントリー娘。の所属が田中義剛を擁するクーリープロモーションからギャラクシープロモーションに移動しているのは何か関係があるのか? この先どんどんクーリー所属のタレントは減っていって田中義剛だけになるが、この01年の10月というのはりんねが悩み始めた時期でもあり、アップフロントエージェンシーからアップフロントグループへの組織改編があったときでもあるので、何かあるのかなあと疑問を持つ。そうそう有賀さつきって2002年の3月31日まで所属してたんだなクーリープロモーションに。退職と同時にデキ婚。同時期に里田が加入。イメージねえ…うーん(謎 あ、変な意味はないよ、念のため。理解不能の「うーん」なんで。


とりとめもなく妄想炸裂でございました。また。

今日は5月5日からの続きなので、前回の更新を知りたい方はこちらからどうぞ。

今日も相変わらず脱線ばかりで本編になかなか入れず終わらない。
自分的には新しい発見もあったりして、ゆっくりとしながらも楽しい作業になっているのだけど。

--------






この時期からモーニング娘。はソロ活動も多くなっていくのだが、これが解散に向けての準備だったのかは想像の範囲でしかない。姐さんは演歌活動があり、カオリは8月下旬にユニットデビューを伝えられ、一人で『ラストキッス』のレコーディングも行っている。明日香はなぜか名古屋ローカルのテレビ番組にソロで出演したりしていた。9月に入ると明日香のCDでーたへの連載、なっちと明日香のラジオ、タンポポのユニット活動等の仕事が続々と決まってもいる。12月に4thシングルを出すことも同時期の決定と思われるので、これが解散(かもしれない)のためのシングルだったという可能性は充分にある。

現在はまだ検討中and調査中なのだが1998年9月でもってASAYANの打ち切りという可能性もあった。これと解散との連動性を考えているのだが、これはまだ頭の中でまとまっていない。 この年の10月から12月末まで、それまでASAYANのアシスタント務めていた永作博美に代わって中澤・安倍・福田・矢口が交替交替でアシスタントを務めていくのだが、これがどうも腑に落ちない。永作博美の降番理由が「10月以降の予定が入っていたから」というが、これは番組終了が決まっていたからスケジュールを押さえられなかったのか、それともモーニング娘。のメンバーにアシスタント活動させるために永作博美に降りてもらったのか、そこいら辺が時期が時期だけに微妙なところだ。ただ、その後ASAYANで娘。たちがアシスタントを務めたのは岡村が番組収録中に骨折した時だけだから(姐さんと市井)、ASAYAN側が無理して娘。メンバーをアシスタントとして使いたかったというわけではないのだろう。となると1999年から中山エミリが登板するまでの3ヶ月間のアシスタントをきちんと決めなかったという疑問はどうしても残る。

「いいんですか!?…いいんです!」でお馴染みの川平慈英がナレーターを努めたのは1998年の春までで、その後松尾貴史にバトンタッチする。松尾氏が登用されたのは、前年にシャ乱Qが主演した映画『演歌の花道』に出演したこと、ASAYANの構成作家・鮫肌文殊氏との関係があるからだと思われる(鮫肌文殊は松尾貴史に勧められて1990年に上京している)。小室哲哉との関係も含め、1998年のASAYANの内情は微妙な時期であった。元来が寄り合い所帯で、電通や吉本との関係も不明瞭なASAYANである。吉本興行(製作)―小室哲哉―AVEX(スポンサー)というラインとモーニング娘。に本格的に関わっていきたいアップフロントとは微妙な駆け引きがあったはずである。元々が小室哲哉の休養期間の代替企画として行われたロックボーカリストオーディションであるから、ブームを巻き起こしたモーニング娘。の商品価値が高まるにつれ、関係各所同士の調整は複雑さを増していった。先のことを書いておくと、1999年中頃からモーニング娘。を取り巻くUFA、ASAYAN、吉本、電通の関係は急速に悪化していき、2000年3月に破綻をおこすというのが定説となっている。また、石黒・市井の脱退やなっちのソロ活動計画中止はこの件との因果関係があると今となっては思われる。

スタッフのことを調べていて一つ思い出したことがあったのでさらに脱線する。
ASAYANのディレクターを務め、その独特なテロップの入れ方で強い印象を残したタカハタ秀太氏。『LOVEマシーン』のPVのディレクターを務めたり、姐さん卒業時の名番組『BS中澤SP』を作ったことでも有名だが、このタカハタ秀太氏、結婚相手は元C.C.ガールズの藤原理恵だった。藤原理恵といえばASAYANでは『文句があるなら来なさい!』でお馴染みのRie ScrAmbleである。そんなに大ヒットしたわけでもなかったのに、ASAYANでこの曲が多用されたのは、ここいらへんの男女関係があるのかもしれない。この曲は彩っぺが札幌のオーディションで歌い、スタジオ審査の第二段階では青木朗子、高口梓、平家充代の3名が歌っている。

1997年ロックボーカリストオーディション時の選曲についてもう少し。先のRie ScrAmbleの他に頻繁にあらわれるのが工藤静香の曲である。これは当時シャ乱Qのはたけが工藤静香に楽曲提供を行っていたからだと思われる。スタジオ審査の第一段階では彩っぺがはたけ作曲で発売されたばかりの『Blue Velvet』を歌っている。また、はたけ作曲ではないもののスタジオ審査第二段階で明日香が『激情』を、姐さんが『めちゃくちゃに泣いてしまいたい』を歌っている。ただ元々明日香の得意な曲として『激情』が入っていたので、これは偶然で思惑が一致したのであろう。姐さんはスタジオで歌いたい曲、得意としている曲をアンケートで複数回答しているが、唯一と言っていいほどそれらの楽曲を歌わされていない。松たかこの『明日、春が来たら』を唄いたいと書いたのは姐さんであるのに、実際にスタジオで唄ったのはカオリだった。

1997年の8月30日にシャ乱Qが主演する映画『演歌の花道』が公開されるが、この制作はフジテレビであった。この時分のシャ乱Qの活動は当然、フジ絡みのものが多くなるのだが、この映画がクレイジーーキャッツの映画を連想させる作品であるのは、前述のナベプロとの関係が何かあるのだろうか。また、オーディション進行時にはこの映画の撮影期間でもあったが、同時期のフジテレビは『ひとつ屋根の下2』の高視聴率にわいていた。このドラマの挿入歌『ひだまりの詩』は彩っぺがスタジオ審査の第二段階で歌い、主題歌の『サボテンの花』は99年の7月にメンバー全員で歌っている。

その昔、自分が尊敬している方が書いた妄想小説の中に、彩っぺが裏でASAYANスタッフの指示を受けつつモーニング娘。の流れを作り出す役柄を演じていたものがあったが、オーディション時に歌った彩っぺの楽曲を考えると、どうもASAYANの裏の意向が見えかくれして、その妄想小説の設定も強ちあり得ない話ではないと思った。ASAYANで始まりASAYANで終わると晴れ晴れとした顔で言った彩っぺの真意はどこにあったのであろうか。先述のASAYAN内部での混迷が極まっていた時期だけに、彩っぺとASAYAN、その後のUFAと彩っぺの関係を考えると面白いものがある。

フジテレビの一部スタッフとの関係は和田さんとのつながりがあったとはいえ、菊地さんが『LOVEマシーン』のPVに出たりするほどまでのASAYANとの蜜月理由がいまいちわからなかった。が、いたって単純なことに気がつく。ASAYANとフジの主だった音楽番組の収録はスタジオが一緒だったのだ。東京都世田谷区砧にある東京メディアシティでASAYAN―K-1スタジオ、フジテレビ―A-1スタジオという違いはあるものの、スタッフ同士が情報を交換しあったり、食事を一緒にしたりする機会は多々あったはずだ。ましてやHEY!HEY!HEY!の制作には吉本も関わっている。初期の頃のフジとモーニング娘。の友好関係の謎がようやく解けた気がする。ちょっと考えればわかることだった…


話は戻って。
1998年10月中旬、4thシングルは年末だと情報が流れる中、10月16日を迎える。この日の明日香とつんくは2時間近く話していたという。Mステ終了後のことだから、明日香が自宅に帰ってからの電話だとすると12時は超えたであろう。「社会科の勉強がしたい」ということだけがクローズアップされて一人歩きしてしまっているけれど、このとき明日香はけっこうきついことをつんくに言ったのではないか。もちろんつんくはある程度の大人であるから受け流すことは出来ただろうが、このときのことを思い出して話すつんくの言葉の歯切れがいまいち悪いのは、明日香との会話にかなり言いづらいことも含まれていたからではないかと思う。ASAYANの中でこのときの会話の中に「音楽とはなんぞや」という内容があったことをつんくが証しているが、明日香の数々の発言を考えると相当原理主義的なことを言いそうなので、つんくにとっては耳の痛いことだったのではないだろうか。

「オーディションを受けてたときの気持ちを、忘れてるような気がしたんですよ。デビューを前にして5人で頑張ってたこととか音楽を好きだっていう気持ちが、なんだか全部なくなっているような気がして」

『愛の種』の手売りに入る直前、不安を抱えながら毎週末に活動していた5人がつんくに呼び出されたことがあった。プロデュースの約束をしておきながら、レコーディングには一切顔も見せず、名目だけのプロデューサーだったつんくであるのに、その時コトもあろうにメンバーたちに説教を始めたのである。髪を切ったことを「それがなに?」と言われ、全部ASAYANのため、モーニング娘。のために捨てる覚悟で臨んでいた姐さんは内心ぶちきれいてたと随分後になって明かしている。それまで素人の自分たちのために必死になって動いている大人たちを見てきて、罪悪感や不安感を抱えていたメンバーたち。目の前で大仰に足を組み片ひじをつき、それまでのいきさつを一切知りもせずに偉そうに説教をしている人間を見て、普通の人間はどう思うだろう? VTRを見返してみるとメンバーたちの表情がすべてを物語っている。

つんくはつんくで自分から説教をしたかったわけではなく、番組の演出上仕方なかったのだろう。適当に喋っていただけあって、今改めてあのシーンを見返してもつんくの言っていることは半分も理解出来ないし納得もできない。泉正隆氏のダメ出しとは言葉の重さが違うのだ。ただ、つんくの説教の後半部分には自分の言葉で喋っているなと思える部分があった。

「流されていく。流れにのっていく。自分を捨てる。様子を伺う。(これらは)つい自分の意志が出てしまうから難しい」

これは生き方の一つとしてはやり通せれば充分尊敬できるし、実際つんくは現在までそうしてきていて、それはそれでケチをつける気もない。人間は社会で生きていくために妥協は必要だ。ただ、先のような考えを持っていた明日香に、つんくは説得できるだけの言葉を持ち合わせていたのだろうか? 明日香の求めていたことは理想論に過ぎない。が、その理想を求めていた13歳の女のコに彼は何と答えたのだろうか。明日香は社会科の勉強を求めていたわけではない。理想と現実のギャップの大きさに精神的な限界を覚え、普通の13歳のコが学ぶ普通の社会生活の勉強をしたくなったのだ。辞めた後に忙しいメンバーたちに会って、自分は逃げた人間だからと罪悪感を感じたのも、こういった背景があったからだと思う。

つんくは『もうひとりの明日香』の中でこう語っている。

「福田はほめられてもあまり喜ばないし、怒られたからといってガックリへこむわけでもない。確かに、これは当たり前の反応ではないかもしれない。でも、あいつは『自分の中の満足感はどこにあるのか』ということを突き止めていたのだ。だから、自分が満足していないのに誉められてもそれは喜びではないし、怒られたとしても自分が納得して出来ならば決して動じることはない。福田はそういう自分を好きだし、そういう自分でしか生きられない。俺は途中からあいつにあまり口を出すことをしなくなった」

この発言が10月16日の二人の会話を現しているように見える。仕事ではなく、生き方が決して理解し合えないことを二人は分かっていた。しかしその関係を二人は好きだった。「音楽を一緒にやる仲なんだから、普段の会話で盛り上がらなくってもいいじゃん」という考え方の持ち主だった明日香だから、つんくはそれなら従来通り音楽プロデューサーとしての期待に応えるのが自分の果たすべき役割なのだと考えたのではないか。それが明日香への最良の返事である、と思い4thシングルの制作に取りかかっていくことになる。









--------

今回はここまでで。
2回で終わらせる予定だったのにどんどん伸びてく(笑
次回はようやく4thに入れるな。

10年という区切りの年に、ついに好きで×8+αのあおさんが『愛の種』のPVのロケ地を突き止めた!
もちろん街中ではなくて、あの青空が印象に残る草原の撮影地。

残された最後の秘境。
ついにたどり着いたモーニング娘。の聖地。
リンク先にその巡礼紀行があげられております。

1997年10月の体育の日の頃に撮影をおこなった、モーニング娘。の出発地点。
あおさんが突き止めたその場所は・・・
そこにはPVには決して映らなかった、しかし娘。たちには記憶に残ったであろう景色が広がっている。

当時のスタッフはなぜここを選んだのか。
ちょっと調べてみたくなった。



あおさん、ごくろうさまでした。
10周年のいい記念になりました。

更新を毎日するつもりで再開しているわけでもないのに、なぜだか話題が続く。
でも暫定的更新なのでトップページは復活させず、ですので。繰り返しアナウンス。


辻が妊娠結婚ということらしく、それはそれで「あの辻がねえ…月日が経つのは早いもんだねえ」くらいにしか思わないのだが、コトがここに至った経緯のほうがよっぽど気になるわけで。今回は舞台降番や新ユニット、新曲と、いろいろ仕事に影響がある中でのコトの露見だったので、事務所もかなりの被害を受けることになり、そこいらへんが心配される部分である。当然芸能界は良心で成り立っている世界ではないのだから、堕ろす堕ろさないで事務所と辻の交渉があったはずであり、辻が妊娠結婚という道を選んだからには、それなりの決意があったのだろうなと。

EE JUMPのユウキがギャバクラ騒動でアルバム一枚をポシャらせたときには、億を超える被害を和田さんのところにもたらしているのだから、いくらハローの世間への影響力は低下したとはいえ、どのくらいの被害を生んでいるかは想像出来ない。ユウキのギャバクラ騒動は結果として和田さんの完全独立を数年延ばすくらいに影響が出た。また、彩っぺも脱退発表後の妊娠ではあったが辞めるにあたって3年近くの芸能活動の自粛を求められている。辻の妊娠結婚に対する何らかのペナルティがないときには、事務所は計画して今日に至らしめたか、あるいは発覚後に何らかの取り引きを行ったと見るべきであろう。

よっすぃーの卒業式のあと旧メンたちは翌3時くらいまで飲んでいたというが(未確認、当然なっちは欠席)、ここでその話は出たのであろうか? またなっちがゲスト出演していた今日のラジオによれば、昨日(5月7日)事務所になっちが行っていたところ、控え室に最初石川さんが訪ねてきて長話をし、その後お昼時には矢口が訪ねてきて長時間話していったそうだ。デストロイヤー矢口とモラリスト石川、果たして二人が別々になっちを訪れた真相とは?

紗耶香のときのように自ら望んでコトを起こした可能性(妊娠のこと)もあるのだが、辻には芸能界で目指す野望があったとは思えず、加護騒動との時期的なタイミングといい、その場合には誰か裏でアドバイスを送っていた人物がいたのではと疑いたくなってくる。可能性はいくらでもあるし、現状では判断材料も出てきていないので、すべては妄想の範囲内でしかない。これもまた時間が経ったらわかることなのだろう。

とりあえず、辻には幸せになってもらって、母子共に健やかに暮らしていって欲しいものだ。しっかし、何人も差し置いて結婚しやがって!(笑、でもおめでとう。

吉本興業SSMブログ 『燃えろ!番組制作部』

泉正隆氏が先日のさいたまスーパーアリーナを訪れていたようで。

「やっぱりちょっと寂しいわぁ〜。もう俺のことを知ってるメンバーが誰もおらんくなったし・・・。」

このブログだと泉氏はASAYANのプロデューサーとしか紹介されていないが、モーニング娘。はこの人がいなければ誕生しなかったといっても過言ではないことを今はどれだけの人が知っているのだろう。ちょうど今調べていることと重なったので気持ちが入り込んでしまっているが、97年や98年にアップフロントが本腰を乗り出す前にモーニング娘。を作り出していたのは泉氏やタカハタ氏をはじめとするASAYANスタッフ、それに電通のグループ、アップフロント社長から起業を命じられ新たにハーモニープロモーションの立ち上げ準備をしていた和田さんであったのだ。

泉氏というと、『愛の種』の全国PRキャンペーンで北海道のローカル番組の告知が終わったメンバーに痛烈なダメ出しをしたことで知られる人物である。そう、なっち卒業時のハロモニ特集で、VTRの泉氏の発言になっちが大きくうなずいたシーンを思い出す方もいるだろう。このときの泉氏は和田さんもついていかなかった札幌-福岡-大阪と回る『愛の種』PRキャンペーンに同行して、モーニング娘。を監修し指導していた。また、『愛の種』のレコーディング時、姐さんをスタジオの裏に呼び出してソロがなくなるかもしれないときつい言い渡しをし、髪を切るきっかけを作った人でもある。

姐さんは「モーニング娘。中澤裕子として頑張る」出発点であると言っていた。

「あの歌は自分たちのことを書いてもらっている歌だから、あの詞の中の女の子になりたかった」

サエキけんぞう氏によれば、『愛の種』はレコーディング中のスタジオでもたびたび歌詞を直して大変だったらしい。これが泉氏の指示だったのかそれとも和田さんの指示だったのかその辺はわからないが、スタッフたちの苦労も見えるから、それが心苦しくてなんとか応えたいという思いがあった故の行動なのだろう。

そういった初期の事情、いや、和田さんにロックボーカリストオーディションの企画を持ち込んだ96年頃末頃からのすべての事情を知っている人が訪れて、こう語ったのである。

初期の功労者がこうして見届けてくれたことに自分は感謝したい。
ただその気持ちでいっぱいである。

今日は昨日の続きではなく、姐さんがいたモーニング娘。を知る最後のメンバーの卒業ということで、ちょっとだけそれに触れておこう。

正直なところ、自分は吉澤ひとみという人物像を最後まで把握することが出来なかった。旧メン勢の抜けた後のモーニング娘。やガッタスでキャプテンシーを発揮してメンバーたちを引っぱってきたことはわかっているものの、どうしても方向性が掴みきれなかった。メンバー内でのモラル維持にも一役かっていた存在だったろうし、体育会系のノリでメンバーからは親しみやすいリーダーとして人望もあったのだろう。ただ、加入して以来非常に調べた時期もあったが、けっきょく彼女が芸能界で何を残していきたかったのか自分には最後までわからなかった。

あえていうならば守りの時代のリーダーには相応しかったのだろうなと思う。上からの計画を計画通りに進められる能力はなかなか真似できるものではない。途中で気持ちが切れてしまう場合もあるし、反抗する気持ちが芽生えてくることもある。昔のメンバーたちの時代にはこれを耐え忍んで乗り越えている感があったが、彼女はそれを深く考えず受け流してしまえるだけの大らかさがあった。細かいことを気にしない、また、人には弱い面を見せたくない、そういう性格は自分のような物語性を期待している人間には物足りなさがあったが、この時代のモーニング娘。には合っていたのだと思う。ひいてはその大らかさこそが彼女の人となりであったのだろうな。

加入から7年、本当におつかれさま。
この先は自分のやりたいことを見つけ、一人の道を存分に歩いていってください。





----


ガキさんが泣きながら
「吉澤さんが卒業しちゃうと、もう私の中でのモーニング娘。が一人もいなくなっちゃうんですよ」
と言っていたらしいが、4期頃から関わってきたきた人たちには今日が区切りの日となったのだろうか。

また新しいモーニング娘。が続いていくんだな・・・
ガキさんが歴史を背負って歩んでくれていて素直にうれしい。



. . . . . . . ...:::: (´ (^◇^〜) `):::::::::::::::::::::::::::::
::::::::::::::::::,. (⌒          ⌒ヽ:::::::::::::::::::::::
.:.:.:.:.:.,. ⌒ (#~∀~)   (`.∀´ )   ⌒):.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:
.:.:.(⌒ ( ´ Д `) ( O^〜^) (‘〜‘ )⌒ヽ.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:
,.(⌒'        ( ^▽^)    (´ー`●) ⌒): : : : : : :
(  ( ´?`)人(‘д‘ )    : : (⌒     r'⌒ヽ: : : 
 :  :  :  :  :  :  :  : : :           ⌒ヽ 

                                _,,-''"
                          _  :;:,-''";  ;
                        ,,:;;:-''"'; ', :' 
                     _,,'''", ;,; ' ; ;;  '
                   _,,-','", ;: ' ; :, ': ,: 
                _,,-','", ;: ' ; :, ': ,:    



某所でこんなものを発見して思わずコピーしてしまった。
修学旅行も思い出の中だけになったな、、、
北陸遠征して岡村さんが出てきたときには、一瞬某メンバーか?なんて思ったっけな。


このページのトップヘ