Submarine Dog

最近はほぼほぼツイッターでのつぶやきに移行してます。
https://twitter.com/ikedaya1298
@ikedaya1298

このブログは2002年から続いているものです。
書いた当時の気持ちや考え方は今は変化した部分はありますが
当時の情勢や空気感を残しておくためにそのままにしてあります。
その辺ご理解の上お読みいただければと思います。


かつてモーニング娘。を追いかけた時期があった。

追いかけたといっても当時は浦和レッズのサポーターとして全国を駆け回っていた時期とも重なり、テレビ等のメディアから得る情報の方が圧倒的に多かった活動ではあったが。

彼女たちに出会ったのは1997年。

その前からテレビ東京のオーディション番組『ASAYAN』(リニューアル前の「コムロギャルソン」も含む)を好きで見ていたのだが、97年に始まった新たなオーディションにモーニング娘。になる前の彼女たちがいた。

オーディションは女性のロックボーカリストを求めるというものだった。
(※オーディションからデビューについては当サイト『いつか来た道』でも参考にしてください)


そのオーディションに早い段階から出ていた福田明日香はとても異質な存在だった。

当時12歳、その年齢は他の参加者と比べて群を抜いて低かった。
そしてその年齢に似合わぬ抜群の歌唱力と、回りに合わせないちょっとぶっきら棒な物言い。
それらが彼女をとても大人に見せていた。

その異質さにオーディションのプロデューサーだったシャ乱Qの面々やそのマネージャーである和田薫氏、番組MCたちも面白がって喰いついていたように思う。

オーディションは進み、福田も最終選考まで残る。
しかしロックボーカリストの栄冠は勝ち取れず、他の夢破れた参加者とグループを結成することになった。

モーニング娘。の始まりである。


今でこそ「モーニング娘。=アイドル」という認識は自他共に揺るぎないものだが、当時は中途半端なものであり、そこの線引きは明確なものではなかった。

人気の出方、メディア出演での扱われ方、それらはアイドル的なものだったと言ってもいい。
ただし彼女たち自身はと言えば、元々のオーディションがロックボーカリストを求めるものであったので、アイドル活動にも戸惑いがあったし、グループ活動にも疑問を抱いている部分があった。

アイドルを目指していたわけではないのにアイドルとして活動していく、その矛盾への悩みが特にオリジナルメンバーの5人は強かったと思う。そしてその矛盾への葛藤、時折見せる本音というか営業スマイルの中にある陰に自分はとても惹かれた。安倍や飯田ら長年活動したメンバーはその思いをラジオ等で漏らすことも多々あったしね。

実際1999年の半ば頃、活動が停滞を迎え今後の雲行きが怪しくなった頃にはラジオで「私たちはアーティストです」と宣言する場面もあった。(その直後の『LOVEマシーン』の大ヒットによってその思いとは裏腹な方向に加速していくのだが)

その変革の年の1999年。
4月にグループ結成わずか1年半で脱退していたのが福田だった。

辞める直前のシングルには自身の卒業ソング『Never Forget』も入り、表題曲『Memory青春の光』は8人のコーラスワークを生かしハーモニーが抜群に綺麗な、グループのメンバーたちも大好きな今に語り継がれる名曲であった(個人的な感想よ)。そしてその頃には「タンポポ」という派生ユニット(石黒・飯田・矢口)もコーラスワークを重視した楽曲のリリースを続けていた。

そして福田の卒業公演は生バンドを入れて行われていた。
福田が辞めてからのライブは生バンドを止めてオケだけになった(その後何年にも渡って)。

その生音を惜しむ声は多かった。
メンバー自身も(特に安倍)「あの頃のライブは楽しかった」というような内容の発言をしている。

抜群の歌唱力を誇りメインボーカルの一翼を担った福田の脱退と共に失われた生演奏のライブ。
そしてその後、特に『LOVEマシーン』以降の楽曲の変化。複雑なコーラスワークはなくなり、ユニゾンやパートぶつ切りの曲が多くなった。

それらの変化、、、その変化前の象徴が福田の存在であったのかもしれない。

本人は否定するだろうし異論もあるだろう。

ただ、自分だけではなく同じような感覚を持った人たちはそれなりにいた。
当時の巨大掲示板での交流、テキストサイトでの記事、自分の所にコメントを書き込んでくれていた方たち(サイト移転に伴い多くの部分が失われてしまったが)・・・あの『Memory青春の光』前を大切にしていた方が多くいたのは幻ではなかったと思いたい。



福田明日香がヘアヌード写真集の発売を発表した。

今さらヌードで動揺や興奮する年齢では自分もなくなった。
正直そこはどうでもいい。

2年前に書いた記事で、彼女とその所属グループに対する気持ちの整理はつけている。
だからどうでもいい。欲しいとも思わない。





だが、どうでもいいが、どうでもよくないのかもしれない。
そんな風に思えることもある。

彼女がモーニング娘。だった頃の思い出。
そしてPEACE$TONEとして活動していた頃の思い出。

PEACE$TONEのリーダー・TERRAさんの前バンドTHETAに彼女の歌声が入っていたことに歓喜した日もあった。



そして復帰してからのライブの思い出。
そこであった交流。遥か以前からの付き合いもあれば、「福田さんのファンなんです」と若い子(それこそASAYANオーディションの頃に生まれたくらいの)が彼女の歌声を聴きに来たこともあった。

メンバーたちにも顔を覚えてもらっていたし、長年通う中でそれなりに会話もしたと思う。

2年前に離れてしまったけど、今でもその日々を大切に思っているのは確かだ。

そこに今後ヘアヌードという話題はずっと付きまとうだろう。

「あの(ヘアヌードを出した)福田明日香がいたモーニング娘。」
「あの(ヘアヌードを出した)福田明日香がいたPEACE$TONE」

ヘアヌードそのものはどうでもいいけど、自分の思い出はその度に少し傷つく。
もしかしたら彼女に携わった(特にPEACE$TONE時代の)方たちもそうかもしれない。

それは彼女自身には責任のないことだ。
それは自分の思い出であり、それらに彼女が何ら負うところはなくていい。

ただ彼女がやりたいことをやっただけ。
それだけのことだと思う。
ただモヤっとした感情をこちらが持つだけの話だ(批判や非難ですらないです)。



どうしても一つだけ残念に思うのは、
あれだけの才能とあれだけの環境があり、彼女の声を必要としてくれる仲間がいて、自身も音楽に対する思いを吐露しておきながら、なぜ音楽と真剣に向き合わなかったのだろうかということ。私には歌しかないっていうのが離婚した理由じゃなかったっけ? だから戻って来たときは「いよいよ」って期待が大きく膨らんでいた。

・・・しかし現実にはほとんどが中途半端に終わってしまった虚しさ。

これも彼女には「私の勝手でしょ」と笑われそうだが、本当に彼女の歌声が好きだった自分には今の状況がとても虚しい。

もうさ、、、「やっぱり歌がやりたいんです」と言っても、次は惑わされない自信があるけど。



でも福田さん、20年間、いろんな思い出もありがとう。

このサイトはあなたの存在があったからであり、時として思わぬ交流を生んでくれたりもしました。
今まで感謝しております。




そう。20年前に夢見た世界は実現しなかった。
はっきりと書けば、成長し実力をつけた彼女たち8人(1999年の)が揃ってもう一度生音で『Memory青春の光』を歌って欲しかった。

でもそう思い続けた日々も楽しかった。
このサイトがあったおかげでいろんな楽曲を知ろうという気持ちを長年維持出来た。
年をとってもライブハウスに通える原動力にもなった。


ハッピーエンドだけがすべてじゃない。
いろんな歩みがあって、道が分かれていって、、、それが人生。


これにて彼女の「今後」を書くことはもうないと思います。

さようなら。今までありがとうございました。






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あ、このサイト辞めるわけじゃないからね。
たくさん書いてきたこと、ブログの運営が続いている限り残しておきます。
あと「今後」であって過去のことはこれまで通り書くかもしれません。
過去まで変えてしまってはそれこそ歴史修正主義になってしまいますからね 笑

平成女性アイドル史(メジャーシーン)をざっと振り返ってみる。

平成一桁前半はアイドル冬の時代。フジテレビの番組との連動のアイドルグループやその出身アーティスト、ヤングジャパン系(アップフロントの源流)のWINKや森高千里さんらのアーティスト性の強いガールポップに勢いがあった時代。

その後CDが爆発的に売れる時代に入った頃に沖縄アクターズスクール出身のグループがたくさん出てくる(安室さんやMAX、SPEED、知念里奈さん等多数)。ただこの頃のアイドルは所謂ガールポップとの棲み分けは曖昧で、その境界を論じると不毛になりそうなのでやめておく(笑) 小室プロデュース、伊秩プロデュースとプロデューサーの名前が大きくなったのもこの時代。

その曖昧な棲み分けの中で開催されていたのがテレビ東京のオーディション番組『ASAYAN』。ロックボーカリストを選出する中で生まれたのがモーニング娘。で、小室オーディションからは鈴木亜美さんが見出された。

当初はモーニング娘。もアーティスト指向を強く残していたが平成11年の『LOVEマシーン』のヒットで多人数アイドルグループとしての存在を確立。同年の鈴木亜美さんのブレイクもあって昭和とは違う「アイドル」のイメージが出来上がっていったように思う。同年には宇多田ヒカルさんと浜崎あゆみさんも大ブレイクをしており、アーティストとの棲み分けもはっきりしたのではないだろうか。

エイベックスも平成11年にはDreamを生み出すオーディションを開催し(倖田來未さんらも輩出)、3人組をアーティスト色の強い形で送り出したが、数年後には増員し8人組でアイドル性の強い活動に移行している。

その後数年はモーニング娘。(とハロプロ)の時代。音楽業界で最もCDが売れた時代(平成10年前後)もあって、勢いのまま続々と派生ユニット、グループをデビューさせた。ソロでは松浦亜弥もブレイクを果たす。傍らではZONEやBOYSTYLE、Folder5といったグループも活躍したが数年で活動休止をしている。

BOYSTYLEと共にアミューズでアイドル活動していたPerfumeがアーティスト性の強い方向でブレイクしたのはモーニング娘。の反動だろうか? Perfumeはアクターズスクール広島出身で基礎力もあり、アミューズ所属のアイドルたちの中では一番若かったのが却ってモーニング娘。全盛期と被らずに良かったのかもしれない。

平成20年に前後してAKB48が台頭すると共に「アイドル戦国時代」と言われる時代になっていく。
AKB48は立ち上げにモーニング娘。初期に関わったスタッフたちが多数参加。立ち上げ当初は苦戦したが平成20年にレコード会社を移籍後良曲(『大声ダイヤモンド』『言い訳Maybe』等)に立て続けに恵まれ大ブレイクに至った。

ブレイク後のCDの売り方(所謂握手会商法)には賛否両論あるが、一つ「功」を挙げるなら売り上げを見込めるアイドル業界にCD不況に喘ぐ多数の音楽関係者(プロデューサーやアーティスト等含め)が入ったことによって楽曲のクオリティが底上げされたことだろうか。

ただアイドル戦国時代とは言いつつもメジャーシーンではAKBグループが席捲。アイドリング!!!やぱすぽ☆、SUPER☆GiRLSといったグループが活躍するもののAKBの牙城は崩せなかった。

平成20年半ばを過ぎた頃に放送されていたテレビ朝日『アイドルお宝くじ』という番組では多数のアイドルグループが毎週歌って競っていたがその番組も平成29年に終了、多くのグループもその後解散や活動休止した。「アイドル戦国時代」とは何だったのか、そこはまた別に掘り下げる必要があるだろう。

AKBグループからブレイク期のメンバーたちが多数卒業後に台頭したのが同系列の乃木坂46や欅坂46。これもきっかけは当時の楽曲の良さであったと思っているので、やはりCDであろうとストリーミングであろうと楽曲は大事だと痛感させられる。乃木坂46もブレイク期のメンバーたちは卒業しつつあるので今後難しい運営を迫られるのかもしれないが、比較的世代交代は上手くいっているように見える。

平成最後に現れたのがLittle Glee Monster。彼女たちはアイドルとは違うと思うがメンバーの多くはアクターズスクールの出身。そんな彼女たちがブレイクしつつあるのを見て、アクターズスクール系とオーディション系のブレイクは交互に来るのか?などと考えている。

もちろんブレイクしたから凄いとか売れないからダメと言ってるわけではなく、あくまでも全体としての流れを個人的に振り返っているだけなのでお気を悪くなさらずに。むしろ埋もれてしまっている楽曲を知りたい派なので(笑)、まあまだまだ勉強しなければと。

ガールポップ史やガールズバンド史なんかも振り返ってみたいが、さすがに30年一括りでは無理かなと。どちらも初期は昭和に掛かる。

そういう意味では「昭和的なアイドル」と明確に区別できる(冬の時代で分断されているとも言える)平成アイドル史というのは論じやすいのかもしれない。



P.S. 個人的にはアーティストとアイドルの境界を論じるのは無意味かなと思っています。その辺は御本人たちの気持ちの在り方の問題もあるし。ただ現実は「アーティスト」と「アイドル」、それぞれのイメージは個人個人で固まっているのかなと思います。

「アイドル」という括りの無い国だと総じて「アーティスト」として評価されますが、個人的にはそれもどうなかと思っているので、けっきょくは曖昧なままでいくのが楽しく優しいのではないかなと。

日常は普通に過ぎていく。
気持ち的にも復活しているように思う。

が、時としてどうしようもなく悲しくなる。
毎日のように通った散歩道を通り過ぎる時、好きだったお菓子を見かけた時、そんなちょっとしたことで人はいろんなことを思い出してしまうのだなと実感している。


さて、それはさておき・・・

こちらには書いていなかったので。
先月は柳原尋美さんのお墓参りにも行ってきた。

19年の歳月が過ぎ、あの頃一緒に活動していたモーニング娘。のメンバーたちは今年は20周年を祝っている。

別の時間の流れ、時に「もしも」はないと分かっているが、もし彼女がいたらどうなっていたのだろうと思った。

ノスタルジーでも原理主義でもない、あったかもしれない現在を想像して彼女を想う。そんな19年目だった。

来年は20年。りんねや小林さん、ご両親とそのご家族、太田監督や三本木さん達当時の関係者、自分には測り知れない思いがあるだろうが、彼女と共にある人たちの思いを少しでも感じられればいいなと思う。

元気は取り戻しつつある。

大丈夫なのだが、何がツラいかというと買い物がツラい。

スーパーやコンビニに寄って食べ物を買う基準、手があまり効かなくて飲み込むのが苦手な母の基準で長年買ってきたから、いざそれがなくなると何を買って良いのか決まらなくて、ずっと店内をウロウロしている。

自分はいったい以前何を食べていたのだろうか、そして好きに買い物が出来るようになっても心に訪れる虚無感、それがツラいのだ。


今日はライブへ。
ここ数年音楽の力に救ってもらってきた。今日も救われた。

思えば音楽的な嗜好もけっこう変わったかもしれない。
以前はメロディー重視の傾向が強かったけど、歌詞や根本的に持つ世界観に惹かれることも多くなったというか。ま、年っちゃ年なんだけど。


ふっと。20年前、戻ってみたいなとか思う。
長野オリンピック、モーニング娘。メジャーデビュー、フランスワールドカップ、iMAC、CDバブル・・・
細かい記憶はもうないが、楽しい1年だったんだろうな、きっと。

母が亡くなった。

どうかここに書くことをお許しいただきたい。

文章にすることで、いやしないと平静を保っていられそうになく、頭を使っていることでなんとか耐えていられる・・・そういうことなのかもしれない。

ここに15年以上書き続けて、一つの自分の防御機能になっているのだと思う。



母がパーキンソン病の薬を処方されるようになってから6、7年。

思えば長かった。

年々、日に日に状態が悪くなっていくのは分かっていた。

高齢からくる体力の衰えも目立ち4年前には脱水症状で救急車で運ばれた。
敗血症も併発していた。

その年の冬には胃潰瘍で入院した。

それでもなんとか回復して杖をつく生活になりながらも笑顔を見ることが出来た。

その次の夏におそらく最後の旅行になるのではないかと思い秋田と青森に連れていった。

青森のアスパムの郷土料理屋で青函連絡船を見ながら食事をした。たぶん一緒に飲んだ最後のお酒だったと思う。

その後記憶が曖昧になりながらも、青森に旅行に行ったことはずっと覚えていて本当に良い思い出になった。


2年前には足がはれ上がってきた。

静脈瘤だった。足に血が溜まり出血して止まらなくなった。

意識混濁になり輸血を繰り返してなんとか回復した。


退院してきたときには車イスが必要になった。

手術して入院すると逆に体が弱ってしまう面もあるので、手術はしなかった。

両足を圧迫して血を溜めないようにするために包帯をぐるぐる巻き。

毎日包帯を交換して、それを洗濯する日々が始まった。

それでも調子がいい時には母は車イスを押しながら自分で歩くことができた。

毎朝車イスをクルマに載せ、近所の公園や自然のきれいなところに散歩に連れて行った。



1年くらい前からそれも出来なくなってきた。

時間や日にちの概念がなくなってきた。

妄想を話すことも多くなった。


母の世話で面倒が多くなるにつれ、自分の心も荒みかけていることが分かった。

時に投げつけてしまったきつい言葉、今となっては後悔してもしきれない。



つい先日の母の日、近所に新しくオープンしたケーキ屋さんでケーキを買って食べさせた。

美味しいと言って、久々に顔をほころばせて食べた。

食べる気力と飲む気力、それが最近は特になくなっていた。だからケーキを美味しいと言ってくれたことは自分もうれしかった。

2日前、また食が細くなっていたので「食べなきゃ死んじゃうよ」と言って食事をさせた。

その時に言った

「もっと一緒にいたいよ」

という言葉が能動的な意志の表れの最後だったと思う。

どんなに迷惑かけられても、どれだけ嫌な思い出が増えても、それでも自分ももっと一緒にいたかった。



今朝母が死んだ。

気持ちの整理はつかない。つくわけがない。

でも受け入れなければならない。

母は死んだ。



生んでくれてありがとう。

育ててくれてありがとう。

大好きでした。

いろいろと思うことがあって距離を取ろうと思っています。

少なくとも今の形での活動は自分は気持ちよく応援できないかなと。
どんな状態でも応援するのがファンだと言われればそうですが、そういう意味ではもうファンではないのかもしれません。

それに長年モヤっとしたものを抱えてあのグループの応援を続けてきたのは確かで、ちょっと最近臨界点を迎えてしまったのかなと。



始まった当初から自己紹介等がおざなりで、新規のお客さんに壁を閉ざしていたこと。
福田さん、サングラスして出てきたり、それで名前すら明かさないで歌ってましたよね。それはそれで構わなかったのですが、たぶん部外者には「???」だったと思います。歌さえ聞いてくれればいいというスタンスも分かりますが、あまりにも基本情報が少なすぎたと思います。

わけのわからないメンバー増員。
増員されたメンバーに非はないですが、なぜ増員する必要があったのか、その目的がまったく分かりませんでした。
グループ発足当初の説明ではTERRAさんとやまんchanがTHETA解散後も歌を続けるという二人の夢を福田さんがサポートするのがあのグループの在り方だったと思います。だからこそ福田さんの一歩引いたポジションというのも理解できました。

その状態のところに2013年〜14年くらい?だったかな、メンバーが入れ替わり立ち替わり加わって。見ている側には何の説明もないのでサポートメンバーなのか、あるいは正式なメンバーなのかさっぱり分かりません。回数行っている自分がそう思うんですから、初めての人には訳が分からなかったと思います。コーラス要員なの?ダンス要員なの?何? あまりにも説明がなさすぎました。

また、その頃にとあるライブハウスで初見のお客さんが「何人グループなの?」と質問していましたが、それに答えられないというシーンも見かけました。え?自分たちも分かってないの? それでお客さんにどうやって自分たちのことを知ってもらうの?と。はっきり言えばお客さんに失礼じゃない?と。

当初の3人体制、自分は好きだったんですがあれじゃダメだったんですかね? ステージをこなす技量、グループとしての一体感、高いところで纏まっていたと思うんですが、質を下げてまで増員した理由って何なんですかね? 福田さんという絶対的なボーカルがいるのに女性のボーカリストを増やす必要があるのでしょうか?

で、増員したメンバーを「2期生」と呼ぶというのもどうも・・・ アイドルグループじゃないですよね。バンドですよね。自分たちもお客側もその2期生を格下に見てしまう感じ、幸福なことではないなあと思ってました。お客側としてはその2期生(便宜上)に1期生と同じレベルでやってもらわなきゃ増員した必要性を感じないわけで。

また結成メンバーであるやまんchangが知らぬ間にバンドメンバーから外れてしまったり、増員されたメンバーも知らぬ間に「辞めた」ということになってるし、なんでお客さんに説明が一切ないのだろうか?と疑問というか、その秘密主義が不思議ですらありました。


それに付随して、ライブに誰が出るかアナウンスがないという問題もありました。福田さんが産休に入る前後から顕著になったのですが、福田さん目当てで、もし遠くから来ている人がいたりしたらどう思うか考えないんでしょうか? 「福田さん出ないの?」という声、当然ありますよね。

福田さんのネームバリューを当てにしておいて(集客効果を期待して)休演を発表しないのだとしたら「悪質だよね」と言われても仕方のないことだったと思っています。実際に「詐欺に近いよね」という言葉を聞いたこともありました。あるいは代役に立ったボーカルを福田さんと勘違いして見ている人もいらっしゃいました。それでグループとして良かったんでしょうか?


ライブでの疑問。
最近は彼らの地元、東京南西部でのライブばかり。それはまあいいんですが、かえしのスピーカーもないような、PAブースもない名ばかりのライブハウスでのライブが続くと、普段自分の通い慣れた場所からするとガッカリ感が強いです。この施設とこの音響とこの内容でこの値段でやるんだ?と。 まあ値段は応援料込みなのでたいした問題ではないですが「内容」がね・・・

主催ライブとなると準備不足を感じることもしばしば。進行はもちろんのこと、特にMCの行き当たりばったり感が強くて。
緊張からくる間違いとかはどうでもいいんですよ。でも準備不足なのは、それはお客も感じるものです。主催ライブでお客さんが並んでる状態で直前までリハーサルやってる(曲目とか分かってしまうガッカリ感)ことも多々。
準備不足というか、メンバー間の共通認識が弱いと言えるかもしれません。とにかく方向が定まらない。けっきょく記憶に残らない結婚式の司会的なMCと雑談という印象しかありません。
はっきり言えば、ここ2、3年くらい、彼らのライブで100%満足して帰ったことはありません。どこかしらにいつもモヤっとしたものを抱えてました。


キャス等での疑問。
「ツイキャスやります」というので見に行くと、話す内容も決まってなかったりで延々とダラダラ。「質問して」と客に丸投げ状態になるのは勘弁してほしいです。

いやいや、まずパーソナルな部分が分かってないのに質問なんて無理でしょ。聞きたいことは上に書いたような聞きにくいことばっかりなわけで、それを今まで明かさないということは、何か事情があるんだろうなと忖度して(笑)聞けないわけですよ。

またメンバーが配信中に寝たりしていて、「えっ? これって何?」としか思えませんでした。緊張感とか、数少ない客に対する対応とか(こちらも時間を割いているんですよ)、そんなものなの? 誰も注意しないのかなと。

どこかで「大学サークルのような内輪ノリ」というような批評を見かけましたが、たしかに言われればそうだったのかもしれません。お客側のおいてけぼり感が強い。やってる側は分かって当然かもしれないけど、こちらは分かっていませんよと。

それでもね、彼らの作る音楽とTERRAさんと福田さんの合わさった歌声は好きだったので(というか今でも福田さんの歌の技量・声質はとても貴重だと思っています)、それを支えにライブに通い続けたわけなんですが・・・

ここ最近のモーニング娘。との距離(これまでの遠距離は何だったのか?)、あるいは私生活の切り売り状態、とどめは4月1日の不必要(だと思う)なウソ。ちょっともう気持ち的に無理だなーと。

別にセミヌードとかなんとも思わないんですが、あのFLASHのパクリとかその文言とか、根本的に4月1日にそれをやろうと思った感覚が自分とは違うかなと。

たぶんね、福田さんって清流にいられるはずなんですよ。実家のマンションに暮らして、助けを受けて、大きい音出しても構わない環境があって…って、音楽的にはほとんどの一般人より恵まれて暮らしてるのが分かるんですよ。だからなりふり構わずにやるんだったら音楽とそのお客に対してであってほしいと思っていたんですが、それなのに自ら違う濁流に飛び込むその心境ってのが自分には分からなくて。

この辺の感覚が根本的に違うんだろうなと。なんとなくは分かっていたんですが、それを乗り越えるだけの「声」があったんですよね。だからファンを続けてこられた。

これはこちらの勝手な思い込みですが、福田さんにはある種の「孤高感」を求めていたのかもしれません。それが突然大衆迎合的になられると、それは自分の求めているところではないのかなと。

「歌さえ聞いてくれればいい」的なスタンスから一転、モーニング娘。20周年にあやかっての最近の展開、自分はちょっと違うかなと思っています。まあ福田さん自身の選ばれた道ですから、こちらがどうこう言える問題でもありませんが。

うん、でもね、好きだったのは間違いないんですよ。
『歓喜の響き』を聴いた時や、訳が分からなかったけど大人数バンド編成でジャカジャカやってたときはとても可能性を感じていたし、面白かったですね。

また揺り戻しがあったときまでって感じかな。
ここまで書いてしまったら、もう受け入れてもらえないかもしれないけど。

書くのは迷い続けました。
が、書いておかないと根本的に好きだった気持ちも失ってしまいそうで。


重ねた歳月に幸せを感じることが出来る。

と思っていましたが、たった半年でガラガラ崩れていくことの恐怖。
もう自分勝手に付き合っていくのは疲れました。

ので、真剣に向き合えるところにいきます。

ということで不愉快な話、失礼しました。



あ、1997年〜2004年くらいまでのモーニング娘。に関しては変わらず好きですし、ずっと気にしていますので変わらず書いていくと思います。
1999年のカントリー娘。のこともずっと大切ですしね。

ある意味、その頃が大事な故に今は距離を取りたい、そんな感じかもしれません。

モーニング娘。20周年案件が増えてきたここ最近。

忘れかけているエピソード、いや今となっては遥か昔のエピソードを一つ。


<敬称略>

20年前の1998年2月1日、モーニング娘。の5人は横浜アリーナでメジャーデビューシングル『モーニングコーヒー』の発売イベントを行った。

前年のASAYANでのオーディション、合宿と最終選考そして落選、さらに落選組の再召集と『愛の種』の手売り5万枚の試練と完売、それらを経ての満を持してのデビューだった。

『愛の種』の手売り時に4会場目で5万枚の完売が達成されたため5会場目に予定されていた東京でのイベントは中止、そのため『モーニングコーヒー』でのイベントでは大きい会場でやろうとなった。

手売り時には各地方ごとに1万人を超える人が集まっていたため当然東京でのイベントは1万人を遥かに超える人数を想像していた。

が、実際には集まった人数は6000人(一説には3000人)、会場の規模と比べると明らかに見合わない集客状況だった。

この日のことを当時のマネージャー・和田薫(以下和田マネ)がラジオで話している

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2001年4月14日(土)
「和田薫のLF+Rプロデューサーズタイム」

モーニング娘。のデビューイベントって横浜アリーナでやってるのよ。で、これがね、ずーっと「ASAYAN」で追っかけて、モーニングが「愛の種」を買ってくれる人に対して握手会をやるというので、毎回1万人以上の人が集まってきてて、まあ要は、5万枚すぐ売っちゃって、プロデビューします。ここです。っていうことでやったのが、なにを考えたかちょっと間違えちゃって横浜アリーナを取ってたの。

俺ね、それをレコード会社から提案されたとき――「だってナゴヤ球場いっぱいになってるんですから。これやばいですよ。横浜アリーナぐらいじゃないと」って言われたとき、俺、大丈夫なのかなあとか思いながら「うん、まあ、じゃあそうしようか」って言ったんだけど、実際やったときね、横浜アリーナのアリーナしか埋まらなかったのよ。

でも当の本人達は、それまでもずーっと「ASAYAN」でやってきてたから、「横浜アリーナ満杯だあ!」ぐらいの気持ちで来てるわけよ。で、来たら横浜アリーナの、ほんとのアリーナのね、1階だけ――それも半分ぐらいしか埋まってなかったのよ。スタンドはおろか。
で、俺、来るときも一緒の車で行ってたから、本人達はもう、なんかウキウキで来てるわけよ。それでちょっと調子に乗ってんなあ、なんて思いながら。

で、1回目が終わって「あれ? いつもと違う」みたいな感じになってんのよ。「あれ? なんでこんなに少ないのかなあ」みたいな感じになってて。
で、そのあとやったら、次は100人ぐらいになっちゃったの。で、そのあと係の人間が「次30人ぐらいしかいませんよ。どうします?」「あ、やってやって」って。で、そのあと、最後――5人。

横浜アリーナだよ? 1万人以上入るんだけど。目の前に――最前列に5人だよ、5人。と、メンバー。メンバーとタイ。
それでね、ちょっとみんな、へらへらって――「あれ? なんでこんなんでやるの?」みたいな感じになったのよ。旧メンバーが――旧メンバーっていうか元々いる5人が。
で、俺、終わったあとに、すごい言ったのね。「今日お前らは、ここ満員になると思ってただろ。そんな甘かねえよ。テレビがずっと追っかけてたから満員だったんだ。そうじゃなくて満員になるわけないだろう」と。

「5人の前で歌ったの悔しかったか」「悔しかったです」「でもな、5人のお客さんに、いかに届けれるかだぞ。お前らその時に、どんだけ必死にやったんだ」っていう話をしてて――まあそれは意外と必死にやってたんだけど。5人の前でも。
で、横浜アリーナを出るとき――車に乗ってたんだけど――5人にね、横浜アリーナに「覚えとけ」って言えと。いつかここを金取って満員にしてやるからって。「覚えてろ、横浜アリーナ!」って言いながら、みんなで出てったのよ。

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そして、その後のモーニング娘。はご存知の通り大ブレイクしミリオンヒットも生まれ、テレビでは見かけない日がないほどの人気者となっていく

あの日の横浜アリーナから3年が経った2001年4月8日、モーニング娘。はついに横浜アリーナでコンサートをやることになった。奇しくもこの日は和田マネの誕生日で、当時モーニング娘。に在籍していたオリジナルメンバーの中澤裕子・飯田圭織・安倍なつみの3人はそれぞれおめでとうメールを和田マネに送っていた(和田マネは2000年春にマネージャーを離れている)。

再び同ラジオから抜粋

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こんなおハガキが来ております。

「和田さん、こんばんは。突然ですが、誕生日おめでとうございました。もうすぐ36ですね」

「誕生日おめでとうございました」で「もうすぐ36ですね」――これちょっと違うんだけど。36歳になったんだから。
でね、この前4月8日が僕、誕生日で、結構誕生日はいろんな人に祝ってもらったりとかしてて楽しかったんだけど、この日ね、俺、結構感動したのよ。
それはね、自分の誕生日を感動したわけじゃないのよ。そんなことをラジオで――公共の電波でしゃべるほど偉くないからあれなんだけど。

この日ね、モーニング娘。から結構メールが届いてたのね、朝から。
例えば生歌うたってくれて、メッセージを留守電に残してきてくれる子から、メールで、なんかいっぱい音楽が付いたメールが来たりとか、いろんな、それぞれのキャラクターに合わしたメールが来てたんだけど。

その日4月8日、モーニング娘。って横浜アリーナでコンサートやってたの。でね、もう1回またメールが来るのね、なぜか。
それがね、3人からだけ来たのね。この3人ていうのは、元々モーニングにいた3人なのよ。

「昨日今日、横浜アリーナ4回公演、全て満員でした」っていう――書き方はみんな少しずつ違うんだよ、1人ずつ――中澤、飯田、安倍。

例えば「和田さんとの約束を果たしました」っていう人もいたし、「和田さんがあの時言ったことがすごく悔しかった。悔しかったというか、ほんとに横浜アリーナ覚えてろよ、と思った、その気持ちがあったから今日のライブは最高でした」っていうやつもいたし、「ハッピーでした! 横浜アリーナ、とうとう2days4公演満杯! やりましたよ、和田さん!」みたいな、それぞれのメールが入ってたのね。それが、すっごいうれしくて。
で、そのあと別のスタッフから「お誕生日おめでとうございます」っていうメールが来たときに、「今日の横浜アリーナのモーニング、今までの中で最高でした」って来たのよ。これを聞いて、俺すっごい、あ〜……と思って。

ま、その時は――俺なんかもう忘れてたからね、それ。メール来るまで。メール来て「あぁあぁ、そういえば言ったなあ」ぐらいの気持ちだったんだけど、俺がね、「『覚えてろよ、横浜アリーナ』――そういう気持ちで来いよ。お前ら今まで調子に乗りすぎてんだよ。そんな芸能界甘くないよ」っていうのを言ったあとに――みんなだって、楽屋で泣いてたのよ、その子達。その頃――モーニングがね、終わったあと、くしゅくしゅくしゅくしゅ、5人の前で歌わされて、みたいなさ、どうなんだろう、みたいな感じだったときに、車で横浜アリーナの駐車場を出るときに言ったのがね、すっごい自分の中で思い出して、あ〜、なんかたまには俺もいいこと言うんだなあ、なんて思って。
俺なんかもう、誕生日で全然――友達集めてメシ食ってたからね、休みで。行けよ! お前も横浜アリーナ! みたいな。

でも俺はね、一応、明日――中澤卒業するのよ。これはね、最後大阪まで行きますから、ちゃんと。大阪に行って、最後のその、中澤の卒業を、ひとつ見届けたいな、というふうに思っております。
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中澤はこのツアーで卒業することが決まっていた。
そしてこの横浜アリーナには石黒彩も訪れていた。

ツアーファイナルである翌週の中澤の地元の大阪公演(大阪城ホール)には和田マネに連れられた福田明日香も訪れている。

そう中澤はデビュー当初の雪辱を果たし、最高の形で卒業していったのだった。

中澤はこう書き残している。

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4月7・8日の横浜アリーナのコンサート。
「1998年2月1日にリベンジを誓った場所。
 “モーニング娘。のコンサートでここを超満員にしてやる”
 自分のラストツアーで横浜アリーナが組まれるなんて、もうどこまでもラッキー。単独コンサートでは初めてだった横浜アリーナ。モーニング娘。ってこんなに大きくなってたんだ……。
 『私、本当にもう思い残すことないな』
 自分が実現させたいと思ったことはすべて現実となった。
 あんた、最高の人生やな。もう、ええやろ。十分やろ」
                (中澤裕子『ずっと後ろから見てきた』より)
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この日からさらに3年が経った2004年の1月25日、今度は安倍なつみが横浜アリーナで卒業公演を行っていた。モーニング娘。の顔、マザーシップと言われた安倍なつみの卒業コンサートがモーニング娘。の単独コンサートでなくハロプロの合同コンサートであることに疑問はあったが、自分はこれが「横浜アリーナ」という会場としての都合が少なからずあったと思っている。

最終卒業公演、ラストで語りかけた飯田から安倍への言葉。

「覚えてる?
 デビューするときにさ…『ビッグなアーティストになろうね』って…
 横浜アリーナを満杯にできるくらいのビッグなアーティストになろうね』って…
 ねえ、見て、横浜アリーナ…いっぱいだよ」

涙を流して語りかけた飯田と、大きくうなずき涙をこぼす安倍。

二人の涙と思いに会場中も涙した。

今でも思い出すとウルっとくる。6年間の横浜アリーナにまつわる物語。
そして翌年には飯田も横浜アリーナで卒業した。

あれからも10年以上の時が経っているとは信じがたいものの、自分の中ではとっても大切にしているエピソード。



皆さん覚えていますか?

あ、中澤さん卒業時の特番『BS中澤SP』で保田さんが中澤さんに渡したプレゼントの写真、あれを見て中澤さんは泣いてしまったのですが、あの写真の中の1枚もデビューイベント時の横浜アリーナでの5人が映った写真でしたね。

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