Submarine Dog

最近はほぼほぼツイッターでのつぶやきに移行してます。
https://twitter.com/ikedaya1298
@ikedaya1298

このブログは2002年から続いているものです。
書いた当時の気持ちや考え方は今は変化した部分はありますが
当時の情勢や空気感を残しておくためにそのままにしてあります。
その辺ご理解の上お読みいただければと思います。

いつか来た道


<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話



    < 7 >                (敬称略)


上京して世田谷区砧のTMCでスタジオ審査を受ける札幌組。
安倍は早々に「即キープ」として最終予選へ駒を進め、石黒と飯田も追加審査を経て勝ち進んだ。

最終審査まで残ったオーディション参加者は合計11名。
ここでオーディション優勝者を決めるために全員を集めて合宿を行うことがシャ乱Qから発表される。

当時ASAYANでは敗者復活の3人組・Say a Little Prayer(第1回参照)が手売りで1万枚を売るという企画に挑戦しており、そのために合宿する様子も放送され、それが好評だったこともあるのだろう。一旦それぞれの地元に戻っていた11人は再び東京に呼ばれることになった。ただし、この時点では「スニーカーとジャージと着替えを持って」としか知らされておらず、全員で合宿をやることは参加者には知らされていなかった。

安倍は上京直前に開催された「むろらん港まつり」に繰り出しひと時の息抜きをし(結果としてこれが安倍の最後の地元のお祭りへの参加となった)、中澤と平家は再会を喜び、飯田は再び現れた鼻ピアスの石黒にビビり、他の多くの参加者たちもそれぞれの思いを胸に集まってきていた。





1997年7月28日。
赤坂の東京吉本(現在は新宿に移転)の前に停められたマイクロバスに上京してきた11人の参加者たちは乗せられる。行き先は告げられなかったのでまだ笑顔を見せる余裕のある子もいた。

ちなみに東京吉本に集められた理由。
『ASAYAN』は吉本興行の制作番組でたびたび収録も赤坂の吉本社内で行われていたからなのだ。社内にASAYANのスタッフルームもあった。パーテーションの仕切りが見える会議室のような場所でのロックボーカリストオーディションの映像は、ほぼほぼ当時の吉本社内の映像だと思って良い。

番組プロデューサーの泉正隆も吉本の社員だった。
泉正隆といえばモーニング娘。のメンバーたちが『愛の種』を手売りしていた頃に強烈なダメ出しをしたことで知られる人物で、逆にそれで後々までメンバーからの信頼を得ている。各メンバーたちの卒業公演にも顔を出していた。

泉正隆は吉本印天然素材(ナインティナインら吉本の若手芸人たちのユニット)の立ち上げを行った人物でもあり、その縁もあってかナインティナインや夏まゆみ(吉本印天然素材のダンスレッスンをしていた)らが『ASAYAN』に関わることになった。

吉本の反主流派と言われていた時期もあったがグループ内事務所・吉本SSM社長を経て、後にはよしもとクリエーティブ・エージェンシーの取締役副社長まで務めた。

また『ASAYAN』はエイベックスをメインスポンサーとし、その関係で小室哲哉やMAX松浦らの影響力が強い番組でもあった。

そのため、ここに割り込んでメイン企画を作り上げたアップフロントエージェンシーとシャ乱Q、というか和田マネは敏腕であったといえるだろう。

とはいえ前年に行われた三井のリハウスCMのオーディションにおいて、オーディション前のCMはアップフロントエージェンシーの建みさと(後にドラマ『太陽娘と海』でモーニング娘。らと共演)が担当しており、オーディション後には吉本SSMに所属することになった池脇千鶴に変更されたので、その頃からアップフロントの入り込む下地は出来ていたのかもしれない。ロックボーカリストオーディションの開催も96年末には決まっていたとされている。

この他『ASAYAN』には電通も制作で関わっており、またタカハタ秀太ら制作陣も精力的に仕事を進めていて、その中にアップフロント(というか和田マネ)も入り込むことになっていくので、まさに複雑怪奇な状況であった。


話を元に戻そう。

バスが着いたのは東京練馬区のとあるお寺。後に後藤真希が参加したモーニング娘。第2次追加オーディションや石川梨華や吉澤ひとみが参加した第3次追加オーディションでも合宿に使われた縁あるお寺だ。石神井公園に囲まれた閑静な場所にあるこのお寺で11人は3泊4日の合宿をすることになった。



合宿初日にカセットテープが配られ「この曲がデビュー曲になる」と告げられる。
そこにはデビューしたいのなら自分の力で掴み取れという強烈なメッセージが込められていた。4日間通して彼女たちはこの曲を課題曲としてレッスンを積むことになる。

朝は5時に起床、読経や境内の掃除もこなしつつ本来の合宿目的であるボイストレーニングとダンスレッスンが3、4時間ずつ、さらに朝昼晩の三食すべて自炊な上にお風呂は1キロ歩いたところにある銭湯、そして10時には就寝と過酷なスケジュールが課せられた。

ボイストレーニングには笠木新一、ダンスレッスンには夏まゆみと、厳しい言葉も厭わない講師が招聘され合宿参加者たちを指導した。それは細かい技術指導というよりも芸能界で生きていくことへの基本的な心構えの指導だったかもしれない。これから数年経った卒業時に、安倍はテレビの企画で当時を振り返って見ていたASAYANの笠木先生の言葉に大きくうなずくことになる。







合宿時、中澤は受かる可能性を考えていなかったという。11人の中に選ばれたのも一人だけ年いった人がいた方がテレビ的に面白いからだろうとさえ思っていた。

中澤はそれならばまわりに気を遣わずに自分のやりたいよう思いっきりやろうと決めていたそうだ。これからの人生のために何か意味のあるものを掴み取りたい…
それが中澤の決意だった。

そんな中澤と目立たないながらも合宿を引っ張っていた石黒に家事で怒られていたのが安倍と飯田だ。北海道から共に上京し同い年の二人はこの合宿でいよいよ仲良くなり、いつも行動を共にしていたが、まわりの参加者から見ると二人がふざけているように見えたこともあったらしい。中澤に「あんたらちゃんとしぃや!」と怒られることもたびたびあったとか。

一方福田は完全にマイペースを貫き通す。そもそも中学生の参加者は福田ただ一人、しかも12歳でその上は飯田と安倍の15歳、同じ東京出身の河村も16歳だったので、仲良くなりようもなかった。福田は「なんかね、私の目にはみんなが珍しい人に見えたんです。いっぱい喋るんですよ。でも私は、なんでそんなに喋ることがあるんだろう?と思ってて…。必要以上には話さなかったですね」と部屋の片隅で一人で課題曲をウォークマンでずっと聴いていた。

安倍が途中で写真のアルバムを持って福田のところに話しかけに来たが、福田は上記のような気持でいたので話がかみ合うはずもなく、安倍は「東京の子はクールだなぁ」、福田は「北海道の人はよく話すなあ」と、そんな印象しかこの時は持たなかった。

そして怒涛の合宿は終わり、8月3日に再び東京TMCに集められた11人は最終審査に臨むことになる。


いつか来た道


<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選


    < 6 >                (敬称略)


安倍なつみはこの日、室蘭から3時間、父親の運転するクルマに揺られ札幌にやってきていた。

安倍はこの時高校1年生。コンビニでバイトを始めたり、友人とバンド活動の真似事をしてみたり、清新な活力真っ盛りな頃。身長が低いのが悩みで、背を伸ばしたくて毎日牛乳を飲んでいた。

そんな時にASAYANのロックボーカリストオーディション・札幌予選の開催を知った。ASAYANのオーディションは札幌で地方予選をやらないこともあったので、親と「オーディションを受けるのは高校になってから」という約束をしていた安倍にとってこのオーディションはタイミングよく巡ってきたチャンスだった。

札幌への道中、車内では父親がかつて芸能界を目指したこと、途中で挫折して室蘭に帰ってきたこと、そのことを今でも後悔しているから今度のオーディションは悔いなく頑張ってほしいことなど、今まで聞かされなかったことを安倍は父親から聞かされた。安倍にとってこの札幌行きの車内での会話はオーディション当時の大切な思い出となっていく…

札幌に着き安倍が書類審査の受付を済ますと、その整理番号は1111番。何か運命を感じたという。
安倍がオーディションの曲として選んだのはglobeの『FACE』。
この曲は東京スタジオ審査に進んだ時にも歌っている。





札幌の審査では曲の1番を歌って終わるはずなのに安倍のときは2番までオケが流され、不思議に思いながら歌詞に詰まりつつも安倍は2番も歌った。

これはおそらく安倍がオーディションを勝ち進んでいくことを想定した上でのスタッフ側の意図的なミスなのだろう。1111番という特徴的な整理番号を安倍に割り振ったことも含めて、安倍には制作サイドからかなりの期待がかかっていたことが窺がえた。もちろん安倍自身はそんなことは微塵も知る由はなく、緊張の連続でオーディションを進んでいくのだが。

ちなみに安倍の1111番だけに限らず、中澤も1661番と覚えやすい番号。
福田は1298番、平家は3098番と(当時福田は12歳)これまた何かしらの意図を感じるオーディションの整理番号だった。このオーディションに限らず後のASAYANオーディションでも意図的なオーディション番号は多々見受けられた。


安倍が歌った「globe『FACE』」という選択は当時の流行やASAYANオーディションを考えれば無難な選択だったのかもしれない。しかし実は安倍は本当は違う曲を歌うつもりでいたという。

安倍はUAの『雲がちぎれる時』という曲を本当は歌いたかった。
「流行りの曲じゃなくて個性を出したかったから」と。
しかしこの曲のオケのCDを用意することが出来ず審査で歌うことは断念した。

後にこのエピソードは2002年9月19日のラジオ『エアモニ』で明かされ(この回のラジオは福田脱退時のライブの「風船シャワー」のエピソードなど思い出話がとても多かった回))、そしてさらに時を経た2008年になって安倍が自身のライブでこの歌を披露している。安倍の音楽に対する根底にある世界観がこの曲の選択には表れていた。

そしてオーディションが終わった帰り際に安倍は和田マネに呼び止められ、すっぴんで来たのかどうか訊ねられ「今度もすっぴんで来なさい」と言われ驚いたという。


札幌から東京のスタジオ審査に進んだのはこの安倍、そして石黒・飯田を含めた8名。

安倍と飯田は初めての東京行きに大はしゃぎしながら飛行機に乗っていた。特に安倍はこの時のASAYANから送られてきた東京行きの航空チケット、機内から持ち帰ったイヤホンや「翼の王国」まで、それを今でも大事に取ってあるという・・・

いつか来た道


<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選


    < 5 >                (敬称略)


1997年6月21日。
札幌予選。
ロックボーカリストオーディションではこれが最後の地方予選となる。

ASAYANのオンエアではすでに福岡予選の最終選考進出者が決まっており、東京予選でもスタジオ審査が終わり福田明日香や兜森雅代といった個性派に次の審査への発注がかかっている段階でのオーディションとなった。

後日談では最もレベルの高かった札幌予選と言われているが、それはここまでの途中経過をASAYANで見ても怖気づかなかった人、自信のある人、そして強い意志を持った人が集まっていたからかもしれない。

札幌の中島児童会館に集まった参加者は約1000人。
その中に石黒彩・飯田圭織・安倍なつみの後のモーニング娘。となる3人の姿があった。

石黒は前年の小室オーディションに次いで2回目のASAYANオーディション参加。4月から服飾の短大に進学し、また短大に近くなるということもあり家族ぐるみで引っ越したばかりだった。

高校時代にビジュアル系が好きでハードなバンドでならした石黒にとって「ロックボーカリストオーディション」に参加することはごく自然な成り行きだった。

バンド時代はLUNA SEAやL'Arc〜en〜Cielのカバーをよくやっていた石黒。
歌審査では当時ASAYANオーディション参加者がよく歌っていたRie ScrAmble『文句があるなら来なさい!』を選んだ。アイドル的なアプローチはまったくせず、細い眉毛で眉間にしわを寄せ黒づくめのスタイル、鼻ピアスも付け完全なロック姉ちゃんだった。

この時に審査を担当していたスタッフは前年スタジオ審査にまで進んだ石黒のことを覚えており、7キロも減量した石黒を見て驚いている。ロックなテイストとビジュアル、そしてステージ慣れ、石黒は文句なしの東京スタジオ審査進出を決めた。





ちなみにRie ScrAmbleこと藤原理恵はバブル期に一世を風靡した元C.C.ガールズのメンバーで『ASAYAN』のゲストアーティストとしても時々呼ばれていたが、その後番組の演出家・タカハタ秀太と結婚する。


この日のオーディションに友達と参加していたのが飯田圭織。
飯田は前日からその友人の家に泊まりこんでこの会場にやってくる。しかしその友人宅で喋り明かしてしまいほとんど眠ることなくオーディション当日を迎えてしまっていた。

みっちり練習を積んで夜はぐっすり寝てオーディションに参加した福田とは対照的だが、当時は多くの女子中高生が飯田のように芸能界に憧れ、友達と一緒になってオーディションに参加していた。普段その辺にいる普通の女の子が夢を見ることのできる、ASAYANとはそんなオーディション番組だった。

目が腫れぼったいままの飯田だったが、83人しか進めなかった歌審査には見事残った。オーディション会場に来ていた和田マネからは「整形したのか?」と失礼な質問をされるが、飯田はSPEEDの『STEADY』を披露しASAYAN3度目の挑戦にして初めて東京スタジオ審査に進むこととなる。





そして飯田はこの時の歌審査の会場だったアートプラザホテルで順番を待っているときに隣に座っている子と運命的な出会いをする。

隣にいる純朴そうな小さな女の子。「きっとこの子は勝ち進むんだろうなあ…」「今友達になっておけば芸能人と友達になれるかもしれない」そんな些細な気持ちがきっかけで話しかけた。

それは
「どっから来たの?」
「室蘭」
「私の婆ちゃん家が室蘭だよ」
と他愛もない会話から始まった関係。

そう、隣にいたのは安倍なつみ。
時には大喧嘩をし、時には泣き合い抱き合って、6年半にも渡って苦楽を共にしていく、その二人の出会いだった。

後に二人は知ることになるのだが、まさかこの時は室蘭の同じ病院で生まれていたとは思いもよらなかっただろう。

仲が良い悪いだけでは語り切れない二人の数奇な運命。
生まれた時に会って以来、約16年ぶりの再会を二人は果たしたのだった。

(飯田は1981年8月8日生まれ、安倍は1981年8月10日生まれ。同じ病院で生まれたので、すでにこの時二人は出会っていたと言われている。)


4月22日は再びSTONE Projectの合同ライブへ。
「大人の休日倶楽部vol.2」at 自由が丘マルディグラ。

今年に入ってから山手線の円周の外へはライブを見に行かないと秘かに決めていたのに、早くも4月で2回か(色々とやることもたまってるし、諸々事情がありまして、ライブ本数自体絞っている最中)。

この日は
PEACE$TONEのTERRAさんにayumi&えっちゃんの3人でやった1部。
八戸出身のギター弾き語りSSW・大石啓太さん。
そしてTERRAさんとasukaさん(以下福田さん)にギターとピアノサポートを加えての2部。
の3ステージ構成。

1部は前回に引き続いて手話を取り入れた振り付けをみんなでやったり、また客席とのやりとりもアットホームな雰囲気。一昨年くらいの大人数バンド編成から一転、客席は座りで距離感の近い少人数編成でのライブが増えているが、徐々にその場の雰囲気が醸成されてきている感じ。お約束が増えすぎるのは良くないけど、やはりその場でしか味わえない空気感とでもいうか、「お、これこれ」と思えることがあるのは楽しいよねと。

1部の目玉はなんといっても『ONE』。
2年くらい前に初披露された時はこれがニューアルバムの顔になる曲だと思った盛り上がり必至のキラーチューン。
アルバムには収録されなくて、また曲自体の披露も久々だったので(たぶん一昨年の横田かよみうりランド)うれしくなる。
この曲で「タオル回しましょう!」ってなってたのはすっかり忘れてた 笑(まあ今は座りライブなのでカバンにマフラーもタオルも入れてないんですが)

2部では福田さんがビートルズの『Let It Be』に自身で歌詞を作って初お披露目。
内容は書きません。知りたきゃライブに行きましょーと 笑 今日もMCも曲説明もガンガンやってくれたんで!

今日の福田さん、花粉症の症状も出ず調子が良いそうで(ってか前回あれで調子悪かったのかい!)、「今日は歌います!」の宣言通りモリモリ歌ってくれる。ビートルズはTERRAさんの音楽的なルーツにもなっているので、PEACE$TONEのライブとしてはこの選曲はぴったりなのかな。

キーはちょっと上げてもいいかなと思ったけど、どうだったんだろ。他の曲で高いところがメチャ気持ちよく聴こえたので、自分がそう思っただけかな。うむ、いらぬ心配 笑

2部はギターとピアノのサポートが入ってボサノバ的な感じに。休日の午後、まったりとお酒飲みながら聴いているなんて、こりゃなんて素敵な空間。

ギターのサポートは久々のノザワさん。
前述の大人数編成の時には必ず入っていた愛すべきいじられキャラ。
今日はキャラ封印して、そのギターフレーズでイイ雰囲気作ってくれました。ステージの配置上ピアノの方が他のメンバーの方向を向けないので、ノザワさんが呼吸を合わせているのが好印象だったな。頼もしやー。

TERRAさんがどのステージにも積極的に絡んで、全体として話がまとまっていた印象。大石さんの登場もあって「東北・八戸」との関りと今後への展開や、メンバーとの関係性がさらによく見えてきた回だったと思う。

ただ!もう少し長く歌って!と注文を。
2時間座っていたらお尻痛くなりそうだけどね 笑

公式サイトのライブ感想は以下へアクセス!
http://ameblo.jp/peacestoneofficial/entry-12267977014.html
http://ameblo.jp/peacestoneofficial/entry-12267985632.html
http://ameblo.jp/asukafukuda-official/

<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選


    < 4 >                (敬称略)


中澤裕子がロックボーカリストオーディションの大阪予選に参加したのは1997年5月24日のこと。

テレビで福岡予選の映像を見ている時に流れた大阪予選の告知に心を鷲掴みにされてオーディションへの参加を決意する。京都の福知山から上阪して6年、同じことの繰り返しのOL生活に息苦しさを覚え、ちょっと前に始めた北新地での夜のバイトに精神的な開放を感じていた頃の出来事だった。

しかし23歳という年齢でオーディションを受けることに戸惑いを覚え、本当に受けていいものかどうか迷い、彼女はオーディション当日に一つの賭けをする。

それは方向音痴である彼女が時間に余裕を持たずに出発し、オーディションの集合時間までに着けたら参加しようというものだった。住んでいる京橋のマンションからオーディション会場の大阪ビジネスパークまでは歩いて20分の距離。もし迷わずに時間通りに着けたなら「神様がオーディションを受けなさいと言っているのだ」と思うことにしたという。

そして中澤は時間通りに着く、いや自らの思いに反して着いてしまったのかもしれない。
会場には3000人の参加者が集っていた。

中学生や高校生に混じって並ぶこと数時間。
気持ち悪くなるほどの緊張感の中、1次審査はたったの数秒で終了。
99パーセント受かる自信はなかったという。
しかし…中澤は1パーセントの可能性をものにする。大阪予選ではその日のうちに会場で予選通過者が発表されたのだが、中澤はその中に残っていた。

翌日に行われた2次の歌審査。
一番良い恰好でとスタッフに言われ、後につんくから「サイズが合ってない」と揶揄された大きめの黒いスーツ姿で審査に臨む。
この時と東京スタジオ審査に進んでから歌ったのが大黒摩季の『ら・ら・ら』である。東京の審査にはスーツの失敗を反省し慎重に衣装を選んで行った。





その後『ら・ら・ら』は中澤にとってとても大事な曲となり、節目というときには必ずといっていいほど自分のライブなどで歌っている。2010年には大黒摩季と対面、感激のあまり泣いてしまったという(→中澤ブログ2010年10月16日)。

時にはメンバーが中澤のために歌ったこともあった。


スタジオ審査が終わった後には「東京に来た記念に」とスタッフがお台場のフジテレビに連れて行ってくれた。1997年、フジテレビ本社屋はこの年にお台場に移転してきたばかり。お台場はドラマ『踊る大捜査線』(1997.1〜1997.3放送)でも分かるようにまだまだ空地の目立つ時代だった。しかしフジテレビ社屋に代表されるように近未来感が漂い若者が集う流行りのスポットでもあった。翌年にはお台場を舞台として『モーニングコーヒー』のプロモーションビデオも撮影される。

中澤が大阪に戻って数日、「説得力のあるバラードで」と番組から要望が出され、さらに中澤のオーディションは続いた。大阪予選に参加した3000人はすでにこのとき3人になっていた。

会社の有給を使い上京する中澤。こっそり誰にも言わずに受けたオーディションだったが、日に日に周囲からはそういう目で見られるようになり、中澤にはそれもプレッシャーになっていった。

この日のオーディションの後、大阪から来た3人は用意されたホテルに泊まった。
ホテルに入った3人は夜遅くまで語り合ったという。

それは中澤裕子と平家充代の初めての語らい。このときは二人ともこれで会うのが最後だと思っていた。しかしこの二人の関係は後々まで続いた。

一緒にバラエティ番組のMCをしたり、ハロープロジェクトの年長者としてみんなを共に引っ張っる立場になっていく。2002年には中澤がラジオでハロープロジェクトからの平家の卒業の話をしていて落涙してしまうこともあった。

このホテルでの語らいはその二人の関わり合いの原点となるものだった。

中澤はその後大阪に戻り、友人や会社の人たちに応援されながら、最終予選を待つことになる。

オーディションが進むものの自分に自信を持てずにいた中澤は、地元・大阪の友人たちと飲むたびに涙を流していたという…

<第1回>http://blog.livedoor.jp/m-16_67297/archives/52656671.html
<第2回>http://blog.livedoor.jp/m-16_67297/archives/52657082.html

    < 3 >                (敬称略)


『ASAYAN』にてシャ乱Q女性ロックボーカリストオーディションが告知されたのは1997年4月初めのこと。

最初はシャ乱Qがプロデュースすることは伏せられていた。小室哲哉、MAX松浦に次ぐ第3弾のボーカリストオーディションとしてのみ告知されたのである。募集画面には「ロック魂。」と大きく映し出されていた。

告知を行ったのは後にモーニング娘。の名物マネージャーとして有名になる当時はシャ乱Qのチーフマネージャーを務めていた和田薫であった(以下「和田マネ」)。

当時のシャ乱Qは94年から96年にかけてのブレイクが一段落し次の展開を模索している最中で、97年には派生ユニット・スーパー!?テンションズを結成したり主演映画『シャ乱Qの演歌の花道』が公開されたりと、今までと違った形で仕事をしている。

これは96年に2500万円するとされる衣装が盗難にあったことも影響しているかもしれない。当時のシャ乱Qはシャネルに衣装を発注することで知られており、2500万円もの被害の影響は少なからずあったのではないかと思う(盗難保険がどうなっていたかは知る由もないが)。

また和田マネは97年にはシャ乱Q→スーパー!?テンションズ→モーニング娘。と徐々にマネージャ業務の中心をシフトしており、98年にはシャ乱Qの所属事務所であるアップフロントグループ内に自分の事務所であるハーモニープロモーションを設立した(実際には会長命令により立ち上げさせられたと言った方がいいかもしれない)。

ハーモニープロモーションはその後99年にプッチモニのマネジメントをした後、新堂敦士・EE JUMP・より子。・THETAと音楽系中心のマネジメントをしていたが、その後は徐々にグラビアやアナウンサーなどの少し大人の女性をメインとしたマネジメントにシフト。安めぐみや優木まおみ、橋本マナミや朝比奈彩といった面々をブレイクに導いている。

そのシャ乱Qの和田マネが夏頃にデビューする女性ロックボーカリストを求めているとASAYANで告知したのだ。当然和田マネが何者なのか当時は分からなかったので「誰がプロデューサーなのか」と、番組として期待を煽った面もあった。





4月27日、スタジオにシャ乱Qが登場した時に、はたけが責任者、しゅうが衣装担当ということが判明。シャ乱Qのメンバーは番組とオーディションのことをよく分かっていない感じで、和田マネが取ってきた仕事の内の一つという感じだったように思う。

4月13日には福岡オーディションが始まっているので、シャ乱Qプロデュースということは分からないままオーディションに参加していた人も多数いた。5月3日には東京オーディションに福田明日香が参加している。

この春に中学に進学した福田、部活はブラスバンド部に入りドラムを叩いて新たな学生生活が軌道に乗り始めた頃だった。このオーディションの申し込みで書いた履歴書、これに載せる写真のためにした化粧が福田が自分で初めてしたメイクだった。ロックの雰囲気で仕上げたという。鏡の中の自分を見て「あぁ、これで矢は放たれた」と福田は思ったそうだ。

シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディションには事前の書類審査がなく、東京オーディションの会場には5000人の女性が詰めかけていた。福田によるとテレビ東京に向かう電車の中はそれらしい人でいっぱいだったらしい。会場では和田マネが来場者を食い入るように物色していた。

当時のオーディションは高校生から20歳前後の女の子が中心で、これを書いている2017年ほど低年齢化が進んでいなかった。その中で中学1年生だった福田のまわりは(彼女からすれば)大人ばかりで少々圧倒された面もあったようだ。

福田のところにはその日の夜のうちにASAYANのスタッフから電話がかかってきて、一次審査の合格と初めての歌審査が5月5日に行われるということが伝えられた。福田は家のカラオケで練習を積み、父親に英語の発音をアドバイスされたりしながら、その日を迎えることになった。





ここからが福田明日香伝説の始まりで、2次審査の相川七瀬『BREAK OUT』、スタジオ審査で歌った安室奈美恵『Body Feels EXIT』、工藤静香『激情』で鮮烈な印象を残していく。

また、本人は「緊張していただけ」と言うかもしれないが、ちょっとぶっきらぼうな話し方で愛想のない姿勢は彼女をとても大人に見せていた。『BREAK OUT』を歌った2次審査の時も「ホントに12歳なの?」とスタッフから何度も聞かれている。

このオーディション当時の福田の心境は語り下ろしの書籍『もうひとりの明日香』に載っているが、この時のオーディションに対する捉え方、取り組み方にものすごく彼女独特の感性が出ていて面白い。後に安倍なつみが『ALBUM1998-2003』で触れているスカートコンプレックスのことや、自分をアイドルとして見ることへの疑問が率直な気持ちで書かれている。

…そして東京予選で福田は「つんく一推し」の評価を得て、河村理沙・兜森雅代と共に最終予選へとコマを進めることになる。

ちなみに東京予選の2次審査に後にチェキッ娘として活動する藤岡麻美(ディーン・フジオカの妹)がいたという話もあるが、それはまだ確認できていない。

4月8日、STONE Projectの合同ライブ「大人の休日倶楽部vol.1」at 自由が丘マルディグラ。
ここに書くということで、ブログに訪れる方の需要を考え福田さん成分多めの記述に 笑

この日はPEACE$TONE含めSTONE Project所属メンバーたちのソロステージの連続という今までにない試み。今まで聴いたことがなかったメンバーのソロの声を聴けたりもして新鮮だった。


1番手、福田さんは産休から復帰後の初ライブということで、約2年ぶりのステージ。
2年は長いようであっという間。まあ11年待ったことに比べればたいしたことないかという気も 笑

ステージはやはりさすがという感じ。伸ばしたときの声の響きが違うわ。
その伸びと声質とのバランスもちょうど良く。
やっぱり好きなんだな、福田さんの声、と再認識。

歌い方は少し柔らかくなったかなと思った。丁寧ともまた違い、「滑らか」になったというか。これはバンド形式かソロで歌うかという違いもあるのかもしれないが。
あ、でもよくよく考えたら福田さんが単独で歌っているのを聴くのは初めてだ。それこそオーディション時の『BODY FEELS EXIT』や『激情』まで遡るかも 笑

TERRAさんと久々にやったオリジナル曲『不死鳥〜フェニックス〜』。
やっぱりこの二人の声の相性に慣れ親しんできたから安心して聴ける。二人で『歓喜の響き』の話もしていたので、これもぜひやって欲しかった。

『不死鳥〜フェニックス〜』は「リハなんていらない」とぶっつけでやったとのこと。しかし2年ぶりにやったはずなのにそれを感じさせない完成度。こういう阿吽の呼吸的な感じ、素晴らしい。

今日はバービーボーイズのカバーも披露。ここあまり詳しくないんで原曲を知らずに聴いたけど、最初これが新しいソロ曲かと思う。これ良かったんだよなー、また聞きたい。

BARBEE BOYS『チャンス到来』


そういえばオケはどうしたんだろう。オケのアレンジがイイなと思って聴いていたので。原曲のサックスの部分、オケだと微妙にサックス音じゃなかったような気もするけどどうなんだろ。やはりこれはまたやってもらうしかないな(笑)

今日の福田さんは、自分の出番が終わった後も他の演者さんのMCにかけ声かけたり、なんだかとてもアグレッシブ・アクティブ。今までにない経験で「おぉ」という感じで楽しく見てました。


2番手はTERRAさんとえっちゃん。

えっちゃんが出ると思っていなかったので、開場前に衣装を着たえっちゃんを見かけて思わず「今日出るの?」と聞いてしまった 笑

えっちゃんの声を単体で長めに聴いたのは初かも。顔に緊張が出るのは相変わらずですが 笑、声聴いて「おっ!」と思った。意外と圧力ある感じなんだなあと。面で押してくるとでもいうか。今度自分の最も得意とするカバーを聴いてみたい。

今回のライブではTERRAさんのみアコギ生演奏での出演。
ソニンさんに提供した『ジグソーパズル』、これは今日とても印象に残った。
ちょっと尖っている曲と歌詞でギター1本の弾き語りというのもこの曲に相応しいような気がする。

こちらはソニンさんバージョンの『ジグソーパズル』

このPV、竹石渉さん作品なのね。

TERRAさんの弾き語りは好きですね。若手の男性の弾き語りは自分感の押し出しが強いことが多くてあまり好みではないことが多いけど、TERRAさんの弾き語りは気負い少なく、年相応の落ち着きと渋みも加わって感情とのバランス取れててイイ!

TERRAさんの出演は新曲含めた3曲とちょっと少な目。もう少し聴きたかったな。
逆に少ないと喉大丈夫?と心配になってしまう(病気の話もしてたしね)。


3番手はEMAさん。
「和」なテイスト漂う雰囲気と楽曲。
ちょっと緊張がまだ抜けないかなー。忌憚なく書くならばもう少し場慣れが必要かなと思う。楽曲とステージコンセプトは面白いと思うので、もったいない! アニソン的な楽曲と「和」の組み合わせは需要が多いので、ステージでの落ち着きと客席との呼吸が合わせられればいい方向に行くのかなあと。

もうすぐ赤城山に千本桜が咲くよと伝えようと思っててすっかり忘れる。時間があるなら宣材写真に「千本桜」と今日の衣装でどうですか?と 笑


トリはayumiさん。

えっちゃんと同じく歌声を単体で長めに聴いたのは初かも。
私見ですがユニゾンやコーラスよりもいいかもしれない。

正直2期生たちの声はハーモニーという部分では相乗効果が薄いと思っていたので(声の区別がつかなくなってしまうとでもいうか、埋もれてしまうことが多い様に感じていたので)、今回ソロを聴いて素直に「こっちの方がいいんでない?」と思ったのだ。

『はやぶさは想いを乗せて』の手話の説明もなかなかで、観客みんなに振り付けをさせたのはお見事!
ソロ曲も「これキャス配信している時歌えばいいじゃん」と思う。この辺伝わってくるものがあった。


今日からSTONE Projectのライブではスタンプカードを発行。
さっそく1つ押してもらいました。

ただ、特典の10回というのはなかなか厳しいかな。
同じアーティストのライブに年に10回足を運ぶのは、ライブマニアか、単推しに近い形で通ってる人、日程など条件を気にしないでいつでもライブ行けるような人だけだと思うので。(カードは1年期限ではないですけどね)

かくいう自分も、同じアーティストの所に足を運んだのはたぶん1番多い年でも10回行くか行かないか。
浦和レッズの観戦に一番行けてた頃でも(ライブ参戦なく、観戦だけしてた頃)年20試合行けていたかどうかなので、他の趣味がありつつの年10回は厳しいかな。

1年で貯まらないポイントカードはけっこう忘れられがちなので、10回で1回タダはいらないので5回で何かの方がうれしいかも。5回は望みがあって「もうすぐ貯まる」という期待感も持てそう。貧乏性でスミマセン。でも時間とお金の問題でもあるので、自分としての感覚はこんな感じですね。

ちなみにとあるアーティストが、1回行くたびにピックをくれて5枚たまったら好きな曲を1曲CDに焼いてくれるという特典をやっていた。こういうのけっこう好き。

(賛否)ということだったので、ちょっと書きにくいことも書きつつここまでと。

あとこういうSTONE Projectのイベントが続くなら、STONE Projectとして1曲あってもいいのかな。セッションというよりも、何か最後に全体で歌うオリジナル曲があればライブの締めとして楽しそう。


全体を振り返るといいライブでしたね。演者に緊張感はありましたが、全体で見ればリラックスムードだったと思うし、アットホームな感じでもありましたね。この日は「春の訪れの柔らかさ」とでも言いましょうか・・・

また再見ということで!

このページのトップヘ