Submarine Dog

最近はほぼほぼツイッターでのつぶやきに移行してます。
https://twitter.com/ikedaya1298
@ikedaya1298

このブログは2002年から続いているものです。
書いた当時の気持ちや考え方は今は変化した部分はありますが
当時の情勢や空気感を残しておくためにそのままにしてあります。
その辺ご理解の上お読みいただければと思います。

元気は取り戻しつつある。

大丈夫なのだが、何がツラいかというと買い物がツラい。

スーパーやコンビニに寄って食べ物を買う基準、手があまり効かなくて飲み込むのが苦手な母の基準で長年買ってきたから、いざそれがなくなると何を買って良いのか決まらなくて、ずっと店内をウロウロしている。

自分はいったい以前何を食べていたのだろうか、そして好きに買い物が出来るようになっても心に訪れる虚無感、それがツラいのだ。


今日はライブへ。
ここ数年音楽の力に救ってもらってきた。今日も救われた。

思えば音楽的な嗜好もけっこう変わったかもしれない。
以前はメロディー重視の傾向が強かったけど、歌詞や根本的に持つ世界観に惹かれることも多くなったというか。ま、年っちゃ年なんだけど。


ふっと。20年前、戻ってみたいなとか思う。
長野オリンピック、モーニング娘。メジャーデビュー、フランスワールドカップ、iMAC、CDバブル・・・
細かい記憶はもうないが、楽しい1年だったんだろうな、きっと。

母が亡くなった。

どうかここに書くことをお許しいただきたい。

文章にすることで、いやしないと平静を保っていられそうになく、頭を使っていることでなんとか耐えていられる・・・そういうことなのかもしれない。

ここに15年以上書き続けて、一つの自分の防御機能になっているのだと思う。



母がパーキンソン病の薬を処方されるようになってから6、7年。

思えば長かった。

年々、日に日に状態が悪くなっていくのは分かっていた。

高齢からくる体力の衰えも目立ち4年前には脱水症状で救急車で運ばれた。
敗血症も併発していた。

その年の冬には胃潰瘍で入院した。

それでもなんとか回復して杖をつく生活になりながらも笑顔を見ることが出来た。

その次の夏におそらく最後の旅行になるのではないかと思い秋田と青森に連れていった。

青森のアスパムの郷土料理屋で青函連絡船を見ながら食事をした。たぶん一緒に飲んだ最後のお酒だったと思う。

その後記憶が曖昧になりながらも、青森に旅行に行ったことはずっと覚えていて本当に良い思い出になった。


2年前には足がはれ上がってきた。

静脈瘤だった。足に血が溜まり出血して止まらなくなった。

意識混濁になり輸血を繰り返してなんとか回復した。


退院してきたときには車イスが必要になった。

手術して入院すると逆に体が弱ってしまう面もあるので、手術はしなかった。

両足を圧迫して血を溜めないようにするために包帯をぐるぐる巻き。

毎日包帯を交換して、それを洗濯する日々が始まった。

それでも調子がいい時には母は車イスを押しながら自分で歩くことができた。

毎朝車イスをクルマに載せ、近所の公園や自然のきれいなところに散歩に連れて行った。



1年くらい前からそれも出来なくなってきた。

時間や日にちの概念がなくなってきた。

妄想を話すことも多くなった。


母の世話で面倒が多くなるにつれ、自分の心も荒みかけていることが分かった。

時に投げつけてしまったきつい言葉、今となっては後悔してもしきれない。



つい先日の母の日、近所に新しくオープンしたケーキ屋さんでケーキを買って食べさせた。

美味しいと言って、久々に顔をほころばせて食べた。

食べる気力と飲む気力、それが最近は特になくなっていた。だからケーキを美味しいと言ってくれたことは自分もうれしかった。

2日前、また食が細くなっていたので「食べなきゃ死んじゃうよ」と言って食事をさせた。

その時に言った

「もっと一緒にいたいよ」

という言葉が能動的な意志の表れの最後だったと思う。

どんなに迷惑かけられても、どれだけ嫌な思い出が増えても、それでも自分ももっと一緒にいたかった。



今朝母が死んだ。

気持ちの整理はつかない。つくわけがない。

でも受け入れなければならない。

母は死んだ。



生んでくれてありがとう。

育ててくれてありがとう。

大好きでした。

モーニング娘。20周年案件が増えてきたここ最近。

忘れかけているエピソード、いや今となっては遥か昔のエピソードを一つ。


<敬称略>

20年前の1998年2月1日、モーニング娘。の5人は横浜アリーナでメジャーデビューシングル『モーニングコーヒー』の発売イベントを行った。

前年のASAYANでのオーディション、合宿と最終選考そして落選、さらに落選組の再召集と『愛の種』の手売り5万枚の試練と完売、それらを経ての満を持してのデビューだった。

『愛の種』の手売り時に4会場目で5万枚の完売が達成されたため5会場目に予定されていた東京でのイベントは中止、そのため『モーニングコーヒー』でのイベントでは大きい会場でやろうとなった。

手売り時には各地方ごとに1万人を超える人が集まっていたため当然東京でのイベントは1万人を遥かに超える人数を想像していた。

が、実際には集まった人数は6000人(一説には3000人)、会場の規模と比べると明らかに見合わない集客状況だった。

この日のことを当時のマネージャー・和田薫(以下和田マネ)がラジオで話している

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2001年4月14日(土)
「和田薫のLF+Rプロデューサーズタイム」

モーニング娘。のデビューイベントって横浜アリーナでやってるのよ。で、これがね、ずーっと「ASAYAN」で追っかけて、モーニングが「愛の種」を買ってくれる人に対して握手会をやるというので、毎回1万人以上の人が集まってきてて、まあ要は、5万枚すぐ売っちゃって、プロデビューします。ここです。っていうことでやったのが、なにを考えたかちょっと間違えちゃって横浜アリーナを取ってたの。

俺ね、それをレコード会社から提案されたとき――「だってナゴヤ球場いっぱいになってるんですから。これやばいですよ。横浜アリーナぐらいじゃないと」って言われたとき、俺、大丈夫なのかなあとか思いながら「うん、まあ、じゃあそうしようか」って言ったんだけど、実際やったときね、横浜アリーナのアリーナしか埋まらなかったのよ。

でも当の本人達は、それまでもずーっと「ASAYAN」でやってきてたから、「横浜アリーナ満杯だあ!」ぐらいの気持ちで来てるわけよ。で、来たら横浜アリーナの、ほんとのアリーナのね、1階だけ――それも半分ぐらいしか埋まってなかったのよ。スタンドはおろか。
で、俺、来るときも一緒の車で行ってたから、本人達はもう、なんかウキウキで来てるわけよ。それでちょっと調子に乗ってんなあ、なんて思いながら。

で、1回目が終わって「あれ? いつもと違う」みたいな感じになってんのよ。「あれ? なんでこんなに少ないのかなあ」みたいな感じになってて。
で、そのあとやったら、次は100人ぐらいになっちゃったの。で、そのあと係の人間が「次30人ぐらいしかいませんよ。どうします?」「あ、やってやって」って。で、そのあと、最後――5人。

横浜アリーナだよ? 1万人以上入るんだけど。目の前に――最前列に5人だよ、5人。と、メンバー。メンバーとタイ。
それでね、ちょっとみんな、へらへらって――「あれ? なんでこんなんでやるの?」みたいな感じになったのよ。旧メンバーが――旧メンバーっていうか元々いる5人が。
で、俺、終わったあとに、すごい言ったのね。「今日お前らは、ここ満員になると思ってただろ。そんな甘かねえよ。テレビがずっと追っかけてたから満員だったんだ。そうじゃなくて満員になるわけないだろう」と。

「5人の前で歌ったの悔しかったか」「悔しかったです」「でもな、5人のお客さんに、いかに届けれるかだぞ。お前らその時に、どんだけ必死にやったんだ」っていう話をしてて――まあそれは意外と必死にやってたんだけど。5人の前でも。
で、横浜アリーナを出るとき――車に乗ってたんだけど――5人にね、横浜アリーナに「覚えとけ」って言えと。いつかここを金取って満員にしてやるからって。「覚えてろ、横浜アリーナ!」って言いながら、みんなで出てったのよ。

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そして、その後のモーニング娘。はご存知の通り大ブレイクしミリオンヒットも生まれ、テレビでは見かけない日がないほどの人気者となっていく

あの日の横浜アリーナから3年が経った2001年4月8日、モーニング娘。はついに横浜アリーナでコンサートをやることになった。奇しくもこの日は和田マネの誕生日で、当時モーニング娘。に在籍していたオリジナルメンバーの中澤裕子・飯田圭織・安倍なつみの3人はそれぞれおめでとうメールを和田マネに送っていた(和田マネは2000年春にマネージャーを離れている)。

再び同ラジオから抜粋

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こんなおハガキが来ております。

「和田さん、こんばんは。突然ですが、誕生日おめでとうございました。もうすぐ36ですね」

「誕生日おめでとうございました」で「もうすぐ36ですね」――これちょっと違うんだけど。36歳になったんだから。
でね、この前4月8日が僕、誕生日で、結構誕生日はいろんな人に祝ってもらったりとかしてて楽しかったんだけど、この日ね、俺、結構感動したのよ。
それはね、自分の誕生日を感動したわけじゃないのよ。そんなことをラジオで――公共の電波でしゃべるほど偉くないからあれなんだけど。

この日ね、モーニング娘。から結構メールが届いてたのね、朝から。
例えば生歌うたってくれて、メッセージを留守電に残してきてくれる子から、メールで、なんかいっぱい音楽が付いたメールが来たりとか、いろんな、それぞれのキャラクターに合わしたメールが来てたんだけど。

その日4月8日、モーニング娘。って横浜アリーナでコンサートやってたの。でね、もう1回またメールが来るのね、なぜか。
それがね、3人からだけ来たのね。この3人ていうのは、元々モーニングにいた3人なのよ。

「昨日今日、横浜アリーナ4回公演、全て満員でした」っていう――書き方はみんな少しずつ違うんだよ、1人ずつ――中澤、飯田、安倍。

例えば「和田さんとの約束を果たしました」っていう人もいたし、「和田さんがあの時言ったことがすごく悔しかった。悔しかったというか、ほんとに横浜アリーナ覚えてろよ、と思った、その気持ちがあったから今日のライブは最高でした」っていうやつもいたし、「ハッピーでした! 横浜アリーナ、とうとう2days4公演満杯! やりましたよ、和田さん!」みたいな、それぞれのメールが入ってたのね。それが、すっごいうれしくて。
で、そのあと別のスタッフから「お誕生日おめでとうございます」っていうメールが来たときに、「今日の横浜アリーナのモーニング、今までの中で最高でした」って来たのよ。これを聞いて、俺すっごい、あ〜……と思って。

ま、その時は――俺なんかもう忘れてたからね、それ。メール来るまで。メール来て「あぁあぁ、そういえば言ったなあ」ぐらいの気持ちだったんだけど、俺がね、「『覚えてろよ、横浜アリーナ』――そういう気持ちで来いよ。お前ら今まで調子に乗りすぎてんだよ。そんな芸能界甘くないよ」っていうのを言ったあとに――みんなだって、楽屋で泣いてたのよ、その子達。その頃――モーニングがね、終わったあと、くしゅくしゅくしゅくしゅ、5人の前で歌わされて、みたいなさ、どうなんだろう、みたいな感じだったときに、車で横浜アリーナの駐車場を出るときに言ったのがね、すっごい自分の中で思い出して、あ〜、なんかたまには俺もいいこと言うんだなあ、なんて思って。
俺なんかもう、誕生日で全然――友達集めてメシ食ってたからね、休みで。行けよ! お前も横浜アリーナ! みたいな。

でも俺はね、一応、明日――中澤卒業するのよ。これはね、最後大阪まで行きますから、ちゃんと。大阪に行って、最後のその、中澤の卒業を、ひとつ見届けたいな、というふうに思っております。
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中澤はこのツアーで卒業することが決まっていた。
そしてこの横浜アリーナには石黒彩も訪れていた。

ツアーファイナルである翌週の中澤の地元の大阪公演(大阪城ホール)には和田マネに連れられた福田明日香も訪れている。

そう中澤はデビュー当初の雪辱を果たし、最高の形で卒業していったのだった。

中澤はこう書き残している。

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4月7・8日の横浜アリーナのコンサート。
「1998年2月1日にリベンジを誓った場所。
 “モーニング娘。のコンサートでここを超満員にしてやる”
 自分のラストツアーで横浜アリーナが組まれるなんて、もうどこまでもラッキー。単独コンサートでは初めてだった横浜アリーナ。モーニング娘。ってこんなに大きくなってたんだ……。
 『私、本当にもう思い残すことないな』
 自分が実現させたいと思ったことはすべて現実となった。
 あんた、最高の人生やな。もう、ええやろ。十分やろ」
                (中澤裕子『ずっと後ろから見てきた』より)
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この日からさらに3年が経った2004年の1月25日、今度は安倍なつみが横浜アリーナで卒業公演を行っていた。モーニング娘。の顔、マザーシップと言われた安倍なつみの卒業コンサートがモーニング娘。の単独コンサートでなくハロプロの合同コンサートであることに疑問はあったが、自分はこれが「横浜アリーナ」という会場としての都合が少なからずあったと思っている。

最終卒業公演、ラストで語りかけた飯田から安倍への言葉。

「覚えてる?
 デビューするときにさ…『ビッグなアーティストになろうね』って…
 横浜アリーナを満杯にできるくらいのビッグなアーティストになろうね』って…
 ねえ、見て、横浜アリーナ…いっぱいだよ」

涙を流して語りかけた飯田と、大きくうなずき涙をこぼす安倍。

二人の涙と思いに会場中も涙した。

今でも思い出すとウルっとくる。6年間の横浜アリーナにまつわる物語。
そして翌年には飯田も横浜アリーナで卒業した。

あれからも10年以上の時が経っているとは信じがたいものの、自分の中ではとっても大切にしているエピソード。



皆さん覚えていますか?

あ、中澤さん卒業時の特番『BS中澤SP』で保田さんが中澤さんに渡したプレゼントの写真、あれを見て中澤さんは泣いてしまったのですが、あの写真の中の1枚もデビューイベント時の横浜アリーナでの5人が映った写真でしたね。

昨日は『モーニングコーヒー』発売から20年。

モーニング娘。のオリジナルメンバー5人もハロプロのコンサートに立ったとのこと。

きっと会場も盛り上がったのだと思う。



が、ハロプロから距離を置いていて、しかも福田さんのPEACE$TONEでの活動を最初期の頃から見てきた自分にはどうしても拭えない違和感というのがあって。

最近のテレビ出演にしても(内容の問題ではない)、これがOKだったのならこれまでの秘密主義というかメンバー名すら明かさないでライブしていた時期や、どことなく距離を置いて孤高な感じを貫いていたのは何だったのかな、と少々思わないでもない。テレビの前の視聴者やこれを機に知った新規の人たちにではなく、ここまでライブに足を運んでいた人たちに何かしら発信はあってもいいんじゃないのかなと。

まあそれもこちらの勝手な欲望で身勝手な思いこみだということは分かっているが。

ただまあPEACE$TONEというグループを長年見てきた身としては、どうしてもそちらに軸足を置いて見ているので・・・例えば誰が正式メンバーか分からず何人グループかも分からない時や、福田さんがライブに出るかどうかもアナウンスがない時、そういう時期を乗り越えて今に至ると少なからず素直に現況を受け入れ難い自分はいる。

これまでのお客側の置いてけぼり感(自分だけではなく、そういう声を他からも聞いている)が今後も続くのではないかという不安感も増していて。別にね、説明責任とかじゃなく、はっきり言えば説明不足と発信力の低さと身内感の強さが7年活動した現在のPEACE$TONEの立ち位置だと思うので、福田さんのメディア露出を機に良い方向に向かうといいなと。あるいは歌ですべてを感じてというなら初期の頃の突き放した感じを貫いてもいいと思うし。

PEACE$TONE7周年記念ライブを前に正直な気持ちを、きっと煙たがられるのだろうけど、この「モヤモヤ感」これ以上堪えられそうにないので心苦しくも記した。

こんなこと書いたものの7周年記念ライブ期待してますよ。
ただ、福田さんを見に行くのではなく「PEACE$TONE7周年」というライブを見に行くのだということは意識してます。その辺よろしくお願いしたいところです。
18年離れていた「20周年」よりも自分にとってはこの「7周年」の方が身近なのですよ。

ainotane



<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話
第7回>寺合宿開始とASAYAN制作裏話
第8回>最終審査と平家みちよのこれまで
第9回>優勝者決定と落選者たち
第10回>落選者たちのその後と5人のメンバーの再招集
第11回>5人の顔合わせと夢への切符とその考察
第12回>モーニング娘。命名とその謎、活動開始と生活激変
第13回>『愛の種』のレコーディングとPV撮影
第14回>全国キャンペーンと手売り直前の奮闘
第15回>『愛の種』大阪で手売り開始
第16回>『愛の種』手売り福岡編
第17回>『愛の種』手売り札幌編
第18回>『愛の種』完売名古屋編



    < あとがき >



ASAYANの記憶が残っている人はお分かりだと思うが、この連載で書いていることはASAYANそのままではない。ASAYANそのままの物語はたぶん半分くらいだと思う。

その頃に彼女たちがインタビューで語り残したことや、もっとずっと後の時代になって彼女たちが思い出として語ったことや書いたことが話の元になっている。

しかしASAYANの「モーニング娘。企画」も、ASAYANから与えられた話だけではなく、当時からその裏にある彼女たちの葛藤や人生観が見え隠れしていたから面白かったのだと思う。

時としてASAYANは所詮作られた物語なんて批判も見かけることもある。
それは表面だけを見ればそうかもしれないが、決してそうではなかった。そしてそれには多くの人が気付いていた。

多くの人たちが自分たちには出来ない夢の世界に向かって真っすぐ進む、そのひたむきな気持ちを応援し一緒になって喜び悲しんでいた。同じように悩んだり挫折して生きている人たちの共感がそこにはあったのだと思う。



参考までに5万枚完売時の証言を資料から抜き出して記しておく。

飯田圭織
「小学校2年の時の作文。わたしの夢は歌手になることです。って書いたその作文をまず思い出して、それから小学校の時に入ってた合唱団、2回落ちたオーディション、合宿も、ぜんぶ思い出しました」(『モーニング娘。5+3-1』P.109より)

福田明日香
「来てくれたお客さんと握手して「ありがとうございました!」ってやるのって、すごい体験をしたなぁと思いましたよ。だって、わざわざ足を運んでくれて、CD買ってくれるわけじゃないですか。わたしたちをデビューさせてやろうっていう人たちが、目の前にいるんですよ。その人たちとね、握手しながらもホント嬉しかったです。
 札幌では、カオリやなっちや石黒さんの家族とかが来てたんですよ。「なっち、がんばってー!」みたいに声援送ってて。なんか、あったかいなぁって気持ちになりましたよ」(『もうひとりの明日香』p.58より)
「そうやってね、この手売りツアーで大人のスタッフたちと頑張ったのは、すっごい心強かったですよ。今まで、学生の生活しかしたことがないわたしにしてみれば、新しい世界にいるわけだから、周りの子よりも恵まれてるなぁとも思いましたし。いろんな人たちと出会えたし。みんなで一緒の目標に向かって走るっていう。
 だから名古屋でもうすぐ完売っていう時に「あと5枚、4、3・・・」ってカウントダウンが始まって、すっごい、もう、こみあげてきましたよ、ホントに。いろんなスタッフへの思いとか、応援してくれる人たちとか、楽曲を作ってくれたサエキけんぞうさんと桜井鉄太郎さんとか、家族とか、メンバーとか、本当にもう、いろんな人への思いとかが合わさりましたね。
 ホントにね、これは思い出深かった。
 その夜は、もう、大騒ぎですよ、手羽先食べて。スタッフは飲みまくり。人数もいっぱいで、座敷とかもいっぱいいっぱいで、もうみんな酔っちゃってるから、大騒ぎになったりして」(『もうひとりの明日香』p.59より)

安倍なつみ
<これまでの歴史の中で、特に印象深い思い出は?の問いに>「モーニング娘。では『愛の種』のことが大きな思い出かな。今とはまったく違った環境で、まったく違う気持ちで活動して前に進んでいたから。そこから『モーニングコーヒー』までの時間って、すごく思い出されるな。その当時の風景がすごく懐かしくて、忘れちゃいけないんだって思う」(『ハロープロジェクト大百科』より)



当時のメンバーたちが思い出話でよくするのは『LOVEマシーン』以前のこと、1997年から1999年のことが多い。
立ち上げ時の苦労と走り続けそして昇っていく中での濃密な2年間。

この時代を知らないことが当たり前になるほど時は過ぎた。
でもだからこそこれからも大切にしたいと思う。
そう思い続けてきてこのサイトも15年。
モーニング娘。誕生からはついに20年という節目の年を迎えた。

少しでも当時のことを残せれば、また思い出を共有出来ればとの思いからの当サイトでは久々の長期連載を今年前半に展開した。

また10年後、そしてさらにその先、未来に思い出を共有できる日が来ることを願って。



                         いけだや

<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話
第7回>寺合宿開始とASAYAN制作裏話
第8回>最終審査と平家みちよのこれまで
第9回>優勝者決定と落選者たち
第10回>落選者たちのその後と5人のメンバーの再招集
第11回>5人の顔合わせと夢への切符とその考察
第12回>モーニング娘。命名とその謎、活動開始と生活激変
第13回>『愛の種』のレコーディングとPV撮影
第14回>全国キャンペーンと手売り直前の奮闘
第15回>『愛の種』大阪で手売り開始
第16回>『愛の種』手売り福岡編
第17回>『愛の種』手売り札幌編




    < 18 >                (敬称略)


モーニング娘。の5人が名古屋に入ったのは11月29日のこと。
2週間前の予定が延期されての名古屋入りだった。

この日は残念ながら雨模様。
街頭に立ってPR活動をしたが反応はあまり良くなく、名古屋での完売に自信を失っていく。時おりぱらつく小雨にメンバーたちの不安は増した。





街中での反応の薄さに彼女たちはその日の夜、ホテルの部屋に集まってお祈りをした。
札幌の手売りのときに乗ったタクシーの運転手から聞いたおまじない。11時11分に1分間願うとその願いは叶うという。「1」並びの数字は安倍にとっても縁起の良いものだった(オーディション時の番号が1111番)。

「明日お客さんが来てくれますように」、そのためには「晴れてくれますように」と真剣に願った。彼女たちも晴れやかな青空の元、素晴らしい日を迎えたかったのだろう。




そして翌日。
1997年11月30日。
彼女たちの願いは叶う。





彼女たちの目の前には澄み渡る青空が広がっていた。
前日のどんよりとした曇り空からは嘘のような高い空だった

会場はHMV名古屋生活倉庫店から変更になったナゴヤ球場(前年まで中日ドラゴンズの本拠地球場)。スタジアムの開放的な空間にはたくさんのお客さんが彼女たちの最高の瞬間を見ようと詰め掛けていた。

最後の手売りに臨むメンバーたち。
手と手を取り合って気持ちを確認した。













東京からは福田の家族も応援に駆けつけた。東京での開催はなくなることが確実視されていたので東京方面からも多くの人が来ていたのだ。青空のもとで売り上げは順調に伸びていく。

そしてその時が刻一刻と近づく。
球場にはカウントダウンの声が流れ・・・















そしてついにその瞬間。








5万枚完売達成!


メンバーたちは集まり抱き合い泣いて喜んだ。


オーディションが始まってから半年、さまざまな試練や挫折があり、寝る時間も満足に取れなくなっていった。学校や仕事、そして家族までも、生活の激変を経て、いろんなものを捨ていろんなものを吸収し、ついに彼女たちは夢をつかんだのだった。




















たくさんの人に支えられ、その気持ちに応えた彼女たち。









夏先生や和田マネとは共に闘ったという気持ちだった。

ASAYANのスタッフや家族、そして各地方の手売りを手伝ってくれた多くの人たち、そして共にオーディションを戦い敗れていった人たちの気持ち、さらにはそれを見て一喜一憂していた視聴者の応援。
いろんなもののプレッシャーや不安からも解放された瞬間だった


50,000枚完売を成し遂げ、その達成感と安堵感に最高の表情を見せるメンバーたち。

石黒彩。



安倍なつみ。



中澤裕子。



飯田圭織。



福田明日香。




彼女たちは自分たちの空をめざし、そしてついにその夢をつかんだのだ。

そして、この小さな第一歩が、その後たくさんの人たちの大きな大きな夢へとつながっていく。

彼女たち自身が多くの人の夢や希望となり、やがて日本中を巻き込んでいくことになるのだった。



それは彼女たちの勇気を振り絞った決心から始まった物語。



あの時『ASAYAN』を見ていなければ、あの時オーディションを受けなければ、そして未知の世界に飛び込んでいなければ、何も始まらなかった。

ソロのロックボーカリストを目指して集まった彼女たち。その後の活躍は記すまでもないが、国民的と呼ばれるアイドルグループになり、誰もが知っているアイドルになった。


でも彼女たちはことあるごとに言っていた。

「私たちはアイドルじゃなくてアーティスト」
だと。


それは傍から見れば「はいはい」と冷めた目で見られるような発言だったかもしれない。しかし彼女たちは自分たちが最初どういう形でどういう気持ちで始まったのかは忘れなかった。彼女たちは何年経っても歌にこだわり続けていた。


あれから20年という歳月が経つ。
彼女たちが皆グループを去ってからも10年以上の月日が流れた。
全員が母親になり、石黒の子供にいたってはすでに高校生で当時の安倍や飯田の年齢と変わらない。

この20年という月日は彼女たちをどう変えただろうか。
大人になりたくさんの経験を積んで、それぞれの人生を歩んできた。
あの頃のように毎日顔を合わすわけでもなく、今は集まって一つのものを作るということもない。

でも一つだけ分かっていることがある。

彼女たちは休んでもまたいつか絶対にどんな形であれ歌い始めるということを。
そしてそれはお互いに分かっているのことなのではないかと。


あの時の好きな空を見続けている彼女たちに、20年前、10年前と変わらずに

「ありがとう」

と伝えたい。






彼女たちの青い空はどこまでも続いている…







<第1回>ASAYAN、1997年までの経過とオーディションの歴史
第2回>1996年のモーニング娘。たち
第3回>1997年4月オーディション開始、福田明日香と東京予選
第4回>1997年5月、中澤裕子と大阪予選
第5回>1997年6月、石黒彩と飯田圭織の札幌予選
第6回>安倍のオーディションとその選曲にまつわる話
第7回>寺合宿開始とASAYAN制作裏話
第8回>最終審査と平家みちよのこれまで
第9回>優勝者決定と落選者たち
第10回>落選者たちのその後と5人のメンバーの再招集
第11回>5人の顔合わせと夢への切符とその考察
第12回>モーニング娘。命名とその謎、活動開始と生活激変
第13回>『愛の種』のレコーディングとPV撮影
第14回>全国キャンペーンと手売り直前の奮闘
第15回>『愛の種』大阪で手売り開始
第16回>『愛の種』手売り福岡編




    < 17 >                (敬称略)


いよいよ札幌。

いよいよと書いたのは他でもない3人のメンバーが地元とする北海道での手売りである。

地元に帰った3人は必死のPR活動をしていた。

飛び込み営業でポスターを張らせてもらったり



団地の扉を叩いて戸別訪問でPRしたり、



友達が手伝ってくれてビラ配りをしたメンバーもいた。




安倍にいたっては11月13日、なんと室蘭の市長にまで会いに行き、協力の約束まで取り付けてしまった。



父親と高校の担任教師と一緒に市長室を訪れCDをプレゼントしたのだ。市長も「出来る限りの協力を」と激励した。

また、途中からは中澤と福田も加わり街頭キャンペーンを行った。
気温3度の中、最後のPRのため街中を声を上げて練り歩いた。





札幌の手売りは11月24日。

実は先の大阪での騒動により11月16日に予定されていた名古屋での手売りは延期になり、2週間を空けての開催となっていた。会場も玉光堂PALS21店(2004年に閉店)から札幌キリンビール園に変更。街中の店舗での騒動を避けることになった。奇しくもオーディション時に縁ある中島公園はすぐそばだった。

彼女たちの心配は手売り当日に雪が降ること。「雪の休日は外に出ない」ととにかくそれを不安がっていた。

しかし当日の朝。
大阪や福岡と変わらない長い長い行列が出来ていた。しかも雪は降っていた。
雪がちらつく中で多くの人が寒空のもと、彼女たちを待っていたのだ



その喜びを飯田は「北海道バンザイ!」と表現して喜びを爆発させた。



しかし、あまりに泣いて目をこすりすぎてしまい、コンタクトで角膜を傷つけ一時的に片目が見えなくなってしまった。



今となっては永遠に語り継がれる飯田圭織の笑いと涙の思い出話。

札幌キリンビール園では14,853枚を販売。中には安倍の父親が1,000枚を購入する姿もあった。これで予定していた5会場ではなく、4つ目の会場での完売が見えてきた。

おそらく最後の会場となるのは名古屋。
彼女たちは何が何でもこの会場で売り切ろうと考え、さらに自分たちを追い込んでいくのである。

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