Submarine Dog

最近はほぼほぼツイッターでのつぶやきに移行してます。
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@ikedaya1298

このブログは2002年から続いているものです。
書いた当時の気持ちや考え方は今は変化した部分はありますが
当時の情勢や空気感を残しておくためにそのままにしてあります。
その辺ご理解の上お読みいただければと思います。

<第1回>http://blog.livedoor.jp/m-16_67297/archives/52656671.html
<第2回>http://blog.livedoor.jp/m-16_67297/archives/52657082.html

    < 3 >                (敬称略)


『ASAYAN』にてシャ乱Q女性ロックボーカリストオーディションが告知されたのは1997年4月初めのこと。

最初はシャ乱Qがプロデュースすることは伏せられていた。小室哲哉、MAX松浦に次ぐ第3弾のボーカリストオーディションとしてのみ告知されたのである。募集画面には「ロック魂。」と大きく映し出されていた。

告知を行ったのは後にモーニング娘。の名物マネージャーとして有名になる当時はシャ乱Qのチーフマネージャーを務めていた和田薫であった(以下「和田マネ」)。

当時のシャ乱Qは94年から96年にかけてのブレイクが一段落し次の展開を模索している最中で、97年には派生ユニット・スーパー!?テンションズを結成したり主演映画『シャ乱Qの演歌の花道』が公開されたりと、今までと違った形で仕事をしている。

これは96年に2500万円するとされる衣装が盗難にあったことも影響しているかもしれない。当時のシャ乱Qはシャネルに衣装を発注することで知られており、2500万円もの被害の影響は少なからずあったのではないかと思う(盗難保険がどうなっていたかは知る由もないが)。

また和田マネは97年にはシャ乱Q→スーパー!?テンションズ→モーニング娘。と徐々にマネージャ業務の中心をシフトしており、98年にはシャ乱Qの所属事務所であるアップフロントグループ内に自分の事務所であるハーモニープロモーションを設立した(実際には会長命令により立ち上げさせられたと言った方がいいかもしれない)。

ハーモニープロモーションはその後99年にプッチモニのマネジメントをした後、新堂敦士・EE JUMP・より子。・THETAと音楽系中心のマネジメントをしていたが、その後は徐々にグラビアやアナウンサーなどの少し大人の女性をメインとしたマネジメントにシフト。安めぐみや優木まおみ、橋本マナミや朝比奈彩といった面々をブレイクに導いている。

そのシャ乱Qの和田マネが夏頃にデビューする女性ロックボーカリストを求めているとASAYANで告知したのだ。当然和田マネが何者なのか当時は分からなかったので「誰がプロデューサーなのか」と、番組として期待を煽った面もあった。





4月27日、スタジオにシャ乱Qが登場した時に、はたけが責任者、しゅうが衣装担当ということが判明。シャ乱Qのメンバーは番組とオーディションのことをよく分かっていない感じで、和田マネが取ってきた仕事の内の一つという感じだったように思う。

4月13日には福岡オーディションが始まっているので、シャ乱Qプロデュースということは分からないままオーディションに参加していた人も多数いた。5月3日には東京オーディションに福田明日香が参加している。

この春に中学に進学した福田、部活はブラスバンド部に入りドラムを叩いて新たな学生生活が軌道に乗り始めた頃だった。このオーディションの申し込みで書いた履歴書、これに載せる写真のためにした化粧が福田が自分で初めてしたメイクだった。ロックの雰囲気で仕上げたという。鏡の中の自分を見て「あぁ、これで矢は放たれた」と福田は思ったそうだ。

シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディションには事前の書類審査がなく、東京オーディションの会場には5000人の女性が詰めかけていた。福田によるとテレビ東京に向かう電車の中はそれらしい人でいっぱいだったらしい。会場では和田マネが来場者を食い入るように物色していた。

当時のオーディションは高校生から20歳前後の女の子が中心で、これを書いている2017年ほど低年齢化が進んでいなかった。その中で中学1年生だった福田のまわりは(彼女からすれば)大人ばかりで少々圧倒された面もあったようだ。

福田のところにはその日の夜のうちにASAYANのスタッフから電話がかかってきて、一次審査の合格と初めての歌審査が5月5日に行われるということが伝えられた。福田は家のカラオケで練習を積み、父親に英語の発音をアドバイスされたりしながら、その日を迎えることになった。





ここからが福田明日香伝説の始まりで、2次審査の相川七瀬『BREAK OUT』、スタジオ審査で歌った安室奈美恵『Body Feels EXIT』、工藤静香『激情』で鮮烈な印象を残していく。

また、本人は「緊張していただけ」と言うかもしれないが、ちょっとぶっきらぼうな話し方で愛想のない姿勢は彼女をとても大人に見せていた。『BREAK OUT』を歌った2次審査の時も「ホントに12歳なの?」とスタッフから何度も聞かれている。

このオーディション当時の福田の心境は語り下ろしの書籍『もうひとりの明日香』に載っているが、この時のオーディションに対する捉え方、取り組み方にものすごく彼女独特の感性が出ていて面白い。後に安倍なつみが『ALBUM1998-2003』で触れているスカートコンプレックスのことや、自分をアイドルとして見ることへの疑問が率直な気持ちで書かれている。

…そして東京予選で福田は「つんく一推し」の評価を得て、河村理沙・兜森雅代と共に最終予選へとコマを進めることになる。

ちなみに東京予選の2次審査に後にチェキッ娘として活動する藤岡麻美(ディーン・フジオカの妹)がいたという話もあるが、それはまだ確認できていない。

4月8日、STONE Projectの合同ライブ「大人の休日倶楽部vol.1」at 自由が丘マルディグラ。
ここに書くということで、ブログに訪れる方の需要を考え福田さん成分多めの記述に 笑

この日はPEACE$TONE含めSTONE Project所属メンバーたちのソロステージの連続という今までにない試み。今まで聴いたことがなかったメンバーのソロの声を聴けたりもして新鮮だった。


1番手、福田さんは産休から復帰後の初ライブということで、約2年ぶりのステージ。
2年は長いようであっという間。まあ11年待ったことに比べればたいしたことないかという気も 笑

ステージはやはりさすがという感じ。伸ばしたときの声の響きが違うわ。
その伸びと声質とのバランスもちょうど良く。
やっぱり好きなんだな、福田さんの声、と再認識。

歌い方は少し柔らかくなったかなと思った。丁寧ともまた違い、「滑らか」になったというか。これはバンド形式かソロで歌うかという違いもあるのかもしれないが。
あ、でもよくよく考えたら福田さんが単独で歌っているのを聴くのは初めてだ。それこそオーディション時の『BODY FEELS EXIT』や『激情』まで遡るかも 笑

TERRAさんと久々にやったオリジナル曲『不死鳥〜フェニックス〜』。
やっぱりこの二人の声の相性に慣れ親しんできたから安心して聴ける。二人で『歓喜の響き』の話もしていたので、これもぜひやって欲しかった。

『不死鳥〜フェニックス〜』は「リハなんていらない」とぶっつけでやったとのこと。しかし2年ぶりにやったはずなのにそれを感じさせない完成度。こういう阿吽の呼吸的な感じ、素晴らしい。

今日はバービーボーイズのカバーも披露。ここあまり詳しくないんで原曲を知らずに聴いたけど、最初これが新しいソロ曲かと思う。これ良かったんだよなー、また聞きたい。

BARBEE BOYS『チャンス到来』


そういえばオケはどうしたんだろう。オケのアレンジがイイなと思って聴いていたので。原曲のサックスの部分、オケだと微妙にサックス音じゃなかったような気もするけどどうなんだろ。やはりこれはまたやってもらうしかないな(笑)

今日の福田さんは、自分の出番が終わった後も他の演者さんのMCにかけ声かけたり、なんだかとてもアグレッシブ・アクティブ。今までにない経験で「おぉ」という感じで楽しく見てました。


2番手はTERRAさんとえっちゃん。

えっちゃんが出ると思っていなかったので、開場前に衣装を着たえっちゃんを見かけて思わず「今日出るの?」と聞いてしまった 笑

えっちゃんの声を単体で長めに聴いたのは初かも。顔に緊張が出るのは相変わらずですが 笑、声聴いて「おっ!」と思った。意外と圧力ある感じなんだなあと。面で押してくるとでもいうか。今度自分の最も得意とするカバーを聴いてみたい。

今回のライブではTERRAさんのみアコギ生演奏での出演。
ソニンさんに提供した『ジグソーパズル』、これは今日とても印象に残った。
ちょっと尖っている曲と歌詞でギター1本の弾き語りというのもこの曲に相応しいような気がする。

こちらはソニンさんバージョンの『ジグソーパズル』

このPV、竹石渉さん作品なのね。

TERRAさんの弾き語りは好きですね。若手の男性の弾き語りは自分感の押し出しが強いことが多くてあまり好みではないことが多いけど、TERRAさんの弾き語りは気負い少なく、年相応の落ち着きと渋みも加わって感情とのバランス取れててイイ!

TERRAさんの出演は新曲含めた3曲とちょっと少な目。もう少し聴きたかったな。
逆に少ないと喉大丈夫?と心配になってしまう(病気の話もしてたしね)。


3番手はEMAさん。
「和」なテイスト漂う雰囲気と楽曲。
ちょっと緊張がまだ抜けないかなー。忌憚なく書くならばもう少し場慣れが必要かなと思う。楽曲とステージコンセプトは面白いと思うので、もったいない! アニソン的な楽曲と「和」の組み合わせは需要が多いので、ステージでの落ち着きと客席との呼吸が合わせられればいい方向に行くのかなあと。

もうすぐ赤城山に千本桜が咲くよと伝えようと思っててすっかり忘れる。時間があるなら宣材写真に「千本桜」と今日の衣装でどうですか?と 笑


トリはayumiさん。

えっちゃんと同じく歌声を単体で長めに聴いたのは初かも。
私見ですがユニゾンやコーラスよりもいいかもしれない。

正直2期生たちの声はハーモニーという部分では相乗効果が薄いと思っていたので(声の区別がつかなくなってしまうとでもいうか、埋もれてしまうことが多い様に感じていたので)、今回ソロを聴いて素直に「こっちの方がいいんでない?」と思ったのだ。

『はやぶさは想いを乗せて』の手話の説明もなかなかで、観客みんなに振り付けをさせたのはお見事!
ソロ曲も「これキャス配信している時歌えばいいじゃん」と思う。この辺伝わってくるものがあった。


今日からSTONE Projectのライブではスタンプカードを発行。
さっそく1つ押してもらいました。

ただ、特典の10回というのはなかなか厳しいかな。
同じアーティストのライブに年に10回足を運ぶのは、ライブマニアか、単推しに近い形で通ってる人、日程など条件を気にしないでいつでもライブ行けるような人だけだと思うので。(カードは1年期限ではないですけどね)

かくいう自分も、同じアーティストの所に足を運んだのはたぶん1番多い年でも10回行くか行かないか。
浦和レッズの観戦に一番行けてた頃でも(ライブ参戦なく、観戦だけしてた頃)年20試合行けていたかどうかなので、他の趣味がありつつの年10回は厳しいかな。

1年で貯まらないポイントカードはけっこう忘れられがちなので、10回で1回タダはいらないので5回で何かの方がうれしいかも。5回は望みがあって「もうすぐ貯まる」という期待感も持てそう。貧乏性でスミマセン。でも時間とお金の問題でもあるので、自分としての感覚はこんな感じですね。

ちなみにとあるアーティストが、1回行くたびにピックをくれて5枚たまったら好きな曲を1曲CDに焼いてくれるという特典をやっていた。こういうのけっこう好き。

(賛否)ということだったので、ちょっと書きにくいことも書きつつここまでと。

あとこういうSTONE Projectのイベントが続くなら、STONE Projectとして1曲あってもいいのかな。セッションというよりも、何か最後に全体で歌うオリジナル曲があればライブの締めとして楽しそう。


全体を振り返るといいライブでしたね。演者に緊張感はありましたが、全体で見ればリラックスムードだったと思うし、アットホームな感じでもありましたね。この日は「春の訪れの柔らかさ」とでも言いましょうか・・・

また再見ということで!

    < 2 >                (敬称略)


1997年4月初頭に『ASAYAN』で告知された「シャ乱Qロックボーカリストオーディション」は、その後のアイドル界にとって重要な歴史の転機である。

90年代前半のアイドル冬の時代、その後の小室全盛期、沖縄アクターズスクールの躍進の流れはこのオーディションをきっかけに変わったと言っても過言ではない。

芸能プロダクションや芸能スクールでレッスンを積んで、レコード会社に宣伝してもらってソロに近い形でデビューするというそれまでのメインストリームはここから変わっていったように思う。

もちろんこれ以前にもおニャン子クラブや乙女塾といった素人的な部分を売りにしたアイドルグループはあったがそれは一過性に過ぎず、また沖縄アクターズスクール勢にしても全面的にアイドルとして活動しているわけではなかった。

その後「アイドル戦国時代」と言われるグループアイドルの隆盛はこの「シャ乱Qロックボーカリストオーディション」に端を発していると言ってもいいのではないだろうか。

そう、言わずもがなだが、このオーディションからモーニング娘。の歴史が始まるのである。ただし、あくまでもこのオーディションは一人のロックボーカリストを求めて始まったのだということは改めて記しておく。

後にモーニング娘。になるメンバーたちは決してアイドルになることを目標にオーディションを受けたわけではなかった。


さて、「シャ乱Qロックボーカリストオーディション」を振り返る前に1996年のことをもう少し振り返っておこう。

このオーディションを受けた主要メンバーたちは1996年には何をしていたのか。
なぜ彼女たちはオーディションを受けることになったのか、その背景を探っていこうと思う。

1996年4月の時点でのモーニング娘。のオリジナルメンバー5人の年齢は以下の通り(シャ乱Qロックボーカリストオーディションは97年)。

中澤裕子(22) OL
石黒彩(17)  高校3年生
飯田圭織(14) 中学3年生
安倍なつみ(14)中学3年生
福田明日香(11)小学6年生

中澤裕子は大阪でOLとして働き始めて5回目の春。
上阪後の寮生活を経て一人暮らしにも慣れ、徐々に敷かれたレールが見えてきてしまい違う世界への冒険を夢見る日々。

石黒彩は高校1年の時にベースを買ってもらって以来バンド活動まっしぐら。しかもビジュアル系。札幌市内のライブハウスで歌っていたこともある。
5月にASAYANの札幌オーディションに参加して予選を突破、東京のスタジオ審査にまで進んだものの落選。落選後、自分が写るASAYANの放送を見てダイエットを決意する。(おそらくこのオーディションはAISの佐々木祐子が勝ち進んだときのもの)

飯田圭織は7月のASAYAN札幌予選に参加。『Body Feels EXIT』を歌う。
「小室さんの彼女にしてください」の迷言を残すも東京での本戦出場はならず。95年にはSONYのアルカリ乾電池のパッケージのモデルを務めたりもしたので、芸能界への志向は元々かなり強かったのではないかと思われる。

安倍なつみは中1の頃にイジメられた経験があったという。
その時ラジオから流れてきたJUDY AND MARYの『小さな頃』を聴いて救われてからは歌手を夢見る少女となる。オーディションに参加するのは高校生になってからと親から言われ、そのときを待ち望む日々。
96年のASAYANに参加しなかったのは結果論からすればすごく幸運だったと言えるかもしれない。私見ながら、96年に参加していたらそれなりに上位に勝ち進んでAISやSay a Little Prayerとしての活動が待っていたかもしれなかった。

福田明日香は家のカラオケで歌いこむ毎日と、モダンバレエを習ったりする日々。この年に劇団に所属する可能性はあったが、未所属のまま翌年のASAYANオーディションを迎えている。家出経験があったり友達の家で裏○○○を見たり、なかなかやんちゃな一面もあったようだ。当時の流行もあり、デビューしたばかりのKinki Kidsが好きだったこともあったとか。

平家充代は高校2年生。中華料理店でアルバイトをしていた。
ロックボーカリストオーディションの前にもASAYANのオーディションを数回受けていたというから、おそらくは96年のいずれかの大阪か名古屋の予選に参加している。

またモーニング娘。の2期メンバーである市井紗耶香も中学1年生だった96年からASAYANオーディションを受けていたが書類選考の段階であえなく落選。

矢口真里は中学2年生。
96年4月期のドラマ『みにくいアヒルの子』のオーディション(ASAYANとは関係ない)に小学生役で受けるも落選。このドラマの岸谷五朗演じる主人公が自らのことを「おいら」と呼んでいたことから、後に矢口も自分のことを「おいら」と呼ぶようになる。

高校1年生だった保田圭はおそらくこの頃はコンビニで週5日のバイトをこなしていた。
メッシュ、カラコン、ルーズソックスのコギャルファッション。
その後モーニング娘。加入までにヨーカドー→CASA→マクドナルドとバイトを渡り歩いたらしく、けっこういまどきな感じのする高校生だった。

その他、モーニング娘。以外のメンバーでは、カントリー娘。の戸田鈴音は広島の高校で、ソニンは神戸の中学でそれぞれ寮生活しており、親元を離れた厳しい環境で学生生活を送っている。

公に芸能活動していたのは稲葉貴子が大阪パフォーマンスドールとして活動していたくらいで、この時点では大部分がレッスンも受けていない素人ばかりだった。


シャ乱Qロックボーカリストオーディションが始まる前の、つまりハロープロジェクトの歴史が始まる前の1996年とはこんな時代だった。

当然今に繋がるモーニング娘。やハロプロが出来るなどと思うはずもなく、つんくがプロデューサーとして名前を轟かすとも誰も思っていなかった時代。

振り返ってみると、ASAYANそのものが求心力を持って時代と共に歩んでいたんだなと思う。「夢のオーディションバラエティ」とは言い得て妙で、そこに人が集まるべくして集まってきたとでもいうか・・・

Submarine Dog的モーニング娘。20周年企画『いつか来た道』
〜世紀末のオーディション番組とモーニング娘。を振り返る〜


2008年に書いたシリーズものを加筆修正して再構築。
2017年のモーニング娘。20周年にあたって当時の事を振り返っていこうと思います。

ゆっくり更新。一応『愛の種』完売のところまでを目標としていますが、なにぶん遅筆&面倒くさがりなので叱咤激励してください(笑)

とりあえず活動の始まった1997年4月に合わせて1本目。
ASAYANを中心に振り返る予定なのでまずは97年4月にたどり着くまでの前史です。
ここがないとあのオーディションの本質が見えてこないと思うので・・・

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    < 1 >                (敬称略)


1999年に地球が滅びるというノストラダムスの大予言。

そんな都市伝説が巷で話題になっていた90年代中ごろ、日本はバブル崩壊でお先真っ暗の超就職氷河期の真っ只中。
「地球が滅びるなんて・・・」と思いつつも、どこか終末思想的な考えを少なからず持っていたあの頃。

そんな時代に芸能界という華やかな世界を目指すための一つの番組があった。

世の中の不況はどこ吹く風、音楽業界は毎年のようにCD売り上げを伸ばしミリオンヒット連発、まさに沸騰している状況であった。その活況を呈している音楽業界、引いては芸能界を目指すオーディション番組があったのである。

1995年10月に始まったテレビ東京の『ASAYAN』。

20年が経った現在でもこの番組に携わった人たちが今なお多く活躍している伝説のオーディション番組である。



『ASAYAN』は1992年にスタートした『浅草橋ヤング洋品店』を前身としており、1995年に始まった段階では番組前半部が従来の『浅草橋ヤング洋品店』を受け継いだバラエティー色の強いコーナー、後半部が『コムロギャルソン』という小室哲哉がプロデュースするオーディションコーナーとなっていた。

その『コムロギャルソン』のコーナーを拡大し、1996年4月に「夢のオーディションバラエティー」として1時間番組としてリニューアルしたものが我々のよく知る『ASAYAN』という番組である。

司会にはナインティナインと永作博美を起用。
世田谷区の砧にある東京メディアシティ(TMC)で行われる公開収録には女性を多く観覧に入れ、制服姿の女子高生もかなり見受けられた。

始まった当初は観覧席の中にナレーションブースを設け、当時『ニュースステーション』内のサッカーニュースで人気を博していた川平慈英が「いいんですか?いいんです!」と実況していた。

ナインティナインにしても1996年にフジ『めちゃ2イケてるッ!』が始まったばかり。
永作博美もアイドルグループ終了後の女優活動が軌道にのってきた時期であり、まさに時流に乗った勢いのある布陣だった。

オーディションプロデュースを行う小室哲哉もミリオンヒットを連発していた全盛期で、彼の音楽を耳にしない日はないというほど彼の音楽が流れていた頃である。



最初に行ったオーディションはdosを輩出したオーディションで、このオーディションから他には松澤由美が後に活躍する。

dosはtaeco(元アイドル西野妙子)・asami(ダンスグループL.S.Dより抜擢、後に小室哲哉とユニットTRUE KiSS DESTiNATiONを結成、小室と結婚後離婚)・kaba(振付師、小室哲哉により抜擢、後にカミングアウトしKABA.ちゃんとして活動)の3人で結成されたダンスボーカルユニットでデビュー曲『Baby baby baby』はオリコン初登場4位を記録した。

dos『Baby Baby Baby』



また当時は小室哲哉が多忙で、小室のサウンドチームの一員である久保こーじがオーディションを担当することもあった。

同時並行的にJリーガーオーディションやCM出場権をかけたオーディションも行われており、まさに『ASAYAN』は華やかな世界への「夢のオーディションバラエティ」となりつつあった。

三井のリハウスのCM出場権をかけたオーディションでは池脇千鶴がその座を射止め、その後瞬く間に女優としての階段も駆け登っている。同オーディションにはまだ無名の頃の加藤あいも参加している。




1996年8月にL☆ISという15人グループをデビューさせたことはオーディションの一つの転機となった。

惜しいところまで勝ち抜いてデビューを掴めなかった人たち、ダンスの実力はあるものの・・・という人たちを一つの大所帯のグループとしてデビューさせることにしたのだ。

L☆IS『Running On』



プロデューサーは久保こーじが務め、デビュー曲は小室のヒット曲をメドレーにしたものでオリコン初登場13位を獲得(当時は今と違って10位以下でも5万枚超えが珍しくない時代)、グループとしても個々としてもそれなりの人気を得ていたものの、デビュー後わずか2カ月で解散。

久保氏によれば元々1曲と決まっていたという話だったが、グループとしての統一性のなさ、悪く言えば勝手が過ぎ見放されたという噂もあった。

現にメンバーの二人は某男性グループアイドル二人との写真を報じられており、全員がそうというわけではないのだろうが、グループ内でロリータチーム、アダルトチーム、ダンスチームとはっきりと分けてしまっていたことも方向性の不一致に拍車をかけていたかもしれない。

しかしこのソロデビューの座を掴めなかった人たちに一つの可能性を感じさせたことは後のこの番組にとって重要なファクターとなっていく。


L☆ISの後には「レコード会社争奪オーディション」で12社からの指名を受けた亜波根綾乃がデビューした。彼女は沖縄タレントアカデミー出身で、同時期に所属していた仲間由紀恵以上の逸材と呼ぶ声もあったほどだった。

亜波根綾乃『ひこうき雲の空の下』CM


この「レコード会社争奪オーディション」ではデビュー予備軍・AISが結成される。
AISはそれまでのオーディションでの有力者を小室プロデュースでは無理なので他のレコード会社に選んでもらってデビューしてもらおうというものだった。

そして華原朋美の再来と言われた佐々木祐子や、後にshelaとしてスマッシュヒットを飛ばす大泉めぐみ、太陽とシスコムーンのオーディションにも参加しハロー!プロジェクトの番組にも出演していた小林優美などがソロデビューの栄冠をつかみ取っている。

佐々木ゆう子『恋はセシボン』


このAISに所属していたもののレコード会社からのデビューに至らなかった田口理恵、AISに所属していたものの学校の都合でオーディションを受けなかった片桐華子・そしてオーディションをスタジオ観覧に来ていた女子高生・大櫛江里加の3名で結成したのがSay a Little Prayerである。

彼女たちはインディーズCDを1店舗10日間で1万枚売ったらレコード会社と契約できるという企画に挑み、見事わずか2日間で1万枚の手売りを果たしメジャーデビューに至った。

LUNA SEAの河村隆一のプロデュースを受け、良曲にも恵まれたが1999年に解散している。

ちなみにAISの一部メンバーたちの交流は後々まで続き、時に食事したり、結婚を祝ったりする姿がブログ等で確認できる。

また1996年当時の小室オーディションには後にモーニング娘。のメンバーとなる石黒彩・飯田圭織・市井紗耶香らも参加していたが、デビューに至らず落選している。


これに並行して1996年秋から6カ月に亘ってavexのMAX松浦がプロデュースする「乱発オーディション」も開催。YURIMARIらを輩出し、後にmoveを結成するyuriや瀬戸カトリーヌらも参加していたが、こちらは大きなムーブメントとはならなかった。

これらの経過から『ASAYAN』の作りはオーディションの結果そのものよりも、オーディションを勝ち抜いていく過程を面白く見せる方向にシフトしていったように思う。

多人数を見せておき、グランプリや落選者と共に視聴者が一喜一憂する。
放送初期と比べ参加者への視聴者の思い入れが強くなったのは間違いない。
オーディションとしての番組が始まって約1年半、作りとしてもちょうど円熟期を迎えていたように思う。

そしてSay a Little PrayerがCD手売り企画に挑み始めた最中の1997年4月、『ASAYAN』を伝説の番組へと変えるオーディションが始まるのである。


Say a Little Prayer『a day』1998

昔書いたものの中に2002年当時のモーニング娘。関係のスケジュールを書き出したものがあったので、一時的にアップしておく。

今日(3月13日)のソニンさんが出演していた『しくじり先生』を見ていて、ふとブログのアクセス解析を見てみた。するとウチの過去記事にアクセスしている方がいて、その記事を見たらたまたまソニンさんがしくじりを語っていた当時のスケジュールを見つけたのだ。

自分で書いたものなのにね、けっこう忘れてる。

当時を知っていれば面白いかもしれないし、あるいは知らないとどういう風に見えるのか逆に聞いてみたい、などと思ったり。

やっぱり1999年と2002年は調べると面白いな。当事者たちにとっては大変だったのだろうけど、心の揺れ動きが垣間見えることがこの両年は本当に多い。


キャバクラ事件が報道される前日に早々にレコード会社はEE JUMPのアルバム発売中止を決めてたんだなー。完全に忘れてた。

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2001.10.  アップフロント組織改編
      UFグループ関連会社に税務調査
2001.10.06 市井紗耶香復帰
2001.10.25 つんく 志村けん&研ナオコのデュエットプロデュースを発表(翌年のミニモニに繋がる)
2001秋   カントリー娘。オーディション→里田加入(会長のカントリー改革の最初)
2001.11上旬 ワイズビジョンに東京国税局の調査
2001.11.02 フジ『13人がかりのクリスマス』の打ち合せ・収録がスタート
2001.11.18 娘。コンサート 沖縄 ライブ後年上メンバーたちは獅子座流星群を見る
      石川 生まれて初めて流れ星を見る
      飯田・矢口・保田・平家は一緒の部屋で流星群を見た
      安倍・りんねが一緒か?
2001.11.20 緑山スタジオでドラマ収録中に加護が倒れる(加護、精神的限界の噂)
2001.11.23 市井 FACTORY出演
2001.11.27 タンポポ『王子様と雪の夜』で初めてオリコン1位になる
2001.12.  日テレ『AX music file モーニング狼。』突然打ち切りされる
2001.12.05 シェキドルがメジャーデビュー
2001.12.06 保田 圭誕生会 藤原紀香らが参加
2001.12.10 市井紗耶香復活コンサートwith中澤裕子 in SHIBUYA-AX
      平家みちよ・きくちP観覧、きくちPと明日香2年半ぶりの再会
2001.12.16 藤本美貴の来年3月のメジャーデビューが発表される
2001.12.17 UFグループの飲食店「ベールヴティユ」が「グッディークラブ」にリニューアル
      これ以前は「花畑牧場」として営業
      「グッディークラブ」になった後も花畑牧場製品とカントリー娘。は関与
2002.01.  正月ハロコンに藤本・里田・石井リカが初参加
2002.01.03 中澤、飯田、稲葉 食事会
2002.01中旬 『モーニングコーヒー2002』レコーディング 旧メンたち高まる不満
2002.01.24 テレビ東京が『ASAYAN』の3月打ち切りを発表
2002.01.27 矢口 プライベート写真流出騒動
2002.01.28 安倍 ラジオで『モーニングコーヒー』を語り、涙
      EE JUMP ユウキ復帰宣言
      シェキドル解散
2002.02.01 飯田 OH-SO-RO収録で故郷からの旅立ち、メンバーとの別れのことを語る
      『モー。たいへんでした』打ち切り決定
2002.02.05 飯田・安倍・保田・矢口・後藤・石川・吉澤のみで『うたばん』収録
      年下メンバーは大阪USJで『HEY!×3』収録
2002.02上旬 安倍 きくちさんからFACTORYのオファー
      ワイズビジョンの白岩久弥(タカハタグループ離脱後のASAYAN演出)が解雇される
2002.02.09-10 花畑牧場で犬ぞりレース大会 あさみ優勝
2002.02.11 市井がラジオで新ユニットデビューは4月下旬と発言
      市井にたいせーから作詞のテーマ「卒業」と「遠距離恋愛」が言い渡される
      それでも名目は娘。時代の払拭
2002.02.15 テレ東『muSix!』の枠移動が決定(4月から火曜日22時)
2002.02.17 「Hello! Project 2002〜今年もすごいぞ〜」横浜アリーナ
      ココナッツ娘。レファ脱退 きくちP観覧
2002.02.20 キリンビバレッジ『キリンきりりす〜なオレンジ』CM発表
       飯田・安倍・保田・矢口・後藤・石川・吉澤のみ出演
2002.02.24 保田、ビビアン・スーらと熱海の温泉に女4人新幹線で行く
2002.02.28 『muSix!』「Angel Hearts」の収録スタート
2002.03上旬 藤本の大々的なデビューキャンペーン
2002.03.04 EE JUMP アルバム『EE JUMPコレクション1』の5月9日発売を発表
2002.03.17 ハロプロキッズオーディションの募集開始
      モーニング娘。 TMCで『HEY!×3』の収録
2002.03.24 渋谷センター街が『4thいきまっしょい!』の宣伝一色に
      テレ東『ASAYAN』最終回
2002.03.26 矢口 自宅で大号泣 カーペンターズ『青春の輝き』『ふるさと』
      TMCで『堂本兄弟』収録 安倍 吉澤 石川 紺野
2002.03.28 安倍 『エアモニ』収録 人生を語る「自分は何を残せるのか」『21世紀』
2002.03.31 より子。 タワーレコード渋谷店でミニライブ
2002.04.04 『muSix!』収録直後に矢口倒れる バカ殿様とミニモニ。姫
2002.04.10 トイズファクトリーが5月のEE JUMPのアルバム発売中止を決定
2002.04.11 『フライデー』にEE JUMPユウキのキャバクラ写真が掲載される
2002.04.12 矢口 韓国へ石焼きビビンバを食べに行く(さくらももこ企画)
2002.04.13-14 娘。「ツアー2002 春 LOVE IS ALIVE!」大阪城ホール
        14日の音源流出(メンバーたちの不満)
2002.04.18 シャッフルユニットの7月3日発売を記者発表
2002.04.19 安倍 フジ『FACTORY』収録 ブルーハーツ『チェインギャング』をカバー
2002.04.20 市井 金髪に染める
2002.04.23 31年にも及んだ五木ひろしと徳間ジャパンとの契約が満了
2002.04.26 OH-SO-ROバスツアー 涙のフリーペーパー
2002.04.27-28 娘。「ツアー2002 春 LOVE IS ALIVE!」さいたまスーパーアリーナ
        2日目に志村けん登場 両日ともきくちP観覧
2002.04末〜05初頃 福田 ライブでGO!GO!7188をコピー、数曲を歌う
2002.05.04 表参道FAB より子。ライブ きくちP観覧
2002.05.06 赤坂BLITZで市井紗耶香 in Cubic Crossのライブ きくちP観覧
2002.05.10 一部量販店で娘。の15thシングルが7月31日に発売されることが告知
2002.05.11-12 東京ビッグサイトでハロープロジェクトキッズオーディション1次審査
2002.05.15 ハロプロと高木ブーのコラボレーション企画が発表される(ハワイ企画)
2002.05中旬 飯田 ソニンと仲良くなる。和田組宣言
2002.05.25 ハロープロジェクトキッズオーディション2次審査
2002.05.27 『EE JUMPのラジオでいいじゃん』打ち切り
2002.05.30 青山劇場『モーニング・タウン』公演 初日
       劇場内でカントリー娘。チョコレート『いちご色の恋』販売
2002.06.01 フジ『めちゃイケ』エンディング曲がより子。の曲に
2002.06.02 フジ『天使の歌声〜小児病棟の奇跡〜』制作発表
       より子。自伝を松浦亜弥主演で実写化
       より子。、アルバム『Aizenaha』で7月下旬にインディーズデビューが決定
        アルバムには「Thanks to 福田明日香」
2002.06.06 高木ブーとのコラボの詳細が告知される
       娘。・ココナッツ・藤本・石井でメドレーを新録
2002.06.08  松浦 FACTORYオープニングアクト 本編出演のより子。と対談
      より子。の歌収録部分はドラマのエンディングで使われる
2002.06.09 ハロープロジェクトキッズオーディション3次審査
2002.06上旬 矢口 中澤卒業の大阪城のDVDを観て泣いた
2002.06.11 『モーニング・タウン』きくちP観覧
2002.06.13 ソニン ソロシングル『カレーライスの女』の8月21日発売が決定
2002.06.15 TBS『うたばん』『深夜の星』のスタッフ付でソニンが高知〜釜山間560kmマラソンに出発
      ユウキが通っていたキャバクラ「NOW」を経営していた新宿の「メディア」社が新宿署に摘発される
2002.06.17 『モーニング・タウン』きくちP観覧
2002.06.19 日テレの娘。新番組タイトル『ティンティンTOWN!』と7月5日スタートがリークされる
2002.06.22 赤坂BLITZで市井紗耶香 in Cubic Crossのライブ きくちP観覧
2002.06.23 『モーニング・タウン』最終日 きくちP観覧
2002.06.27 東京国税局が元ワイズビジョンの白岩久弥、ハイムーンの白岩直弥を東京地検特捜部に告発
      娘。新曲タイトルが発表 『Do It Now !』 発売日も7月24日に確定
2002.06.30 テレ東『ハロモニ』生放送特番でハロプロキッズ最終選考者15人が全員合格
2002.07.06 『Do it! Now』PV撮影 安倍、メンバー全員が帰ったあとの楽屋で一人でデジカム収録
       娘。の思い出、今の娘。への思い、これからの自分の夢をこっそり収録する(いまだに未発表)
      ソニンが韓国・釜山に到着
2002.07.07 お台場 studio DREAM MAKERで『Do it! Now』初披露
       「キダム」の記者発表
      平家みちよの松浦ツアー不参加が決定
      中澤新曲に続き、後藤ソロ、タンポポ・プッチのベスト盤の8月下旬リリースが告知される



で、この後、7月中により子。と姐さんがラジオで会ったり(和田さんも)、りんねにいろんなことが起こったりして、7月下旬のハロプロ大改編発表を迎えると。





2006年6月に書いたものの再掲です。補足説明も足しました(むしろ補足説明かなり書きました 笑)

故柳原尋美さんの誕生日(2005年10月19日)に、石垣島の友人から尋美さんの御両親へバースデーカードが届いていたということ。
そのときは「送ってきたのは、りんね(推定)」みたいな書き方をしたのですが、その後資料をひっくり返していて確定的なこととして書いて良いのではないかと思うようになりました。

りんねがカントリー娘。を辞める頃の状況とモーニング娘。の置かれた状況、2002年に行われたハロープロジェクトの改編(いわゆるハロマゲドン)、それとりんねと安倍さん(なっち)の関係を交えつつ振り返ってみようかと思います。



りんねは芸能界引退までに何回か石垣島を訪れているのですが、これは父親が石垣島に住んでいるからです。不動産屋をセミリタイアした父親が年に半年くらい滞在しているそうです。ほったて小屋みたいなところを改造して自炊して畑耕して・・・そんな暮らしぶりなのだそうです。さすがりんねの父親というか、この父があってこそのりんねというか、正直ちょっとうらやましいです。

カントリー娘。に石川梨華(モーニング娘。)私設記念館さんのヤンタン書き起こしに父親の自然体な暮らし振りが紹介されています。
りんねが2年ぶりの休暇を使って沖縄を訪れたのが2001年のゴールデンウィーク明けなので、ちょうどモーニング娘。初のミュージカル『LOVEセンチュリー』が始まった頃です。2年ぶりの休暇ということはりんねが牧場デビューしてから初めての休暇ということになります。いろんなことを乗り越えてきてメジャーデビューに至り、初めてゆっくりできた時間だったのではないでしょうか。

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2001年10月、<カントリー娘。に石川梨華(モーニング娘。)>が新曲『恋人は心の応援団』をリリース。
りんねはデビュー曲『二人の北海道』から自分のCDをずーっと聴き直しています。

「そしたら、いろんなこと想い出したよ。曲って不思議で、メロディー聴くだけでそのころ感じた色とか想いとか全部よみがえるんだよね。「想い出だ」って思ってたことがリアルに感じるの。みんなが思うりんねってどんな子なんだろう?
 りんねは、カントリー娘。になってから3年近いけど、友達に「変わったよね」って言われるの。少し『女の子』っぽくなったって(笑)。確かに、CDの声も変わってきてるんだよ。
 最初は、「りんね変わった」って言われるのちょっとイヤだったんだ。「昔のりんねじゃない」って言われてるみたいでね。でもさ、高校生のころと今とじゃまわりの環境とかが全然違うし、その「違い」に合わせて変わっていくことは「成長する」ってことなんだと思うんだ。その場所によって「いろんな幸せ」を感じるために、人って変わるんだと思う。
 りんねは割と、自分の好きなこととか、物とかこだわっちゃうタイプだから、変わるのがちょっと怖かったんだけど、今は全然変われるよ。でもね、不思議とそう思えた時から、前よりもっと「好きな物」とか「好きなこと」がわかってきたの。あー、「りんねってこういうの好きなんだね」って自分に言ってること、よくあるもん」(「りんねのしっぽ」第47回より)

この後の11月18日、カントリー娘。はモーニング娘。と一緒に沖縄でライブを行いました。その日の夜、ホテルの部屋でカオリは矢口・圭ちゃん・みっちゃんと、多摩川の河川敷では明日香が、そしてりんねはなっちと一緒に夜空を見上げていました。その日は近年最大の獅子座流星群が見られると言われていた夜。

沖縄の夜空の下、りんねはハロプロの中で一番親しかったなっちといったいどんな会話をかわしていたのでしょう。なっちとの関係は10人祭(2001年のシャッフルユニット)の活動以降急速に深まったようですが、この時期から2人の発言はところどころ共通性が見られるようになります。

2001年末、『アイドルをさがせ』*1 DVD特典のためのコメント撮りがあります。デビュー当時を振り返ってのコメントでした。分かりやすいように少し補足してありますが、以下ほぼそのままの書き起こしです。

「…初めてのコンサートの時に姐さん(中澤)たちにコーラスしてもらったこと
 今でも忘れられないんだ…
 本当は3人(あずさ・ひろみ・りんね)でやる予定だったコーラスをやってもらって…
 始まる前に姐さん(中澤)に言われたんだ…
 『りんねはカントリーで一人でも、モーニングのみんなが仲間なんだから頑張んなさい』って。
 あの言葉、泣きそうなくらいうれしかった…」

「あのとき弱音は絶対吐けなかったから…
 肩ひじ張って、すごい力んで生きてるときで、
 だからモーニングの楽屋にいるときもすっごい緊張してて…」

「今のわたしが見ても、あの頃のりんねに『もっとリラックスしていいんだよ』
 って言ってあげたくなる…
 でも…すっごい頑張ってたなあって思う……」

『カントリーの歴史は全部アイさがが映してて…
 アイさがのスタッフがカメラを持って牧場にいることがあたり前だったから、
 それが牧場の一つの風景になってて…
 とにかく全部映像に残ってるから、もうちょっと時間が経ったら残ってるフィルムを
 全部見直してみたいなあって思います…』

(2014年補足追加)
1999年7月16日にカントリー娘。のメンバーである柳原尋美さんが交通事故により急逝。尋美さんは1998年の深夜ドラマ『太陽娘と海』の頃からモーニング娘。とは度々共演するアップフロント所属のタレントであった。

歌手を夢見ていた尋美さんが1998年の深夜ドラマ『風の娘たち』で花畑牧場を訪れたことをきっかけに北海道との関係性が始まり、翌年にはカントリー娘。の募集を開始。花畑牧場でのオーディションで選ばれた小林梓・柳原尋美・戸田鈴音の3人で活動をすることになる。

3人は花畑牧場に隣接するフェーリエンドルフのコテージで共同生活をし、時には喧嘩し、時には慰めあいながらデビューの日を夢見てレッスンと牧場仕事に精を出していた。が、7月23日のデビュー日を目前に先の事故が起こり、またその事故を受けてメンバーの一人あずさも心労により休業。先行きが見えないまま、残ったりんねが8月1日に北海道上ノ国でコンサートを行うモーニング娘。のステージに立つことになった。

メンバーを失ったカントリー娘。のステージにはモーニング娘。のメンバーがコーラスとして代わりに立った。また、それ以降柳原尋美さんや小林梓さんの思いも背負ってりんねはステージに立つことになる。

上記のりんねのコメント・回想はそれらを受けての発言。
2014年には残った二人が沖縄で再会。旧交を温めている。(追記ここまで)


そして、年が明けて新春ハロープロジェクトののコンサートが終わると、りんねは再び石垣島に向かいます。3日間、特に何もせずひたすらネコと一緒にボーッとしていたそうです。ネコはりんねが沖縄で一人で暮らす父親のためにプレゼントしたもの。そこでりんねがつくづく感じたこと、それは「自然はイイ」ってこと。りんねのエッセイは「春になったら牧場の自然に埋もれに来てねん!」としめくくられています。

2002年2月6日。りんね21歳の誕生日は半年ぶりの故郷・札幌で迎えました。
しかも、中学生の頃から寮生活をしていたりんねにとって10年ぶりの札幌雪まつりです。りんねは幼馴染みと雪まつりにくり出したそうです。この日東京から帯広に帰らず札幌で自分の時間を大切にしたりんね。走り続けて3年近くが過ぎ、いろいろと見つめ直す時期に来ていたのでしょうか。

また、この雪まつりには2月6日にりんねの小学生の時の出身劇団である「札幌こどもミュージカル」がうたのコンサートで参加しています。おそらく幼馴染みとはこの劇団で一緒だった人なのでしょう。りんねは自身の誕生日に自身の出身劇団のコンサートを昔の仲間と見るために故郷・札幌を訪れたのです。


2002年3月、りんねはまた石垣島に向かうチャンスがありました。それはTV番組『アイドルをさがせ』の最終回を石垣島で収録することになっていたからです。しかしこれは会長命令でストップがかかって、行くことが出来ませんでした。

りんねにはラジオ『ヤンタン』に出ることを優先させたため、ストップがかかったのです。ちなみにこの3月30日放送の『ヤンタン』でなっち・圭ちゃん・りんねの3人組の1年3ヶ月に渡るレギュラー出演が終わりでした。

この経緯を説明したヤンタンを聞いているとさんま氏が勘違いして話しているのでわかりにくいですが、なっちとりんねの話を抜いていくと話はちょっと違う風に見えてきます。りんねやなっちは時間的にもっと長い話をしていますよね。(やんどふぁんさいとさんの3月30日ヤンタン書き起こし

最初はりんねも『アイさが』のロケで石垣島に行くスケジュールが組まれていました。それが突然キャンセルされます。そりゃあ父親にも石垣島を訪れる旨を伝えていたでしょうし、りんねの大好きな場所に世話になってきた中澤さんや平家さんと一緒に行けることはりんねにとって何よりの喜びだったのではないでしょうか? なにしろ「姐さんが卒業してコンサートで一緒の楽屋になってうれしい」と言っていたりんねですから。

りんねは「なんでですか?」とマネージャーに食い下がります。マネージャーは「その日はヤンタンがあるでしょ!」とヤンタンを理由にキャンセルになったように言いました。りんねは「ヤンタンの方がやっぱ大事なんだなぁー」と自らを納得させます。石垣島に行けないのは心残りだったのでしょうが、りんね自身ヤンタンの仕事は好きですし、なっちや圭ちゃんとのつながりもあるのでそこは引いたのでしょう。コトはそれで収まるはずでした。

一方、なっちと圭ちゃんはヤンタンの卒業を通常の業務連絡の中で知らされます。モーニング娘。13人揃っている中で「えっと。ヤンタンとりあえず、えっと保田と安倍卒業だから」と。なっちと圭ちゃんは顔を見合わせます。2人の中でショックだったにもかかわらず、マネージャーは意に介することなく事務的に「明日のスケジュールは・・・」と続け出してしまいました。
なっちと圭ちゃんはかなり頭にきたようです。本体付きのマネージャーではなく、普段ヤンタンに一緒に来るマネージャーに苦情を訴えます(この辺の一連の流れはラジオ内容からの引用)。

2人は「微妙な抵抗」と言っていますが、けっこうきつい言い方をしたのではないでしょうか? それに、交替で入ってくるのが松浦さんだったことも2人の堪にさわったのかもしれません。この時期に流出した音源を一つ引用します。
  2002.04.14 モーニング娘。大阪城ホールコンサート流出音源。
    加護?「わー」
    その他「おーい」
    保田「大阪だっぜー」
    矢口「一回目でももりあがろーぜー」
    保田「もうかってまっかー」
    矢口「あー、もうかってませーん ハハハ」
    保田「ぼちぼちでんなー」
    矢口「会社にぼったくられてまーす」
    (周囲笑い)
    矢口「松浦のライブに使われてマース」
    加護「おー、そだよー」
    吉澤「そおやー」
    矢口「それでもがんばりまっす」
    保田「おーし」
    その他「おーし、おーし」
    加護「うぉ!」
    保田「がんばるぞ」
    スタッフ「本番です」

この当時の松浦さんへの認識にはこういうものがありました(もちろん個人的な憎悪とかいう話ではなく、仕事上での意味合いです)。2001年に松浦さんの宣伝に投資した莫大な資金の出所はメンバーだってわかっているでしょうから*2、こう思うのは普通のことだと思います。そういう認識があったから、松浦さんへレギュラー交替することに反発する心が芽生えたのではないかと思います。*3

その後なっちは不満を抱えたまま、どうにか自分を納得させたりんねと焼き鳥屋に食事に行きます。当然なっちはりんねもヤンタン卒業の件を知っていると思い、そのことを話します。りんねにとって衝撃事実でした。「えぇ!!!」「ちょっと待って!なっち!何?今の?」「聞いてないよ!」と取り乱します。りんねは自分にとってヤンタンは大事な仕事だと思っていたし、今後のためにもマネージャーがヤンタンを選んだのだから…と納得したのに、事実はその週の収録でヤンタンは最後でした。

りんねは現場のマネージャーのところに電話します。「今日なっちから聞いたんですけど…」と伝えると明らかに相手は動揺しています。動揺して「社長と話す!」と言ったので待ったものの社長までが動揺していたそうです。先になっちと圭ちゃんから苦情が上がり、今またりんねから上がってきたとなると、古参メンバーたちが結託していると思ったのかもしれません。「社長までが動揺」(瀬戸さんか山崎さんか分かりませんが)ってのはちょっとした騒動になっていたんじゃないでしょうか。

この時期は先述の松浦さんの件はもちろんのこと、『モーニングコーヒー2002』の件、楽曲的な不満*4 、市井さんの扱い等、「中澤さんがいなきゃ押さえる人いないだろ!」てくらい古参メンバーたちの不満が高まっていた時で、メンバーの動向には事務所側もけっこう敏感だったのではないでしょうか。

古参メンバーたちはラジオで意味深な発言を繰り返していましたし、矢口の自宅号泣事件や『青春の輝き』話*5 もこの頃のことです。中澤さんの4月7日オンエアのラジオでは「気分がどうもこう元気になれない時期。いつも不安で、私は一人なんじゃないかなとか、これからどうなるんだろうって思っている時期」と言い、そして「改心」したとなっています。

なっち・りんね共に言うところによると「次の日に大きいことになっちゃった…」。結局、なっちと圭ちゃんは月1回の出演を、りんねはカントリー娘。で持ち回りで一人ずつという準レギュラーの条件を引き出したのですが、この件はりんねのその後の去就に多大な影響を与えた一件だったのではないでしょうか。今から考えてみると、後のハロマゲドンにこの事件は少なからず関係があるとも思えます。

レギュラーを離れる3人はさんま氏にお別れの手紙を書いてきたのですが、りんねはなっちと圭ちゃんにもこの日手紙を書いて渡しました(非公開)。この手紙、おそらく重要なこと(微妙な反抗に関して)が書いてあったと思うのですが、まあ、絶対に表には出てこないものなので、、、公開されているさんま氏への手紙を載せておきます。やっぱりりんねの手紙だけちょっと異質な感じが漂ってますね。(手紙は準レギュラー待遇決定前に書いたもの)


●安倍なつみ
 こうして改めて手紙を書くのはこの前のラブレター企画以来ですね。
「ヤンタンはとりあえず卒業だよ」って聞いた時には、正直本当にショックで悲しくて悲しくて 「なんで?どうして?」って気持ちでいっぱいでした。もうみんなで笑ったり言い合いしたりジョークで大爆笑したりできなくなるんだなぁって、そう思うとなんだか悲しくて、ショージさんの芸術っぽい絵や玉井さんのさり気ないツッコミ が近くで見たり聞いたりできなくなるんだなぁって。
でもやっぱりさんまさんと会えなくなって心のどこかで なっちの事が薄れていくんだなぁって考えるのが一番悲しかったです。 次のメンバーと楽しくトークしてる所をパッと思い浮かべるとなんだかとても嫌であはは。 仕方のない事ですね。でもそのくらい番組とヤンタンメンバーが大好きでした。
 最初はこんなに思い出のある番組になるなんて思っていなくって、でも気が付けば本当に大好きな大好きな 大切な場所になってました。
 ショージさん、玉井さん、りんね、圭ちゃん、スタッフの皆さん。
そして愛するさんまさん。本当に本当にありがとうございました。また必ず遊びに来ます。その時は成長した ギャグなんかを披露しちゃいますよ。
以上なっちでした。

●保田圭
 さんまさん、ショージさん、玉井さん。1年半ありがとうございました。 私はヤンタンが本当に大好きです。だからレギュラーを離れるのが寂しいなぁ。 あっという間の1年半でした。
最初は全然喋れなかった私も「ポテチン」と呼ばれ、そして今じゃおっさんキャラです。 あれは確か『保田です。6時です』から始まったんですよね。ほんと全てがいい思い出です。
 でも1つだけ心残りというか気がかりな事があります。それはなっちの事。 レギュラーを離れる事で終わってしまうんですか?私からのお願いです。なっちをよろしくお願いします。
それでは本当にありがとうございました。

● りんね
さんまさんへ
 1年間と3ヶ月本当にお世話になりました。考えてみるとヤンタンに出演し始めた頃は りんねはまだデビューもしていなくて、ただの牧場娘だったんですよね。 りんねにとってヤンタンは泣いたり笑ったりとっても忙しい番組でしたが、今まで芸能界でしたどんなお仕事よりも楽しかったし、なぜかすごく落ち着く空間でした。 皆さんほんとに温かくて優しくてりんねはラッキーですね。
 そんなりんねにはヤンタンレギュラーに決まった時から一つの野望がありました。それはりんねがこんなに愛してる牧場とか自然とか動物とかが、さんまさんはあんまり興味がない又は嫌いって聞いたからです。そして絶対さんまさんを自然派にしてみせるという事を目標にしました。 案の定1回目から「はぁ?牧場なんで好きなん?」とか「俺は大嫌いや!」と冷たく言い放たれましたが、りんねは負けずに、いやたまに負けて泣いちゃいましたが、今1年とちょっと経ってみて 「コーギーの赤ちゃんってボブスレーみてぇで可愛いなぁ」とか「お家で飼おうかなぁ」とか言っている さんまさんを見て、目標達成20%と思っています。でもりんねはこの後何年とか何十年後とかに、さんまさんが朝7時とかに起きて、ショージさんと二人朝の散歩兼鯉の餌やりをやっちゃうような素敵なおじ様になるまで頑張りますので、だからさんまさんもずっとたくさん笑っていっぱいの人を笑顔にしていっぱい焼肉を食べて元気にいてください。
 いつの日かそれにも飽きちゃったら昼間のピクニックとかに行きましょうね。りんねもメジャーデビューして1年を迎えだいぶ慣れてきました。この1年ヤンタンの影響はすごく大きくてほんとに感謝してます。ありがとうございました。これからもりんねを見守っていてください。いつまでも優しくて元気でちょっとお茶目なさんまさんでいてください。
それではりんねより



これが放送された前の週のヤンタンで「会長から『今年カントリー娘。は変化する。大改革を予定』と言われた」との発言もありました。里田まいさんが入っての新しい4月17日発売のシングルの内容も、当初は「新曲は春or初夏の感じ」(連載「りんねのしっぽ」より)だったのに、どうやら差し換えで『sexy baby』に替わっているようです。これは後のハロマゲドンに先行するモノだったのでしょうか? この時期からハロマゲドンに向けて少しづつ手を打っているのでしょうか?

「牧場を感じる歌を歌いたい」「石川梨華ちゃんにもう1曲だけ入ってもらって、4月17日に曲を出します」といった発売前のりんねの発言を見ると、りんねの求めていたものは牧場を舞台にしてPVを作っていた頃のカントリー娘。だったのでしょう。ただ、もちろんりんねは我慢することろは我慢しなければならないってことは、当然分かっていたと思います。

今までハロマゲドンは「モーニング娘。の枠組みをハロープロジェクトの枠組みに変更したい*7 。ユニットの枠組みをとっぱらいたい。客の囲い込みと各メンバーの人気の底上げを図りたい、事務所の思惑としてはそんな風じゃないのかなと捉えていました。それに後藤さんとユウキの件を絡めて考えていたのですが、それは断片の一部に過ぎず、意外とこのヤンタンの古参メンバー反抗事件は大きいことなのかもしれません。ハロマゲドンがきちんとマーケティングをした上で行ったとは到底思えないし、感情的・直感的に動いてしまった部分も多々あったと思えます。

和田さん*8 が独立させられた後(2004春)、アップフロントの事務所に入っていっても社員から挨拶されないなんて話がありました。思いつきですがモーニング娘。からの旧勢力の潜在的影響力の排除みたいな側面もあったのかもしれないなあ。市井さん復帰の際も旧メン勢が当初は支援していたにもかかわらず、そのあと音沙汰なしになったし、市井さんが復帰してきたときに和田さんや平家さんと行動を共にしていたこともあったのですが、そのメンツもなんだかね…*9

市井さんが正式再デビューした2002年4月あたりから後藤さん卒業あたりまでは収録が一緒になることもたびたびあったのですが、それ以降急速に減ったのも気なるところです。その頃(2002前期?)は「松浦殺すbyソニン」と和田さんが言っていましたが*10 、カオリがラジオで「和田組」を公言してたのもこの時期ですね。一時代を築いたASAYANが終わったのも同時期だったし、区切りをつけるときだったのかもしれません。人事刷新して組織替えというか、古い人たちにはそれなりのポジションに移ってもらって、命令系統の再確立って面もありそうな感じですね。


話を戻しましょう。仮定に仮定の話をこれ以上広げても仕方ありません。

さて、その後のりんねですが、調べていくと以前とあるところに書いた状況とはちょっと違うのかなあと思えてきました。もちろんハロマゲドン直後の牧場ロケでのりんねとなっちとのやり取りは妄想に過ぎませんし、福岡の一夜も妄想にしか過ぎませんが、りんね卒業後のなっちとの関わり方を見ると、それに近いことがあったのは間違いないんだろうなと今でも思っています。*11
しかし、りんねの発言や行動を追っていくと、もっとより深刻というか、自分の節を曲げなかったりんね像が浮かび上がってきます。それがどういう結末を生むか分かってて、りんねは自分の意志を貫くのに必死だったんじゃないのかなと……初志貫徹と妥協に悩まされる葛藤の毎日だったのではないでしょうか。


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長くて終わりません(汗
次回2002年4月以降のことをスケジュールと照らし合わせつつ振り返りたいと思います。



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(2017年2月補足説明追加)
*1 『アイドルをさがせ』は1999年1月から2002年3月までテレビ東京で放送されていたバラエティ番組。通称『アイさが』。モーニング娘。が所属するアップフロントエージェンシーの事実上の買い取り枠で、同事務所に所属するタレントが数多く出演していた。制作は『ASAYAN』を初期から中期にかけて作っていた吉本SSM。
*2 1999年の『LOVEマシーン』から始まり『恋のダンスサイト』『ハッピーサマーウエディング』『恋愛レボリューション21』の立て続けのミリオンヒット、それに付随するコンサートやグッズの収益、CM出演料等当時の収益は相当のものがあったと思われる。2001年デビューの同事務所の松浦さんには新人としては異例とも思える広告出稿量とテレビ出演が用意されていた。
*3 実際安倍さんと松浦さんはその後も距離は開いたままだったようで、その疎遠さは本人たちも認めるところだった(といっても「仲が悪い」というような類のものではない)。

*4 1999年以前から所属していたメンバーたちは初期のコーラス&ハーモニーを重視していた頃の楽曲への回帰への気持ちが強く、たびたび「ああいった曲を歌いたい」的な発言をしていた。
*5 矢口さんもこの頃、1年前の中澤さんの卒業DVDを見ては号泣、自分のミニモニでの活動姿を見ては落ち込んで泣いたりと、多忙すぎる生活と自身の思い描く活動とのギャップに悩まされていたようだ。『青春の輝き』はカーペンターズの曲で、矢口さんの好きなドラマで主題歌として使われていた曲。初心を思い出す曲として矢口さんの『オールナイトニッポン』でもかかっていた。福田明日香さんが卒業するときには彼女にこの曲を送った(福田さんもこのドラマが好きだった)。
*6 里田まいさんはカントリー娘。に2002年1月に加入、4月から本格活動を開始。

*7 当時はまだ「ハロー!プロジェクト」「ハロプロ」という枠組みは世間的にはメジャーな存在ではなく、カントリー娘。やメロン記念日といったグループも概ね「モーニング娘。でしょ?」という世間的なイメージがあったと思う。2002年夏のいわゆる「ハロマゲドン」以降、盛んに「ハロプロ」という単語が使われたため、その後普及していった。
*8 ハーモニープロモーション社長。シャ乱Qのチーフマネージャーの後、モーニング娘。初期のチーフマネージャー。『ASAYAN』でモーニング娘。企画を主導していた一人。1998年にアップフロントグループ内にハーモニープロモーションを立ち上げ、2004年に資本関係を解消。その後安めぐみ・優木まおみ・朝比奈彩らをブレイクに導く。
*9 平家さんのマネジメントを2002年初頭(時期記憶曖昧)に和田さんが申し出たことがあったが会長からは「考えがある」と却下された。また市井さんに関しても復帰後のマネジメントに疑問を呈す発言も見受けられた。

*10 和田さんが持っていたラジオで「ソニンが言っていた」という体にして松浦さんに毒づく発言が度々あった 笑
*11 ここいら辺の妄想は2002〜03年に書いたのですが、もう恥ずかしい過去なので 笑、どうしても知りたい方はこっそり聞いてね。

2月8日に私立恵比寿中学の松野莉奈さんが亡くなられました。
謹んで哀悼の意を表します。

18歳という若さで旅立ったこと、周囲の方々の心情を思うと言葉を失います。
そして松野さんの希望に満ちた未来を思うと・・・


自分は私立恵比寿中学と松野さんのことをよく知っているわけではありません。
時たま歌番組で得た知識がすべてといってもいいでしょう。

それでもこの訃報を聞いて苦しくなるほどに心が締め付けられたのは今から18年前に亡くなったあの子のことを思い出さずにはいられなかったからです。


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1999年7月16日。
北海道の中札内村で一人の女の子が旅立った。

彼女の名は柳原尋美。

カントリー娘。というユニットでCDデビューを1週間後に控えていた時の突然の事故だった。

カントリー娘。は尋美さんと小林梓さん・戸田鈴音(りんね)さんの3人組で、1999年の春に北海道中札内村にある花畑牧場で行われたオーディションで結成されたグループだ。

マネジメントはモーニング娘。(当時は『LOVEマシーン』での大ブレイク前で福田明日香さんが脱退の頃)が所属していたアップフロントグループで、プロデューサーも同事務所所属の田中義剛氏とされていた。

当時の花畑牧場も生キャラメルで全国的なブームを起こす前の借金にあえいでいた頃で、まだまだ牧歌的な雰囲気を残す牧場だった。


尋美さんはカントリー娘。になる以前にはデビューしたばかりの頃のモーニング娘。とたびたび共演。ドラマや映画の撮影で数多く行動を共にした。

中には1998年の春先の2週間あまり合宿しながら撮影したドラマ『太陽娘と海』のような例もあり、同世代だった当時のモーニング娘。のメンバーたちとは打ち解けて話すことも多かったようだ。

また同年には花畑牧場を舞台にしたドラマ『風の娘たち』にも出演しており、カントリー娘。結成以前から尋美さんは花畑牧場に出入りしていた。


カントリー娘。が結成されて以降、3人は花畑牧場に隣接する宿泊施設フェーリエンドルフにあるコテージを1棟借り共同生活をしていた。

時にはレッスンを行い、時には花畑牧場で牧場仕事の手伝いをし、時にはフェーリエンドルフ内にあるレストランでアルバイトをしながらの共同生活。時として喧嘩もあっただろうし、たくさんの試練があったに違いない。

一緒に暮らした濃密な3カ月余り。
そう、たった3カ月ほどのことだったのだが、その生活は突然の終止符によって(あえて言うならば)かけがえのないものとなった。

モーニング娘。のメンバーたちが先に述べた『太陽娘と海』での2週間あまりの合宿の出来事を後々まで覚えていたように、カントリー娘。に残された2人にとって尋美さんと過ごした3カ月は心の中でとても大きいものになったのだと思う。


訃報の後、1999年夏に予定されていたモーニング娘。とカントリー娘。の合同コンサート*1、尋美さんの御両親の意向によりパンフレットにはそのまま彼女の写真が掲載されていた。

ドラマで共演していたモーニング娘。のメンバーたちと同じステージで歌えることを尋美さんはそれは楽しみにしていたという。

しかしそれは叶わぬ思いとなった。

事故直後には心労で小林さんが抜け、ステージには数々の思いを背負ったりんねがただ一人残った。



りんねは(あえて親しみを込めて敬称略で書かせていただく)当時18歳で札幌出身。
騎乗ライセンスを持ち、子供の頃はミュージカル劇団に所属してポーランド公演に出演したこともある。

またキリスト教系の学校に学び高校時代は広島で寮生活、海外青年協力隊としてマレーシアに行ったこともあった。父親が40歳を過ぎてからのお子さんで、その父親は北海道と石垣島を行ったり来たりしているような方だったという。りんねの言葉によれば半自給自足の生活をしているような方だとか。

そうした環境に育ってきたりんねが尋美さんの旅立ちをどう受け止めたか。

それはもちろん彼女自身にしか分からないことではあるが、ある時期を超えて事務所から尋美さんの発言を止められたこと、また彼女が一つの決心をしたと思われる2002年の言動・行動から察するに、とても重きを置いていたのではないかと思う。



2002年10月にりんねは花畑牧場からもカントリー娘。からも去る。
その夏の発表でカントリー娘。は活動拠点を北海道から東京に移すと決まっていた。

りんねが1999年から一人で守り通し見せてきたものは、そこで終わったのだと思う。
それから先は彼女と彼女の気持ちを汲んだ周囲の人たちの中で思い出が生き続けたのだと思う。


その後。

尋美さんの誕生日にはバースデーカードがご両親の元へ石垣島から届いた。

尋美さんの命日近くには安倍さん(なっち)の元へ石垣島から野菜が届けられた。*2

尋美さんの誕生日の頃、小林さんが沖縄まで行ってかつての旧交を温めた。


歌を歌いたいと言っていた尋美さんの思い出とその活動の記憶、それらをずっと大事に胸にしまって生きている方たちが18年経った今でもいる。

そして自分はおそらくそうした思いを汲める範囲では拾えてきたのではないかと思う。*3

『太陽娘と海』や『風の娘たち』の太田監督からもたくさんの話と知らないことを伺えたし、時に思わぬ出会いがあったりもした。

そんな18年積み重ねたいろんなことが思い出されて、最近の訃報を聞いた時に胸がキュッとなったのですよ・・・


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*1 他には平家みちよ・太陽とシスコムーン・ココナッツ娘らが出演
*2 りんねと安倍さんはりんねが辞める頃とてもプライベートで親しくしていた。その後も安倍さんからりんねの話を聞くことが度々あった。
*3 とんだ勘違い野郎なのかもしれないが。

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